3話 ヒーローのお兄さん
旧7〜8話を結合しております。
旧7、8話は削除致します。内容は変わっておりません。
翌日。
この日の朝、藍のスマートフォンにメッセージが。
「うあぁ……どうしよう」
昨日の一連の出来事で、ルームウェアのまま寝てしまうくらいには、心身ともにくたくただった。
商店街のアーケードで起こったひったくり事件と、それを派手に解決してしまったこの男。あの後、どうやら警官たちが到着し、犯人の身柄を拘束してその場の人々に事情聴取を行っていたようだ。その場の人々は口々にランの噂をしていた。
そんなの当たり前だ。目撃されて、話題にならないわけがない。見なかったふりをしろという方が無理なくらい、彼は目立ってしまっていた。
——と、この話は夕方に帰宅した弟のミツルから聞いたものだ。
ミツルは部活の帰り、友達と商店街に寄ってアイスを食べたらしい。事件後すでに二、三時間は経っていただろうが、それでも、近くに居合わせた人や、立ち並ぶ店の主人やカフェのオーナー、バーのママなどが立ち話をしていたらしく、その話題で持ちきりだったそうだ。
「めちゃくちゃカッコよかったらしいよ。でも、すぐにどこか行っちゃったんだって。警察の人が、その人探してた」
「あ、そう……」
「見つかったのかなー? あ、でも、もうだいぶ時間経ってたし、近くにはいなかったのかな」
「そうだね……」
藍は、ウキウキしながら話す弟とデート帰りで浮かれた両親に挟まれて、食卓を囲みながらもまったく落ち着くことができないでいた。
ミツルは、終始俯きながら力無い返事しかしてこない姉が気になり、ご飯を頬張りながら顔を覗き込んだ。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
藍はハッとして、咄嗟にエヘヘと苦笑いで返した。
「だ、大丈夫大丈夫! 今日、わたしも昼ごろ駅に行ってきたんだけど、すごい人でさ。疲れちゃったよ」
そう答えた娘の姿に、今度は母が違和感を覚えて問いかけた。
「……あなた、一人で行ってたの? 一体何しに……」
ドキッとして肩が竦んだ。違う、やましいことはない。母は自分が変な態度をしているから心配なのだ。そう自分に言い聞かせて、一呼吸おいた。
「友達と、買い物に……」
さいわい、母は安心したように微笑んだ。
「そう。楽しかった? あの現場に出くわさなかった?」
「うん、楽しかったよ。わたしは何も買わなかったけど、友達が靴と帽子をね。……事件、ギリギリ回避かな。商店街には行かなかったし」
うまく答えられただろうかと、一通り言い切ってから思い返した。見上げれば、両親も弟もいつもの明るい様子で別の話を始めている。……藍は安堵しながらも、一つ嘘を付いてしまったことにやるせない気持ちになった。
夕飯での会話の後、部屋に戻ってランと再び対面した。彼はといえば、夕方帰ってきてすぐに、帰路で寄ったコンビニのパンと軽い弁当を食べただけだったが、本人はそれで十分だと言った。そして、もう床で横になって眠ってしまっている。
「まだ八時だよ……」
内心で、じいさんかよ、とツッコミつつも彼の疲労を理解できなくはなかった。
——そして今朝。
ベッドの中で覗いたスマホの画面。昨夜の弟の話では、おそらくどこかでニュースにでもなっているのではと気になってしようがなかった。
しかし最初に目に入ったのは、ロック画面に表示された友人からのメッセージ。
〝今日、女子会しない? アイんちで〟
短い文の最後には、絵文字で星が添えられている。
藍は頭を抱えた。今日も部屋に彼がいる。家族にも話していない。黙って他人を、しかも異性を部屋に匿っている上、一晩以上一緒に過ごしている。そういう話題に敏感な女友達などに悟られでもしたら、変な噂を広められかねない。
「はあ……」
布団の中でしばし悶々としたのち、大きなため息を吐く。
「どうした」
低い声を聞いて、藍は布団ごと飛び跳ねそうなくらい驚いた。
「あ、ああ……あのね、友達が、女子会しようって……うちで」
寝ぼけた声で途切れ途切れ答える。彼がいたことを忘れていたわけではない。ただ、起きているくせに黙ってこちらの動きを観察していたのかと思うと、少しゾッとした。
「……じょしかいとは」
無機質な口調で問われ、寝ぼけ眼でその意図を探った。なに、簡単なことだ。彼は〝こちら〟の人間ではない。知らない言葉くらい、あって当然だ。
「……女の子が集まって、わいわいお話することだよ」
面倒臭そうに藍は説明した。それを聞いて、ランは少し俯いて考え込んだ。その様子を何とは無しに眺めてみる。
彼の顔も髪も、寝ぼけた様子はまるでない。前髪は目にかかるか、かからないかくらいの長さで、サイドは幅を取りつつ、襟足は控えめな印象の髪型だ。顔立ちはといえば、通った鼻筋、眉のすぐ下にある大きな眼、体力が戻ったおかげかほんのり薄紅に色づいた薄い唇……中性的な顔立ちだが、やや角張った顎のラインなどはしっかり男性らしさがある。細く長い眉が、彼の表情を無駄に鋭くしていた。
そうやって時間を忘れて見惚れていると、その彼が顔を上げた。
「会いたければ会えばいい。嫌なら、断ればいい」
「…………」
そのあまりにも当然な答えに、彼女は呆れ果てた。それが簡単にできれば、こんな溜め息を吐くこともないのだぞ。
「そうもいかないのよ。女って面倒くさいの。今年に入って、ずっと仲良く過ごしてきた子たちだよ。断ったら仲間外れにされるかも」
ランは、さもよく分からないと訴える顔をした。
「……そんなことするやつなら放っておけばいいじゃないか」
この人に説明しても無駄だなと思った。合理的な人間は、きっと感情的な理由を理解できない。頑張って説得をしようとするだけ精神力の無駄遣いだ。
「とにかくダメなの。こういう誘いを突然してくるときは、何か思惑があるんだよ。それを断って退けちゃうのも、なんか嫌だし」
さっさと早口で答えてしまうと、藍は布団から出てベッドを降り、おもむろに着替えを始めた。だが、手始めになんの頓着もなくルームウェアのTシャツを脱ごうとしてあることに気がつき、人知れず赤面する。
彼女は慌ててシャツを下ろし、ランの方を見やった。……視線の先に彼はいなかった。心地よい風が部屋に吹き込むのを感じて、窓の方に視線を送る。彼は室内に背を向け、ベランダの手前で立ったままそよ風を浴びていた。
不思議に思いつつも彼女は急いだ。さっさと着替えた部屋着は、味気のないワンポイントのポロシャツに短パンと、まるで女子らしいところがないなと自分で嘲った。
「ごはん、持ってくるね」
そう声をかけて、部屋を出る。ランは頷きもしないで静かに佇んでいた。
この日の夕方。
わいわいと友人たち三人が藍の自宅へ押しかけてきた。一人は、いつも昼食を共にしているアオイ。あとの二人は遊び仲間のカナとミサキだ。
三人によれば、どうやら来訪の目的は宿題の共同作業のためらしかった。そうでなくても、いつも何かしらでこじつけて集まる理由にしてはいるのだが。
しかし集会のメインは、やはりお喋りにある。三人ともいつも宿題に没頭するうちに目的を忘れて、やれアイドルだ、やれファッションだと話題が飛んでしまう。恋バナももちろんある。以前、カナが付き合っていた大学生と別れたネタなどを持ってきては大いに盛り上がった。だが実際、藍にとってはそれらのほとんどがどうでもいい話題だ。普段から妄想しては一人でニヤニヤしているような性格だから、誰とも付き合わないでも正直生きていけるし、一人でもつまらなくはない。それでもこのメンツで仲良くしていたいと思うのは、ひとえに皆が自分を含めて大切にしてくれるからだった。
宿題——藍は、三人から聞くまでその存在をすっかり忘れていた。この二日間、ランに振り回されてはその世話をすることに集中していて、宿題どころではなかった。このままでは自分一人だけ課題にノータッチで登校し、恥をかくことになっていたかもしれない。
ランは彼女たちが来る直前に、外出して来るといって窓から夜空に飛んでいってしまっていた。深夜に帰ると言っていたが、窓を開けておけば大丈夫だろう。そのときばかりは、気を利かせてくれたのかしらと胸がいっぱいになった。
母が振舞う紅茶を片手に、皆が持ち寄ったクッキーやチョコレートをつまみながら、女子会がスタートする。
ほどなくして、ミサキが「これ見て」と呟きながらスマートフォンを取り出した。
「これこれ! 昨日の夜、帰ったら動画サイトにアップされててね。すっごいんだよ」
えー、なになにー? と、興味津々のカナがミサキのスマホを覗き込む。
藍は密かに、もはや聞こえてしまうのではないかと思えるくらいに自身の心臓が高鳴るのを感じていた。まさかとは思ったが、彼女たちは早くも聞きつけて、なんと当事者本人の元へその噂を持ち込んできてしまっていた。これが緊張せずにいられるものか……!
ミサキは動画を再生し、カナがそれをじっと見守る。
「なんの動画ー?」
二人が楽しそうにしているので、アオイが耐えられずに加わる。
「これね、昨日の昼すぎなんだけど、そこの駅前にアーケードあるでしょ? あそこでね、大逮捕劇!」
「へぇ! したら、アイんちの最寄りじゃん。ちょっと怖いね」
「それでね、このお兄さんが犯人捕まえたんだけど、すごいのよ」
はしゃぐ三人に相反して、ますます焦りがつのる藍。何がって、もちろんランが大衆向けのオープンなサイトに写ってしまったことで、秘密にしておきたかったことの一つが世間に大々的にバレることに他ならない。それから、そこに自分が写ってしまってようものなら尚更、これからどう生きていけばいいか思案せずにはいられない。どう言い訳をしたら不自然でないか、親についた嘘と矛盾しないか思いを巡らせる。
藍も見てみなよ、とアオイが声をかけてくる。ギクシャクしそうになるのを堪えながら、藍はそろそろと三人に近寄り、彼女らの後ろから動画を覗いた。怖くて直視するのが躊躇われた。
不鮮明な映像には、バイクが人混みに飛び込んでから数十メートル走ったあたりからだろうか、ちょうどランが最後に立っていたあたりに撮影者はいたらしく、迫ってくるバイクを捉える形で撮られていた。
「ほら、この辺から」
ミサキが、見せ場がくるよ言わんばかりに藍たちを煽る。
数秒後、バイクの後ろから人混みを飛び抜けて一つの影が撮影者の方に迫った。あまりのスピードに、撮影者からは「おおお」という驚きの声が漏れ、画面が大きく左右に揺れる。直後、揺れの収まった画面には、バイクに乗ったひったくりの顔面を掴み、派手に地面に叩きつける〝お兄さん〟の姿が明瞭に映し出された。
「うわあ、すごい! めちゃくちゃカッコいい!」
「何が起こったか誰も分からなかったらしいの。他にも動画はいくつかあるんだけど、バッチリ撮ってたのはこの人だけで」
「どんな顔してるの? インタビューとかは?」
「それも何もないのー。犯人やっつけた後すぐにどこか行っちゃったみたいで」
「えー! もったいない。絶対イケメンだよー」
わいわいと夢のあることを妄想しては語り合う女子たち。
藍はあの時、居合わせはしたものの彼がどうやって犯人を捩じ伏せたか知らないままだった。こうして見ると、まるで人間とは思えない動きに驚愕する。友人たちは、おそらく心からこの映像を信じてはいない。彼のこんな動きを全て把握するのは肉眼では難しいところを考えると、あのアーケードの当事者でさえ半ば夢見心地でこの一部始終を目撃していたのだろう。あまりにも現実味のない絵だと、逆に認識が甘くなるものだ。藍の場合は、たった二日間でもこうしてそばにいた分、彼の存在の異常性と神秘性に対する信憑度が人より高いのだといえる。
およそ三分もない動画だったが、あっという間に終わってしまった。幸い、藍がランに再会する時点よりも前で途切れていたため、彼女の姿は友人に見られずに済んだ。
「ふぅ……」
思わずホッと胸をなでおろす。
「どうした? 惚れちゃった?」
いたずらっぽくカナが藍を振り返る。
「は? え? いや……」
不意の問いかけに、否定も肯定もできずアタフタと手振りで答える。
実際、彼の表情は動画の中ではほとんど認識できなかった。正面を向いていたのは動画の開始後数秒のみで、それも遠目で不明瞭だった。不幸中の幸いとでも言おうか。これで彼もまた、事件のことを気にせず過ごせるだろう。そもそも気にしてすらいないかもしれないが。
ごまかしごまかし、三人と調子を合わせて語らい、笑い、この日の夕飯前まで過ごした。
……——
五時少し前。女子たちが来る時間は五時とのことだったが、直前まで彼女は躊躇っている様子だった。
いるはずのない人間が訪問先にいるのはおかしい。出会って間もない人間が、友人の部屋に泊まり込みの客人としているなんて不自然極まりない。しかしそれでも、自分に出て行けと言ってこないあたり、まだ気を遣っているのか、怖れているのか……しびれを切らして自ら家を出てきた。
深夜には帰ると言い残して、ランは昨日と同じ格好で外に出た。サングラスだけは壊してしまったのでかけていない。青い眼が目立つからと藍は気にしていたが、夕暮れ時、空は暗いオレンジ色に染まり、街は街灯もまだついておらず薄暗い。帽子はかぶっているし、目立つかどうかという点では特に心配はないだろうと言いくるめた。
ベランダから道路に降り、何食わぬ顔で歩き始める。駅の方向へ続く道、正面からケタケタと甲高いおしゃべりをしながら来る三人の私服の少女とすれ違った。皆、会話に夢中でこちらの存在にすら気づいていないようだった。
ランは、昨日問い詰めたバイクの男と出くわしたあの商店街へ向かいながら、その時にいた女を思い出していた。
バッグを奪われた女——その女の肩には、微かにだが、見覚えのある黒い煙がまといかかっていた。バイクの排気口から出たものとかではない。真っ黒なうねりが女の左肩にまとわりついて、助けを求めて泣くそれとは対照的に、怒りと恨みを粛々と訴えてざわめいているようだった。まるで無意識に他人の財布を盗ませたのも、おそらくこの黒煙の仕業だ。
あれはこの世界のものではない。少なくともこの世界にいるものには見ることができないものだ。そして、見えるものからしてもあれほど鮮やかに現れてくることは滅多にあるものではない。ましてや、命の危機すら感じていないようなあの女の状況で。
一抹の不安がよぎる。女にあの邪気を纏わせた敵には心当たりがある。確信はない。ひとまずは、この気がかりの元を探るべく動こうと決めた。ただ、〝力〟が使えないいま、深いところまで踏み込むのは禁物だ。奴らは狡猾で、容赦がない。万が一出くわせば、辛うじて保っている肉体の物理的な力だけでは対応しきれないだろう。
しかし何故、〝力〟が使えないのか。以前の感覚もろともすっかり頭から、身体から抜けてしまっているようだ。使えなくなった理由も謎だ。それどころか、こちらに来た目的も、どうやって来たのかもまるで思い出せないのだ。昔のこと、どこに住んでいたか、自分がどんな人間だったかは覚えているのだから、おそらくは一時的かつ断片的な記憶の欠如であり、そう長くかからないうちに思い出すだろうとは思うが。
妙に懐いているあの少女と出会ったことも、ただの偶然ではないと薄々確信してきている。
あれこれと自問自答を繰り返しながら、ランは駅前に通じる通りの角までやってきた。日曜の夕刻、人でごった返すということもなく、昨日の昼よりずっと静かだ。
背の高い雑居ビルが建ち並ぶ真ん中には片側二車線の広い車道が走り、その路上も滞りなく流れるくらいには車の行き来も落ち着いていた。駅行きのバスと駅発のバス、そして車庫に向かう回送バスがすれ違う時だけエンジン音の密度が高くなった。
耳をすませばいろいろな音が聞こえる。向こうにいた時よりもずっと、ここは音に溢れている。中には心地よい音も不快な音も、慣れるまでは聞き苦しい音もある。だがそれら全てがこの世界が生み出した一つの協和音であり、何かが消えればどこかで郷愁を生み出すものだ。
その様々な色の音の中で、ふと胸騒ぎのするものに触れた。
——通り沿いの一角、怪しさを感じた方角を振り向く。小さな路地の先、数ブロック進んで行くとやや大きな公園につき当たった。がらんと広けた黄色い地面を横切る。広い公園の出口付近で、まだ遊び足りないのか駄々をこねる子供を、暗くなって来たしもう帰ろうと母親が促している。近くでは、その母親と一緒に来ていたのか、別の母娘が自転車を傍らに笑って見ている。
ランがその二組の親子に追いつく前に、彼らは公園の外へと出て行った。親子たちの去りゆく後を、黒い煙がついて行く。……彼はじっとその様子を観察していた。
親子連れたちが道路に出る。勾配のある坂道になった車道を、下る方へゆっくりと歩いて行く。ランがその後を見失わないように追う。深くかぶった帽子が、横から差す陽光を遮り彼の目元に暗い影を落として、青い眼は影の中でいよいよ鮮やかに明るさを増した。
しばらくの間、一区画分離れた背後から様子を見守りつつ親子たちを追いかけた。走らず、歩幅を一歩一歩測りながら、相手に悟られないよう徐々に距離を詰めていく。そうしておよそ数分過ぎただろうか、その間全く黒い煙は消える気配を見せず、むしろ容量を増しているようにさえ思えた。
——!
不意に、別の方角から大きな話し声が響いた。思わず立ち止まってその方向に向き直ると、数人の男子学生たちがわらわらとやってくるのが見えた。立ち止まってしまった足を再び進めるタイミングを失う。親子から目を離さないように横目で覗きつつ、少年たちの視界からも隠れるように柱の陰で少し待つことにした。
騒めきは長くは続かず、少年たちの影が足早に横切っていく。過ぎ去っていった彼らの背中を眺め、誰も振り返ってこないことを確認する。そして、既にかなり離れてしまったあの親子たちを再び追いかけようと向き直った——
——あ、と思った時には駆け出していた。ある女の子が親子たちから離れて飛び出したのが見えたが、同時にその子に向かってくる大きな影が目に入り、俊足ですぐさまその間に跳び込んだ。
空中に飛び上がった勢いで両腕を伸ばし、女の子の体を抱え上げつつ道路脇に着地する。
走り去ったのは大型のトラックだった。
よく聞くような轢かれる寸前の救出劇だが、普通こんな状況には滅多になるものではない。つまりは、確実にこの黒煙が仕掛けたものであり、あえてそうした状況を起こしていると考えた方が自然だった。
「ああ、たいへん! どうして飛び出したりなんか……助けていただいて、ありがとうございます!」
すぐさま母親が駆け寄り、たった今救い上げられた娘を抱き寄せると、知らない男に向かってペコペコと何度も頭を下げた。
懸念が抜けないランは、「いや……」とぽそり呟いて目をそらしつつ少女を気にかけた。まとわりついていた黒煙はもう跡形も無くなっていた。
そのことを確認して、心の中で一息つくと、そそくさとその場を去った。
——また人に見られてしまった。
藍は、彼が目立つのを嫌がっていた。別段、目立とうが目立つまいが自分は気にならないのだが、どうも公の目に触れるということは憚った方がいいくらい、自分はこちらでは異質らしい。
——眼の色など、どうにもならないじゃないか。
そんな下らない愚痴を脳内で呟くうちに、駅ビルの裏側まで回り込んできた。こちらには、昨日藍と来たファッションビルに付属する平屋の店舗が建ち並ぶ通りがある。
チラと見て回るか、と一人ショーウィンドウの前を歩いていくと、少女といろいろな店を回った時間を思い出す。ここではフロアごとにレディースとメンズのブランドが分かれているビルと違い、一店舗ごとにランダムに多ジャンルが並んでいるため見ていて飽きない。ファッションだけでなく、手芸や本屋、おもちゃ屋なども混じって並び、一歩進むごとに人の目を惹く。
ランは、あるメンズスポーツブランドの店舗前で立ち止まった。目を惹かれたのは、シルバーに近いグレーのダイビング用スーツだった。首を保護するように襟が立ち、身体にぴったりとフィットするようできた造形のスーツは、前面の中心、縦に黒い線を走らせ、腰の辺りは帯のように違う素材で上下が繋がれて、全体的にスタイリッシュな作りだった。
ふと懐かしさを感じてじっと魅入っていると、ガラスの扉が開き、中から店員が顔をのぞかせた。
「どうぞ、気になったら中でご覧ください」
若い女店員はにっこりとして客を手招きした。ランは無表情のまま頷き、言われるまま入店する。
カランカランと乾いた鈴の音が鳴り、来客を店内に知らせる。時刻はすでに夜の七時近い。日曜のファッション街は閉店が早い。この店もあと小一時間もすれば、さりげなく店じまいの準備を始めるだろう。さすがに客足も少なく閑散としていたため、自分は良客と取られたようだ。
一通り店内を見て回った後、再びあのスーツのところでぼーっと眺めていると、横からさっきの女店員が声をかけてきた。
「……ご試着されますか?」
意外と気配を殺してくるなと感心しながら振り返り、無言で訝しげに睨みつけてやると……
「いや、ずっと眺めてらしたので……よろしければ。今ならすぐ試着室をご案内できます」
ダイビングが好きなのかとか、スポーツウェアはどんなものを所望なのかとか、やたらと堅苦しい言葉遣いで質問してきたが、結局彼は一言もまともに答えなかった。当然だ。その質問のどれも見当はずれだったからだ。
ただ見ていただけだ。自分が前に持っていたものに似ていた。それとなくデザインが近かったから、懐かしくなった。それだけだ。試着など——……と、思っているうちにいつの間にか小さな個室に来てしまった。
目の前に鏡がある。
帽子を取ると、見慣れない装いの自分がいる。
「……随分と痩せたな」
袖を捲れば、我ながら呆れるくらいに細い腕。
足ばっかりは元々鍛えていたから影響はないが、〝力〟が使えなくなって以来、身体の一部が麻痺したように脱力しているのを感じていた。あえて抑え込まれているような、奇妙な感覚だった。
店員に手渡されたダイビングスーツを身体に当ててみる。背格好にぴったりらしく、無性に愛着が湧いた。
——外では女店員が、個室でのんびり着替える客を待っていた。内心、早くしてくれないかなとそわそわしていた。そろそろ締めの準備を始める頃合いだ。店番も自分ともう一人しかいない。日曜の最後に少しでも売り上げが伸びればと、外でガラス越しに覗き込んでいた若い男性に声をかけてみたが、いくら話しかけても不愛想だし、表情も硬く何を考えているかわからない。それでも試着室で時間を過ごしている辺り商品が気になってはいるのだろうが……それにしても時間がかかりすぎだ。
痺れを切らし、客には見せない苛立ちの表情を直すと、女店員はテクテクと試着室の前まで行ってカーテンの向こうへ声をかける。
「あのー、お客様? いかがですか?」
返事はない。
「サイズが合わなければ別のをお探ししますよ。このデザインはこちらの一点だけですが、ほかのお色なら——」
なんとか購入にこぎつけたい一心でセリフを続けようとしたその時、試着室のカーテンが大きく翻る。
「えっ! ええぇ——……ムグ!?」
突如腕がカーテンの中に巻き込まれ、上半身がつられて前のめりになる。それから捻るように回転した体に驚き、ひっくり返った悲鳴をあげると、今度は口元を覆われ強制的に声が押し込められた。
女店員は、あまりの展開に思考を停止し、身も心も硬直しガクガクと膝を震わせた。
低い声が耳元で囁く。
(声を上げるな——)
その声を聞くなり、震えは止まり冷や汗が溢れてきた。
この男、強盗か——? 一瞬よぎったその疑いに、ますます恐怖が募る。声を上げるなと言われれば上げない方がいいに決まっている。いや、動きすらしてはいけない。挙動によっては今この場で殺されるかもしれない。思いを巡らすと、どんどん負の方向に不安が展開していく。
もはや溜まった涙が溢れそうだ。下手をすれば粗相してしまいそうなくらい怖い——!
カラン、カラン、と入店の鈴が鳴る。
まずい、お客さんが——と思ったのは、この男の餌食になってしまうことを心配したからなのか、自分の無様な姿を見られてしまうことを恐れたからなのか……
直後にその来客から聞こえてきた言葉に衝撃を受ける。
「おい、金を出せ! 店員出てこい!」
何、そのベタな強盗の台詞……! 女店員は粗相を堪えながら心の中でツッコむ。
この男の仲間か!? ……焦った。挟み撃ちだ。……しかしこの男、人の口を押さえ込んだまま身動きしない。なんだ? 何か頃合いを見計らっているような……?
——と、思ったらまた体が激しく回転した。
カーテンから飛び出た男は、閉店間際に来店してきた二人の客のうち小柄の方を目掛けて回し蹴りを食らわした。勢いよく吹っ飛び壁に激突する客。それを見て激昂したもう一人の大柄の客が手にしたナイフを振りかざして襲いかかる。男は軸足を中心に華麗にナイフの軌道をかわすと、客の真横に回り片足を高く上げ、振り下ろす。うなじに綺麗なかかと落としを決められた客は地面に叩きつけられた。
床に伸びた大柄の男。店内の商品は、これだけの立ち回りがあったにもかかわらず何事もなかったかのように、乱れ一つなく静止している。
見回した先、カウンターの向こうで両手を挙げ降参のポーズを取った眼鏡の男性があわあわと何か呟いている。気がついて壁を見遣ると、回し蹴りを食らい激突したはずの小柄の男がいない。……代わりに、外から嫌なエンジン音が聞こえた。
極限までエンジンを蒸された大型車が、店めがけて突進してきた。
女店員は目を瞑った。
眼鏡の店員はカウンターの中にうずくまった。
大柄の強盗を倒した若い男は、素早くガラス戸を開け外に飛び出す。いつもは乾いた音で来客を知らせる鈴が、水分を得たように元気よく鳴った。
若い男は、両足を店側に踏み込み、猛進してくる大型車に背を向ける形で体の向きを変え、激突する寸前で背中全体と回転を加えた左肘の威力を車の平たいバンパーに叩き込んだ。
大きく凹んだフロントガラスの中、小柄の強盗が鼻面を強く打ち気絶する。車自体は急停止の反動で後部が大きく持ち上がり、推進力を失って力なく地面に落ちた。
女店員は開いた口が塞がらなかった。目を開いた時にはすでに大型車は店の前で停止していた。あのダイビングスーツを試着していた客が、破壊された暴走車を背に立ち、ボタンの外れた白いシャツをはためかせている。
「はあああああああああ!!!??」
一体全体、訳がわからないが、とりあえずなんだかすごくカッコいい!! 女店員はもはや恍惚としてこの客の姿に見惚れていた。
あの客が壊れてしまって開きっぱなしの扉から再び来店する。もう鈴は鳴らなかった。
「おい」
低い声がかかり、女店員は虚ろな目で見上げる。
「……これ、貰っていいか」
両手で白いシャツを広げ、中に着たスーツを示しながら、その〝お客様〟が問う。
くれてやらない理由なんてないだろう。店は脅威から守られた。その礼にそんなものでいいならと、女店員は黙って頷いた。
4話へ続く
【登場人物】
百生美剣 藍の弟 十四歳
君野葵 藍の同級生・ランチパートナー
加奈 藍の同級生
未咲希 藍の同級生