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RAN 異界鬼神譚 -邂逅編-(休載中)  作者: 雪之丞
1章 邂逅
2/44

2話 「ラン」という名の男

旧4〜6話を結合しております。

なお、旧1〜6話を削除しております。

内容は変わっておりません。

 陽の光の暖かさに、穏やかな心地で目を覚ます。身体はまだ重く、力もしっかり入らない。それでも、陽光に透き通る窓の輝きや、背中に感じる絨毯の温もりに、自然と体力の回復を自覚する。

 昨晩の記憶が曖昧だ。見知らぬ女に出くわして、不安の中すがる気持ちで追いかけた。そして居場所を突き止め、再会した。——その時、何を訊ねただろうか。ほぼ無意識に動く体に任せ、気がつけば彼女をねじ伏せ、危なく傷つけるところだった。

 おそらく、恐かったのだ。〝こちら〟の世界に来るのは久々だった。到着したのは良いが、何のために来たのか、その目的が思い出せなかった。それに加え、〝力〟が使えなくなっていた。おまけに〝交信〟も出来なくなっていた。そんなところに真っ先に飛び込んできたのがあの女だった。

 だが、怖れる彼女の顔、親を守ろうとする必死の表情、それらを目の当たりにして、我を失っていた自分に恐れをなした。詫びようとしたが、事実、声も出ないほど消耗していた。確か、ようやく声を絞り出したと思ったあたりで、意識が飛んだ。

 少し頭の中で整理がついたので、起きてみようと思った。

 横向きに体を傾けて、片腕に力を込めてやっと起き上がる。ほんの僅かに目眩がした。衣擦れの音がして、上掛けがしてあったことに気づく。

 耳を澄ますと、階下からだろうか、食卓の用意を進める音がしていた。

 妙な安心感に包まれ、考えることも忘れて今の空気を楽しむ……——


 まだ寝ているかもしれない。そう思ったので、足音は忍ばせて階段を上る。彼女の両手には盆が抱えられ、その上には朝食の献立が並んでいた。

 魚は食べられるだろうか。野菜は、芋は、米は……そんなことを考えながら上る。

 母には事の顛末を告げていない。変に心配をさせてもいけないし、もしも今の状況を知れば、警察沙汰にまで発展するかもしれない。

 ——彼は、悪い人ではない。ならば、彼の体力が戻り、せめて事情を聞き出すまでは内密にしなければ。

 盆を片手に持ち直して、コン、コン、とあまり響かない程度にノックし、慎重にドアを開ける。

 すっかり陽光で暖められた部屋は、射し込む光の柱に舞う埃が反射して、昨夜とはまるで別世界のようだった。

 予測した先の床に彼の姿はなく、代わりに窓際で背を向け佇んでいた。片手を耳に当て、何かを聴こうとしているようだ。

 藍は、体が全部部屋に入ると、ドアノブから手を離し、盆を両手に持ち直した。すぐに、ドアがパタンと閉まる音が響く。すると、それに気がついたのか、彼は素早く振り返った。

「……起きたんだね。体はどう?」

 藍は、努めて屈託ないように話しかける。

 綺麗な人だと思った。可愛いだとかハンサムだとかじゃなくて、ただこの世にいる人間にはないような美しさ。そういう言い方が極めて適切だ。

「どのくらい眠ってたかな。いまもう昼近いから、相当疲れてたんだね」

 平静を装いつつ、藍は盆を折りたたみの低い机にそっと置く。あえて、見たい気持ちは抑えて目を逸らしていた。

「お腹すいたでしょ? あんなにぐったりしてたんだもの。たぶんろくに食べてなかったよね。……これ、わたしの朝食なんだけど、食べていいわよ」

 さすがに返事が来ないと不安になる。その不安と好奇心に負け、顔を上げると……

「——っ!」

 身がすくむとはこういうことか。覚えがある。すなわち夕べのことだ。

 殺気立った表情が彼女を見下ろしていた。言ってみれば、眼力だけで窒息死させそうな勢いの、そんな眼つきだ。

「あ、あの……」

 目を逸らせない。夕べもそうだった。

 何故——?

 どうして? どうしてあんなに怖い顔で睨む? 何かしたのか? 知らないうちにひどいことをしたのか? 思い巡らすが、さっぱり見当がつかない。

 頭の中をぐるぐる思考が渦巻く。いやな感じだ。早く抜け出したい。威圧感のせいで轟音が地面から湧き上がってくるような錯覚に襲われる。まるで体が床に縛り付けられているように重く、自由が利かない。

「——嘘だろ」

 一瞬にして、その声は重い空気を吹き払った。

「……は?」

 相手の言葉に、理解が追いつかなかった。身体はもう軽い。

「自分に、嘘をつくな」

 どういうこと? と言わんばかりの訝しげな目で彼女は応える。彼の眼はすでに覇気をしまっていた。

「俺には気を遣わなくていい。思っていることを言え」

 何が何だか分からなかった。取り繕わなくていいということか。いやそれよりも、こちらの気遣いを無視して殺気を仕向けて来られたことに無性に腹が立った。

 思っていることを言え? 不躾にもほどがある。客人だからと言って我儘を許されるわけではない。ましてやホスト、つまり自分に命令するなど、常識的にありえないじゃないか。

「あんたね……」

 藍は感情を抑えられなかった。語気は震え、怒りがそのまま声となって口から溢れる。

「……学校に不法侵入した上、わたしのことストーカーして自宅までやってきて……それで挙句押し倒して脅迫とか……暴行、恐喝、いくらでも罪になるよ。しかも突然目の前でぶっ倒れて寝ちゃうし、それを面倒見てやったら今度はあからさまな俺様態度? いい加減にしなよ。人の親切、なんだと思ってんの?」

 ……やばい。素が出たと思った。自分の話し声は低く、言葉もトゲだらけだ。事実を言っているだけなのだが、恩着せがましいセリフと言えばそうも聞こえる。

(だけど、正直に言うってこういうことだぞ。何を考えてるんだ、コイツ……)

 自制と本心の狭間で彼女はますます煮え切らない思いになる。

「本音言うと、この人結構美人なんだなーとか思って少し浮かれたけど……あんた、寝てる方がずっといいよ。性格と見た目があべこべだもん。アニメや漫画の世界じゃよくいるけどね、そういうキャラ。実際にやるのは良くないよ。みんなそんなキャラを許せるヒロインじゃないから」

 ——わたしは何を言っている?

「……大体どこから来たのよ。その異様な眼の青さは何? カラコンでも入れてんの? 白い肌は? 全身ドーランでも塗ってんの? 随分と手が込んでるね。……厨二病って言葉知ってる? 子供の頃の、『自分は特別だ』っていう勘違いが抜けなくて、すごい力があるフリをするのをやめられない人のことだよ。あんた……それ地で行ってるよ?」

 どんどんなじる言葉が出てきて止められない。そんなことはない、そんなことは……と、自分に言い聞かせるのに、口から勝手に酷い言葉が溢れ出てくる。これ以上言えばイジメと同じだぞ。彼は正直で率直なだけだ。もしかしたら、ものすごく不器用なだけかもしれない。何も知らないくせに、自分が偉そうなことを口にできるのか。

「……うまく言えないけど、あんたがいる空間は異世界に感じた。引き込まれる感じがしたんだよ。呼ばれているような、求められているような…… 最初に顔を合わせたとき、すごくワクワクしたんだ。今だってそうだ。すごく綺麗な生き物に出会っちゃった!……って。だから倒れたあんたの顔、ずっと見てたんだよ……?」

 藍は自分がかなり大きな声を発していたのが、次第に俯き、だんだんと抑え込まれた低い口調に変わるのを感じた。彼のことはもはや見ていなかった。見ることができなかった。怖くて見たくなかった。

「……そうか」

 短く呟かれた一言は、本当にさりげなく発された。

「……うわ……」

 彼女は思わず絶望的な声が漏れた。

「だが俺は、何も目に入れていないし、化粧もしていないぞ」

「……え?」

 一瞬にして気が緩み、顔を上げる。

「力もちゃんと持っている。お前が言う、『チュウニビョウ』とやらのようにな。……ただ、今は使えない」

 ——ノリがいいのか……? いや、ただのジョーク好きか? ヘタすれば、「年齢はゆうに数百歳は超えているんだ」とか言ってきそうな勢いだ。……そう言ってこられたところで、思わず信じそうになるくらいにはファンタジーな見た目なのでなんとも反応し難いが。

「あ、うん。そうなのね……」

 すっかり熱は冷めてしまった。突っ込む気力もなくし、彼の厨二を信じるかどうかも決めきれない。

「……とりあえず、言い過ぎた。ごめん……」

 返事はない。

「怒ってるよね。……わたし、口が悪いの。それに結構、厨二病なこと考えてたりするのはわたしの方だったりする」

 黙って聞いている相手。彼は僅かに首を振ったが、目を逸らしていた藍は気づかなかった。

「……とりあえず、ぐったりしてたのは事実なんだから、食べて体力つけなよ。お母さんのご飯、美味しいのよ」

 藍はそそくさと盆の乗った座卓を離れ、勉強机の椅子に腰掛け相手に背を向けた。

「なんか思い出したら教えて。興味あるから」

「いただきます」

「は……?……あ、うん。どうぞ」

 即答されるや振り返れば、不躾でノリのわからない男はちんと正座して、彼女が食べるはずだった朝食に手をつけ始めた。

 人の気持ちを無視してマイペースに食事をし始められたことにまたしても苛つかずにはいられなかったが、もはや諦めが優った。吐き出してスッキリしたこともまた抗えない事実だった。


 …………


 今日が休みでよかった。そして、両親も昼前には、映画に行くついでにデートしてくるからと浮かれて出かけてくれた。弟は朝から部活で不在だ。

「あなたが来るのが金曜じゃなかったら大変だったよ」

 無遠慮に文句を垂れても、彼は何も返さなかった。

「服、どうしようね。それをずっと着ているわけにいかないでしょ? それに、靴も無いし」

「裸足で歩けば良かろう」

「……人の目が痛いよ」

 とにかく今は、娑婆世界に来てしまった異界の住人がどうにかして馴染んでくれるように着付けなければ、という使命感に駆られていた。

「お父さんのか、みっちゃんのを借りるって手もあるけど……バレるだろうし。買いに行くか」

 弟の名がミツルという。通称、みっちゃんである。

 ほぼ藍一人の独断で外出が決定する。

 浮き足立った様子で身支度を済ませ、部屋を出ていく彼女に、奇妙な居候——ランも黙ってついていく。

「とりあえず、上下はそれでいい。でもあなたちょっと目立つから、サングラスはしたほうがいいかな」

 階段を下りながら、藍は思いつくままに声をかける。

 ランは長身な方だが、めちゃくちゃに背が高いわけではない。髪色も髪型も、ごく一般的な若者風だ。つまりそんなに気を使うほど注目要素は無いのだが、唯一、目が問題だった。光の加減で濃淡明暗に変化を見せる青は、どこからどう見ても人間離れしている。特殊なカラーコンタクトでの演出と言えばそうだが、それはそれで、ビジュアル系バンドをやっているでもないこのぶっきら棒な男の本質とはギャップがありすぎる。

「はい、これ。わたしのだけど、男女兼用だから安心して」

 藍は、リビングの一角にある家族共有棚に無造作に置かれていた、大きめの黒縁サングラスを取って手渡す。それを受け取り、男は無表情で顔にかける。

「それから靴だけど、お父さんので我慢してね。すぐに買うからさ」

 玄関に向かった藍は、下駄箱から父の運動用スニーカーを取り出して促した。藍自身も、外出用のスニーカーを用意するなり、さっさと履いて玄関を出た。

 時刻は昼時。今日は土曜日だ。最寄りの駅に付随するファッションビルに行こうと決めていたが、おそらく人通りはかなりのものになるだろう。

「急ごう。混んできちゃうから」

 やったこともない、巷で話題の乙女ゲームにもしかしたらありそうな展開だなと、くだらない妄想に苦笑いしながら、彼女はこの正体不明の相手とのひと時を楽しんでやろうと気分を高めていた。


 ぶかぶかでサイズの合っていない白いワイシャツ。長さが足りないため不自然に足首の見えたジーンズ。染み付いた黒ずみが年季を感じさせるスニーカー。遮光度の高い黒縁の大きなシルエットのサングラス。そして、つば付きの青いキャップ。

 最後のアイテムのいきさつは、玄関先に出た途端にランが立ちくらみを起こしたように頭を抱えたので訊ねてみたところ、日差しが眩しすぎる上に暑さが堪えると訴えてきたことに起因する。少しもめて、行くの行かないのとの押し問答の末、夕刻まで不在のミツルのならばと思い立って取ってきたキャップを押し付け、無理矢理解決したのだった。

 しかしまあ、あまり格好は良くない。兄がいるつもりで歩いてみようと藍は思った。服に頓着のない兄だ。プライドもなく引きこもって社会を忘れてしまった彼を一念発起させようと世話を焼いている気分だ。

「ほらあそこ、駅ビルがあるでしょ? 服も靴もあるから見てみましょ。もし必要なものがあったら言ってくれれば考えるし」

 仮の兄はこくりと頷く。サングラスのレンズ越しに、つまらなそうな視線が覗ける。

 藍は少しムッとしたが、気を紛らわすように話しかけ続ける。

「そういえば、『ラン』て、漢字はあるの? それともカタカナ?」

 側を歩く表情を見上げ返事を待ってみるが、特に反応はない。

「なんか、女の子みたいな名前よねー。お花みたい。それとも、英語なのかしら。意味は『走る』? それとも『無線ラン』の方?」

 やはり反応はない。再び見上げると、白い肌に直射日光が当たって輝いている。五月の晴れた日中。日本晴れで気温は上がり、外を十分も歩けばじんわりと汗がにじむ。だが彼は把握できる限り、その一滴でさえ見せていなかった。

「自分の名前でしょ? 何か意味があるんじゃないの?」

 ——ほんの一瞬、例の殺気を感じて肩がすくむ。……そしてすぐに穏やかな口調。

「……わからない。ただ、そういう名前の奴を追っていた気がする」

 思わず目を丸くする藍。すぐにあることを思いつく。

「……わたしの名前、漢字一文字なんだけど、『らん』て読めるのよ。まさかね……」

 ——また殺気……とまではいかないが、ピリッとした空気が頰をかすめていった。

「お前、いい加減に嘘クサい口調をやめろ。思ってもいないことを口に出すな」

「なっ……!?」

 予想だにしない反応に、藍はショックと怒りを隠せずに眉を歪める。反論の言葉も見つからずわなわなと拳を握りしめていると、彼は構わず続けた。

「無理に会話をしようなんて思わなくていいし、気を引こうともしなくていい。俺の名は『ラン』だ。確か、知っている奴がそういう名前だった。名乗る名を思い出せなかったから、そいつの名前を借りた。それだけだ」

 静かに話す彼の声は、各々思い思い仲間やパートナーと語りながらすれ違う土曜の住人たちには届かないくらいのものだろう。声調を微塵も荒らげず、あっさりと笑えないことを語る。

「……じゃあ、本当の名前じゃないかもしれないの?」

「どうでもいいだろう。好きに呼べ」

 その命令口調はどうにかならないものか。これでは片っ端から人に喧嘩を売ることになりかねない。だが、彼女は指摘しようかと口を開きかけて、すぐに噤んだ。この男の面白みを削ってしまうことは、なんだかもったいない気がした。


 町内でほぼ最大のファッションビル。駅に直結していて、平日休日ともに多くの人で賑わう人気のショッピングスポットだ。口コミサイトで評価の高いカフェやレストランも多く在している。

 二人は連れ立ってファッションフロアを回った。とても手の届かない価格のブランドものはもちろん、学生に優しい手頃なものまで、フォーマル、カジュアル問わず何でも揃っている。

 とはいえ、大の大人の服一式をリーズナブルに調達するのはそんなに易しくない。何件も店を回っては、決めあぐねて結局何も買わずに小一時間過ごしてしまった。

 とりあえず、靴と帽子は借り物なので買わなくてはならない。でないと、彼も外出に困るであろう。そう思って藍は、メンズフロアの一角にあったスポーツシューズ専門店で決めてしまおうと提案し、まさに入店したところだった。

 入り口に踏み込んだあたりで、ランは何かに気づいたように立ち止まり、背後を気にしていた。表情が少し険しくなったように思ったが、すぐに向き直ったので別段問いかけなかった。

 それからしばらく、足が痛くならず歩きやすいものならこれ、軽くて走りやすいものならこれ、と藍は心なしか楽しげな様子で次々指差しスニーカーを紹介していったが、対してランは抜け殻のようについていくばかりで、まったく興味を示そうとしなかった。

 店内を一通り見て回り、終始反応を見せずにいたランに恨めしささえ感じながら、「じゃあ、出よっか……」とため息混じりに声を漏らし外へ向かい始める。

(こいつとデートするのは並みの精神じゃ無理だな……)

 全くの初対面にもかかわらず愛想も配慮もない性格に、口を開けば敬語どころか対等を無視した命令口調、そして平然と殺意を向けてくる不躾さ。

「どんな教育受けてきたんだか……」

 心の中で呟いたと思ったが、微かに漏れたかもしれない。だがこの際知ったことではないと思った。少しでも取り繕えば見抜かれ、また殺意まるだしで毒を吐かれる。

「さ、もう出よう? お気に召すものはなかったんでしょ?」

 イラつきを隠さず言ったが、気がつけばさっきまで付いてきていた〝兄〟が後ろにいない。

「——ラン?」

「これがいい」

 彼は、目立たない場所にひっそりと置かれていた春物の靴のコーナーで、じっと一組のブーツを眺めていた。

「……ブーツ? 暑くない?」

 北欧のブランドを模した足首まである黒いシックなブーツで、合成皮革の質感が高級なデザインだ。サイドにはチャックが付いていて、そこそこ格好はいい。だが、春物の売れ残りで、素材的にこれから暑くなる時期には明らかに不適切だ。

「蒸れたら嫌じゃない? まぁ、セール価格だし買えなくはないけど……」

「だったらこれにしてくれ。昔持っていたものと似ている」

「あ、そう……」

 試着はしなくていいのかと念を押したが、ランは頑なに靴自体に触れもせずにただ欲しがった。気に入ったものがあっただけマシかと思い直し、藍は購入のためブーツを手にレジへ向かう。

 馬鹿高いものをねだられなくてよかった。これでも、なけなしの小遣いをはたいて人のために買ってやっているのだ。買い物は自分の提案だったとはいえ、少しは感謝してほしいものだと思わずにはいられなかった。

 ——彼女が会計しているその頃、ランは店の外で待ちながら警戒心を強めていた。ある一定の方向に感じる異様が、単なる思い違いであることを願いつつ。


 買い物を終えた藍が小走りで店の外に出てくる。

「はい、これ。大事に履いてよね」

 ブーツだから箱が大きければ袋も大きい。店のロゴが入った大袋を彼に押し付け、藍はそそくさと先を歩き始める。

 また二人並んでビルの中を歩く。ゆっくりとしたテンポで、どちらかが先に行ってしまうこともなく調子を揃えている。藍は相手に合わせている気は無かった。かといって、ランの方も、藍の歩みに倣っているわけでもないらしかった。

 ……そういえば、という雰囲気でランがすーっと息を吸う。

「……なぜお前が買ったんだ?」

 ——は?

 藍は拍子抜けして足が止まりそうになった。

「……いや、あんなボロいの履いてたら、そこら辺で拾ったものなんだなって思うじゃない。そうじゃなくても、鞄も何も持たずにいるし、そんな身なりだし、お金なんか持ってないんだと思った」

「ああ、持っていない」

「ほら、そうじゃん! そしたら、わたしが買ってやるしかないじゃないの」

「頼んでいない」

「……あのね、世間的に見ると、あなたはすこし異様なの。そんな人がわたしの部屋に来ちゃったんだし、放っとけないじゃない。それに、あなたが手を貸してくれって言ったんだよ」

「……?」

「忘れたの!? 部屋でぶっ倒れちゃった時に呟いてたよ」

「……ああ。あれはそういう意味では……」

「どうもこうも、もう買ったんだから気にしないでよ。わたしからの歓迎の贈り物だよ。いつかお礼してもらうから」

 彼はコクリと頷いて、何事もなかったかのように黙り込む。今度はしきりに袋の中身を覗き込んでいる。そして程なくして立ち止まった。

「……履き替えよう」


 買い物中はずっと、帽子は取ってもサングラスをさせたままでいた。ただでさえ人が多いのだ。彼と同じくらいの身長の人も多いし、目が合えば怪しまれる。いや、怪しまれなくても注目される。隣にいる自分も付随的な注目を浴びることになろう。だから、あえてあまり近づきすぎないようにしていた。幸い、彼も自分から近寄ってくるようなことはなかった。不器用な兄、不器用な兄、と、彼女は心の中で自身に言い聞かせるように繰り返していた。

 午後二時過ぎ。駅前の広場に催事で広がっていたバザー小物の店で、日よけのためだけの冴えないつば付き帽子も購入でき、今回の目的はひとまず達成した。

 藍は、そのまま商店街を歩いて帰ろうと提案した。ランは無頓着に彼女を見下ろしながら頷いてくれたので、買い物袋を片手に二人散歩がまた始まった。

 新しいものが日々増えて、古いもの、人気のないものは淘汰されていきがちなこの時世において、この商店街はなかなかに活気があった。もとより古い店舗に混じって、サブカルチャー推しの面々が集うカフェや本屋が賑わっているために錯覚を起こしているだけかもしれないが。

 通りはいろいろな人がいる。土曜の昼過ぎ、行きつけの店で忙しそうにしている主人に呑気に話しかけるおばあさん。夜中まではしゃぐつもりだろうか、テンション高く連れ立った数人からなる若い女のグループ。朝から張り切って休日を満喫しようと出てきた家族連れ……様々な年代の発する他愛のない会話が、けたたましい子供のはしゃぎ声と相まって商店街のアーケードを天井まで騒音で満たしている。すれ違いざまに肩がぶつかりそうになり、擦れ合うこともしばしばなくらい、人と人の密度は高い。

 買ったばかりのブーツと帽子を身に纏って、のろのろと歩く“兄”を、藍は複雑な気持ちで見ていた。ついさっき手に入れたベージュの帽子はつねに他人の頭とほぼギリギリですれ違っている。足元の黒いブーツも、すれ違うスニーカーや革靴やサンダルと何度もぶつかりそうになっている。はしゃぐ小さい子供は、危ないとか考えず間近を走り抜けていくから肝を冷やす。藍は、自分が表面上でもくれてやったという認識のある靴を、はやくも汚されるのではないかという不安と不満を抱いていた。

 ——そんなとき、聞こえるはずのない音が背後からして、同じ音を耳にした周辺の数十人とともに音の出所を振り返った。

「なんだろう? バイク……?」

 察したとき、周りの人も口々に同じ疑問を誰にともなく発していた。人混みで埋め尽くされた通りに似つかわしくない、大型バイクのエンジン音が、どんどん近づいてきている。

 藍は、なんだろうね、と怪訝な眼差しをランに向ける。彼はじっと音の方角を睨み据え、黙って接近する脅威に殺意を向けているようだった。

「これって、逃げたほうがいいんじゃ……」

 だんだん周りの人々にも焦りが見えてくる。表情は懸念に曇り、後ずさり、そそくさと、一人また一人と道路の真ん中を避けて路肩に逃げて行く。

 まだ何人かが真ん中で呑気に来るものを待ち構えていると、途端にいっそう耳をつんざく轟音を纏って、その主が現れた。

「うわっ! マジな暴走バイク!?」

「危なっ!」

「はやく逃げろ!」

 男も女も喚きながら右往左往する。

「ちょっと、ラン! 早くこっちへ!」

 藍も、相方の袖を引っ張り避難を促すが、本人は仁王立ちで迫る機械と向き合いつづけ、動こうとしない。

「うわぁ……もうすぐそこじゃない! 何やってんのよ、轢かれるよ!?」

 もう何を言い聞かせても反応はなかった。しかし、自分だけそこから立退くこともできず、藍はしっかりと彼の腕を両手で抱え込んで目を瞑った。

 物凄い勢いで迫った機械音が駆け抜けるとき、ふっと体が持っていかれるような感覚の背後で、女性の悲鳴が聞こえた。

「——ああ! わたしの、バッグ!」

 ひったくり? 藍は、ほんの一瞬放心し、すぐにいろいろな気持ちが湧いてきて、勢いに任せるまま叫んだ。

「バッグ! 盗られた!」

「……あれはお前のじゃないだろう」

 必死な空気をぶち壊すように水を差すランに、藍も極力怒りを抑えて反論する。

「バッグ盗られたっつってんでしょ!? 早く追いかけなさいよ!」

 普通なら、人間の脚であの速さに追いつくのは不可能である。だがそんなことはどうでもよかった。人の心配を無視する上、無機質で無愛想な態度ばかり取られていたことが無性に腹立たしかった。

「助けて……! 大事な物が入ってるの!」

 女性が泣き叫ぶ。みんな気が動転していた。日常を破られた直後だ。今しがた起きたことを冷静に見て判断を下せる人間は、実際にはそうそういない。

「だれか捕まえるだろう。これだけ人がいるんだから」

「簡単に言うわね!? 女の人が泣いてるじゃないのよ!」

 かなりな大声で怒鳴る藍に、ランは困ったような顔をしてしぶしぶ女性の方を見やる。

「…………」

 泣きじゃくる女性の左肩。

 彼は何かに気がついた。

「これだけ言ってもまだあんた——……っ!!」

 突如として猛烈な突風が顔面を直撃する。息すらできない勢いに思わず腕で顔を覆う。なんとか片目を開けると、見覚えのあるサングラスが、レンズにヒビが入った状態で地面に投げ出されていた。

「ああーーー! わたしのサングラス!」

 あいつか! っと思って見上げた先にランはもういなかった。

 ——女の左肩にそれを見た瞬間、サングラスを邪魔だと言わんばかりに投げ捨てて走り出すと、バイクが割った人垣の隙間を辿ってそれを追いかけた。帽子が、何かの拍子に付属していた紐が引っかかってしまい、脱げずに後頭部でバタバタと音を立てていた。

 ——奴を捕まえなければ。

 脚は爆発的な速度で動く。どうやら力は使えなくても持ち前の脚力は衰えていないらしい。

 疾走する景色を傍らに、野次馬で埋まりつつある道筋をジグザグに縫って、数秒の後にはすでに獲物の背後を捉えた。

 バイクの走り去ったすぐ後はまだ空間が広い。それを確認するなり、ランは右脚に力を込め、思い切り踏み込んだ。身体は一気に前方に飛び出し、バイクの影を追い越した。

 ————!!

 ひったくりはひどく驚いた。なにせ自分の乗り物がなす轟音で他の物音はほとんど聞こえないところ、それでも気配すらなく突如として人影が視界に飛び込んできたのだ。

 なんだ、と思う間も無く顔面に衝撃が加えられる。人影の掌がヘルメットもろともひったくりの顔と上半身の進行を封じていた。

 バイクは、ランが自分の右足先を前輪のすぐ先の地面に突き立てることで逆風を生じさせると、ひったくりの体が後ろ向きに倒されるのと連動するように、ウィリーのように前部分が浮き上がった。

 こうして完全に動きを封じられたひったくりとバイクは、なす術なく地面に叩きつけられ、ヘルメットは変形し吹き飛ばされ、ハンドルは衝撃で歪み、盗まれた女性のハンドバッグは中身を撒き散らしながら投げ出された。

「な、なんだ、今の?」

「すげー……全然見えなかった……」

「あんちゃんすげーな!」

 やいのやいのと周囲から賑やかしが接近してくる。

 ランはまだ目的を果たしていなかった。

 肩を鳴らしながら、地面で未だにもぞもぞと抵抗しているひったくりの傍らに近づきしゃがみこむ。犯人は頭からは出血し、自慢のレザージャケットがコンクリートに擦れてビリビリに傷ついてしまったのを気にしながら、倒れ込んだバイクの巨体に片足を潰されビクビクと震えている。ランは、そんな様子のひったくり犯に一切の慈悲もなく、その髪を引っ掴んで持ち上げ、血みどろの顔を覗き込んだ。その時の彼の眼は、ギラギラと薄青い刃のような光を放っていた。無理矢理に合わせられた視線に相手は慄き、言い知れぬ恐怖に口元は弱々しく歯を食いしばり、なりふり構わぬように顔中、涙や汗や血でぐちゃぐちゃにしていた。

「……お前、誰に頼まれた?」

 低くドスのきいた声が鼓膜を揺らす。周りはざわざわと不明瞭な音声で埋め尽くされているのに、目の前の若い男の殺気立った眼、声ともに単独で浮き上がってくる。

「答えろ。あの女も仲間か?」

 訊ねるランの声色はだんだんと怒りの装いを帯びてくる。ひったくりはそれでも答える様子はなかった。いや、答えられるだけの声も出ないくらいに臆しているらしかった。

 女の関与にも特に反応している表情変化がなかったところを見るに、ランダムで襲ったらしいことは明らかだ。すると、こいつも自分と藍の存在を知って行動を起こしたわけではないだろう。大方、誰かにそそのかされて、このあたりを標的にしたといういきさつだろうか。

「——お兄さん、もういいんじゃない?」

 取り巻きの中から心配そうな声がかかる。

「今、警察呼んだからさ」

「ひったくりさんももう観念してるみたいだし、勘弁してやんなよ」

「怪我もひどいし、救急車も呼んでおきましょう」

 次から次へと、あまりに迫力あるランの問い詰めに恐れをなしたのか、ひったくりに同情した呼びかけが降りかかってくる。

 そうした人混みの一角から、覚えのある声が聞こえた。

「——っ、いた!……ラン!」

 彼女の後ろからはひったくられた女性が付いてきていた。

「あんた、速すぎるよ! 一体どんな足してんのよ!?」

 キョトンとした表情に戻ったランは、後ろの女性が何食わぬ顔で、散らばった荷物とともにまとめられ手渡されたハンドバッグを、居合わせた人と一緒に確認している様子を眺めていた。

「……これ、あんたがやったの?」

 藍は、無残に破壊されたバイクとボロボロになったひったくり犯に気づいて訊ねた。

 ランは今一度、伸びてしまっている男を見下ろすと、おもむろに藍に右手を差し出した。

「……何?」

「お前のだろ」

「は……?」

 不思議に思って手渡されたものを受け取ったが、よく見てびっくりした。

「これ……わたしの財布じゃん! なんで!?」

 それは、明らかに藍のものだった。中身を見てみても、学校の身分証も定期券もそのままだ。一応確認すると、金銭も何も盗られてはいないらしい。

 激しく動揺する藍を尻目に、ランはひったくりと被害者の女性を交互に一度ずつ見やってからその場を後にする。

「あ、ちょっと待ってよ……!」

 藍も慌てて追いかける。

 長居はとりあえず避けたほうがいいとランは思った。警察も呼ばれたようだし、犯人も動けない。これ以上ここにいても仕方がない上、何より一つ気がかりができてしまったのが嫌だった。

 一方で藍は、何故自分の財布がここで戻ってくるのか、どこで失くしたのか、落としたのか、または盗られたのか、ひたすら心当たりを探っていたが、まったく覚えがなかった。そんな気持ちをよそ目に、ランはさっさと先を歩いて行ってしまう。まったく、考えも動きも読めない困った兄貴に振り回される妹を、藍は地で行ってしまったようだった。



3話へ続く

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