1話 邂逅
ご覧頂きありがとうございます。
旧1〜3話を結合しました。
(令和2年8月19日)
風の強い日の午後だった。
その時彼女は、友人と連れ立って食堂で昼食を済ませたあと、教室に戻る廊下を歩いていた。くすんだ艶を見せる床や窓に、休み時間特有のガヤガヤとした生徒たちの話し声や、先生が早く教室に戻るよう促す声が混じり合い、落ち着いた喧騒が響いている。
彼女の名はアイ——可もなく不可もなく、どちらかといえば明るい性格で、良くいえばそつなくなんでもこなす、悪くいえば特に目立つ所のない普通の女子高生である。今日も今日とて変化のない一日の最初の区切り、昼休みを満喫し、午後の授業の始まる教室に続く曲がり角にさしかかろうとしていた。
ふと何か奇妙な音が聞こえた気がして、咄嗟に耳を澄ます。
「……ねえ、何か聞こえなかった?」
隣を歩く、いつものランチパートナーの女子に訊ねる。
「え? いや……何も、特に。どうした?」
どうも思いのほか気を取られた表情をしていたらしく、相方は訝しげにアイの顔を覗き込んだ。
何の音が聞こえたのだろう。聞こえたという記憶だけで、どんな物音か、もしくは声なのか、おかしなことに思い出せない。
「空耳か……」
たぶん、喧騒の中のなんでもないひとつが気になっただけだろう。妙な音が聞こえた気がしたのだろう。——そう思って、窓の外や廊下に並ぶ教室のひとつひとつを見回していた頭を向き直し、再び歩き出そうとした。
「もうあと五分もないよ。急ごう」
変なの、と苦笑いをしつつ促してくる友人に、アイも空返事にうんと頷いた。
やや早歩きする最中、次の授業の先生をからかう話題や、小テストの有無を予測する会話を挟み、いくらも経たずに教室の扉をくぐった。
放課後。
昼休みに体験した奇妙な空耳のことはほとんど忘れていた。
持ち物をまとめ、帰宅の準備をする。
「アイ、今日部活は?」
やや離れた席にいたランチパートナーが、自分の身支度が整った途端駆け寄ってきて問う。
「いや……あれよ、わたし、部活やめたからさ」
言わなかったっけと声色と表情に出しつつ、アイは答える。
「え……。あ! そうだったか。そうだったね!」
きょとんとしていた相手は、思い出したように照れ笑いしながら身を弾ませパッツン頭の髪型を揺らす。
「じゃあさ、これから近くのカフェで女子会でもしない? あっちの二人も今日は何もないらしいから。明日も休みだしさ。ねえ? ねえ?」
甲高い声にハイテンションの加わった友人は、いつも跳ねているような話し方をする。今年度の始めからずっと仲良くしてくれていて、そんな彼女のことは嫌いじゃない。誘われて悪い気がするはずもなく、アイは即答する。
「そうだね! 行こう行こう。宿題は明日でいいわ」
「さすが! 実は部活やってた時は少し気つかってたんだわ。でも辞めた今ならね。やっぱりアイはノリが良くていいわ」
そうと決まったならと手早く教科書やらノートやらを鞄に詰め込み、アイも席から立ち上がった。一度振り返って忘れ物を確認しつつ、アイと三人の女子は教室を後にした。
昼にあの音が聞こえた廊下。何の疑いもなく通り過ぎる。
「——あ」
思い出した、とアイは声をもらす。呼応するように、連れ立っていた三人が振り返る。
「ちょっと、忘れ物……ごめん」
最後まで言い切らずに、アイは踵を返して教室に急いだ。ほかの皆は立ち止まり、口々に、大丈夫、待ってる、慌てないでとその背中に声をかけていた。
何かを忘れた。ぼんやりとシルエットが頭に浮かんでいるが、それが何なのか、物の名前が出てこない。それでも、すぐに教室に戻らねばという気がした。あるいは、「教室の方向に」という言い方が正しかっただろうか。
小走りで階段を登り、あの廊下の前に戻る。途中、不思議なことにどこにも人影が見えなかった。今日は金曜日だ。いつもなら部活動が活発に行われている。ましてや今日の授業終了から大して時間は経っていないから、まだ帰宅前の生徒も残っているはずだった。しかし、目的地に着くまでの数分間、どこにも人の気配はなく、物音や声さえもない。ただ自分の小走りの足音だけが廊下に響いていた。
そう。——ここだ。その、音が聞こえた廊下。ある教室の前で、立ち止まる。
引き戸は閉まっている。音はない。
「……なんで……わたし、ここに……」
何のための教室だっただろう。家庭科室か、理科室か、音楽室か。
教室の看板をと思い、ゆっくりと目線をもたげる。
「サン、マル、イチ……」
そこには、『301』とだけあった。つまり、フリーの予備教室である。行事の際の待機室になったり、授業で人数の分散が必要になったりした時に使われる。部活の前身である研究会や同好会の臨時の部室としてもたびたび申請されている。
アイはこの部屋を、以前に所属していた同好会で使用したことがある。だがそれは一年生の時の話だ。その同好会も早々に解散してしまった。二年生になった今を思うと、この部屋が、自分の教室と同じ階で、しかもこんなに近くにあるとは知らなかった。
おそらく、音はこの部屋からだ。昼間に、ここに誰かがいた。それもそうだろう。こっそりランチをここで食べている生徒もいそうなものだ。本当は昼休みだろうが使用の際には申請が必要なはずだから、無断はいけないのだけれど。
「——……」
でも。……と、違和感に襲われる。
同時に、彼女の手は引き戸にかけられていた。原因不明の、言い知れぬ胸の高鳴りが、その手を動かす。
ガラガラと地味な音を立てて引き戸が開かれる。
がらんとした、広い空間が目に入る。夕陽に照らされた広い床。後ろの壁に寄せられた机と椅子が、積み上げられたガラクタのように見える。
「——!」
一瞬の沈黙の後、ハッと息を飲む。——人影だった。
窓際、夕陽に向かって立つ一つの影。傾き、もはや真横から照らす太陽のせいで、ほぼ真っ黒なシルエットとなって、それは彼女の目の前に存在していた。
「…………」
気がつけば窓は開け放たれて、風が吹き込みカーテンを揺らし、髪を靡かせている。沈黙の中、窓枠を通り抜ける風が鳴く。
人影は、背格好から見るにおそらく男性だ。こちらに気がついているのかいないのか、突如異空間に迷い込んだ彼女の存在を無視するように、じっと赤い空を見ている。
そのまま、どのくらい時間が経ったのか。感覚にすれば、三十秒程度は見つめていた気がする。傍から見れば、なんの変哲も無い、帰りあぐねた男子生徒が一人で黄昏ているだけ。それなのに、彼女にとってはその人のいる場所がまるでこの世では無いようで。自分は現実を離れて、未知の空間に迷い込んでしまったのではないか。そして、そのことにいまは人知れず心酔し、ひたすらその不思議な人影に見惚れていた。何かを、期待していた——
——何を見ている——
彼女は目を見開く。
相手の瞳と視線がぶつかる。
振り返った彼の眼は、硝子のような青藍を湛えていた。
突き刺すような眼光に押し負けそうになりながらも、胸の奥がざわつく恐怖と快感を覚え、嫌でも視線を逸らせなかった。
足がすくんだ。事実だ。
思わぬ遭遇に心が踊った。それも事実だ。
しかし彼女は未だに、この青い宝石が突き刺すように視線を向けていることにうっとりとしている事実に気がつかないでいた。
黒い影が、おもむろに歩みを始める。
おおよそ、クラスの男子の平均身長よりも一回りくらい高いだろうか。そんな身の丈が、目の前二十センチメートルほどの距離まで迫る。
彼はどちらかといえば蔑むような表情でいたように思う。顔立ちは影になってしまい、はっきりとはわからなかった。
そして、また沈黙——しかしそれは一瞬だった。
「——!!?」
突如、ガタガタと窓枠が激しく軋む音がしたかと思えば、突風が吹き込んで教室全体を包み込んだ。
舞い上がる紙や埃、かき乱される自分の髪に思わず目を瞑り、両手で顔を覆う。
次の瞬間、彼女は廊下を出口に向かって駆けていた。左手にはいつの間に取りに行っていたのか、家の鍵が握り締められていた。
事の起こった前後がまったく思い出せず、自分の行動を不審に思いながらも、彼女は出口で待つ三人のことに集中し、先を急いだ。
「遅いよー!」
甲高い友人の呼び声がする。ほかの二人も、待ちわびたというように手を振って彼女を迎えた。
「ごめーん……!」
呼びかけに応えようと、テンションを高めて声を発した瞬間、ふっと血の気が引いた。
「……みんな、本当ごめん……どのくらい待った?」
そうだ。あの部屋にいた時間は。あの人と向き合っていた時間は。一体どのくらいの時間、自分はあの世界にいたのか。
「えー? ほんの五分くらいだよ」
「もうちょっとかかると思ったけどねー」
「鍵? すぐ見つかってよかったじゃん」
矢継ぎ早に答える三人に、アイは驚きを隠せなかった。
五分? そんなはずは……
そんなはずはない。まずあの部屋に行くまでの時間。そしてあの部屋の前で止まっていた時間。そして部屋で遭遇した時間。もはや永遠とさえ思えたその時間が、ものの五分だったなどと、どうして信じえようか。
「……? どうした? 走ってきて息切れちゃった?」
冗談まじりの明るい声が、靄のかかった聴覚の奥でこだまする。
頭が追いつかないとはこういうことか。まるで夢だったように、つい先ほどの記憶は思考の遠くへ追いやられていく。今すぐには理解も納得もできないくらいだ。これ以上考えても仕方がないと思った。
それでも、心の中に大きなわだかまりを残しながら、アイは友人の歩みにリズムを合わせてその場を去る。虚ろな気分に蓋をして——
夜。
女子四人、カフェでのひと時を終え、夕方帰宅した。五月の涼しい夕どき、日が沈むのもちょうど良い頃合で、夜六時少し前、街が闇に覆われてしまう前に家路についた。
夕食を済ませてから、小一時間湯船で考え事をして過ごした。湯気に包まれながら、あの黒い影と青い二つの眼を思い出し、その遭遇の記憶を何度も繰り返し辿った。高揚した気持ちを思い出すと、まるで天空に飛び上がるかのような、翼を広げて滑空しているような興奮が湧き上がってくるのを感じた。それは決して炎のように激しく燃えるものではなく、胸の奥底でたった今溢れ出た湧水のような、新鮮で穏やかなものだった。
親に促されて初めて我に返り、風呂場を出る。ぼーっとしていたわけではない。むしろ夢中になっていた。
頭にタオルを巻き、パジャマに着替えると、アイは自分の部屋に戻り電気をつけ、ベッドに腰掛けた。その最中ずっと、片手にはスマートフォンが握られていた。
一言をつぶやくソーシャルネットワーク。何をつぶやくでもない。ただ情報を得るだけのツールを、今日も今日とて更新してはスクロールする。この膨大な量の情報を、自分はどれほど、そしていつまで覚えていられるものだろうか。
ほぼ無意識に腰掛けた瞬間のベッド、その弾力のあるマットの跳ね上がりをお尻で受け止め、ぼんやりと液晶を見つめていた。
その時、頬に触れた流れる空気の感触に気がついた。
「あれ? 窓……」
……開いていた。両親が換気のために開けてそのままになっていたのだろうか。いつも出かけるときは、誰かが家にいようが自分の部屋の窓は鍵をかけていくのが習慣付いている。帰宅してからも、開けた記憶はない。
灯りがあると外から見えてしまうからと、一旦電気を消して頭のタオルを外し、窓辺に向かう。ベッドに投げ出された端末の液晶画面だけが、煌々と光を放っている。
窓は、網戸にカーテンの生地が直接触れるような状態で半開になっていた。
やっぱり両親が開けたか、と一息ついて窓の取手に手を添える——と、ふと、夜空の月灯りに気を取られた。
真っ黒な夜空に高く浮かんだ月……白く輝いていた。周りに群がる星々も、その光に毒されて自力で輝く力を減退しているようだった——
——こっちを見ろ——
涼しい空気を、吸い込んだまま息が詰まる。
闇が降ってきたようだった。一瞬にして、月の力を殺したそれは視界を塞いだ。
——お前は誰だ——
それは問いかけだった。
そうだ。あの時の音も。音ではなかった。声でもなかった。——気配だ。そして、この影の発する、声のない強力な語りかけだ。
「わたし……は……」
呼吸もままならないほど緊張した喉元から、無理矢理声を振り絞る。
「……あ……あい……」
見つめるそれはやはり、星に変わる二つの青い宝石だ。鋭い刃の切っ先を突きつけられているようだった。
「藍……青い、という意味——」
影はその眼を瞬く。
「……た、は……?」
必死で発する声がかすれそうになるのがわかった。それでも、彼女の心は声を押し出し闇夜の静寂を破ろうと足掻いた。
「……あなたは……!?」
——瞬間、影がうっすらと口元を動かし始める。
『俺は——』
その時、ようやくその影の〝声〟を聞いた。
『——俺は、ラン。……お前が現れた理由を、知りたい』
低く、静かな音圧とともに心臓に響く音色は、不思議と、どこか懐かしい気持ちがするものだった。
「……え、あ、いや、そうじゃなくて……!」
藍は、夜風がそよぐ星空に浮かんだ、その二つの宝石に向かって叫んだ。
「どうしてわたしの家のベランダに……!」
彼は、長いマントのような黒い羽織物を纏い、まだ街明かりが沈みきっていない住宅街の真ん中、わりと目立つ場所に腰掛けていた。現実をかえりみれば、こんなところではいつ人目についてもおかしくない。ましてや、会話などしようものなら——藍はそのことが急に恐ろしくなった。
「ここじゃダメだよ。早く中に……あっ!」
慌てて中に入れと促してみれば、キョトンとした様子で首を傾げた彼は、少しだけ俯いたと思いきやいきなり飛びかかってきた。
一瞬の出来事だった。避ける間も無く藍は相手に仰向けに倒される形で部屋に戻った。ということはもちろん、相手も部屋に招いてしまったのだが。
「あたた……っ」
軽く後頭部を床に打ち付けたらしい。幸い厚めの絨毯だったのでそれほどダメージはないが、それよりも眼前に覆いかぶさるように迫る見知らぬ人間に対する恐怖が優った。
「あ、あの……」
どうしよう、どうしよう。頭の中で思考がぐるぐる巡り、次の行動に迷う。両腕は動かない。押さえつけられているようだ。頭もろくに動かせない。視線だけがウロウロ何かを探ろうと試みるが、どうしても相手の瞳に引き戻される。では足は。もちろん、のしかかられているので動かない。声は。喉が詰まって一言も発せない。——威圧感というものだろう。
思い切り叫びさえすれば、両親は飛んでくるだろう。近所の人も気づくかもしれない。しかし、この男はわたしが叫んだところでわたしを殺さないという保証があるだろうか。いっそこのまま逃げられる隙を伺ったほうがいいのではないか。死にたくない。傷つけられたくない。殴られたり刺されたりするのも絶対に嫌だ。だが、さっきの言動は? 本当に傷つけようとしているわけなのか、そうではないのか? なぜじっと動かない? なぜずっとわたしの顔を見つめている? まさか、まさか——!?
「——藍?」
二人はハッとする。
(母の声だ……!)
藍は思った。一瞬、安堵さえした。
「どうしたの? 物音がしたけど……転んだ?」
「あ……」
咄嗟に返事をしかけて、嫌なことに気がつく。……相手がじっと、母の声の方向を睨み据えていた。
ダメだ、と思った。自分は解放されても、奴が襲いにでも行ったら——
「う、うん、そう、ごめんね! 転んだ……なんでもないよ!」
力一杯に叫んでいた。遠くで父親の声が、叫ぶな、窓が開いているんじゃないか、とイラついた口調で言うのが聞こえた。
「そう……。気をつけなさいね。おやすみ」
母親の優しい声が、父親のそれと対照的に聞こえてきて、すぐに遠ざかる足音に変わった。
「うん……!」
不思議と恐怖は忘れていた。母がドアを開けなくてよかった。無事でよかった。しかし安堵は続かなかった。ああ、もはや覚悟しなければ、と思った。……その時だった。
「……すまない」
——低い声。この男のものだ。
よく響くのに、静かで落ち着いた声。その声色に集中しすぎたせいか、何を言われたのかはまるで把握できなかった。
謝られた……? 藍は、母の去った扉の向こうから向き直り、目を見開く。
——何故、光もないのにこんなに鮮やかに見えるのだろう。
青い宝石のような瞳は、まるで闇に覆われた宇宙空間に浮かぶ二つの恒星のようだった。人の目も動物の目も、光って見えるのはわずかな光を反射する時だ。
違和感はこれだった。この人の眼は、例えてみれば、マリンブルーに満ちた海水面に白い泡が揺蕩っているような、美しい潤みを湛えた色をしている。そして、光を一切必要とせず、自ら淡く発色しているのだ。
——人……なのか……?
そんな疑問が頭をよぎった時、黒い影も青い光も目の前から消えた。消えたと思ったら、ぱちっとスイッチの軽い音がして、部屋の明かりが点く。
床に仰向けに寝転がりながら放心していると、また低い声がかけられた。
「……おい」
ビクっと肩が震え、身体が強張り小刻みに慄くのを自ずと感じながら、おそるおそる視線を声の方へ向ける。
そこには、すっくと立ち、半開きの眼でこちらを見下ろす黒髪の若い男性がいた。限りなく白に近い肌と、血色の悪い唇はなんとも不健康そうだった。
「親が居たんだな……。すまなかった。少し、手を貸して——……」
そこまで言いかけて、「……くれないか?」と消え入る声で続いたのがわかったが、その時にはフラフラと足元が崩れ、あれよという間にそばにあった洋服箪笥にもたれかかって座り込み、動かなくなってしまった。
藍は、不自然な格好でその様子を観察しつつ、唖然として開いた口が塞がらなかった。
……仕方がない。そう、まさに他にしようがないので、この不審者を部屋に匿うことに決めた藍は、すっかり緊張の取れた体に力を込め、大の男一人引きずって、絨毯の敷かれた、わりと広い床まで運んできた。
彼は暑苦しいマントの下は白いワイシャツに濃いブルーのジーンズと、なんとも〝普通〟の格好だが、特にボロというわけでもなく、小綺麗な物を身につけていた。
「あちゃ」
一つ嫌だなと思ったのが、彼が土足だったことだ。どこで見つけたのか、履き古されたあまり清潔でないサンダルだった。それで部屋に入られた上、引きずってきた時に絨毯にサンダルが引っかかって脱げたものだから、白いモコモコの生地の端が黒ずんでしまった。
彼の羽織っていたマントもまた、ヴィンテージ感のある厚手の生地のもので、ただこちらは不潔とかではなくただそういう風合いに作ってあるものだった。やはり、どこで手に入れたのか甚だ謎だ。
当の服の主はといえば、どうやら眠っているらしい。顔色を見るに、ひどく疲れているようだ。例えてみれば、十数時間も轟音の飛行機に揺られて帰ってきた日の夜、死んだように眠っていた父のようだ。
厄介なのは怪我をしていたり病気にかかったりが原因で倒れた場合だが、呼吸が安定しているのと、汗をそんなにかいていないところを考えれば、まず心配はないだろう。
藍は、とりあえず今日起きた事を反芻していた。言い知れぬ胸の高鳴りに、思わず不敵な笑みがこぼれそうになった。そしてすぐ我に返っては、可笑しな心境だと自嘲する。
もともと、現実離れした現象には憧れがあった。大して代わり映えのしない毎日だ。もしも今、空から星が降り注いで、大地が割れて大きくうねったら。人は、家は、機械は、世界は、世間はどうなるか。そんなことをよく妄想していた。友人には、厨二病じみた癖だと揶揄されたくないために一言も語ったことはない。……そうだったのに。今、人間離れした不審な男が自分の部屋に舞い込んで、眼前で伸びている。現実とは思えないじゃないか。しかし現実だ。それとも、妙にリアルな夢か。だが、肌の出ている足先や頬には窓から吹き込む涼しい風を感じるし、自分の髪も、彼の髪もそよそよとリアルに靡いている。
顔を近づけてみる。花のような香りがする。強すぎない、仄かな香りだ。
蛍光灯の人工的な明るみの中で、あばたもほくろもない、人形のような白い肌がキラキラと輝いて見えた。
「やっぱり……人間じゃない」
ボソッと呟いて、少し近づきすぎたかと慌てて身を起こす。ぐったりと力が抜けきっている相手は微動だにせず、静かに寝息を立てている。
ふぅ、と安堵の溜息をひとつ。
この出逢いには何かあると、本能が感じていた。
時間を忘れて目を凝らし、延々と視線の先に不思議を眺めながら夜は更けていった——
2話へ続く
【登場人物】
百生藍 十六歳 高校二年