森の仲間 遠い昔の新しいお話
野狐と翁のお話。
'僕はどこにいたんだっけ
何でこんなに身体が痛いの
足は傷だらけ
手は真っ赤っか'
鬱蒼と樹が生い茂る深い森の中、直立したまま己の血に濡れた両手に、見るともなしに視線を落としている野狐が一匹。
随分と長い時間、同じ姿で同じ場所に佇んでいた。
幾刻過ぎた頃だろうか、唐突に、カサ、と絹ずれの音が聞こえた。
野狐の傷だらけの耳がヒクリと動く。
「……む。そこな坊や、こころのやさしさをどこに置き忘れてきたのかの?」
瞬きをするまでは野狐以外何も存在しなかった森の一部から、言葉を伴った何かが現れた。
そして現れた何かは、野狐に向かってそう問いかけた。
野狐は弾かれたように視線を上げる。
そこに見たのは、灰色の袈裟を着て、たっぷりとした白い髭を蓄え、地平線を別々に見通すような眼を持つ、年老いた人間だった。
「……むう。その傷はちぃと痛かろう。
近う寄り。
どれ、薬はどれにしようさなあ」
翁はそう言いながら背負っていた薬箱をごそごそと漁り始めるが、野狐は翁に目線をやったまま一歩も動こうとしない。
翁は気にした風もなく、手を動かしたまま口を開いた。
「こころに傷を負うのは、いつだって辛いものよな。
坊の場合は自覚が……無いやもしれん。
どこで傷ついたのかも、分からんやもしれんなぁ」
そう続けながら、野狐に嫌と言わせる隙を与えずに近づき、薬を塗り包帯を巻き始めた。
しわしわの翁の手指はほのかに温かく、緊張しきった野狐の身体に血を巡らせた。
野狐の口から、ふっと息が漏れる。
「ほっほっほっ。
たあんと息を吸うと良い。
身体はいつだって新鮮な空気を欲しがっておるからの」
最後の包帯を巻き終えた頃、野狐は全身真っ白になっていた。
「よくまぁ、ここまで……。
よくお聴きよ、坊。
こころには、やさしさがあるんじゃ。
己でない者へのやさしさと、己へのやさしさ。
坊の傷は、さて、どちらかのう…。
ちぃと、おまえさん、己への当たりが厳しいんじゃないかえ?」
野狐は、こてんと首を傾げた。それを認めた翁は遠くへ目を遣りながら、言葉を続けた。
「己の声に、耳を傾けておやりよ。
己のまことの声は、己にしか聴けんのじゃからのう」
そう言って、包帯からはみ出ている野狐の耳を、しわくちゃの手でぽふぽふと撫ぜる。
野狐は少しだけ目を伏せ、されるがままになると、ひとつ、尾を振った。
ー ぶんっ ー
それを見た翁は、下がっている目尻を一層垂れさせると、そそくさと身支度を調え、もとの薬箱を背負った格好に戻った。
「左様ならば、傷が癒える日は近いであろう」
そう言葉を残して片目を瞑ると、ザアザアと木々が鳴き、野狐の頭上に沢山の木の葉が落ちてきた。
ふと、前を見やると、翁は姿を消していた。
ー ……コテンッ…… ー
佇むのは、首をかしげた野狐ばかり。
'耳が、あったかい…'
翁は仙人か何かだと思う。