4 初デート(1)
土曜日の昼下がり。
それは普段なら、のんびり過ごしているはずの時間だ。一週間の疲れがどっと押し寄せてきて、「ああ、今週もよく働いたな~」なんて思いながら。
しかし、今日は違う。それは会社を退職したからでもなく、花鈴と遊びに行くからでもなく、あることを決めなければならないからだ。
そう、今夜の食事に着ていく服を--
(ゔ〜〜っ、いつもどおりで良いって言われたけど、そんなわけにもいかないじゃーん!)
ベッドの上に並べられた私服を見下ろし、璃子は頭を悩ませる。
持っている服といえば、パーカー、Tシャツ、ジーンズの三点セットだ。どんなにタンスやクローゼットの中を探しても、おしゃれなブラウスなどは出てこない。
かろうじて何年か前に買ったスカートはあるが、それもデニム。とても高級レストランに着て行けるものではなかった。
(別に『高級レストラン』って言われたわけじゃないけど、あの楸生さんを招待するくらいなんだから、絶対セレブ御用達でしょ。あたしなんかが行ったら、場違いなんじゃないかな……)
ジェントルマン精神にあふれた楸生は、思っていても口にはしないはずだけど。
でも、やはり、雇用主に恥をかかせたくはない。せっかく誘ってもらったのだ。期待に応えるとまではいかなくても、及第点くらいには達せねば。
(あ、黒のジャンパースカートがあった……! これなら、イケるかも! 中に白Tを合わせて、長めのペンダント、赤いバッグ、スニーカーはまずいからパンプスで……)
なんとかコーディネートが完成しそうな気配に、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし、「ああ、よかった……」としゃがみこんだところで、もうひとつ別の大きな懸念事項に気がついた。
(…………ナイフとフォークの使い方がわからないっ!!!)
結局、貴重な土曜日の昼下がりは、ずっと頭を悩ませることになりそうだ。
〜*☆*〜
「璃子さん」
築四十年のお世辞にも綺麗とは言えないアパートの前で、一人の美男子が立っていた。いつも目にしている仕立ての良いスーツ姿ではなく、ジャケットにスラックスというラフな服装で。その後ろには黒塗りのハイヤーが控えていて、夕暮れの赤い光を浴びながらキラキラと輝いている。
「よかった、間に合って」
ぽかんと口を開けた璃子の前で、その異質な存在は相も変わらず穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
「えーっと…………、駅で待ち合わせでしたよね……?」
本当は現地集合が良かったのだが、なぜが固辞されたため、折衷案としてレストランの最寄駅で待ち合わせることにしたはずだ。
「すみません、すっかり忘れて来てしまいました。運転手が道を覚えていたので」
スモークガラスになっているので車内の様子は見えないが、いつも璃子をこのアパートまで送り届けてくれている運転手が乗っているのだろう。休日だというのに……。
「……楸生さん、確信犯でしょ」
口を尖らせて上目づかいで睨みつけると、観念したのか、楸生は素直に謝罪した。
「すみません、騙すようなことをして。でも、璃子さんの家から店までは遠いですから。ひとりでそこまで来させるなんて、俺にはできません」
「いやいやいや、電車で一時間ちょっとだから。あたし、そこまで子どもじゃないし……」
「子どもだなんて思ってないですよ。俺にとって璃子さんは大切な人ですから。デートで女性を迎えにこない男が、どこにいるんです?」
--デート!?
まったくの真顔でそんなことを言われ、璃子は二の句が継げずにそのまま固まる。「デート」というのは恋人どうしがするものだと思っていたが、いったい楸生にとってはどういう定義なのだろうか。ただの同伴または家政婦に対する労いも、それに該当するのか。
「さあ、そろそろ行きましょう。寄りたいところもあるので。でも、ちょっと勿体なかったかな……」
爆弾を投下した認識がないのか、何事もなかったかのように璃子をハイヤーへと促す。何が勿体ないのかわからなかったが、もう聞く気にもなれなかった。
ただでさえ夕日を背に立つ彼はいつも以上に美しいというのに、その口から思わせぶりな台詞が出れば威力は倍増だ。たとえそれが特別な意味を持っていなかったとしても--
〜*☆*〜
「楸生さんって、もしかしてフランス人?」
広々とした車内で、やや眉間にしわを寄せた璃子が出し抜けに尋ねる。それがどんなに突拍子もない質問かとわかっていても、聞かずにはいられなかったからだ。
「違いますが……」
「じゃあ、イタリア人?」
「いえ……」
「じゃあ、アメリカ人? イギリス人? ロシア人? ブラジル人?」
思いつくだけの国名を挙げたら、息が切れてきた。自分でも馬鹿げているとは思うが、何か理由が欲しいのだ。なぜ自分に優しくしてくれるのかという理由が……。
「どうしたんです? 俺は見てのとおり日本人だし、違う国の血は混ざってないですよ」
そうでしょうね。クォーターくらいはあるかなと思ったけど、別に外国人なわけじゃないですよね。
「さっきから少し上の空みたいですけど、何かありましたか? もしかして、俺のこと怒ってます?」
形の良い眉をすまなそうに下げ、少し体を傾けながら璃子の顔を覗きこむ。強引に迎えに来たことを、まだ璃子が怒っていると思っているようだ。
「別に怒ってないけど……」
「けど……?」
「…………、なんでもない!」
聞けない。なんで自分に優しくしてくれるのか、なんてことは。どんだけ自意識過剰なんだよって思われたら恥ずかしいし、その後で急に冷たくされても嫌だからだ。
でも、もうよくわからなくなってきている。はじめはただのジェントルマンとか、弱者の救済とか、女友達が欲しいだけかとか思っていたけれど、どれもしっくりこないのだ。何とも思ってないから「デート」に誘ったりしたのだろうか……。
「もし具合が悪いのなら、引き返しましょうか? すみません、俺ばっかり浮かれてしまって。璃子さんと食事に行けるのが楽しみだったので……」
殊勝な顔で謝ってくる楸生に、今度は璃子も慌てふためく。
「や、全然具合悪くないです。ちょっと考えごとしてただけで……。あたしも食事楽しみだし……!」
沈んだ空気を明るくしようと努める璃子に、楸生もほっとした表情を浮かべる。
「よかった。いつも璃子さんにはお世話になっているので、今夜は楽しんでくださいね」
--「お世話になっている」。
つまり、それはやはり「家政婦に対する労い」ということだったのか。
璃子はなんだかほっとした一方で、ズキッと胸が痛くなる気がした。
〜*☆*〜
「着きましたよ」
楸生に促されて車を降りると、目の前にはライトアップして金色に光輝くホテルがそびえ立っていた。玄関には見たこともないような高級車が次々とやってきて、美しくドレスアップした人々が降り立っていく。中に入ると正面には大きなシャンデリアと巨大な生け花が、足元には滑りそうなくらいに輝く大理石が一面に広がっていて、そのあまりにも豪華な様子に、璃子はただただ感嘆のため息を漏らした。
「氷野様、いらっしゃいませ」
楸生の来訪に気づいた男性スタッフが、足早にこちらにやってくる。しかし、それはどう見てもベルボーイやドアマンではなく、落ち着いた貫禄のある四十代くらいのスタッフだった。
「お待ちしておりました。今夜は可愛らしい方もご一緒なのですね」
「ええ、七星璃子さんです。私の大切な人ですので、支配人もお見知りおきを」
「かしこまりました」
(支配人……? 今、「支配人」って呼んだよね? それって、このホテルの最高責任者ってこと!?)
またもや楸生のセレブぶりを目の当たりにして、璃子は冷や汗をかく。取引先から招待券をもらって来たはずなのに、ホテルの支配人と顔見知りのような会話をしているのは気になるが、もはやそんなことはどうでもいい。それよりも、予想していた以上にこの場から浮いてしまっている自分をどうにかしたかった。
「お願いしていた件は大丈夫ですか?」
そんな璃子とは対照的に、まったく普段と変わらない楸生が、支配人に何かを尋ねる。
「はい、問題ございません。種々様々なものを取りそろえておりますので、きっとご満足いただけるかと」
「それはよかった。では、さっそくお願いします」
「かしこまりました」
何の話をしているのかさっぱりわからない璃子だったが、とりあえず歩き出した支配人の後を楸生と一緒について行く。すると、「VIPルーム」と書かれた部屋の前で、支配人が足を止めてこちらを振り返った。
「七星様には、こちらの部屋をご用意しております。どうぞお入りください」
なぜ自分に部屋が用意されているのか、それもVIP用の……と璃子は疑問に思ったが、微笑みかける楸生に促されて、おそるおそる扉を開けてみる。すると、そこは驚くべき空間になっていた。
「こ、これって……」
赤、黄、緑、青、白、黒--広い室内が埋もれて見えなくなるほどに、色とりどりのドレスが溢れんばかりに用意されていたのだ。
「はい、こちらでお好きなドレスにお召し替えください。ヘアメイクの者もおりますので、何なりとお申しつけを」
なんということだ。確かに、この服装ではかなり場違いだなと感じてはいたが、まさかこんな待遇を受けることになろうとは……。
呆然とした顔で楸生を見上げると、この状況を作り出した彼はにこりと微笑んでこう言った。
「だから言ったでしょう? 璃子さんはそのまま来てくれれば良いって。そのワンピースもとても可愛いので勿体ないんですけど、せっかくだから好きな服を選んでください。俺も着替えてくるので、ゆっくりで大丈夫ですよ」
何てことはないというふうに話す楸生に、璃子は開いた口がふさがらない。そういえば、「寄りたいところがあるけど、ちょっと勿体なかった」と言っていたが、このことだったのか。まさかこのやっつけコーディネートを褒めてくれていたとは思わなかったが……。
「じゃあ、またレストランで会いましょう。何かあったら、連絡してください」
戸惑う璃子をよそに、楸生は支配人とともに部屋から離れていく。「え、ひとりにされるの……!?」と内心パニックになっていると、「では七星様、こちらへどうぞ」といつの間にか後ろにいた女性スタッフに声をかけられ、安堵の涙をこぼしそうになりながら璃子は室内に入っていった。