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3 雇用主と家政婦(3)


「ただいま戻りましたー」


静まり返った玄関に、璃子の声が響く。誰もいないことはわかっているのに、つい条件反射で挨拶してしまうのだ。長年、陸上部で叩きこまれたせいか、それとも元来の性格か……。“勤務先”だから、ということも意識にあるのだとは思うけれど。

そういえば、先ほどもロビーに常駐しているコンシェルジュに挨拶したところ、なぜか「お帰りなさいませ」と言われてしまった。コンシェルジュ付きのマンションになんて入ったことがなかったので、それが普通なのかどうかはわからないが、“家政婦”に対する扱いとは違う気がする。この高級マンションの住人とでも思われているのだろうか。


(まあ、通してもらえてるからいっか。何かあったら、楸生さんの名前を出せば良いし)


何といっても、最上階の住人なのだ。楸生の名を聞いたら、きっと某時代劇の印籠を見たかのような反応を示すことだろう。


(高級住宅街の中の超高級マンションの最上階だからね。その効力が少しでも鈴ちゃんに通用するといいんだけど……)


素性のわからない男性の家に出入りすることを、とても心配しているようだった。まあ、当然の反応だろう。

自分でもまったく不安に思わないことはないが、だからといって、すぐにこの仕事を辞めるわけにもいかない。生活費や奨学金のこともあるけれど、一度引き受けたからには責任を持ってやりたいのだ。


(とりあえず、次の正規雇用が見つかるまではね。こんなに自由な時間があるから、資格の勉強をしたって良いし。そう考えると、やっぱり楸生さんって優しいなぁ……)


あらためて、恵まれた仕事を与えてくれた楸生に感謝した璃子であった。



〜*☆*〜



早めに作った料理をもう一度温め直しているころ、ガチャリと玄関が開く音がした。それは予想していたとおりのいつもと同じ時間だったため、璃子は特に慌てることなく、ひょこりと廊下に顔を出した。


「楸生さん、お帰りなさーい」


そのよく通る声に合わせるかのように、出迎えられた雇用主も「ただいま戻りました」と少し大きな声で返答する。それから少し間を置いて、いつもどおりに優しげに目を細めたスーツ姿の美男子が姿を現した。


「良い匂いですね。今日はハンバーグですか?」

「あ、よくわかりましたね。昨日がお魚だったんで、今日はお肉が良いかなーと思って。ソースとケチャップ、どっちが好きですか?」


楸生のカバンを持とうと近づく璃子に、「大丈夫ですよ」と楸生が軽く断る。


「じゃあ、ソースでお願いします。それから璃子さん、敬語」


契約内容の最重要事項である「雇用主に対して敬語を使わないこと」という約束を守っていないことを指摘され、璃子は慌てて弁解する。


「あっ、すいません……! まだ慣れなくてつい……。っていうか、楸生さんも敬語使ってるし……」

「俺のは癖ですから。璃子さんのように、気をつかってるわけじゃないんですよ」

「えー?」


絶対にそんなはずはない。じゃあ、今までの歴代の彼女たちにも敬語を使ってきたのか、と問い詰めたくなる。


「それから、そのエプロン可愛いですね。とっても似合ってますよ」


唐突に身につけている赤チェックのエプロンを褒められ、璃子は即座にしかめっ面を解放する。男性から褒められ慣れていないせいで、その頬がじわりと熱を帯びていくのを感じた。


「こ、これは家にあったのをひっぱり出してきただけで……。楸生さんが『エプロン買いましょうか?』なんて言うから……」

「だって、璃子さんの服が汚れたら大変でしょう? いろいろと家事をお願いしているんですから、それくらいは当然のことです」

「どこにそんな雇用主がいるんですか! そこまで気をつかわなくて大丈夫です……!!」

「うーん、気をつかっているというよりも、俺が璃子さんのエプロン姿を見たかったのかな」

「…………!?」


さらりと変な告白をされ、璃子は絶句した。それをどう受け止めたらよいのか、またはどのように流したら良いのか、残念ながらそういう偏差値の低い自分にはわからない。

しかし、そんな石のように固まっている璃子をよそに、楸生は「また敬語ですよ」と優しく指摘しながらリビングに行ってしまった。


(~~~っ! こ、この人たらし~~~っ……!!)


恥ずかしさをごまかすために、おそらく何も悪くないであろう楸生を心の中で罵倒しながら、璃子も足早にキッチンに戻る。

こんなことなら、お金をケチらないでもっと地味なエプロンを買えばよかった。乙女趣味の母親から一人暮らしの餞別としてもらったものなのだが、ちょっと自分には可愛すぎる気がしてずっとタンスにしまっておいたのだ。「おとこおんな」「野猿のざる」--そんなあだ名をつけられることが多かった自分には不似合いなはずだと思って……。

璃子は温め直した料理を手早く配膳すると、こそこそとエプロンを脱いでカバンの中にしまった。



〜*☆*〜



「美味しいです」


いつものごとく、どんな女性でも落とせそうな微笑みを浮かべながら賛辞を述べる雇用主に、璃子は頰を膨らませる。


「もう楸生さん、そればっかり。あんまり厳しいこと言われるのも嫌だけど、ちょっとは意見を言ってもらわないと。あたしだって、なるべく雇い主の希望には応えたいと思ってるし……」

「本当ですよ? どれも美味しいから、そう言ってるだけで。もし嘘くさく聞こえるんだとしたら、俺の言葉が足りないのかな……。じゃあ具体的に言うと、このハンバーグは柔らかくてとても食べやすいし、味噌汁もちょうど良い塩加減だし、ほうれん草の胡麻和えも食べててホッとするし、冷奴も……」

「も、もう良いです! わかりました、わかりましたから……!」


すべての品に感想を言われるのも、恥ずかしい。しかもそのどれもが褒め言葉だったので、璃子は慌てて楸生の言葉を遮った。


「はは、そんなに照れなくても。本当に璃子さんの料理はどれも美味しいですよ? こういうのが『家庭の味』なのかなって。家に帰ってきたら温かい料理があって、一緒に食べてくれる人がいて……本当に俺にとってはかけがえのない時間です」


急にそんなことを言われて、璃子は目を見張る。「そんなに細かい性格ではないし、家事の仕上がりについてはあまり気にしない」とは言っていたが、なんだか今の発言はそういう趣旨とは違う気がする。ガラス玉のように透き通った瞳にも、少し悲しげな色が浮かんでいるように見えた。


「楸生さん家って、どんな感じだったの……?」

「俺の家ですか? そうだな……広くて大きくて人がたくさんいて、でも物音のしない静かな家、かな。ちょっと変わってるので、世間一般の家とは違うかもしれないですね」


それはこのマンションのことでは……と思ったが、「たくさん人がいるのに静かな家」というところに違和感を覚えた。その人たちは使用人なのだろうか。じゃあ、楸生の両親は……?

なんだかそれ以上は聞いてはいけない気がして、璃子は目を伏せて思いを巡らせていた。


「璃子さんの家はどんな感じなんです? ご兄弟はいるんですか?」

「え? う、うん……兄が一人いるけど、まだ実家にいるんじゃないかな。四つ上で、公務員やってて……。あたしが帰ってくると、なんかわかんないけどいろいろ聞いてくるんだよね。『彼氏はできたのか?』とか『アパートには本当に一人で住んでるのか?』とか。ほんと小姑みたいでうるさいんだけど、それにお母さんもお父さんも便乗してきて……。『私は櫻井くんみたいな息子が良いわ〜』とか『俺はやっぱり小栗だな〜』とか。もううるさすぎて、ちょっとは静かにしてほしいくらい」

「ははは、楽しそうだな」


心底楽しいというように笑みをこぼす楸生に、璃子もほっと胸を撫で下ろす。なんとなく自分の家のことを話すのは悪いような気がしたのだ。きっと楸生が欲しているような、温かい家庭のような気がして……。


「--そういえば、明日の夜は何か予定がありますか?」


急に話題が変わり、璃子はびくりと背筋を正す。明日といえば、土曜日……家政婦の仕事を休ませてもらう日だ。


「特に予定はない、かな? 土日を休日にしてもらったので、どこかに行こうかなと思ってるくらいで……」

「じゃあ、夜だけ時間をもらえませんか? 実は、取引先からレストランの食事券をもらったんですよ。璃子さんの他に誰も誘える人がいないし、一緒に行ってもらえると助かるんですけど」


ずるい、そんな言い方をされたら断れないではないか。何度も言ってはいるが、ただの家政婦に気をつかいすぎだし、それに見合うほどの仕事もしていない。お得意のジェントルマン精神は、こんな女子モドキよりももっと別のところで使うべきだ。

……と、少し前なら言っていたはずだが、なんだか寂しい生い立ちを聞いてしまったらそう無下にも断れない。自分のような者でも良いのなら、これも仕事のうちだと思って引き受けよう。


「わかりました。でも、あたし、ドレスコードとかわかんないですよ? こんな私服しか持ってないし」

「大丈夫ですよ、璃子さんはそのまま来てくれれば良いですから。あとはスマートフォンと、たくさん入る胃袋があれば十分です」


珍しく冗談を言う楸生に、璃子も思わず「ふっ……」と吹き出す。きっと緊張をほぐすために言ってくれたのだろうが、そこまで面白くもない。でも、そんな優しい気づかいが、なぜか心の中にぽっと灯りをともすのだ。


「どうせ、食い意地はってますよーだ。美味しいものは別腹だし、楸生さんの分まで食べちゃうもんねー」

「はは、それは大変だ。じゃあシェフに言って、たくさん作ってもらわないと」

「うわ、セレブ発言! そんな発想、庶民には思いつかないし!」

「ああ、出ちゃいましたか、俺のセレブ感。参ったなあ、ずっと隠してたのに……」

「いやいやいや、最初からだだ漏れだから! 出会ったときから、漂いまくり!」


冗談の応酬に、普段は静かな室内も賑やかになる。そこには「雇用主と家政婦」ではなく、ただの仲が良い男女がいるように思えた。

しかし、このときの璃子は知らなかった。自分と彼はやはり別世界の住人で、その距離は並大抵の努力では縮まらないということを--


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