3 雇用主と家政婦(2)
行きつけと言っても過言ではないほどに通い慣れたカフェに着き、璃子は乱れた呼吸を整えた。もうとっくに夏の暑さは遠のいたというのに、体じゅうが熱い。電車に乗っているときを除いて、ほとんど走ってきたからだ。
「はぁ……鈴ちゃんいるかな……」
ドアを開けて入り、店内を見渡して花鈴の姿を探す。すると、窓際から離れた右奥の隅に、その姿はあった。
「鈴ちゃん……!」
店内に響くほどの大きな声を出し、花鈴のもとに駆け寄る。うつむいて本を読んでいた花鈴も、ハーフアップにした長い黒髪を揺らしながらすぐに顔を上げた。
「璃子ちゃん……! ああ、よかった。ご無事で何よりですわ……」
疲れて膝に手をつく璃子を立ち上がって出迎え、花鈴は安堵の息を漏らしながら微笑んだ。
「さあ、どうぞ座ってくださいな。何か冷たいものでも頼みましょうか?」
「うん、そうする。走ってきたから、汗かいちゃって……。これくらいでへばるなんて、だらしなくなっちゃったなぁ……」
「いいえ、社会人になって練習する時間がなくなってしまったのですから当然ですわ。それでもきっと、街中を走り抜ける璃子ちゃんはとっても格好良かったと思います」
「ははは……だといいけど……」
絶対、そんなことはない。きっと「何を全力疾走しているのだ」とすれ違う人々に引かれていたと思うが、花鈴が必要以上に褒めてくれるのはいつものことなので、璃子は特に反論しないでおいた。
「なんか、学生のころを思い出すよね。あたしがゴールすると、鈴ちゃんが冷たい飲み物とタオルを用意してくれててさ。学校違うのに、ほとんどマネージャーみたいだったもん」
「うふふ。璃子ちゃんの勇姿を拝むのが、わたくしの楽しみでしたから。今でもたくさんの写真とビデオがアルバムに収められていますわ」
「ぎゃー、やめてー」
いくら言ってもやめてくれないことはわかっているが、いつものごとく抗議の悲鳴だけは上げておいた。
二人の出会いは、今から約十年前。中学校で陸上部に所属していた璃子が県の大会に出場したとき、別の学校の応援に来ていた花鈴に声をかけられたことがきっかけだった。
『はじめまして、椿花鈴と申します。わたくし、七星さんのファンになりましたので、どうぞお見知りおきくださいませ』
突然そんなことを言われて、璃子は思いきり面食らったが、それからも大会に出るたびに応援に来てくれる花鈴の姿を見て、だんだんと打ちとけていった。
極めつけは、ある事件が起きたときだ。大会での成績が振るわなかった部員に対して、顧問がねちねちと嫌みを言っていると、今にも噛みつこうとしていた璃子を抑えて、花鈴がこう言ったのだ。
『まあ、どなたかと思ったら先生でしたのね。ずうっと同じことをおっしゃっているものだから、てっきり調教されたオウムでもいるのかと思いましたわ。ああ、どうしましょう……わたくしったら勘違いして、一部始終を動画サイトに投稿してしまいました。今ごろ、保護者のどなたかがご覧になっているかもしれませんわね』
柔和な笑みを浮かべながら大人をやりこめるその姿に、清々しいほどの感動を覚えたものだ。
のちに聞いた話によると、実際には動画なんて投稿していなかったそうだが、噂を聞いた保護者から学校に苦情が入り、顧問は青ざめた顔で部員たちに謝罪してきた。
その後、花鈴は特にお咎めを受けることなく、何事もなかったかのようにまた応援に来ていため、びくついた顧問がまったく威厳をなくしてしまった……というのが、今でも語り継がれている陸上部の伝説だ。
「はい、アイスカフェモカですわ」
璃子が思い出に浸っていると、花鈴が飲み物を頼んで持ってきてくれた。それは親友だからこそ知る璃子の大好物だったため、「さすが鈴ちゃん」と璃子は満面の笑みでお礼を言った。
「それで、璃子ちゃん……本当に会社を辞められてしまったんですの?」
璃子が喉を潤してひと息つくのを待ち、花鈴は本題を切り出した。その表情を見るかぎり、本当にとても心配していたのだろう。璃子は申し訳ない気持ちで返答した。
「うん……実は、上司を殴っちゃったんだよね。理由はまあ、たいしたことじゃなかったんだけどさ……」
「そんなことありませんわ。セクシュアルハラスメントを働いていた上司を成敗したのでしょう? とてもご立派だと思いますわ」
「うん、ありがとう…………って、何で知ってるの!?」
「まあ、璃子ちゃんったら、わたくしの顔の広さをお忘れですか? 璃子ちゃんがお勤めだった会社にも、我が家の知人はおりますのよ」
そうなのだ。何を隠そう、ド庶民である璃子とは違い、花鈴は由緒正しい茶道の家元のお嬢様なのだ。
幼稚園から大学まで誰もが知る名門私立学校にエスカレーター式で通い、あまりの広さに迷子になってしまいそうな格式高い日本家屋に住み、政治家から芸能人まで幅広い人脈を持つ、本来なら庶民とは縁のない別世界の住人だ。
まさかあんなに小さな会社にまで知人がいるとは思わなかったが、そういうことであれば退職したことも知っていて当然だろう。いや、何かがおかしい気もするが……。
「正義感の強い璃子ちゃんのことですから致し方なかったとは思いますが、わたくしに一言でもご相談いただければもっと穏便に片づけましたのに……」
「え、えーと……その『片づける』っていうのは、セクハラ上司をどうにかするってことなのかな……?」
あの陸上部の伝説を思い出すと、花鈴ならやりかねない。
「わたくしから会社に申し上げて、退職を撤回させましょうか? ツテを使えば可能かと思いますが……」
「ううん、もういいんだ。あたしにも非はあるし、喧嘩っ早いこの性格を直すには良い教訓になったしね。……っていうか、そうそう、鈴ちゃんに言うの忘れてたんだけど、もう転職先が見つかったんだ。昨日から、そこで働いてるの」
カフェモカをストローで吸いながらケロッと話す璃子に、花鈴が驚いたように目を丸くする。
「まあ、もう転職先が見つかったんですの? どのようなお仕事で?」
「とある家の家政婦だよ。週休二日でのんびり家事をやればよくて、夕食まで一緒に食べさせてもらってる」
「璃子ちゃんが家政婦……。どちらの紹介所に登録されたんです?」
「ううん、そういうのには登録してないんだ。雇用主から直接スカウトされたっていうか……」
「スカウト……?」
訝しげな様子で璃子の言葉を繰り返す花鈴に、璃子は慌てて弁解する。
「あ、えーと……大将のところでたまたまお金持ちの人と相席になってさ、その人が忙しくて家事ができないから代わりにやってほしいって。……ん? あれ、そんな理由だったかな?」
いまいち自分が家政婦として雇われた理由がわからないため、なんだか勝手に捏造してしまった気がするが、おそらくそういうことだろう。
しかし、まだ釈然としない様子の花鈴は、少し眉根を寄せながら璃子に質問を続けてきた。
「もしかして、その方は男性ですの……?」
「うん、そうだよ。あ、でも、全然危ない人とかじゃないから。酔っ払って泊めてもらっちゃったんだけど、なんにも変なことはされなかったし」
「宿泊したんですの? その男性の家に!?」
「う、うん……。あ、めっちゃ広いマンションでさ、かなりのお金持ちみたい。もしかしたら鈴ちゃんとも知り合いかもね~」
どんどん険しい形相になっていく花鈴をなだめようと、璃子は適当に彼女との共通点を挙げてみた。というか、あらためて振り返ってみると、花鈴が心配するのも無理はない。相手が楸生でなければ、事件になっていたかもしれないとは思う。
「何というお名前ですの、その方は」
いつもと変わらぬお嬢様スマイルだというのに、その目と声は笑っていない。きっとこの質問に明確に答えなければ、何かが起こるだろう。そう、何かが……。
「え、えーと……氷野楸生さん、です」
楸生さん、ごめん。と、璃子は心の中で謝った。
そして、この追及から逃れるにはこのへんが潮時ではないかなと、璃子はカバンを持って立ち上がった。
「鈴ちゃん、ごめんね。そろそろ戻って夕食を作らなくちゃいけないんだ。これ、カフェモカ代。おつりはいらないから!」
そう一方的に告げると、璃子は「じゃあね~」と言いながらお店を後にした。
「----氷野、楸生……?」
と、何かを思い出すかのようにつぶやく花鈴をひとり残して。