表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/58

3 雇用主と家政婦(1)


「よしっ、完璧!」


ドライシートを付けた家庭用のモップで、家中のフローリングを拭き終わり、璃子は満足げに額の汗を拭った。リビングだけでも広いのに、なんと部屋が五つもあるのだ。とても一人暮らし用の物件とは思えない。そのほとんどが空き部屋となっていて、家具も何も置かれていないので、掃除しやすい状態にはなっているのだが……。


(絶対、この家持て余してるよね、楸生さん……)


宝の持ち腐れとはこういうことを言うのではないか、と璃子は思った。




あの突然の雇用契約から、早二日。璃子は自分のアパートからこの家まで、電車で通っていた。しかし、正確には朝だけが電車通勤で、夜は車で帰っているのだが……。その「車」というのが--


(あのボロアパートにハイヤーで帰るなんて、絶対変でしょうが……!!)


黒塗りのハイヤーなのだ。

楸生からお願いされた要望のひとつが「朝食または夕食を一緒に食べてほしい」ということだったので、璃子が「じゃあ夕食を……」と答えたところ、夜遅くにひとりで帰るのは危ないので楸生専用のハイヤーで帰るように言われたのだ。


(いやいやいや、電車で四十分くらいだから。楸生さんが帰ってくるのが八時ぐらいだし、絶対十時には家に着くから)


そう何度も断ったにもかかわらず、まったく楸生は折れなかった。


『璃子さんは女性なんですから。危ない目に遭ったら、俺が耐えられません』


あの微笑みを封印してガラス玉のように綺麗な瞳で見つめられると、もう何も反論できない。実は催眠術をかけることができるとか、妖しげな光線を出すことができると言われても、うっかり信じてしまいそうな美しさだ。


(ほんと心配性なんだよね、楸生さん。あたしなんかが襲われる心配なんてないのに……。っていうか、変人? ちょっとズレてる人? 他の「お願い」も変わってたし……)


『璃子さんにお願いしたいことは、三つです。一つ目は、朝食または夕食を俺と一緒に食べること。二つ目は、俺のことを下の名前で呼ぶこと。そして三つ目は、俺に対して敬語は使わないことです。以上ですが、何か質問はありますか?』


(いやいやいや、大いに質問はありますから。っていうか、すべてが疑問ですから!)


思い返してみても、やはり解せない。おそるおそる理由を尋ねてみたが、「俺がそうしてほしいからです」としか答えてもらえないのだ。


(なんだろ……寂しいのかな……? あたしが九時くらいにここに着いても、まだ出勤してないし……。ああいうのを重役出勤って言うんだと思うけど、もしかしたら会社でみんなから距離を置かれたりしてるのかも。あのイケメン具合だしね……)


もし楸生が璃子の退職した会社にでもいたとしたら、絶対に女性社員たちが放っておかないだろう。楸生よりやや劣るイケメン社員にも、目の色を変えて群がるくらいなのだ。血みどろの修羅場にでもなってしまうかもしれない。


(あ、そうか……。だから、あたしを雇いたかったのかもしれない……。あたしだったらキャーキャー言わないし、恋愛対象にはならないもんね。気兼ねなく接することができるし、後腐れもない。敬語を使うなとか下の名前で呼んでほしいとかも、そういう気軽な女友達が欲しかったのかも……)


イケメンにもいろいろと悩みがあるのだな、と璃子はひとり勝手に同情した。



--ピーピーピー。



あれこれと考えていたら、炊飯器からお米が炊ける音が聞こえてきた。まだ昼前ではあるが、なにぶん新米家政婦なので、すべて早め早めに行っているのだ。ただ、今日はもうほとんどの家事は終わっている。あとは、夕方にでも夕食を作れば良いだけだ。


(あたしの夕食代はお給料から引いて良いって言ってるのに、楸生さん聞いてくれないし……。申し訳ないから安く済ませたいけど、あんまりマズいものも出せないし、何を作ったら良いかちょっと悩んじゃうんだよね~)


そんな璃子の悩みを知ってか知らずか、当の雇用主は何でも「美味しいです」と微笑んで食べてくれるのだが……。


(う~ん……働かせてもらうからにはなるべく期待に応えたいのに、まったく注文を付けられないっていうのも逆に困る……)


雇われる側にとっては、待遇が良すぎるのも問題なようだ。


「--うしっ! じゃあ、とっととタッパーに移しちゃお~っと。……って、キッチンにスマホ置きっ放しだった」


モップを片づけてキッチンに向かうと、シンクの近くに自分のスマートフォンが置いてあるのが目に入り、璃子は「危ない危ない」とそれを手に取った。


「ちょっとお水の量を変えて炊いてみようかなと思って、いろいろ調べてたんだよね~。水まわりは危ないから気をつけないと。って、あれ……? めっちゃ着信きてるじゃん……」


スマートフォンの電源を入れたところ、明るくなった画面に不在着信が何件も表示され、璃子は慌てて詳細を確認した。すると、履歴一覧には同じ名前が溢れていて、ほぼ五分おきくらいに着信が入っていた。


「…………りんちゃん!!」


見慣れた名前に、思わず声が出る。彼女とは長い付き合いだが、これまでこんなに切羽詰まったような着信履歴を見たことはない。何かあったのだろうかと考えていると、無料メールアプリケーションにメッセージが入っていた。


『璃子ちゃん、会社を退職されたと伺いました。お家にもいらっしゃらないようですし、とても心配です。何かわたくしにできることはありませんか? 今日は一日、あのカフェにおりますので、もしお時間があればいらしてください。甘いものを食べながら、たくさんお話ししましょう。待っています。花鈴かりん


しまった、と璃子は思った。思いがけず新しい仕事に就いた結果、以前と変わらぬ忙しい日々を送ることになったので、大の親友とも呼べる花鈴に退職したことを報告するのを忘れていたのだ。


(めっちゃ心配してるよね、これ……。アパートまで来てくれたみたいだし……)


もしかしたら夜逃げしたとか、良からぬことを考えていると思われているのかもしれない。


(とりあえず、カフェに行こう。たぶん顔を見せないと、安心してくれなそうだし……。夕方までには帰れるように、急がなきゃ)


楸生には「夕食だけ一緒に食べてもらえれば、あとはテレビでも見たり出かけたり、好きなことをしていて良いですから」と言われているが、少し罪悪感はある。夕食も作らなければならないし、花鈴に現状だけ伝えたら早めに帰ってこよう。

そう思って、璃子は急いで炊飯器を片づけて、楸生の家を飛び出した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ