2 謎の貴公子(3)
「いただきます」
髪を乾かし終わってリビングに戻ると、テーブルの上には何もかもが用意されていて、璃子は感謝の気持ちをこめて手を合わせた。
「さっぱりしましたか?」
心なしか湯上がりで顔色の良くなった璃子に、家主が穏やかな笑みを浮かべて尋ねる。
「はい、おかげさまで。ほんと何から何まですみません」
「いえ、これも何かの縁ですから。楽しい夜を過ごさせてもらったお礼です」
「ははは……ありがとうございます……」
泥酔されて楽しかったわけがない。あからさまな社交辞令に、璃子は顔を引きつらせた。
「本当ですよ。あんなに笑ったのなんて久しぶりですし。璃子さんといると、時間を忘れるくらい楽しいですから」
突然名前を呼ばれて、驚きのあまり口に含んだ紅茶を吹き出しそうになる。
「え…!? なんであたしの名前……」
「一晩飲み明かした仲じゃないですか。もしかして、俺の名前も覚えてないですか?」
「あ……え~と……」
名前どころかほとんど何も覚えてない状況に、璃子は言葉を濁す。もしかして失礼な呼び名でも付けていたのではなかろうか。
「じゃあ改めまして、俺は氷野楸生といいます。昨日はほとんど『お兄さん』とか『先生』って呼ばれてましたけどね」
案の定、勝手に呼び名を付けていたようだ。思っていたよりも失礼なレベルではなかったが、うら若き乙女が付けるにしてはあまりにも親父くさいネーミングセンスだったので、「すみません……」と小さな声で璃子は謝っておいた。
「それで、璃子さんは失業してしまったんですよね?」
思い出したくもない現実を急に突きつけられ、璃子はまた口の中のものを吹き出しそうになる。
「ごほ……そうです、上司を殴っちゃったので……」
「それで、また職探しをしなければいけないと」
「う……そのとおりです……」
酒に呑まれて、何もかも話してしまった自分が恥ずかしい。いつのまにか治まりかけていた頭痛もぶり返してきそうだ。
「じゃあ、俺からひとつ転職先を紹介させていただきたいんですが」
「え……!?」
思ってもみなかった展開に、璃子は目を見開く。
「このホテル並みの対応だけじゃなく、仕事まで紹介してくれるんですか!?」
「ええ。あまり良い仕事ではないかもしれませんが、受けてもらえると嬉しいです」
なんということだ。彼はただのイケメンセレブではなく、神様なのかもしれない。
路頭に迷いかけていた璃子は、目の前に座る楸生から後光が差しているように感じ、心の中で拝みながらすぐさま返答した。
「なんでもやります! あたし、あんまり頭は良くないけど、根性には自信がありますから! どんな仕事でも大丈夫です!!」
勢いあまって前のめりに立ち上がった璃子を、楸生は目を細めながら見つめる。
「よかった。じゃあ、さっそく明日からお願いできますか?」
「はい! あ、でも、場所はどこですか? あんまり家から遠いと、どうやって通うか考えないといけないし……」
「大丈夫ですよ。璃子さんさえ良ければ、住みこみもOKですから」
「え、そんなに良い仕事なんですか!? 住みこみだったら家賃も浮くし、奨学金も早く返せるかもしれないなぁ……。あ、でも、いったん荷物を取りに帰りたいし、とりあえず場所だけ教えてもらってもいいですか?」
住みこみ可の仕事といったら、おそらく飲食業だろう。大学生のときに定食屋でアルバイトをしていたので、きっとすぐに仕事は覚えられるはずだ。
与えられたチャンスを活かそうと意欲を燃やす璃子に、楸生は相変わらず穏やかな笑みを浮かべながらこう答えた。
「場所はここです」
そのあまりにもシンプルな答えに、一瞬の沈黙が流れる。言われたことがわからず、璃子は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしながら意味を尋ねた。
「え……ここ、というのは……?」
「この家です。今、俺と璃子さんがいる」
一応、問いには答えてくれているにもかかわらず、やはり意味がわからない。場所はこの家、ということは、ここでお店でも開いているのだろうか。
「すみません、ちゃんと説明しますね。璃子さんには、この家の家事をお願いしたいんです」
ああ、なるほど。この家の家事をすればいいんですね。確かに広いし、大変そうですよね~。
……などとは、すぐに事態を飲みこめない。
「え、いや、え~と……それはつまりこの家の家政婦として雇いたいってことですよね?」
「そうです」
「まだ出会ったばかりなのに」
「はい」
「一晩一緒に飲んだだけで、しかもめちゃくちゃ泥酔して迷惑をかけたのに」
「迷惑じゃないですよ」
いやいやいや、初対面なのに愚痴りまくって、家まで運んで泊めさせて、ベッドもお風呂も借りちゃって、朝食まで作ってもらったでしょうが……!
「え~と…………不安じゃないですか? あたしみたいなのが、自分の家をうろついて」
もし逆の立場だったら、絶対に嫌だ。
「たぶん、っていうか絶対、氷野さんってお金持ちですよね? 家事をやるのが大変で困ってるんなら、普通にプロの家政婦さんを雇ったほうがいいと思うんですけど……」
きっと誰に聞いても、同じことを言うだろう。知人に頼むにしても、もっと良い人がいるはずだ。
「それは、信頼関係とか、家事のレベルを心配しているってことですよね?」
「まあ、はい……」
「確かに、璃子さんからすれば、会って間もない人間の家に出入りするのは不安かもしれませんが、俺には特段何の不安もありません。そんなに細かい性格ではないので、家事の仕上がりについてはあまり気にしないし、生活するのに困らない程度にやってもらえれば良いですから。それに俺にとっては、お金や綺麗さよりも、誰に頼むかが重要なんですよ。俺は、他の誰でもなく、璃子さんにこの家にいてほしいんです」
急に真面目な顔でまっすぐと見つめられ、璃子は思わず息を呑む。あの穏やかな微笑みは、いつの間に消えてしまったのだろうか。色素の薄い髪と同じく、ガラスのように透き通った薄茶色の瞳に、何もかもが吸いこまれてしまいそうだ。
「--あと、これだけは約束します。絶対に璃子さんを傷つけるような行為はしませんから。璃子さんのご両親と俺の命にかけて誓います」
まるでプロポーズでもされているかのような錯覚に、場違いなむず痒さを覚える。そう言われれば、世間一般的にはそれが一番の懸念事項かもしれないが、これまでの経験上、そういう心配事は自分には当てはまらないのだ。
「わ、わかりました。じゃあ……とりあえずお受けします。でも……! あたしもそんなに家事に自信があるわけじゃないし、家政婦の仕事をするのも初めてなので、まずは試用期間ってことで良いですか? お互いに『なんかうまくいかないな』とか『やっぱりやめましょう』って感じになったら、本契約はしないってことで……」
たぶん自分はまともなことを言っているはずだ、という気持ちで、璃子は楸生の顔色を伺う。いまいち楸生がなぜ自分を選んだのかがわからないのだが……。
「わかりました。じゃあ、試用期間は一か月くらいでどうでしょうか? それまでにどちらかが雇用関係を続けたくないと思ったら、解消するってことで」
「はい、それで良いです」
「あと、給料は月に二十万円くらいでどうでしょう? 前の会社では、もっともらってましたか?」
さらりと提示された金額に、思わずひっくり返りそうになるくらいに驚く。
「そ、そんなにもらってるわけないじゃないですか……! っていうか、試用期間なので、普通よりも少なくて良いです……!!」
これだからお金持ちは……! と憤慨しそうな勢いで、璃子が言い返す。大卒でストレート入社したばかりだったのだから、どう頑張ってもそんな額になるはずがない。
しかし、そんな璃子をよそに、なぜか楸生は柔らかな笑みをこぼす。
「本当に璃子さんは良い人ですね。別に俺はいくら払ったって良いんですよ? お願いしているのは、こっちなんですから」
せっかくの提案をはねのけられたのに、機嫌を損ねるでもなく優しいまなざしを向ける楸生に、璃子はなぜかまた背中がむず痒くなるように感じた。
「あ、あたしは、生活できる程度のお金で大丈夫ですから……」
「そうですか」
にこにこと了承され、さらに決まりが悪くなる。なんだかこの楸生の優しさは、今までに感じたことのない恥ずかしさを催させるのだ。それが何なのかは、やはりよくわからないのだが……。
「あと、雇用関係を結ぶにあたって、いくつか璃子さんにお願いしたいことがあるんですが、聞いていただいても良いですか?」
「あ、はい……!」
また真面目な話に戻って、璃子は背筋を正す。いくら口約束とはいえ、雇用契約の内容についてはきちんと話し合っておくべきだ。それが雇用主からの要望ともなれば、なおさら聞いておかなければならない。
しかし、その「大事なお願い」を聞いていくにつれて、自他ともに認める童顔は、目の前の爽やかな笑みとは対照的に曇りに曇っていくのだった。