2 謎の貴公子(1)
--目を開けると、そこには一点のシミもない真っ白な天井が広がっていた。
それはいつも目にしている築四十年のぼろアパートとは似ても似つかないというのに、目覚めたばかりの璃子はただそれをぼうっと眺めていた。
天井に限らず、側面の壁紙も何の模様もないシンプルな白色だが、濃灰色のカーテンや黒いデスクがその明るさを中和していて、全体的にスタイリッシュな印象になっている。ただ、一人部屋にするには勿体ないくらいの広さなのに、家具や物がほとんど置かれていない。良く言えば洗練されているが、悪く言えば殺風景な部屋だった。
そして、天井から少し視線を下げると、黒くて四角い木枠に縁取られた時計が壁に掛けられていた。カチ、カチ、カチ、カチ……と規則的に時を刻む音が室内に響いていて、それがどれくらい辺りが静まり返っているかということを物語っている。カーテンの隙間からはうっすらと陽の光が射しこんでいるというのに、このままずっと眠ってしまいそうな静けさだ。
(………………今、何時…………?)
まだ意識のはっきりしない璃子が、ぼんやりと時計の針を見つめる。線のように細い長針と短針はちょうど同じくらいの位置にあって、両方とも「八」に近いところを指していた。
(…………七時四十分、か……)
時間がわかったことになんとなく安堵して、璃子はまた目を閉じようとする。しかし、その目はすぐに勢いよく見開かれた。
「って、七時四十分!?」
血相を変えた璃子が、あわてて掛布団を跳ねのけて飛び起きる。それは、平日であれば決して二度寝してはならない時間だ。スマホのアラームは鳴らなかったのか、いや、そういえば鳴っていたけれど場所がわからなくて無視したような……などと考えている時間はない。
「遅刻遅刻! って、あ痛たたた……」
急いでベッドから降りようとして、突然襲ってきた頭痛に顔をしかめる。どうして頭痛が……という問いには、開いた口から漂う酒気が答えてくれた。昨夜は、大将の店でやけ酒をあおっていたのだ。セクハラ上司を殴って解雇されてしまった憂さ晴らしに……。
「そっか、もう遅刻とか気にしなくていいんだ……。一晩寝たら、すっかり忘れてた……」
自分の能天気ぶりに、自嘲する。大将には強がってみせたが、本当はかなり落ちこんでいたのだ。退社してそのままアパートの自室に戻っていたら、きっと鬱々として眠れなかったことだろう。それがこんなにぐっすり寝られたのだから、やはり酒の力はすごい。飲みすぎた代償は体感しているが、それでも今は感謝の気持ちの方が大きかった。
「…………っていうか、ここどこ……?」
少し冷静になったところで、異変の核心に触れる。頭が痛むのを我慢して、記憶の引き出しを片っ端から開けてみるが、まったく見覚えがない。おそらく男性の部屋だと思うが、自室に泊めてくれそうな男性の知人というと、大将か実兄だろうか……。
「いや、大将の部屋にしてはオシャレすぎるし、お兄はまだ実家にいるだろうし、たぶんどっちも違うと思う……」
もしどちらかの部屋だとしたら、びっくりだ。
--では、誰の部屋なのか?
正直なところ、所有者のわからないベッドで眠るのは気持ち悪い。しかし、シーツからかすかに香るウッディ系の香水のような匂いが、嫌な気持ちを打ち消してくれる。どこかで嗅いだことがあるような気もするが、優しくて知的で高級感のある香りだ。
「ちゃんと服も着てるし、何かされたような形跡もないし……危ない人じゃない、のかな……?」
自分の格好に視線を下ろして、そう結論づける。一応、女である以上は、とりあえずその点を確認しなければいけないと思うが、何事もなかったようだ。本当はそういう経験がないので、何かあったとしてもよくわからないのだが……。
「とりあえず、外に出たほうがいいよね……? いつまでもベッドを借りてるわけにいかないし……」
まずは家主を見つけて、事実確認をしなければいけない。あとのことは、それから考えよう。
璃子は少しシワが付いてしまったネイビーのパンツスーツと髪の毛を整えて、部屋のドアを開けた。
「おはようございま~す……って、うわぁっ!」
おそるおそる顔を出したものの、目に飛びこんできた光景に思わず声を上げてのけぞる。とにかく広い、広かった。リビングであることに間違いはないが、あまりに広くて廊下に見える。きっと物が少ないことも要因だろう。殺風景なところといい、全体的にモノトーン調なところといい、寝室の様子とそっくりだ。
唖然として室内を見回すと、真っ先に目に付いたのは壁に埋めこまれるように設置された大きな液晶テレビだが、その真向かいに置かれた黒革のソファーを見て、璃子は大きく目を見開いた。窓側の方にある肘掛けのところに、綺麗に畳まれたブランケットが置かれていたのだ。それは先ほどまで使われていたような雰囲気で、誰かがソファーで横になっていたことが窺える。きっと璃子にベッドを譲ったために、家主がソファーで一夜を明かしたのだろう。璃子は申し訳ない気持ちで、そのブランケットを手に取った。
「こんな高そうな家に住んでる人をソファーで寝かせちゃった……。あたしのせいで、窮屈な思いをさせちゃってごめんなさい……」
まだ顔もわからない家主に、璃子はひとり謝った。
--そのときだった。ガチャリ、とどこかでドアが開く音がしたのだ。
(え……、誰かいるの……!?)
てっきり不在かと思っていただけに、心の準備ができていなくて焦る。音がした方向を探しているうちに、今度は服を着替えたり、ドライヤーで髪を乾かしている音が聞こえてくる。どうやら、風呂から出たところのようだった。
(ど、どうしよう、勝手にリビングにいたら嫌な感じかな……? っていうか、びっくりする? 一回寝室に戻ってから、出てきたほうが……)
などと、あれこれ考えているうちに、ドライヤーの音が止む。まずい、と思って寝室に戻ろうとしたときには、時すでに遅く、廊下に姿を現した家主とばっちり目が合ってしまった。
「あ……」
思わず声を漏らしたものの、驚きのあまり言葉が続かない。それは突然の対面に戸惑ったということもあるが、何より家主の容姿に驚いたからだ。
(……めっちゃイケメンじゃん……!!)
薄暗い廊下に立っているというのに、一目見て容姿端麗とわかる美男子ぶりだ。歳は三十前後だろうか、グレーのスーツにネイビーのネクタイ、やや茶みがかった癖のないサラサラな髪……優男という表現の似合うイケメンだった。
(え、もしかして芸能人? モデル? 全然見覚えはないけど…………って、あれ?)
まったく見ず知らずの人のはずなのに、ふと既視感のようなものが脳裏をよぎる。どこかで会ったことがあるような……というか、つい最近会ったような……。
記憶を手繰り寄せて沈黙していると、家主のほうから璃子に話しかけてきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
その声は低すぎず高すぎず、穏やかな美声で、優男風イケメンな外見にぴったりの声音だった。
(くっ……声までカッコイイなんて……! しかも、無駄に爽やかな笑顔が超まぶしい!! じゃなくて……)
いつまでも黙っているわけにはいかない。泊めてもらった礼と事実確認をしなければ。
「お、おはようございます。昨日は泊めていただいたみたいで、ありがとうございました。えーと……あたし、相当酔ってたみたいで全然記憶がないんですけど、その……どちら様でしょうか?」
どう切り出して良いかわからず、なんだか片言のようになる。しかし、そんな失礼とも取られかねない璃子の質問にも気にする素振りを見せず、家主は穏やかな笑みを崩さないままリビングに歩を進めてきた。
「昨夜はあんなに楽しいひとときを一緒に過ごしたのに、覚えてないんですか? こういうのも武勇伝のひとつになるのかな」
その言葉に、ふっとある台詞が璃子の脳裏をかすめる。
『--今日はたくさん貴女の武勇伝を聞かせてください』
「あ…………っ!!」
思い出した。どうりで既視感があるはずだ。つい何時間前まで、一緒に飲み明かしていたではないか。
「大将の店で相席した、イケメンサラリーマン……!!」
まるで芸能人を見つけたかのように指をさしながら声を張り上げる璃子に、家主は「ははっ」と愉快げに笑う。
「お褒めいただき、光栄です。思い出してもらえて良かった」
おどけた口調でさらりと褒め言葉をかわすところも格好良い。どんなに酔っていたとしても、やはりこんな色男を忘れられるわけがないだろう。というか、普通の女子であれば、そもそも横であんなに泥酔したりできないのだけれど……。
「とりあえず、シャワーでも浴びてきたらどうですか? 秋めいてきたとはいえ、結構汗をかいたでしょう。俺はここにいるので、ごゆっくりどうぞ」
まだ出勤するわけではないのか、家主に急いた様子はない。「タオルとシャンプーも置いてあるので」と、有無を言わせないサービスまで付けてくれていた。
確かにあんなに飲んで騒いだのだから、かなり汗をかいている。それに、意識がはっきりしてきた今、一番急を要することというと--
「あ、トイレは浴室の隣にありますから」
イケメンの前でも、生理現象は容赦なくやってくるのだ。