1 人生最悪の夜
「もぉ~~~っ、最悪っっっ!!!」
人通りの少ない通りの一角にある小さな屋台で、七星璃子はビールを片手に独り言ちていた。そのカウンターには他に客がいないのを良いことに、空になったジョッキやコップが雑然と置かれている。よく十代に間違われるその小さな体と黒髪ショートボブの童顔からは、想像もつかないほどの飲みっぷりだ。
「何、璃子ちゃん、今日は荒れてるじゃないの。どしたの、なんかあった?」
人好きのしそうな顔をした屋台の主人が、優しく璃子に話しかける。職業柄こういう客には慣れているのだろうが、その目は温かい。親子くらいに歳が離れているせいか、まるで娘を可愛がる父親のようだ。
「聞いてよ、大将! あたし、今日さぁ……クビになった!!」
突然の悲惨な告白に、大将と呼ばれた主人の目が点になる。「大将」「璃子ちゃん」と呼び合うくらいには仲が良い間柄だが、こんなにネガティブな話題が出たのは初めてだ。
「ク、クビって……璃子ちゃん、いったい何しちゃったのよ?」
「別にたいしたことじゃないんだよ? 毎日飽きもせずに女子社員の体を触ってくるセクハラ上司がいたから、『気安く触ってんじゃねぇ!』って言って、殴っちゃっただけ。そしたら、『君はもう明日から来なくていい! クビだ!』って。明日なんて言わずに、その場ですぐに辞めてやったけど」
またぐびぐびとやけ酒をあおる璃子を見て、大将は「あちゃ~」と声を漏らす。
「璃子ちゃ~ん、気持ちはわかるけどさぁ、殴るのは良くなかったんじゃないの? もうちょっと言葉で注意してみるとかさぁ」
「したよ? 『部長、それはセクハラですよ~?』ってにっこり笑ってさ? それでも『えー? 触ってないよー?』とか言って、触ってくんだもん。あ、あたしは触られてないけどね」
自分はセクハラを受けていないと話す璃子に、大将は目を丸くする。話の流れから、てっきり璃子も被害者なのかと思っていたのだ。
「え、璃子ちゃんは触られてないの? じゃあ、なんでそんなに怒っちゃったのよ」
「だって、みんなすっっごく嫌そうだったんだもん。見過ごせって言うほうが無理。いつも優しい先輩とか、ランチに誘ってくれる同期の子とかが泣きそうになって耐えてるのを見たら、『もう我慢なら~ん!』ってなっちゃって」
「そっかぁ……」
それは仕方ないと言いたげに、大将が腕を組みながらうなる。これまでの付き合いから、璃子の性格はよくわかっているつもりだ。その正義感の強さが彼女の特徴だということも……。
「まぁ、それが璃子ちゃんの良いところだよね。『弱きを助け、強きをくじく』っていうかさ。でも、ちょっと貧乏くじ引いてるところもあるんじゃない? お仕事あんなに楽しそうだったし、辞めちゃうの勿体なかったんじゃないかなぁ」
「う~ん……」
大将の言葉に思うところがあるのか、璃子はうつむいてあごをカウンターに乗せる。その黒目がちな瞳も伏されてしまって表情は読み取れないが、先ほどまでの威勢の良さは消えてしまったようだ。しばらく沈黙が続いたあとに、ようやく璃子は口を開いた。
「うん……ほんとはね、『どうしてあたしって、いつもこうなんだろうな』って思ってるんだよね。別にセクハラ上司を成敗したからって感謝されるわけでもないし? あの戦争みたいな就活からやっと解放されて入った会社だったのに、まさか半年で辞めることになるとは思わなかったし? ほんっっと、あたしってバカだよねぇ……」
しみじみと後悔する璃子に、大将の眉尻も下がる。本当は他人から言われる以上に、自分の行いを反省していたのだろう。いつも会社での楽しかったできごとを聞いていただけに、大将の胸も痛む。
「あ゛~っ……! 明日からどうやって生活していけばいいんだろ。奨学金の返済だって残ってるし、アパートの家賃だって払わなくちゃいけないし、もうどん詰まりだよ~!」
「璃子ちゃん……」
「あたしの将来設計を返せー! セクハラパワハラ、フルヘルカツラじじぃーっ!!」
「り、璃子ちゃん? 声ちょっと大きいよっ……?」
ご近所から苦情が来るのではないかときょろきょろ見回す大将をよそに、璃子はまた勢いよくビールを喉に流しこむ。いつのまにかその頰は赤く染まり、目も据わっていた。もう誰がどう見ても、完全に酔っ払いだ。
「ふっ……ははっ」
不意に、小さな笑い声が通りに響く。それは思わず吹き出してしまったという声で、どうやら璃子と大将の会話を聞いていたようだった。
驚いた大将と酔いの回った璃子が振り向くと、そこにはスーツ姿の若い男性が立っていた。まるでモデルのようにすらっとした体型で、背丈も高い。しかも、一目見てわかるほどに整った顔立ちで、サラサラとした癖のない髪の毛がさらに魅力を引き立てている。一言で言えば、イケメン。それも、かなりハイレベルなイケメンだ。
「失礼、つい面白かったので……。全カツラのことを『フルヘル』と言うんですね」
どうもそこが笑いのツボに入ったらしい男性を、璃子がきょとんと見つめる。実際にはもう視界が揺れているので、その男性の顔形はあまり見えていないのだが。
「うん、『フルフェイスヘルメット』のことだけど。そんなに面白かった?」
「ええ、今までに聞いたことのない表現だったので」
「ふ〜ん」
璃子からすれば「全カツラ」という表現の方が聞いたことがないのだが、本当はそちらが正式名称なのかもしれない。どちらにしろ、だんだんと思考能力が低下してきた璃子にとってはどうでも良いことだった。
「あ……っ! ふ、副っ……!?」
急に血相を変えた大将が何かを言いかけたが、それに気づいた男性が「しーっ」と自分の唇の前に人差し指を立てる。
「もしよかったら、俺も一緒に飲ませてもらってもいいですか? ちょうど冷えてきて、飲みたいなと思ってたし」
「いいけど、あたし今日荒れれ……荒れてるよ?」
男性の申し出を受け入れたものの、もう呂律は回らなくなり始めている。おそらく一緒に飲んだとしても迷惑をかけることになるのだが、なぜか彼はにこにこと嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「大丈夫ですよ、それがお酒の醍醐味ですし。今日はたくさん貴女の武勇伝を聞かせてください」
「お〜? じゃあ、とっておきの武勇伝を話しちゃおっかなぁ〜。大将、もう一杯っ!」
「り、璃子ちゃん、もうそのぐらいにしといたほうが……」
「よ〜っし! 今日はじゃじゃん飲むぞぉ〜!」
「ははは。大将、俺にも生ひとつ」
「え、ええっ……?」
こうして、璃子の人生最悪な夜は、突然の乱入者とともに奇妙な盛り上がりを見せて更けていったのである。なぜか居心地の悪そうな大将を除いて。