きまぐれの怪談 〜アパートの怪〜
私の実家がある某県に帰った時、数年前に起こった話だ。
実家の近所にあるアパートの一室には、鎖で封じられた扉があって、度々噂になっている。私も子供の頃、何度か覗いたから知っていた。
この間帰った時も見てみたが、相変わらず扉は閉ざされたままだ。この部屋の中を見た者は誰もいない。大家さんでさえどうなっているかわからないという。
満月の夜、酒に酔った私は上機嫌で夜道を歩いていた。千鳥足であのアパートの横を通ったところで、例の扉を思い出し、せっかくだから見てきてやろうと考えた。
鎖が解けていた。面白半分でドアノブを引っ張ると、鍵も開いているらしい。中に入ってみた。
そこには一冊の古い、分厚いノート。電話番号を記録した台帳だ。見覚えのある人の名前が、一緒にずらりと並んでいる。
開いたページをよく見ると右上に「◯◯年4月」と書かれていた。私が確か高校に入学した年だ。担任の先生、クラスの友達、塾の先生、その他諸々……。その頃知り合った人々の名が記されていた。
高校時代世話になった先生に、試しに電話をかけてみる。暫く発信音が鳴っていたが、
「はい、○○です」
聞き覚えのある声が聞こえた。
「あ、先生」
「おぉお前か、元気してたか」
それから5分程話をした。近況報告や、学生時代の思い出、昨今話題のニュースに対する議論、などなど。久しぶりに恩師の声が聞けて嬉しかった。
他のページも見てみる。それぞれのページには年月と、いつかの知己の名前と電話番号が書かれていた――取引先の会社ですれ違った掃除のおじさんや、小学生の頃お隣さんだった八百屋さんの番号まであって、ちょっと驚いた――。裏表紙に近いほど最近のことだとわかる。「現在」の後にも幾らかページがあったが、端っこを糊付けされていて開けなかった。
気がかりだった人の番号を、携帯電話に次々打ち込み、昔話に興ずる。今思えば酔って気が大きくなっていたのかもしれない。
ふと私はある事に気がついた。
このノートには私が今までに会ってきた人間なら誰だって載っている。ならば、この封を剥がしてしまえば、将来出会う人間のことがわかるのではないか。
鞄の中を覗くと、うまい具合にプラスチック製の栞があった。これを閉じられたページの間に差し込んで、ペーパーナイフのように開いてみよう。
しかしそうしようとした時、ふっと電気が消えた。慌てていると、本にかけた私の手をしっかりと押さえるものがある。生暖かい手のようだ。この部屋には私しかいない筈だ、気のせいに決まっている。
しかしいくら気を紛らわそうとしても、手に伝わる温もりはごまかしようがなかった。おまけに、何やら粘り気のある液体が、まとわりついているらしい。
不安になり、下を向いた。ちょうど顔を出した満月が、窓の外から部屋の中を照らした。
能面をつけた何者かがそこにいた。紙のように白い顔の下は、どうなっているかよく見えない。特徴的な名状しがたい薄笑いを浮かべている。
どうやら私はこいつに手をつかまれているらしい。どこかへ行けと言いたかったが、喉が苦しくて一言も発することができなかった。
能面が、おもむろに私の方を見る。
「 や め ろ 」
女の面からは想像もつかないほど低い声が、脳内に響き渡る。手のいやな感触も一向に消える気配がない。
せめてこいつを見ないようにと、私はぎゅっと目を閉じた。
次に目を開けた時には、部屋には明かりがついていた。能面のあいつはいなかった。私が開けようとしたページは血でべっとりと濡れていた。この先の内容も、何も分からなかった。
隙間から差し込んだ栞はグニャグニャに曲げられていて、もはや使い物にならないだろう。
私は血まみれの台帳を放り出すと、荷物をまとめて一目散に逃げ出した。
普通なら、ここで何かしらの祟りがあるとか、お祓いに行くとかする所だが、幸い私の身には何も起こっていない。ただ気になるのは、あの鎖で封じられた扉があったところが、ただのコンクリートの壁になっていたことだ。
実家の両親にも、友達にも、誰に聞いても、あの扉の存在を知るものは誰もいなかった。
〈おわり〉




