第一章「異世界へ」④
神殿に併設されている鐘楼部から、アイシアは戦いを見守っていた。
戦闘は終始、主となった蔵人の劣勢。蔵人は魔人に対して有効打をもっておらず――。
「あっ!?」
魔人の攻撃で蔵人は足を損壊。驚くような速さ再生されるが、このままではジリ貧なのは目に見えていた。
(マスター……)
心の中で無意識にマスターと呼んでしまった自分にアイシアは戸惑いを覚えた。
私は本当にどうしてしまったのだろう。
自分の体が人間じゃなくなってしまったのを実感してしまう。だがそれと同時にマスターとの繋がりが、大きな腕に抱かれているような安心感を与えてくれた。
「エラプションノヴァ!」
大規模な魔力の流れを感じた。見たこともないような緑色の火柱が吹き上がり。
「きゃぁああ――!?」
圧倒的な熱量の余波で神殿が飴細工のように溶けた。幸いにもマスターが施してくれた防御魔法陣が守ってくれて熱さすら感じなかったけど。
おそるおそる顔を出すと、さっきまで魔人がいた場所には溶岩が煮立ったような跡が残っているだけだった。
まさか、でも、本当に? あの魔人を倒したの?
とても信じられない。勇者と英雄が総出してようやく互角に渡り合えるという魔人が、たった一人の吸血鬼に?
おもむろに視線を投げてきたマスターと目が合いたじろいでしまった。
彼は暢気に手なんて振ってきて、魔人がいなくなった安堵と相まって思わず笑ってしまう。
もしかして、彼こそが本当に勇者なのかも知れない。ヴァンパイアだけど、眷属にされてしまったけど、聖典はやはり正しかったんだ。
『見事だよ吸血鬼』
臓腑を鷲掴みにされるような声だった。
絶望が形を取り戻していくのを私はただ見ることしかできない。
これが魔人。
勝てるわけがない。体を全て燃やされても再生する相手に攻撃するだけ無駄じゃないのか。
「魔法陣解放――チェーンスタグネイト!」
蔵人が魔法陣に仕込んでおいたもう一つの魔法を発動させる。
頑強な鎖が腐肉を縛りつけるが、もうすでに腐りかけていてちょっとした時間稼ぎにしかならない。
(これは遅延拘束魔法!? この状況も想定していたの? でも――)
「ちょっと失礼」
ふいに横から声が聞こえた。
振り向く前に体を捕まれ、首筋に熱が走る。
「あっ……ふわぁ……」
自分のものじゃないような甘い声が口から漏れた。
こんなことをするのはマスターしかいない。
そして私の体は眷属として最適化されてしまっていた。
私の血液がマスターに吸われる毎に、脳と体が快楽と歓喜に支配される。
でもせめて心だけは。
心だけは彼に奪われてなるものかと食いしばる。
私は人間だ。心まで眷属になってしまったら、ただの魔族に堕ちてしまう。
聖女の誇りも、先代聖女だった姉との約束も、きっと忘れてしまうだろう。
そして――。
十分に血を吸い、俺はアイシアから離れた。
魔人との戦いで消耗していた魔力が充填され、体に力が漲る。
眷属にしたときから思っていたが、やはり彼女の血は極上だ。相性が良い。
それが聖女だからかなのか、召喚主だからかなのか、あるいは理由などないのかは分からないが。
眷属になったものは、肉体の修復速度が上がり、特に失われた血液の生成は即座に行われるが、それと血質とは無関係である。彼女の血が上質なのは生来的なものだろう。
「あなたは――」
「ちょっとあいつシバいてくるから、離れてな」
防御魔法陣ごと空に飛ばし安全圏まで退避させる。
「待って下さい! 待って――!」
障壁を叩いて何かを訴えかけようとするが黙殺。
さすがにあいつ相手に醜態を見せすぎた。これ以上俺が何を言っても説得力はないだろう。
だから後は実力をもって示す。
蔵人はちょうど鎖を引きちぎった魔人の前に躍り出た。
『人間の血が無ければ全力も出せぬ劣等種が。魔人である私に勝てるつもりかぁあっ!』
「てめぇこそ、月夜で吸血鬼に勝てるつもりだったか?」
高らかに謳い上げ、天に掲げる月を指差す。
瞬間、月が緋色に染まった。
闇の心臓と化した月が鼓動するたび、蔵人の密度・圧力が増大していく。
『馬鹿なっ!? 天体を支配下における魔族など!?』
それはもう魔族の域を越えている。あるいは魔王様でさえも――。
『ハッタリに決まっているっ! ここで消えろ吸血鬼ぃぃいいいい!!』
腐肉塊が膨れ上がり、搾り出すように全身から紫色の霧が吐き出された。
霧は生物を感知して、獲物を追い詰めるように蔵人に襲い掛かる。
霧に触れた建造物が一瞬で腐敗し分解され、吸収された。
それがバラドゥムの奥義。攻防一体の死の霧だった。
どのような攻撃であろうと腐蝕させて取り込み、霧に触れたものは例外なく腐らせる。
バラドゥムが本気をだせば都市一つ落とすのに数時間もかからない。そして後に残るのは腐りきった大地だけだ。
事実、勇者を擁しないこの国が無事であったのは、今まで魔人の関心が肉体強化に向けられていたからだった。
だからもし、これを突破できるものがいるとすれば、それは――。
死の霧を避けて飛び上がり、神殿の頂上部に降り立つ。
確かに必殺の霧は驚異的だが、侵食速度はたいしたことは無い。
砂城を崩すように神殿が溶けていくのを眺めながら俺は準備を整えていた。
「一つ教えておいてやろう。第一話で大物ぶりながら出てくる敵はだいたいかませキャラなんだよ!」
辺りを緋色に染め上げる月が深淵に変わり、巨大な蝿が顔を覗かせる。
「腐肉は蝿にたかられるのが似合いだ。ベルゼブル!」
耳に蛆が湧いたようなおぞましい幻覚が見えた。
蝿声の合唱が世界を埋め尽くし、月光が消失した闇から蝿の軍勢が現れる。
『こんな虫けらが!』
死の霧と、蝿の大群がぶつかりあいせめぎ合う。
霧に触れる先から蝿が分解されていくが。
『な、なにぃ!?』
霧が万の大軍だとすれば、蝿は億の軍団だった。
必殺の霧が処理できない速度で蝕み侵食する蝿の軍は、ついに腐肉という馳走にありつき喰らいつく。
「そいつらは大食いなんだ。ちょうどいい餌が見つかってよかったよ」
『きさまぁぁああああああ!!』
再生も攻撃もすでにどうやっても追いつかない。腐肉が再生される度に喰われ続ける永遠の協奏曲。
やがて蔵人が描いていた魔法陣が、最後の魔法を発動させる。1つ目は火炎魔法、2つ目は拘束魔法。そしてその最後こそが。
「地獄門。どうせ本体は別にあるんだから、一からキャラクリしなおせよ」
もはや発声することもできないバラドゥムは、蝿の大軍を道連れに空間ごと地獄へと落とされた。
かくて静寂が訪れる。月は元の白色に戻り、魔人の結界は取り払われた。
「良い夢を(グッドナイト)バラドゥム。お前みたいなかませキャラ嫌いじゃないぜ」