第93話『勇気』
約5ヶ月ぶりですね、HAHAっ!(甲高い声
……専門学校忙し過ぎワロエナイ
「……ぁ」
何かに、抱かれているようだった。
温度は感じられない。何者かに抱き抱えられているというのは分かったが、その感触はまるで石や金属のように冷たかった。およそ生きている生物のそれではない。
目を開けて見上げれば、無地の仮面を付けた何者かの姿があった。艶やかな髪や小柄な体格からみて女性だというのは分かったが、それ以上の事はこの姿勢からは分からない。
かといって、体はピクリとも動かなかった。全身に力が入らない、指先の一本に至るまで力を籠める事すら叶わず、瞼は異様なまでに重かった。
――だが、そもそもとして、最早クロには何かを成そうという気力は残っていなかった。
“約束”を果たせなかった己に、一体どれほどの価値があるというのだろう。全てを忘れ去り、何もかもを台無しにしてしまったこの愚かな男に、一体何が出来るというのか。
キルアナの言うとおりだった。あまりに罪深い、あまりに無様、こんな最低の男は、あの時首を刎ねられて死んでおけば良かったのだ。
何も知らなかった、覚えていなかった、そんなことで『仕方ない』など通用しない。例え何があろうと――“例え生まれ変わっても”、忘れてはならなかった約束を。
あろうことか、踏み躙ってしまったのだから。
「――。」
『黒妃』、『真祖龍』、『日蝕』。そして『最低最悪の魔王』。
四黒という存在が遺した全てに目をくれる事も無く、命惜しさに彼女たちの何もかもを滅ぼした己に、もはや何が出来るだろうか。全てを救い上げようとすれば、指の隙間から何もかもが零れ落ちていく。ほんのちいさな何かをも救えなかった無力感のみが、延々と心を苛んでくる。
何も出来なかった、全ては無駄だった。
――俺が、無駄にした。
「……?」
不意に、何か強烈な光が空へと昇る。その輝きがあんまりにも眩しくって、僅かにクロは目を細めた。
「――、――――!」
……あぁ、なんて綺麗な光だろうか。
一切の穢れなき、美しい輝きの奔流。見た目だけの美しさではない、その内に抱えるモノはあまりにも無垢で、純粋で、まばゆく空を照らし出す。
きっと、何もかもを手に取れるのはああいったものだろう。全てを取りこぼさずに、全を救い切れるなどという空想の御伽噺を成し遂げられるのは。
……苦しい、辛い、悲しい、寂しい、痛い、痛い、痛い。
妬ましかった。何もかもを救い出せるような、美しい黄金の柱は、見る者全てに勇気を与えてくれるかのようで、自然とクロの胸の中に暖かな何かが注がれていく。
きっと、希望とはあのようなものだ。何もかもを救い出してしまえるような本当の光は、ああいったものにこそ宿るのだ。
「……たの、む」
……妬ましい。
「たのむ、よ」
妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい。
「せめて」
その力がこの身にあったのなら、その力を己が持っていたならば。全てを――世界をひっくり返せるほどの力を、この身に宿していたならば。
――本物の英雄に、なれていたのなら。
「……えま」
何もかもを、救えたかもしれなかったのに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――い、た」
ぽつり、と声が漏れる。
部屋に差し込む陽光に包まれた青年は、とても昔話になるほど昔から生き続けているとは思えないほど若々しい。極限に至った魔法使い……即ち『極術使い』達はその身を理から外れさせ、寿命という生命の限界から逃れる術を習得していると聞く。
メイリアもまたその一人であり、故にこそ彼女の生存はそう驚かれる事でもなかった。だが、彼に関しては特に『極術使い』であったという噂は聞かない。恐らくは、メイリアが何かしらの術式を施しているのだろうか。
まあ、そんなことは今の状況には何ら関係はない。今ここに、全ての絶望ををひっくり返しうる可能性が眠っている。何よりも大事なことは、その一点だけだ。
ジーク・スカーレッド。『勇者』、或いは『勇気の担い手』と呼ばれる、かつて文字通り世界を救った英雄。たった一人で『四黒』をも上回る力を持った、伝説の英雄。
その戦い以降未だ眠り続けるという彼は、しかしやせ細っているわけでもなく、健康的な姿を保ったままだった。まるで時間が止まっているかのように、呼吸による胸の上下も見て取れない。
だが生きている。紛れもなく、生存している。
「……ね、ぇ」
声を掛ける。だが当然ながら、勇者は反応を返さない。彼の意識は覚醒状態でなく、ナイアの言葉は当然彼を呼び起こすに至らない。
「……ねぇ……!おねがい、起きてよ……っ!ねぇってば……っ!」
何度も揺すって、声を掛けて、彼の目覚めを乞う。
肩を叩いて、叫んで、何度も呼び掛けて、しかしながら彼が応える事はない。
なんで、なんで、なんで、どうして起きてくれないの。と、そんな不満ばかりが胸の中をぐるぐると回っていく。かつて世界を救った英雄は、しかし今目の前で救いを求める少女の懇願に応える事すら出来ない。
ぎり、と歯を噛み締める。やはり駄目だった、奇跡に縋る事は許されず、運命は残酷に道を閉ざす。
でもせめて全てを無駄にはしたくないと、枕元に有った黄金の剣へと手を伸ばした。勝手に持っていくのは気が引けるけれど、せめて、何か戦況が好転するんじゃないか、なんていう淡い期待のみを頼りに、その塚を小さな手でしっかりと掴み取る。
「……ひ、ぃ……っ!?」
瞬間的に、剣を取った腕から形容し難いモノが、脳裏に直接流れ込んで来る。
それは意志。一つではない、何十、何百、何千、何万という数え切れない程の強烈な自我と、それぞれの持つ記憶が、一瞬にして記憶に叩き込まれたかのような異様な感覚。
幸い、即座に腕を引いたから無事ではあった。しかしあのまま触れ続けていれば、どうなったかなど分かったものじゃない。あれは、生身の人間が触れても良いものではない。
理屈ではなく、本能が。死を恐れる生物としての根幹が、あの剣に触れてはならないと警鐘を発していたのだ。
へなへなと、腰を抜かしてその場にへたり込む。
あの剣は、ナイアがどうこう出来る代物ではないと理解した。恐らくはクロにも使えない――いいや、使わせたくない。あんなものを、タダでさえ『禁術』に意識を蝕まれているクロに渡してしまったら、どうなってしまうか予想もつかない。
ガタガタと、両足は震えていた。アテは潰えて、希望もまた儚く散った。
クロを死なせたくない、クロと離れたくない、クロと一緒に居たい。
なのに、どうして――。
「……おねがい、おねがいだから。起きてよ……」
無駄だと、意味がない行為だと分かっているのに、溢れ出す声は止まろうとしてくれない。
心の内に巣食う弱い心が、クロとの別れを怖がる寂しがりな心は、そんな懇願を零し続ける。無意識にナイアは自分の肩へと手を伸ばして、そこに現れた漆黒の小さな痣を縋る様に抑えた。
それは、クロから奪い取った『禁術』の代償。彼が受ける筈だった呪いを、ナイアが肩代わりした際に生まれたモノ。
その痣からは絶えず悍ましい感触が伝わってきて、小さくはあるが、常に僅かな頭痛が続いている。しかしながらそれがクロとの繋がりの様に感じられて、ナイアは嫌いではなかった。
だからこそ、ついこの痣に縋ってしまったのだろうか。
パチリ、と、紅い電光が走った。
「……あなたの街が、大変なんだよ。メイリアも、みんなも、すごく苦しそうで。クロもこのままだと、死んじゃうかも、しれない……んだよ……?お願い……おきて……おきて、よぉ……っ」
その説得に意味などない。届きもしない言葉に、何の意味もあるはずがない。
ただそうして言葉を紡がなければ、ナイアの心が潰れてしまいそうだったから。そうして何かを支えにしなければ、二度と奮い立つことも出来ないと思ったから。
無駄だと分かっていても、意味のない行為だと分かっていても、そうして懇願するしか出来る事が無かったのだ。
ぼろ、ぼろ、と大粒の涙が頬を伝う。弱々しく振り上げた拳が青年の胸を叩いて、力なく擦り落ちた。癇癪を起こした様に何度も何度もそんな無駄を繰り返して、やがて両腕を使う気力すらも尽きて、己の両肩を抱き蹲る。
悪い夢なら、どうか冷めてほしい。奇跡に縋れるのならば、今この瞬間だけは縋らせてほしい。その為ならば何だってする、だから、だから、お願い――。
「――たすけて……勇者、さま……っ」
感情の高ぶりに釣られたかのように禁術の残滓はパチリと電光を発して、たった一瞬の中でか細く瞬いた。
「……?」
ふわりと、何か、小さな風が吹いた。
顔を上げると、そこに居たのは、見慣れぬ姿の少女だった。
エマ達ナタリスの白銀よりもさらに白い――或いは病的とも表現できるような真っ白な髪と、角のようなモノが変質したかのような形をした歪なティアラ。
目端からはひび割れたような傷が頬まで伸びていて、勇者たる彼を見下ろす瞳は真紅。だが、その双眸の片割れ……濁ったような右目は見えてはいないのか、視線はあらぬ方向を向いていた。
その漆黒のドレスから伸びる腕はボロボロで、煤汚れと傷でいっぱいだった。けれど不思議と目を奪う魅力があって、つい視線が釘付けになる。
細く小さな指は眠る勇者の頬に触れて、そこに掛かった髪を優しく払う。そのまま彼の唇に指先を触れさせると、少女は愛おしげな微笑みを浮かべて、ぽつりと一つ呟いた。
『――おきて、じーく』
――――ズ、ァ――ッ!
「…………っ!!?」
何かが、全身を走る感覚があった。
恐ろしい感覚ではない、そもそも不快な感覚ではないのだ。だが、だからといって決して甘んじて受けても良いようなものではない、という確信がある。
敵対的なわけではないが、触れてはならないもの。常世のものである限り、関わってはならない“何か”。それはおよそ『音』には分類されない何らかの声で、呼びかける。
体を動かす意思が起きなくて、固まってしまう。頬をぽろぽろと伝う涙を拭う事もしないまま、ただただその光景に意識を吸い込まれるように、目を見開く。
部屋中を何か、黄金の光が漂い始めた。それらは竜巻のように激しく周囲で渦を巻いて、やがて一筋の束と化したそれは急速に勇者たる彼の心臓部に流れ込んでいく。
その輝きが少し、ナイアの頬を掠める。それはほんの小粒の雪にも満たない小さな輝きだったが、それだけの光が掠めただけで、じんわりと傷だらけの心を温かく包み込まれるような気分がする。
諦めかけていた心が、挫けそうになっていた心が、何かに支えられているかのように立ち上がろうとする。ハッキリとそれを認識した事などナイアには経験が無かったが、今この時ばかりは確信する事が出来た。
――この光は、『勇気』だ。
「……っ?」
頬に、冷たい指の感触が触れた。ソレはゆっくりとナイアの目尻に触れて、そこから溢れ出る涙を拭うと、次いでナイアの頭を弱々しく、しかし同時に優しい手で撫でる。
「――ないて、いるのか」
小さな声が、聞こえた。
既に少女の像は消え去って居ない。暖かな感覚にナイアが目を見開き、その声の主を見る。
「……かなしいことでも、あったのか?」
輝く太陽から硝子越しに差し込む光に目を細めて、彼は小さく呟く。心配そうな声音でナイアに問い掛ける彼は、確かにその蒼天のように青い両眼を開いて、ナイアの瞳を覗き込んでいた。
何が起こった?何をした?疑問こそ多々あれど、今はその驚愕の前にすべて霧散する。暖かな光が全ての恐怖をいとも簡単に吹き散らして、胸をズキズキと苛んでいた痛みもすぐに――いいや、それだけではない。
ハッとする。気が付けば畳についた膝元に血濡れの木片が転がっていて、それが刺さっていたはずの脇腹の傷は埋まっていた。本来可動しない方向へと折れ曲がった左腕もまた気付かぬうちに完治して、各部を襲っていた激痛も既になかった。唯一挙げるならば、クロから受け取った『源流禁術』の侵蝕による頭痛のみ。
「なに……が」
「……痛かったろう。これでもう、大丈夫だ」
ゆっくりと上体を起こしてそう優しい声で告げる青年の目は本当に穏やかで、静かな空気を纏っていた。隻腕の英雄はふと無き片腕に視線をやると、突如として結晶のような物体が彼の肩から生え出してくる。
それは魔力の結晶だった。かつてブルアドが行使したものと同じ、魔法ではなく、純粋に魔力に形を与える技術。
それはばきり、ばきりと欠片を散らしながら収縮して、腕の形をとる。まるで素肌と変わらぬほどに精巧な形をとったそれは魔力の管を通されて、実際の腕と何ら変わりなく拳を握って見せた。
「ぁ……あ」
声が出ない、あまりにも突然の出来事で頭の回転が追い付かないのだ。どうすればいい、“助けてください”なんて言ったって、状況が分からなければ意味不明だ。
なんとか簡潔に、拙くも今の現状を説明しようと頭の中を整理する。が、それを遮るようにナイアの肩にトンと手を置いた彼はその青い瞳に虹を宿すと、にっと微笑んで見せる。
「焦らなくてもいいよ。状況は、今“視た”」
「……え?」
「よく、がんばったな。後は、俺に任せるといい」
「――……っ!」
根拠のない言葉だった。何一つ現実味のない言葉だった。
――けれど、彼にはそれを『もう大丈夫なのだ』と思わせるだけの、言葉の力があった。
ぽろぽろと涙を零す。それは先ほどと違って絶望と失意からくる涙ではなく、安堵と希望の光に照らされたことによる、暖かな涙だった。
可能性は繋がった、無駄ではなかった、まだ間に合ったのだ。己がしたことは、間違いなく皆の役に立てたのだ。
こんな自分でも、何かが出来たのだ。
「……おねがい、勇者さま。みんなを、クロを、たすけて……っ」
「……あぁ、任せておけ」
瞬間。
黄金の輝きが、溢れ出す――。




