第91話『何もが噛み合わない』
(無言の切腹
「……?エマちゃん?ちょっと、どうしたのよ……!?」
「……なん、で」
突然硬直したエマに困惑した様子で、紅葉が彼女の肩をゆすろうとする。
だが動かない。エマの体はまるで石にでもなったように硬直して、ピクリとも動こうとしない。大きく見開かれた紅い瞳に映るのは、たった今ミノリの炎を吹き散らし、立ち上がろうとする老爺の姿のみ。
――デウス。ナタリスという一族を纏め、取り仕切る族長。ナタリスの誰もが尊敬し、皆が実の祖父であるように接してきた……当然エマもそうして接していた、大切な家族。
どうしてここに、なぜ彼がこんな事を、疑問は山のように存在する筈なのに、それらは何一つとして形を成そうとしない。
問い詰めなければならない、糾弾しなければならない。すべき事は分かっているというのに、エマは指一本たりとも動かす事が出来なかった。
「……――ッ!なんで、なんで、こうなるの……!ぜんぶ、全部噛み合わない……!少しもうまくいかない、何も上手く転がってくれない……っ!!」
「お、おい、なんでこの子、急に止まったんだ?明らかに様子おかしいぞ!?」
「……っ、兎に角、2人はエマを連れて逃げてっ!わたしは、クロを……!」
慟哭するナイアが、酷く憔悴した様子で紅葉と輝彦にそう指示している。エマが動けない今、そうするしかないと判断したのだろう。
――どうして?
こんな所で立ち止まっている場合ではない。こんな所で驚いている暇はない。敵の中に家族が居た?それが何だ。今、そんな事で足を止めていられるほど余裕などない。分かっている、分かっているのに。
――体が、いうことを、聞かない。
「……何をしたの」
エマの様子を見たミノリが、白の外套を纏った老爺――デウスにそう問い掛ける。
デウスは一貫して無表情を貫いたままミノリを見返すと、ゆっくりと、しかし重圧を感じさせる声音で、その問いに答えを返した。
「――何も。強いて言うのなら、この姿を晒した」
「嘘。あの子の体に呪詛……というより、隷属の呪縛が纏わり付いてる。それも魂に直接根付くほどの。アレじゃあ、あの子どころか、あの子と繋がる血統の一族そのものにまで及んでもおかしくない」
「つまりはそういう事だとも。あの子は、初めからああなるべくしてああなった。ただそれだけの話だ」
「――!」
ボウッ!と音を立てて、ミノリの体が一瞬の内に炎に包まれる。
次の瞬間にはデウスの頭上に炎が収束し、その中心から伸びた刀が一息の内に振り下ろされる。デウスもそれを見越していたのか、その黄金の刀を巨剣にて受け止めた。
「……あの子の一族。その祖先に、何か仕込んだのね。貴方への敵意を抑制、あるいは禁止する術式を。まるで人形みたいな扱いじゃない」
「当然の事だろう。飼い犬に首輪と鎖を付けるように、兵器に安全装置を組み込むように、万一の暴走に備え、策を講じておくのは当たり前だ」
「――反吐がでる」
「好きに言うがいい、太陽の御子。これが私のやり方だ」
ミノリの刀が加速する。
炎を熱を宿した黄金の長刀は、もはや常人に捉えられる速度ではない。剣戟の音と音の間隔はおよそコンマ1秒もなく、絶え間無く火花が弾けていく。
デウスの剣は決して遅いものではない。むしろ、ミノリと剣を合わせられている時点で既に常人のそれの遥か天上の域に達している筈なのだ。
それでも尚、ミノリには及ばない。優勢を取るは黄金の刀、絶え間無い斬撃は度々防御を潜り抜けて、デウスの体に浅い傷を作る。
『やめて。やめて。やめて。やめて。やめて』
何かが。体を縛る何かが、そう叫ぶ。大切な家族を傷付ける敵を斬り伏せなければと、取り落とした巨剣を拾い上げる。
そうじゃない、違う、敵はデウスなのに、彼女は味方なのに。
バチリ、と、青いスパークが体を走った。
『禁忌術式:第一鎖』。その発動時の特徴たる青い電光が、エマの全身を駆け巡っている。無論エマは己の意思で発動などしておらず、無理矢理に励起させられた形となる。
止めようとしても、体が言う事を聞かない。足が勝手に動き出す。
「――『プログラム:第二の生誕』起動。出力された、命に従い、対象の殲滅を開始せよ」
デウスがそう呟くと同時に、エマの体が走り出す。かつてない速度で、この体が出し得る限界を大幅に超えた異常な速度で、翡翠の目をした少女に刃を向ける。
この感覚には覚えがあった。否、この悪夢には、覚えがあった。
体が勝手に動き、拒んでも拒んでも逃げられず、自らの全てを制御下に置かれているかのような不快感。この体に眠る記憶が、激しい恐怖の感情を発生させる。これは、あの時のそれと同一のものだ。エマが体の自由を奪われ、『真祖龍』の贄として捧げられた時の。
それが指し示す答えは、一つ。
「どう、して……」
声を絞り出した。
言う事を聞かない体に抗って、喉を震わせる。口を開く。理不尽を嘆く。
問い掛ける。
問い掛ける――。
「どうして、デウス……っ!」
あの『真祖龍』の騒動の元凶たる、その男に。
「……今は眠るといい。“おやすみ、エマ”」
そのあいさつと共に、強烈な睡魔がエマの精神に纏わり付いてくる。瞼は落ちない、しかし視界が黒くボヤけて揺らいでいく。全身に込められた力は無くならない、けれど意識だけが遠のいて、泥沼の中に沈んでいく。
――問い掛けはそうして、闇の中に溶けて消えた。
◇ ◆ ◇ ◆
「……クロ……クロ、クロ、クロ。クロ――!」
飛翔する。銀翼を羽ばたかせて、氷山の頂上に向けて全力で飛び上がる。
何もかもが上手くいかない、全てが悪い方へと向かっていく、何をしても良い未来へ辿り着けるビジョンが欠片も見えない。もう自分が何をしたところで、何も変わらないのではないか――なんて、そんな弱気な考えが後から後から溢れて止まらない。
でも、それでも、もしかしたらクロならどうにかしてくれるかもしれない――そんな淡い希望だけが、今のナイアを突き動かしている。
頭上から落下してくるいくつもの氷塊を躱し、粉々に砕けた氷片を翼の風で吹き散らし、ただひたすらに頂上を目指す。暴力的なまでの風圧を貫いて、上へ、上へ、上へと。
「……っ、クロッ!」
頂上に飛び出すと同時、最愛の人の名を呼ぶ。きっと、この戦いを終わらせてくれる英雄の名を呼び掛ける。
――だが。
「……いな、い?」
そんなはずはない。だって、ついさっきまでここに暴力的なまでの魔力の反応があったのだ。誤魔化しようのないほど強大なそれは、同時に何よりも強力な座標誇示になる。
だというのに、あの黒き怪物はおろか、それと交戦していたはずの女の姿も見当たらない。一体なぜ、この一瞬の内に何処へ消えた。
周囲を見渡すも、やはり姿はない。焦って注意が逸れていた魔力による感知に意識を戻すと同時に、背筋を冷たい何かが走る。
それは直感だった。
竜の――生き残る事を第一とする、生命としての本能が叫ぶ。未来予測じみた反射が、体を勝手に動かしていく。
避けろ、さもなくば死ぬ、と。
「――っ!?」
髪に何かが触れると同時、ヴンッ、と僅かな音と共にナイアの体が搔き消える。彼女が持つ『零時間移動』は遺憾無く効力を発揮して、数メートル程離れた地点にナイアの体を再出現させた。
「な、なに……っ!?……ぅあっ!」
同時に、凄まじいまでの魔力の奔流と風圧がナイアの全身を打つ。つい一瞬前までナイアの居た地点に、異常なまでの魔力を込められた一撃が叩き付けられていたのだ。
氷山全体に凄まじく巨大な亀裂が走り、山はその形を大きく歪ませる。その衝撃はそのままアヴァロナルの大地そのものにも届いて、街全体が大きく揺れ動いた。
発生した地震の影響か、いくつかの建造物が崩落していくのが見える。慌てて、全身に暴風を受けながらもなんとか翼を広げ体制を整えつつ、一先ずメルセデスの本校舎近辺には被害がない事を横目に確認する。
「……っ、危な、かった……」
荒い呼吸を整えて、つい先程まで己が居た場所――今は原型すら止める事なく砕け散った氷山の一角を見下ろしながら、そう呟く。渦を巻いて立ち昇る漆黒の魔力は、巨大に広がって天を覆う薄暗い雲にまで達していた。
その大元、渦の中心に佇む怪物は、その紅い瞳でギロリとナイアを睨み付ける。
――何処か、彼と似た眼を。
「……ほんとに、クロなんだね」
信じたくはなかった。だが、あの眼を確かにナイアは知っている。あの紅い瞳を、何度も見たことがある。
あの眼は間違いなく、かつて何度も視線を合わせた、不器用だけれど優しい少年の目。自分の手で救えるものがあるのなら、と駆け回った、頑張り屋な男の子の目。
しかし、今は深く濁ってしまった、その眼を、ナイアは知っている。
『――ル、ォォォォォォ、ォォォォォォオオォォォォォォッッッ!!!!!!』
「……っ!」
怪物が動き出す。
その漆黒の魔力に包まれた腕のような器官を振るって、ナイアの方向へと伸ばしてくる。ごうっ、という尋常ならざる音と共に放たれたそれは一秒の半ばにすら達する事なく、ナイアの首にその爪を掛ける。
が、次の瞬間にはその一撃は空を切る。ナイアの姿は既にその場にはなく、更に頭上の空間へと転移を済ませていた。
「……ねぇ、クロ、どうしちゃったの?なんで、そんな姿になっちゃったの……っ!?」
『――オオォォォ、ォォォォォォォォォォォォオッッッ!!!!』
怪物が跳躍する。轟音と共に、空気を蹴って、一瞬の内に。
その巨大な体に見合わない異常なまでの速度だ。しかしながら動きは単調で、故に辛うじてナイアもその姿を視認出来ている。だからこそ、間一髪の回避を成功させられているのだ。
続く二撃目は、外殻に覆われた脚を振るわれる。それもナイアの体を捉えることはなく、その余波による圧倒的なまでの暴風がアヴァロナルの空を荒らし回った。
一撃で喰らえば即死、故に失敗は許されない。
「おねがい、まだ、皆戦ってる……エマも、この街も、皆危ないの……っ!クロが居ないと、全部……全部、台無しになっちゃう……だから、クロ……っ!」
我ながら、なんと滅茶苦茶な言葉だろう。焦りと不安が募り募って思考が纏まらない、言いたい事が何一つとしてちゃんと形にならない。
当然のように止まらない漆黒の怪物は、ナイアの小柄な体を覆い隠してしまえるほどの拳を開くと、彼女を握り潰そうとするように掴み掛かる。が、ナイアもまた転移によってそれを回避した。
――が、今度は終わらない。
「……っ!?が、ぁ……っ!」
数メートル離れた場所に再出現したナイアの周囲には、既にドス黒い触手が蠢いていたのだ。それらはナイアの全身に絡み付くと、異様なまでの力で怪物の腕へと巻き取られていく。
漆黒の拳が、ナイアの小さな体を捕らえる。蠢く無数の筋繊維のような筋が彼女の四肢を挟み込んで、指先一本に至るまでピクリとも動かない。
怪物はナイアを掴んだ腕をそのまま振るうと、崩落を始めた氷山の山肌に叩き付ける。意識を消し飛ばしかねない程の衝撃が全身を通って、ナイアがか細い悲鳴を漏らした。
『ルォォォォォ、ォォォォォォォォォォォォ、オォォォォオオォオッッッ!!!』
「……おね、がい……く、ろ。……めを、さましてよ……おねがい……だから……!」
全身に加えられた圧力で、呼吸が出来ない。新しい空気が喉を通らない。体が軋む、骨がミシミシと悲鳴を上げる。転移しようとしても、全身の痛みのせいで集中が出来ない。パニックに陥った脳が、能力の発動を処理出来ないのだ。
バチバチと、紅いスパークが怪物の体を駆け回る。腕に込められる力はどんどんと増していき、数秒と掛からずにナイアの肉体を潰してしまうだろう。
不思議と怖くはない。けれど代わりに自責だけがナイアの心を満たし埋め尽くしていく。
この戦いを終わらせられるだけの力もなければ、クロを元に戻すことも出来ない。結局何を成すこともなく、ただ無意味に死んでいく事への無念。せめて、苦しむクロを解き放ってあげることが出来たならどれほど良かっただろう。
何もが噛み合わない。何もかもが噛み合わない。
「――どう、して……っ」
無意味だと分かっていても。無駄だと分かってはいても。
そうして理不尽を嘆くしか、ナイアには出来る事は無かった。
――バキンッ
「……?」
不意に、耳元でそんな音がした。
全身を圧迫していた力が弱まっていく。ミシミシと歪み始めていた体がなんとか正常を取り戻して、肺はすぐに空気を取り込み始める。少し焦ってしまったのか、勢い良く吸い過ぎた空気に思わず咽せた。
何があったのかと目を開けば、黄金の刀がナイアと顔の真横の氷に突き立てられている。突き立てられた根元からその刀を視線で辿っていけば、それは怪物の胸の中央から伸びている事を理解する。
即ち、刀は怪物の中央を貫いている、と。
「――ぇ」
「ありがとう、手間が省けたわ」
不意に、そんな声がナイアの耳に届く。
それと同時に黄金の刀がドクン、と鼓動のような音を立てて明滅する。怪物を覆っていた漆黒の魔力が刀に収束を始めて、怪物を構成していた巨大な繊維の塊もまた刀の中へと取り込まれていく。
怪物はみるみるその体を縮めていって、もはや始めの原型もない。肉の塊の中から少しずず四肢が顔を出して、やがてそれはハッキリと人の形を成した。
紛れも無い、イガラシ・クロの姿を。
「……ぁ、あ」
クロの心臓部を貫いた刀に沿って、クロの体がナイアに覆い被さるように落ちてくる。慌てて抱き留めた少年の姿は、ナイアのよく見知った彼そのものだった。
「一人でもまあ何とか出来たでしょうけど、もっと時間も労力も必要だったろうし、本当に助かったわ。貴女が注意を引いてくれたおかげで、簡単に終わらせられた」
そう呟くのは、漆黒のドレスを纏った女だった。
女は黄金の刀を引き抜くと、それを金の粒子にして消滅させる。真っ黒な長手袋に覆われた手を伸ばして、ナイアから奪い取るようにクロを抱え上げた女は、大きく一つ溜息を吐いた。
「まって、クロを、何処に……」
「貴女には関係ないわ、ナイア。もう貴女が一人で苦しむ必要もない、『今回は失敗だった』。また次の機会を待つわ」
「……っ、そう、じゃない……っ!だめ、行かせない、クロを連れて行かれたら……皆……!」
「――いいえ、もう終わりなのよ。全て」
飛び掛かろうとしたナイアの動きを予期していたのか、同時に女が雑な手つきで開いた片腕を振るう。その動きと同時にナイアの全身を凄まじい魔力の波が打ち、ナイアの体は凄まじい速度でアヴァロナルの街へと落ちていく。
翼を開いて止まろうとしても、勢いを殺しきれない。慣性を抑制し切る事は出来ず、女との距離は刻一刻と離れていく。
もがく、もがく、もがいてもがいて、しかし止まらない。前に進む事は出来ず、最愛の少年の姿は遠のいていく。
「返して、クロを……!返してよ、返せ……っ!お願いだから、返してよ、ヒメノ――っ!」
ナイアがヒメノと呼ぶ、その女。そして同時に『日蝕』の名を受けた、『四黒』の中でも戦闘能力という一面に於いて最強の座に位置するその女。
その翡翠の瞳を細めてナイアを見下ろすその容貌は、確かに――
――ヒメジ・ミノリという少女の姿、そのものであった。




