第86話『願い』
「……っ、あ……っ!?」
眼前を埋め尽くす黄金の輝きが、暴力的なまでの風を周囲一帯に撒き散らす。
周囲の家屋を薙ぎ倒さんばかりの衝撃波は坂道に沿って横へと広がり、メイリアに対して坂の上方に居たエマは、坂の流れに沿って登ってきた風圧によって上空へと吹き上げられてしまった。
が、次の瞬間には、突如としてエマの背後に出現したメイリアが、彼女の体を受け止める。
「っとと……怪我はない?ちょっと強くやり過ぎ……いえ、別にやり過ぎては無いわね。あの野郎を消し炭にするなら火力がどれだけあっても足りないんだから、うん」
自分が言い掛けた言葉に唾を吐く勢いで嫌悪感を丸出しにしたメイリアは、そのまま付近の家の屋根にエマを下ろす。力なくへたり込んだエマに向けてメイリアは何事かを二言三言ほど呟くと、エマの周囲に薄ぼんやりと透けたドーム状の障壁が現れる。つい先程まで強烈に体を打っていた暴風の感覚が全て途絶えたところを見るに、風除けか、それとも単純な防護障壁なのか。
先程の光の柱はとうに消え失せていて、空間に空いた空白を埋めるように周囲の空気がその周辺へと流れ込んでいく。街への被害は想定よりも少ない――というか、柱の直下に深い穴が空いている以外には、先程の暴風によって齎された被害程度しか見られない。
しかし、その柱によって開けられた直下の穴は、ただひたすらに深い。いくら近くで覗き込んでいる訳ではないとはいえ、かなりの視力を持つこの体でも底が見えない。一体どこまで貫かれているのか。
穴の縁はまるで溶けているかのようなようすで、その穴の位置に本来あった筈のレンガや土は全て蒸発したらしい。炭すら残さず、何もかもを焼失させるとんでもない熱量――そして、それ程の熱量をあそこまで緻密に抑え込む、尋常の域に収まらない魔力コントロール。
これが、“極点の魔法使い”の一撃。これが、かつて世界を救った英雄達のうちの一人。
「――流石。やっぱり君は素晴らしいね、メイリー」
「……まあ、あのゴキブリ男がこの程度でくたばる訳無いわよね。ちょっとでも期待した私がバカだったわ」
何処からか聞こえてきた声と大袈裟な拍手の音が響くと同時に、メイリアが大きな溜息を吐いて舌打ちする。その声の主――アルテミリアス・ギリシュ・オリオーンは、その黒髪い前髪の下から覗く黄金の瞳で、遥か上空からエマとメイリアを見下ろしていた。
「……種族的特徴として、ほぼ全ての人族のその魔力量は魔族に劣る。人族の体は多くの魔力を溜め込み辛く、保有量を後天的に拡張する事は可能ではあるもののリスクが高い――故に、魔法技術に於いて魔族は人族よりも長けている、というのが基本だ」
「……そうね、事実だわ。そもそも人族の体は他種族に比べると、戦闘にはあまり向かないと言ってもいい。他種族に劣るのも当然のこと」
「そう、だと言うのに君は僕にも劣らない――いいや、潔く認めよう。君は間違いなく、世界に数多存在する魔法使い達の中で最強を誇る存在だ。魔族は勿論、精霊族……更に言えば、単体としてはかつての伝説の種族『吸血鬼族』にもきっと勝るだろう!」
興奮した様子で笑顔を浮かべ、アルテミリアスはそう告げる。事実としてメイリアは現時点で存在が明確になっている魔法使い達の中では――たった一人、かつて滅びたあの四黒の一角である『日蝕』を除き、ではあるが――最強の存在と言ってもいい。
なにせ極術使いという呼称の語源は、メイリアの二つ名である『極点の魔法使い』なのだ。それはつまり、世界中に存在する無数の魔法使い達が、メイリアを最強の魔法使いであると認めているということ。
「これでも人を見る目には自信があってね……初めて君をこの街で見つけた時、震えたよ。こんなにも強く、美しい女性が居るのかと。――こんなにも才に、天に愛された美しさがあるのかと!」
黒き極術使いは笑う。陶酔も抜けぬ表情のまま、高らかに、心底嬉しそうに、笑う。
「神に感謝をしたよ!確かに、我が魔王は忠誠を捧ぐに値する、至高の存在だった。けれどあのお方は穢れてしまっている、その身に受けた天の、神の愛にその手で泥を塗りつけてしまった――けれど君は違う。君はあるがまま、その身に溢れる神の愛を輝かせる!君のような……いいや、君達のような美しい存在にこそ、僕はこの身の愛を捧げたいのさ――!」
もはや狂気すら感じるその笑顔を浮かべながら、アルテミリアスは告白する。メイリアだけではない、メイリアの背後に座り込むエマにも向けても、その胸に抱える強欲を吐き出した。
それは決して、不義理ではない。既に居る妻達を軽んじて新たに手を出す、という訳ではないのだ。アルテミリアスはただ、その膨大なまでの愛を、全て変わらず数多の愛すべき者達に捧げている。誰一人軽んじることなく、その全てを執拗なまでに愛しているのだ。
「……別に、アンタの愛の形を否定したい訳じゃないわ、愛し方なんて人それぞれだもの。それに私だって世界を旅してきたんだし、地域によっては一夫多妻制を認めてる所も山ほどある。それに関しては私も特に異論はないし、アンタのお嫁さんに対する待遇も悪い噂は聞かない――というより、むしろこれでもかっていう程に良くされてるっていうのも、まあ知ってる。けどね……!」
メイリアはもう何度目とも知れない溜息を吐いて、頭を抱えながら呟く。彼女のいう通りに、アルテミリアスは妻として迎え入れた者たちを、誰一人として軽んじることはない。その身で可能な限り最大限の力を持って、その妻たちを愛している。アルテミリアスはその女癖の悪さで有名であるが、しかし共にその愛妻家ぶりでも名を知られる程なのだ。
それこそ、一夫多妻制に抵抗がなく、愛を求める女性にとっては、彼はある意味理想と言えるかもしれない。彼には数多くの妻たちを守る力も、その愛を貫く強い意志もある。
が、それはそれとして、だ――
チラリと、メイリアの視線が坂の上側に向けられる。その周辺の坂道には無数の肉片と大量の血潮が撒き散らされて、街は無残に破壊されていた。それはアルテミリアスがエマ達の前に姿を現わす直前、彼の魔法によって無残にも引き裂かれた、恐怖に惑い、死にたくない一心でメルセデスに向かっていた、この街の人々の残骸。
「……っ!」
ぞくりと、全身が冷水に浸けられたかのような感覚に陥る。
エマの瞳が――『紅の眼』が読み取ったメイリアの激情が、その膨大なまでの殺気と合わさり、強く膨れ上がる。その一瞬、エマは自分の死を誤認した程に。
彼女の茜色の瞳に宿る感情は、明確なまでの怒り。
「――“私たちの街”の人達を虫ケラみたいに虐殺して、しかもその愛とやらも相手の意志なんか完全無視!そんな奴にくれてやるほど、私もこの子も安くないって言ってんのよ、クソ野郎ッ!!!」
メイリアが叫ぶと同時に、その真っ白な腕がアルテミリアスに向け突き出される。詠唱はない、しかし彼女の意志をなぞるように魔力はその手に集い始め、いとも簡単に大魔法を形成する。
「――『天引黒星』ッ!!」
バキ、バキ、と周囲の家屋が、道が、嫌な音を立ててひび割れていく。砕け、粉砕されて、浮き上がる無数の資材たちは、そのまま落ちるようにアルテミリアスへと向かっていく。
そのアルテミリアス当人の周囲の空間も、その異常な引力によって歪んでいた。彼の体もそれに惹きつけられてピクリとも動かず、地上から“落ちて”いく瓦礫や角材が、その細身の体に叩き付けられた。
ガッ、バキッ、ゴッ、という鈍い音を立てながら、アルテミリアスを中心とした星は巨大に膨れ上がる。岩が、土が、木が、鉄が、大地が、水が、その巨大な星に取り込まれて、膨れ上がっていく。
そしてその規模が天上に直径百数メートルにも及ぶ巨大さに膨れ上がった直後、メイリアはその突き出した手を握り締めた。
瞬間、星は脈動する。メイリアの握り締められた手のように、少しずつ、少しずつ星が縮んでいくのだ。無論それは、星がその内に抱える無数の構成物が消滅していっている訳ではない。
潰されているのだ。本来の形をその強過ぎる引力によって保てなくなった星の中身が、あまりの力に分解されて、より中心へと近付いて、圧縮されていく。
そして、星が歪んだ。
その形が唐突にぐにゃりと歪んで、不定形の怪物のようにうねり、しぼんでいく。しかしそれは当然ながら、実際にそうなっている訳ではなく、星の周辺を通る光が、その強過ぎる引力で捻じ曲がっているのだ。歪み、歪んで、星は膨れ、しぼんで、ぐにゃりと曲がり、そして、消えていく。
全てが終わった時、天上のその空間には、何も存在していなかった。
文字通り、何も。光も、空気も、何もかも、そこには何一つ存在しない。近付く全てを飲み込む、誰にも見えない奈落の穴。クロ達が元居た世界では“ブラックホール”とも呼ばれるソレが在るから。
「……こ、れは」
目の前で起こった超常の出来事を飲み込めずに、エマが呆然と呟く。
果たして、これが魔法なのか。というか、これが魔法の域にあっていいのか。
強過ぎる、あまりにも次元が違う。先程のメイリアが使った魔法すらも、これを見た後だと霞んでしまうほどに。そもそもこれが、人の行使できる力であっていいのかと、そんな感想すら浮かぶほどに。
「……チッ、上手く逃げたわね」
メイリアが舌打ちしてそう呟くと同時に、歪んだ空から突如として一筋の光が突き抜ける。それはその勢いのままアヴァロナルの街に降下すると、盛大に土煙を上げながら、星に飲み込まれ更地になった大地へと落下した。
が、次の瞬間には砂埃も暴風によって吹き散らされて、その中央に立つアルテミリアスの姿が見える。彼の姿はボロボロで、片腕は捥げ、多量の血が肩口を真っ赤に染めていた。
しかし彼はその顔に浮かべる笑みを絶やさない。むしろ、先程よりも更に機嫌が良さそうに、その頰を吊り上げる。
「……光をも逃がさない重力の檻、凄まじい魔法だ。いきなり奥の手を使わされるとは」
「その無駄に高い生存力、いよいよゴキブリね……割と本気でやったんだけど」
メイリアがパチンと指を弾くと、突如として空の歪みが一瞬で消滅する。次元の裏側に呑み込まれていた星はそのまま塵となって、周囲に吹き散らされる……と思いきや、それらは周囲一帯――より正確に言えば、メイリアの魔法によって根こそぎ大地から引き剥がされ、ボロボロになった街だが――に降り注ぎ、その体積を重ねていく。
信じられない事に、塵は集まり繋がって、元よりそこにあった街並みを再現するかのように、レンガや石、果ては家を、まるで崩壊の逆再生を映しているかのように創り出していく。いや、創っているというより、これは――
「……事象の巻き戻し、一種の時間逆行か。メイリー、やっぱり君は既にそんな領域にまで到達していたんだね……素晴らしい、本当に。君は間違いなく、あの魔王様にも劣らぬ天才だ――!」
「この街は丸ごと私の結界内――私の領域よ。単身乗り込んできたって事は、それ相応の覚悟は出来てるんでしょうね」
「はは、はははは、ははははははははははっ!!勿論だとも我が妻よ!それでこそ、それでこそ我が妻として、愛を受け取るに値する至高の存在!!さぁ愛し合おう、我が愛しの魔女よ!!」
◇ ◆ ◇ ◆
――格が違う。
……強いつもりで居た、戦えるつもりで居た。誰が相手だろうと、彼の……王の背中を守って、共に戦うことが出来る筈だと。その力がこの体にはあると、そう思い込んでいた。
だから不可解だった。我が王は何故私に剣を取らせてくれないのかと、どうして共に戦うことを許してくれないのだろうと。この体には、戦えるだけの強さがある筈なのに、と。
そもそも、その考えが間違いだったのだ。目の前で戦う二人の魔法使い……いいや、極術使いは、その強さの次元から違い過ぎる。
光の熱線が奔る。遥か上空で放たれた筈のそれはこの地上にまで熱力が届いて、肌が熱い。輝きは黒衣の男に直撃したかと思いきや、彼の直前で見えない壁に阻まれて散らされていた。
拡散した光線の幾つかが街の遥か遠くに落ちて、ここからでも巨大に見えるほどに大規模な爆発を起こす。直撃ではない、ただの余波だけですら、小規模な街であれば消し飛んでいるだろう。
黒衣の男がその両手を合わせると、その全身に纏うように白銀の魔力が出現する。魔力は形を変えて巨大な人の形を取ると、その巨腕を振るって、黄金の魔法使いへと叩き付けた。
白銀の拳はその一振りだけで異常な風圧を巻き起こして、辺りの雲が吹き散らされる。遅れて地上にもその余波が届いて、周囲の家がギシギシと音を立てて軋む。
無理だ。あんな戦いに、到底付いていける訳がない。例え加勢したところで、足を引っ張って邪魔をするだけなのは目に見えている。
「……わたし、は」
知らずの内に、王の邪魔をしてしまっていたのだろうか。
このそう考えたなら、これまでの全てに納得がいく。あの方が自分に対して向けるあの眼も、エマに決して戦わせないように念を押して命じていたのも。
――“君は彼の役に立とうとするけれど……彼は君にそんなことを求めてなんかいないよ?”――
アルテミリアスが言ったその言葉が、再びエマの胸に茨の棘のように突き刺さる。
自分は求められていない、自分の力は何の役にも立たない。この身全ては彼に捧げ、ただ尽くす為だけにあるのだと、そう信じ切っていたエマにとって、その事実は何よりも、彼女の脳裏にズキンと痛みを残した。
どうして、なぜ、胸が締め付けられる。これはなに、わからない。
苦しい、辛い、痛い。何処が?体じゃない、違う、分からない。なに?これは。教えて、これは何なの、どうして胸が苦しいの、どうして力が入らないの、どうして、どうして――
「……どう、して」
――涙が、零れていくの?
「……わか、らない……わからない」
「なら、私が代わりに教えてあげるわ」
――?
涙を拭う手を止め、視線を上げる。
いつのまにか上空での激しい攻防は終わり、地上にまで降りてきていたメイリアが、うずくまるエマを見下ろしている。その表情は優しげで、先程まで彼女が放っていた殺気などまるで無かったかのようだった。
メイリアは再び目の前で佇む白銀の巨人――その中で不敵に笑うアルテミリアスと対峙しながらも、変わらずに優しい声音のままその言葉を続ける。
「あなたは感情を切り捨てたみたいに彼に……クロ君に仕えるけど、あなたにだって心はある。そういう事よ」
「……ここ、ろ?」
「そう、嬉しかったり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、そういうヒトの感情。あなたの考え、想い、そういうものを全部ひっくるめた心が、あなたにもある。だから、彼の力になれないって思って、悲しくなった」
「――。」
ヒトの感情、想い、心。それらがエマの中にある、とメイリアは言う。
分からない、分からない。エマが王に、イガラシ・クロという存在に忠誠を誓ったのは、それが義務であったから――その筈だ。しかしそう考えるなら、ただ義務として仕えていたならば――メイリアの言葉を信じるなら、だが――この胸の痛みを感じる事もなかったはずなのだ。
なら、自分はなぜ苦しんでいる?なぜ、メイリアの言う“悲しみ”を抱いている?
「――ぁ」
そう、だ。
忘れていた、忘れてしまっていた。
このエマという少女の体に宿り、記憶を同調した事で消えてしまった、始まりの願い。エマが――世界に満ちる魔力、その一端である精霊が抱いた、その願い。
――“この世界に生まれ、ひとつの命として生きてみたい”という、願いを。
そうだ。自分は無意識の内に心を、感情を抱いていた。この世界に生まれ落ちた事で、イガラシ・クロという青年にただ一つの感情を抱いていたのだ。
それは、即ち――
「……わたしに、命をくれた恩を……返した、かった」
けれど、それは叶わない。
彼はエマにそれを求めない、彼が求めるのは本来のエマの心を取り戻す事であり、決してエマではないエマの献身を求めている訳では無いのだ。そしてそれは、決して彼女には返すことのできないもの。
何故ならばたった今、エマがその“始まりの願い”を自覚してしまったから。
生きて、彼に恩を返したい。しかし彼に恩を返すためには、この体の本来の持ち主――エマに体を、命を返さなければならない。身勝手な想いだとは分かっている、けれど、それでも。
「……死に、たくない」
エマの光を失っていた瞳に、輝きが灯る。
本来の持ち主であるエマのそれとは違う、彼女本来の命の輝き。皮肉にも、クロの願いを叶えるためには邪魔にしかならないその輝きが、魂に灯される。
どうしよう、どうしよう。これでは、王に――クロに、また迷惑を掛けただけになってしまう。
「――それで良いのよ」
「……ぇ?」
しかし。
メイリアはそんなエマを見て、満足そうに笑みを浮かべた。
「余計なお節介してる自覚はあるけどね、気に食わないのよ。自分の事はどうでもいいって心を殺して、自分が消えちゃうかもしれない未来に文句ひとつ言わない――昔の友達を思い出して、頭に来る。ふざけんじゃないわよ、この世界に、簡単に捨てても良い命なんて一つだってない」
「……で、も」
「生きたいなら、生きたいって言いなさい。願いがあるなら、主張しなさい。全ての命には、その権利がある」
「……それじゃあ、あの人の、願いが」
「なら、探せば良いのよ」
英雄は笑う。笑って、無情にもその道を指し示す。その地獄のような道筋を。
……しかし、たどり着けたなら――
誰もが幸せになれる、その道を。
「あなたも、エマちゃんも。この世界を生きていけるような、そんな道を」
それは暴論だった。成し遂げられる根拠も何もない、子供の我儘のような理論だった。
けれど、何故だか。
不思議と、そんな世界もあるのではないか、と。
そう、思った。