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第85話『奪われたもの』

思い出したように更新しては数ヶ月失踪する負の連鎖やめない?(戒め

「くそ、くそ、くそ、くそ――っ!」


 ドッ、ドッ、と次々に肩へぶつかる人々の隙間に体を滑り込ませて、学院へと流れ込む避難者の人混みを駆け抜ける。だが当然前になど滅多に進まなくて、少し進んでは押し戻されて、また少し進んでは戻された。

 それでも尚、悪態を吐いて進み続ける。諦めるなど出来ない、だって、だってまだこの先には彼女が居る。


 アクストは確かに聞いていた。レリアはアクストに“家に戻っている”と伝えていたのを覚えている、今頃は地車でかなり下の区間にまで辿り着いている頃だろう。そして同時にその近辺は、現在位置からでもよく分かる程に黒い渦が多数出現している区間でもある。


 今まさに、彼女はあの災害の真っ只中に居るのだ。


「埒があかない……!」


 辛うじて人混みの奥に視認出来た裏路地に向けて、進路を変更する。このまま無理に流れに逆らって進んでも手遅れになるのは一目瞭然だ、それならば人通りの少ない裏路地を通った方がずっと速く進めるだろう。

 真っ向から逆流するように歩いていた時とは違って、横なら歩きにくくはあるが行けないことは無い。


 が、なるべく急いで人混みを掻き分けて路地裏に抜けようと勢いを付けたところで、ドッ、と不意に体が何かと接触したのを感じた。


「ぐっ!?」


「あぁ、ごめんね。大丈夫?」


 勢い余って転びそうになったアクストの手を誰かが掴んで、なんとか転ばずに済んだらしい。周りが見えていなかった自分の焦りように内心歯噛みして、一先ず支えてくれた誰かに謝罪と礼を――と、視線を上げたところで、アクストは硬直する。


 女性だ。長い、そして少なくともこの一帯の住人では滅多に居ない黒い髪で、翡翠のように美しい色の瞳を持った女だった。真っ黒で優美な衣を纏った女は、その腰に長い、長い黄金の刀を携えている。

 別に、その容姿に見惚れて固まっていた訳ではない。その目の下から首を通って肩ほどにまで広がっているそれ――あのイガラシ・クロのものと酷似した、真っ黒な痣が見えたからだ。


 彼と共に居たナイアと呼ばれている少女の肩にも、そして彼に付き従うエマという少女の襟元からも、その痣が見て取れた。


 その痣は、何故だか見ているだけで妙に心をザワつかせるのだ。何がおぞましいものに触れているような、そんな形容し難い感覚が忍び寄ってくる。


「……すいません、急いでいたので」


「別に良いわよ。それより、なんでこんな所に?避難するなら、学園は上よ」


「友達が下に居るんです。助けに行かないと……っ」


 兎に角、今はそんなことを気にして居る暇もない。かぶりを振ってからアヴァロナルの下層へと続く道を探して、走り出そうとすれば、ぐい、と手首を掴み直される。思いの外その手に込められた力は強く、勢いが空回って尻餅をついてしまった。


「何……っ!」


「駄目よ、逃げなさい。貴方が行ってもどうにもならない、貴方達を守ってくれている人の仕事を余計に増やすだけ」


「分かってるっ!分かってるけど無理だ!レリアが危ないなら、俺が行かないと……っ!」


「何を青春気分に浮かされてるのよ。大人しく正規の魔法使い達や憲兵に任せて、引っ込んでなさい」


「部外者が口を挟んでくんなッ!行かなきゃいけないんだよ!約束したんだ、レリアは……っ!」


 もはや普段の塗り固めただけの丁寧な態度など無い、それがアクストの本性。彼本来の、装い隠した暴力的で視野の狭いだけの子供が、焦りのあまりに心の底から顔を出す。


 “あの日”から数十年の時が過ぎた今でも、鮮明に思い出せる。あの地獄のような光景の中、泣き噦る彼女と交わした――そしてもう彼女は覚えていないであろう、その約束。

 レリアが全てを忘れた今、アクストだけが覚えている大切な約束は、今も彼を突き動かし続けている。そのための修練、そのための強さの探求。全ての目的は、その約束のためだけにある。


「……ああそう、面倒臭い、そういうタイプね。いいわ、じゃあ丁度良いし、これ持って行きなさい」


 一つ大きな溜息を吐いてそう言った彼女が手のひらを差し出すように広げると、突然その手の中に何やら大きめの氷の塊が出現する。その内側には紅い何がで描かれた魔法陣のようなものが閉じ込められており、かなりの魔法知識を学んでいるはずのアクストにも構造がさっぱり読み取れない。


 困惑した様子でそれを見たアクストに苛立ったかのように女は「さっさと持つ。急いでるんでしょう?」と、無理矢理に氷をアクストの手に持たせた。


「下に行ってもしイガラシ・クロ君と、または彼の仲間に出会ったら渡して。仲間の時はクロ君に渡すように伝える事、それまではこの氷が貴方を守ってくれる。出会わなかった場合は……まあ暫く預けておくわ」


「……なっ、ま、待ってくれ!なんなんだこれっ!どうして俺にこんなもの……!」


「ああもう、止めたら行こうとしたり、止めなかったら行かなかったりハッキリしない奴ね。言ったでしょう、丁度良いから渡してるだけ。分かったらさっさと行きなさい」


 鬱陶しそうにそ吐き捨てる女に困惑しながらも、一先ず氷を握り締めながら走り出す。どうやら状態保存か何かの魔法が掛かっているようで、氷には水の一滴も付いていないどころか溶ける気配すらない。

 兎も角これが安全を守ってくれるのなら、それは確かに有難い話だ。氷に閉じ込められている魔法陣の構造はさっぱり読めないが、この氷を中心に何やら力場のようなものが発生しているのは読み取れる。


 彼女の言う通り今は時間がないため、一先ず礼を言う代わりに手短に頭を下げてから駆け出そうとする。すると女は思い出したように「あ、そうそう」と呟くと、裏路地を駆け出したアクストに向け、音が届くよう大きめの声で叫んだ。


「渡す時には、“ヒメノ”から渡されたって伝えておいて!」


「……?わ、分かった!」


 彼女の――ヒメノと名乗る女の思惑は謎ではあったが、今は兎に角時間がない。焦りで氷を握る手に籠る力が強くなるのを自覚しつつも、今はただ全身の強化に魔力を注ぎ込み、必死に両足を回すしかなかった。








 ――その氷に秘められた、漆黒の種火にも気付かずに。















 ◇ ◆ ◇ ◆














「あ”がぁ”ぁぁぁぁぁぁあぁ”っっっ!!!??」


「やだやだやだやだいたいいたいしぬいたいしぬやだいたいいた――!」


 左右から、そんな絶叫と共に真っ黒な魔力を撒き散らしながら迫る二つの影。ドス黒い瘴気に包まれてもはやヒトの形すら留めているかも分からないそれらは、『源流禁術』によって人としての存在を侵され、地獄の苦しみを植え付けられたこのアヴァロナルの住人達だったもの。


 そうなった者を元に戻す術は現状何一つ存在せず、放置すれば本人はこの世全ての苦痛を詰め込まれるかのような地獄と、周囲にはその強大過ぎる力による破壊が齎される。


 故に、それらの対処法はただ一つ。



「……ごめん、ごめんな。せめて、すぐ楽にしてやるから……!」


 左右から尋常ではない速度で迫る漆黒の塊を、すんでの所で上に跳び、躱す。対象を失った事で勢いを暴走させた二つの影はクロの真下で衝突すると、ぐしゃり、という音と共に互いの衝撃でペシャンコになる。

 けれど『源流禁術』をその身に宿している限り、この程度では死なない。だからこそ一瞬体の動きが止まったところを、クロもまたその足に禁術の力を乗せて、踏み潰した。


 バガンッッ!!という轟音と共に二つの影はレンガ造りの道に埋め込まれ、その衝撃で周囲の床が道に跳ね上げられる。その一撃で二人の犠牲者が即死した事を確認しつつ、即座に跳ね上がったレンガを壊さないよう、片腕で掴んで即座に投げる。

 レンガはクロの高レベルと禁術のブーストを受けて亜音速にまで到達し、空気摩擦でその形を歪ませながらも、同じように『源流禁術』に侵された者の頭を弾き飛ばした。


 まるで大口径の対物ライフルに頭部を撃ち抜かれたかのようにその体が宙を舞って、バラバラの肉片になった頭部がビチョリビチョリと音を立てて道に撒き散らされる。その光景と禁術の反動で体に襲い掛かる強烈な吐き気と全身の痛みを堪えつつ、朦朧とし始める眼を働かせる。


 駄目だ、どうにも『黒妃』を討ち取ってから世界に現れ始めた赤い靄が、視界を邪魔して仕方がない。戦闘が苛烈になるにつれて、赤い靄はその範囲を拡大し、クロの視界を遮っていく。


 ナイアもエマにも、この靄は見えていないという。これも禁術の副作用なのだろうか。


「……っ、は、ぁ……っ!うっ、お”ぇ、ぇ……っ、く、そ……っ」


 黒く染まった肌から伝わってくる違和感と、全身を絶えず襲い続ける痛み。トドメの脳を直接揺らされているかのような気持ち悪さで、思わず膝をつきながらえづく。駄目だ、禁術の侵蝕がもはやシャレにならない域にまで進行してきている。


「痛……っ、ちく、しょう……いた、い……っ、あた、まが……われ、る……っ!」


 ああ、嫌だ。痛い、痛い、痛い。どうして、どうしてこんなになってまで戦わなければ。


 “――辛いよね。でもダメだよ――”


 なぜ、少しは休ませてくれたって良いじゃないか。エマだって必ず元に戻す、この惨状もなんとかする。だから少しくらい。


 “――苦しいよね。でもダメだよ――”


 もう限界なんだ、心が挫けそうなんだ。体が悲鳴をあげてるんだ。身の程も弁えずに求めた力のせいで、もう何かもボロボロになってしまったんだ。


 “――悲しいよね。でもダメだよ――”


 そうだよ、悲しいさ。俺のせいだ、俺のせいなんだ。分かってる、けど人間には限界があるんだ、どれだけ頑張ってもいずれ限界にぶつかるんだ。


 “――痛かったよね。でもダメだよ――”


 なぜ、なぜ、なぜ。どうしてだ、なんなんだ、何なんだよさっきから。人の頭でボソボソと、煩いんだよ、鬱陶しいんだよ。やめてくれ、出て行ってくれ。


 “――ダメだよ――”


 なんでだ。


 “――それが、貴方と交わした契約だから――”




「……っ、ず、ぁぁぁぁぁぁあ”ぁ”ぁ”ッ!!」


 ガタガタの体を死ぬ気で動かして、すぐ背後にまで迫っていた漆黒の影の頭部を鷲掴みにする。五本の指に込める力を一気に強めてその頭蓋を握り潰し、引き摺り倒しながら膝蹴りを見舞えば、すぐにその生命活動は停止した。


 まだだ、まだ終われない。まだ倒れることは許さない。弱音を吐くことも、立ち止まることも、諦めることも許さない。これは全て俺が巻いた種だ、その代償は俺が払うしか有り得ない。

 その為にこの体を使い潰す事になったとしても、それが俺の義務なのだから。


「……これ、で、全部……か」


 魔力の感知に意識を向ければ、源流禁術の反応はもう返ってこない。それは即ち、現時点で発現した感染者は全て処理が終了した事を意味する。一先ずはその事実にホッと溜息を吐いた。


 しかしクロが担当した者以外にも、相当な数が居たはずだ。源流禁術は、例え今回のような暴走状態にあったとしても尋常ではない力を発揮する。オマケには人智を超える程の超高速再生能力だ、一人倒すのにもかなりの苦労が掛かるだろう。

 それらが全て倒されたという事は、メイリアの他にも、相当数の実力者が街の守護に当たっていると見える。いくら彼女ほどの魔法使いでも、あの数をこの短時間で壊滅させるのは不可能に等しい――筈だ。


「……?」


 突如として、街の中層区間で膨大な魔力が膨れ上がる。

 しかしそれは源流禁術が放つおぞましい程にドス黒い魔力ではなく、荒々しくも凛とした、黄金の輝きを持つ魔力の渦。その力の束が一筋の光となって、天にまで昇るような光の塔を築き上げていた。


 あの魔力は、メイリアのものだろうか。かなりの距離がある為にその性質が掴みづらいが、あんな規模の魔法を使えるものがそう易々と居る訳もない。

 だが何故?源流禁術の反応は消えた、まだ魔王軍の軍勢も街からは離れている。どうしてこのタイミングであんな魔法を――


「――?ぉ、が……っ!?」


 一瞬だけ、視界の端に真っ白な影が映った。

 次の瞬間には、巨人の手のひらに殴り飛ばされたかのような衝撃が全身を襲う。グルグルと回る視界が見えたのも束の間、すぐに地面に落ちて、床を破壊しながら数十メートルもの距離を滑走した。


 あまりのダメージに血反吐を吐きながらも、折れた骨々は禁術が即座に元通り繋ぎ合わせる。千切れた筋肉も一瞬の内に再生して、感覚が途絶えた脚はすぐさま割れ砕けた地面を踏み締めた。


 頭から顔に垂れた血を手で拭って、すぐに自分が元居た地点を確認する。



 そこに居たのは、大柄な男だった。

 真っ白なローブを纏って、大きめのフードを目深に被り、エマのそれと遜色ないほどに巨大な剣をその巨腕で支えている。フードの下から見える顔の下半分はこれまた真っ白な髭で覆われていて、男がかなりの歳を食っているのが見て取れた。


 しかしながら、イマイチその男の印象を上手く掴めない。認識をボカされているかのような妙な違和感があって、そのフードの下の素顔を覗き見る事も出来ないのだ。


 振り抜かれた巨剣は未だ鞘に収められたままで、先の衝撃はアレによるものだろう。先程あの鞘から剣が抜かれていたならば、その時点で即死だった。そしてそれは、あからさまに手を抜かれていた事を意味する。


 ――舐められたものだ。


「……なんだ、お前は」


「――訳あって姿を晒せぬ無礼、許されよ。魔王軍に属し、今まさにこの街を襲わんとする貴殿の敵……とだけ覚えておられれば宜しい」


「――っ!魔王、軍……!」


 即座に腰の銀剣に手を伸ばして、抜き放つ。同時に周囲へと『収納』の窓を展開して、その中から出現した無数の槍が白衣の男にその切っ先を突き付けた。

 だが男はそれを全く意に介した様子もなく、平然とその足をこちらへと運ぶ。突き出された槍の刃は当然男の喉元に触れ、彼がさらに歩みを進めるとともに、その喉元へと沈んでいく。


 だが、しかし。


「……当たって、ない……?まさか、すり抜けてるのか……っ!」


「理解がお早い。流石にございます」


 槍はするりと男の体を通り抜けて、そのまま彼の背後へと取り残される。あっても意味がないのならばそのまま出している理由もない。 、無駄に意識を割くだけだ。槍を仕舞い込んでから、右手に持った銀剣の柄に力を込める。


「……何なんだよお前らっ、魔族は魔王軍の庇護下の存在じゃなかったのか!?何でこんな事をっ、守るべき民が住むような街を、お前らが滅ぼそうとするんだよ!」


「否」


「あ”ぁっ!?」


 あくまで冷静にそう否定する男に苛立って、つい荒れた口調でそう返してしまう。しかし男はそんなクロの様子など気にした風もなく、ただ当然のように言葉を続けた。



「我々の目的はこの街の滅びに非ず。この街に紛れ込む、数名の殺害――正確に言えば貴殿、イガラシ・クロと、その仲間であるナタリスの少女、エマ。白神竜(ヴァストス)のナイア。そして今も眠り続ける“勇者”……英雄ジーク・スカーレッド。以上四名を抹殺する事が、我らが魔王様より賜った使命に御座います」



「…………は?」


 少し、言っている意味が分からなかった。


 魔王軍の狙いは、クロと、エマと、ナイアと、あのジーク・スカーレッド。それは把握した、そこに関しても疑問はあるが、一先ずそこは飲み込もう。だが、解せない。どうしも解せないのだ。

 クロ達三人が魔王軍に狙われていたのは、知っている。ブルアドの店で魔王軍に所属する暗殺者が潜んでいたのがその証拠だ。ジーク・スカーレッドに於いても、まあ分かる。かつての四黒のように自分が滅ぼされる事態を恐れるのならば、まず仕留めておくに越したことはないだろう。


 だが、何故だ。その四人だけを消したいのであれば、何故。


「……なんで、関係のない人達を……っ、この街を巻き込んだんだッ!!」


 あんな規模の軍勢まで引き連れて。街中に『源流禁術』の因子をバラ撒き、人々に地獄のような痛みを、苦しみを植え付けて。関係のない人達を犠牲にして。狙いはたったの四人?


 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな――!


「――ふざっけんじゃねぇッ!!!」


 銀剣を構えて、大地を蹴る。コンマ1秒にも満たない時間の内に男の眼前へと踏み込み、右手の刃を振り抜いた。


 が、当然のように剣はその体をすり抜けて、何の手応えもない。勢い余った体の流れを無理に止めては隙になると判断して、地面を再び蹴って体を宙に浮かし、流れるように蹴りを叩き込む。

 だがこれも男の体に当たることはなく、まるでホログラムに攻撃しているかのような感覚だった。


「……ふ、ッ!!」


「っ、がぁっ!?」


 下から振り抜かれた巨剣を、直前で銀剣を盾にガードする。剣の上から体に伝わってくる途轍もない衝撃が脳を揺らして、一瞬生まれた隙を、男の丸太のような足がクロの腹部を蹴り飛ばす事で突いた。


 再び体が吹き飛ばされるも、今度は銀剣を地面に突き刺して無理矢理に減速させる。異常なまでの威力を持つ蹴りの衝撃で胃の中のモノが逆流して、嘔吐となって地面にブチまけられた。


「ぉ、え”ぇ……っ!……っ、ゲホッ、がほっ……ぐ、そ……っ!」


 何だ、こいつは。何なんだこの男は。

 アルテミリアスのように、絶対の防御を持つわけではない。黒妃のように、尋常ではない速度を持っている訳でもない。


 だが、こちらの攻撃が当たらない。技術云々の問題ではなく、こちらの攻撃手段が意味を成さない。


「――まずは一つ目の首、落とさせて頂く」


 男が剣を構える。

 上等だ。すり抜ける?そんなもの、前例をいくらでも知っている。偉大なる先人達が何度も何度も使い古したネタだ、大概の場合、その弱点など決まっている。欠陥のない完全無欠の能力など、存在しない筈だ。


 本当に無敵ならば、魔王だってアイツを倒せないではないか。だとすればアイツが魔王に付き従っている理由がない。絶対に、何かしらの攻略方法が存在する筈だ。


 前を向け。こんな所で殺されている暇などない。故に、さぁ、剣を振り翳し、吠えろ。


 脳裏の記憶を掘り返す。物体をすり抜ける能力の攻略法、かつて幾度となく見たその知識を引き出し、実行しようとして――


 ――気付いて、しまったのだ。




「……あ、れ」



 先人達の使い古したネタ。物体をすり抜ける能力を、幾度となく見た。そしてその攻略法……


 ……何のことだ?



「……まて、なんで。なんだ?何が、どうして、そんな訳が」


 記憶を辿る。辿る。辿る。細い糸を手繰って、引き寄せて、その先にある筈のそれを――



 ――俺は、いったい、なんの話をしている?





「……は?」


 糸の先には、何もない。忘れようもないほど頭に刻み込まれていた、かつての世界での記憶。それが今、綺麗さっぱり消え去っていた。


 嘘だ、と呟く。思い出す、以前の世界の記憶を。


 自分の名は?――イガラシ・クロだ。

 歳は?――16。恐らくは、あと少しで17になる。

 家族は?――父と母、そして妹が一人。


 ……では、その家族の名は?





「――イガラシ……いが、らし……」






 ――思い出せなかった。



 母の名も。父の名も。妹の名も。思い出せなかった。


 それだけではない。どこに住んでいたか、向こうに居る中学や小学校時代の友人は誰だったか、将来の夢、好きだった小説、アニメ、いくつもの忘れる筈のない大切な記憶達が、欠落している。


 バチバチと、体に宿る紅いスパークが弾ける。源流禁術は今もこうしてクロの全身を駆け巡り、おぞましい代償と引き換えに彼の力を極限にまで高めている。


 体を蝕む漆黒の痣がズキン、と痛み、広がった。



 瞬間にまた、崩れ落ちる。大切なものが、思い出が、記憶が。



「そん、な」



 禁術は常に、クロから人間としての痛みを代償として徴収し続けて来た。

 無限に続く苦痛、おぞましい違和感、今直ぐにでも精神を病んでもおかしくない程の苦痛をこれまで耐えてこられたのは、一重にエマを救う義務があると己を強く戒めてきたからだった。


 だが、禁術は――禁じられた、最低最悪の術式が求めるものは、その程度ではなかったという事だ。



「――そ……ん、な」





 やめろ、やめてくれ、それ以上は。

 奪わないでくれ、消さないでくれ、頼む、後生だ、それだけは。


 忘れたくない、消し去りたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 それを奪われたら、俺は――




 ――俺、は。



 バチッ、と、電光が弾けた。







 “知らない誰か達”の顔が、脳裏から消えていったような気がした。


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