第83話『最悪のシナリオ』
「……っ、なんだよこれ……なんなんだよ、これは……っ!?」
『いだいぃ……っ、いだい、いたい、痛い、いたい、いだいぃぃっ!!』
バチバチと、紅いスパークを帯びて振るわれた大振りの腕を、すんでの所で回避する。しかし、圧倒的な力を持って振るわれたその腕は異常なまでの力を発揮して、伴う風圧は、巨人の掌に張り飛ばされたかのようにクロの全身を吹き飛ばした。
しかしながら、クロは空中でくるりと体の向きを回転により調整して、石畳を敷き詰めた大通りの床で滑るようにブレーキを掛ける。勢いを全て殺しきった次の瞬間にはバツンッ!という奇妙な音と共に、一呼吸の間すら無く、禁術によって黒く侵蝕された女性“だったもの”を全力で蹴り倒した。
無論、転ばせようが気絶させようが、『源流禁術』による尋常ではない速度の侵蝕が止まることはない。既に意識を保っていられるような傷ではないのに、侵蝕が無理矢理にその意識を更なる苦しみによって覚醒させる。
源流禁術による侵蝕を取り除く術など、クロは知らない。もし仮に知っていればとっくに自分に施しているために当たり前なのだが、しかしそれでも記憶の中に何かその断片だけでもないかと全力で頭を回す。
――だがやはり、そんなものは、無い。
「……っ、畜生、がぁっ!!」
ドパンッ!!という破裂音と共に、黒く染まった怪物の頭部が弾け飛ぶ。
亜音速にまで届き得るクロの蹴りは、今や『源流禁術』を用いずとも人1人を即死させるには充分過ぎる威力を持つようになった。手加減は意味がない。一度侵蝕に呑まれたものは、その時点で死を約束されたも同じことなのだから。
『源流禁術』の齎らす肉体の再生速度は、クロが誰より知っている。腕を切り落とされても、グチャグチャに粉砕されても、10秒と掛からず元通りにするという反則級の回復能力を打ち倒す為には、再生の暇も与えない――つまり、即死させるしかないのだ。
「……ぁ、あぁ……そんな……ミリィ……!ミリィっ!!」
「……?」
荒い呼吸を抑えながら呆然と佇むクロの背後から、少々歳を食った男性が飛び出していく。彼は頭を吹き飛ばされた真っ黒な死体に近付くと、その亡骸を抱き上げて、この世の全てに絶望したかのような顔を浮かべる。
その様子を見れば、その素性は少しの思考の必要もなく分かった。何故ならばその男性は、正に今クロがトドメを刺した少女――彼がミリィと呼んだ少女に、よく似た特徴を持っていたから。
親子だったのだろう。彼と、ミリィは。
「……どうして……っ、どうしてだッ!!?何故殺したんだっ……!何とか抑えて、元に戻す方法を探せば良かったんじゃないのか!?」
「……普通の憲兵に抑えられる状態じゃない。それに、引き伸ばしてもその子が余計に苦しむだけだ」
耐えられなくなって、目を逸らす。彼にだけではない、自分にも言い聞かせるように、正論のようにも聞こえなくもない言い訳をどうにか喉の奥から引っ張り出した。
「じゃあアンタが抑えてくれれば良かったじゃないか、殺す必要なんて無かった!!」
「……貴方の気持ちは分かる。けどさ、周りをよく見てから言ってくれよ……!今の状況じゃあ、こうするしかないだろうが……っ!」
バッと大げさに手を広げて、視界の開けた大きな坂道の下り坂方面――そこに広がる惨状を示しながら、クロもまた必死な声音で言う。クロが指した眼下の光景は、正に地獄だとしか言えなかった。
この道だけではない。見下ろせる街の光景には点々と黒い魔力の柱が上がっており、それらは竜巻のように街を破壊していく。暴走した魔力が指向性を失って暴発し、周囲の地形を破壊しているのだ。
『源流禁術』は、その効力のみを勘定に入れるのならば破格も破格、これ以上ない最強の強化術式だ。一切の消費無しに身体能力の爆発的増加、膨大な量の魔力を生成、傷を受けても即時再生、しかも更に応用の方法は様々だという。
そんな最強の術式が嫌悪される理由はただ一つ。破格のメリットを一瞬で帳消し、どころかマイナスに振り切らせてしまう最悪のフィードバックがあるから。
即ち、精神汚染と肉体の侵蝕。クロのように、正体不明の耐性がある者ならば辛うじて行使する事も可能だが、ただのヒトが使ってしまえば、末路はついさっきクロが殺した少女と同じだ。
一瞬にして肉体全てを術式に呑み込まれて、延々と続く地獄のような苦しみに包まれ、最終的には力に振り回されるだけの怪物に成り果てる。そうなった者を救う事は、出来ない。
だが、それでも、彼の言うように、殺す必要など無かったのではないのか。元に戻す手もあったかもしれない。そんな『もしも』論が脳内で反響して、ズキズキとクロの心を蝕む。
……いいや、違う。これで良かった。こうしなければならなかった。自分のしたことに、一切の間違いは存在しない筈だと――そう自分を騙し、正当化することでしか、立っている事が出来なかった。
このまま彼女一人を抑えることに集中しても、その間に他の感染者たちが暴れ出す。そうなれば、犠牲者は感染者のみでは済まない。
「だけど……っ、それでも……!」
「黙っていなさい。戦う力も無い貴方に、王へ口出しする権利はありません」
不意にエマが男の背後から手を伸ばして、その首筋に指先を触れさせる。一瞬だけ末端禁術の淡い水色の電光が瞬いて、次の瞬間には男は崩れるように意識を失っていた。
倒れそうになる男の服の襟を引っ張り上げてそれを阻止したエマは、クロへと無言で視線を向ける。それがどうするべきかの判断をクロに仰いでいるのだと気付いて、「衛兵に身柄を預けて、保護を頼んでおけ」と指示を出す。
エマは僅かに頷くと男を肩に担ぎ上げて、トンと跳躍し、憲兵の誘導に従い学園の方角へと流れていく人混みの奥へ消えていく。クロはそれを見送る事もせずに自らも跳躍して、周囲の建造物の中では最も高い教会の屋根へと着地した。
改めて観察すれば、ごく少数ではあるが、源流禁術の反応が消えている。源流禁術持ちの者を殺す事が出来る力を持つ者がいた事に一先ずは安堵して、しかしまだ状況は一切好転していないと考え直した。
既に憲兵には、ピクトラットが『源流禁術』発症の原因である可能性がある事は伝えてある。リールとレリアは既に避難列の中に加わっていた筈なので、今すべき事は、未だ避難が完了していない区域に現れた感染者を殲滅する事。
無論、無力化で済む方法があるならばそっちの方がよっぽど良い。だが、今クロがその手段を探している余裕は欠片も無いのだ。
一度上空から俯瞰して街の状況を確認しようと、『禁術』こそ使わないものの、大きく跳躍する。雲に届くほど、とまではいかないが、地上数百メートルほどの高さにまで到達すれば、街の全容はしっかりと確認出来た。
やはり、騒ぎは街中で発生している。至る所から漆黒の魔力が暴発して、嵐のように荒れ狂っていたのだ。
ギリ、と歯を噛み締めて、同時に街全体を注意深く観察する。優先すべきは避難が未完了の場所だ、それも特に緊急を要すると判断できる場所を見つけ出し、向かう必要がある。
ぐるりと視界に映る光景を見回して、じっくりと、しかし早急に判断しなければ――そんな事を考えていた矢先。
「……は?」
クロの視界は、大きく街から逸れていた――というより、逸らさざるを得なかった。
街を外れた平原の先。アヴァロナルの街からの距離は目測にして、およそ10キロほどだろうか。
それは数多の魔族だ。多種多様にして、万は超えるであろう数の魔族による大集団。ただそれだけであれば、大規模旅団とでも言い張ればまだ納得出来なくもない。
問題は、彼ら全員が物々しい武装を身につけている事。ある者は馬に跨り、ある者は己の翼で空を飛び、またある者は直接地を駆けているといった違いはあるものの、武装のモチーフは共通であるように見える。
というより、見えてしまった。
『源流禁術』によって強化された視力が、鎧やローブといった武装に施された紋章を視界に捉える。クロがそれを見たのは過去に二回だけだが、その両方があまりに強烈な記憶だ。忘れる訳もない。
一度目は、人外で魔王軍に命を狙われた時。二度目は、ブルアドとの対話の際に身を潜めていた暗殺者を、ブルアドが見つけ始末した時。それが何を意味するかといえば、簡単な事だ。
あの無数の軍勢は、あの魔族達の正体は――。
「――魔王、軍……っ!」
◇ ◆ ◇
「え、エマさん!?どうしたの……」
「話は後です、憲兵はどちらに?身柄を預けなければなりません」
避難を続けていたレリアとリールの目の前に突如として降り立ったエマは、驚くリールの問いをサラリと受け流して、周囲を軽く見回す。すぐに視界に入った避難誘導を行なっている憲兵に男を押し付けると、腰に下げた巨剣を引き抜く。
「リール様、レリア様。近辺に症状発生者は確認出来ませんが、念のため細心の注意を。ピクトラットに施された何らかの術式が、今回の騒動の原因です」
「は、はい……先程憲兵の方から聞きました……あの現象は、一体……!」
「不明です。我が王の用いる術式と酷似していますが、それは本来感染などしません――故に、ルーツを同じくした別の力か、或いは王の力をコピー、そして改造したものではないかと推測しております」
脳裏で再生するのは、この体の前の持ち主である所の少女の記憶だ。その中で彼女を再起不能に貶めた漆黒の怪物――『黒妃』と呼ばれる存在と、あの症状の末期状態は非常に酷似している。
あの症状を酷く進行させたものがあの怪物なのか、それてもあの怪物自体がその症状の原因なのかは不明だが、少なくとも一般の者の手に負える相手ではない事は確実だ。
この体のスペックであれば、充分に対処可能だろうとエマは客観的に判断する。自らの主人がこの騒動の解決を望むのであれば、エマもまたその助力を行うのみだ。
この体の魔力感知能力はどうやら、非常に優れているらしい。こうして立っているだけで街中で暴走する感染者達の居場所が正確に読める。であれば、その対処に向かおう、と剣を構えて足に力を――。
「――!」
「わ、わっ!?エマさん?」
「ど、どうしたのですか……?」
避難に戻ろうとしていたレリアとリールの肩を引っ張って、エマは彼女らを背後に隠す。そうして前に出たエマはその巨剣を坂の上へ向けて構えると、睨みつけるような眼でその先を見つめた。
未だ困惑する二人の耳に、遅れて声のような物が届く。それは徐々に近づいて来ており、やがてその声が悲鳴である事に気付くまで、そう時間は掛からなかった。
どうして、何故。まさか、上の方でも感染者が出たのか。そんな思考を浮かべた二人へと、まるでその思考を完全に読んでいたかのようにエマが「いいえ」と否定する。
「感染者ではありません。もっと、タチの悪い――!」
「……おやおや、随分な言い草じゃあないかな、未来の我が妻よ」
ドパンッ!という破裂音と共に、前方を行っていた避難民達がまるで風船のように破裂する。
ばしゃり、と大通りの石畳に血肉や臓腑が撒き散らされて、瞬間的に膨れ上がった血臭は瞬時に強風によって吹き散らされた。それがまさか彼なりの気遣いであったなどと、この状況で誰が気付くだろう。
無論仮に気付いたとして、それでこの状況の何かが変わるという訳でもないのだが。
黒髪の男だ、クロのものよりも少し伸ばされたソレは先端で纏められており、優美な漆黒の外套の肩に纏めて掛けられている。黄金の瞳は何処か怪しい輝きを帯びていて、目の前で人々が惨たらしく破裂したというのに、その顔に浮かぶ作り物めいた笑顔が歪むことはない。
その男の姿には、見覚えがある。そして今この男がいるという事はつまり、予想出来る展開はただ一つのみ。
「……最悪の展開ですね、“極術使い”――!」
「これから僕たちは夫婦になるんだよ。気軽に『アルテ』とでも呼んで欲しいなぁ、エマ」
この災厄の原因は、魔王軍だ――。




