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第77話『誰にも言えない』

「……セト?」


「ああ。まあ勿論本名は違うが、そこはそういうものだと割り切っておけ」


 まるで素性を偽る気が感じられないのが、逆に気味が悪い。全身を純白に包んだその女にはまるで気配というものが感じられず、特に武を嗜んでいる気配もない。武器を下げている訳でもなければ、何の特異性も感じられない。

 だというのに何処か浮世離れした、というか、何処かその存在そのものに違和感があるのだ。本当に同じ生物なのか、そもそもセトという人物が此処に居るのは真実なのか、それすらも曖昧だ。


 だが、何より異常なのは――


「……見えない」


 万人の心理を見通す魔眼、赤の眼(リード)を以ってしても、その心の内が欠片も観測する事が出来ないのだ。確かに目の前に居る存在は命を持つ“ヒト”に連なる種である筈なのに、その全存在に通じる絶対的なモノ――心が見えないのだ。

 まるで、動く自律人形。心を持ち合わせないただ動くだけの物質のようで、その得体の知れなさが、同じく虚の存在であるエマの脳裏に激しい警鐘を鳴らした。


 真っ白な女はそんなエマの様子を見て小さく苦笑すると、おもむろにエマの方へ手を伸ばす。


 パチンと彼女が指を鳴らすと同時、バチリ、と、エマの視界がノイズでも走ったように揺らぐ。コンマ一秒すら経過する暇も無くノイズは消え失せ、歪んだ視界が下に戻ったと思えば、彼女の手の上には何やら見慣れないモノがあった。

 二つあるその片方をひょいとエマの方へ放り投げ、彼女もパシリとそれを受け止める。エマが警戒したようにセトへ疑問の視線を向けると、彼女は一つ肩を竦めて、小さく口を開いた。


「そう警戒するなよ、別に危害を加えるつもりはない。食って落ち着け」


「……何ですか、これは」


「“くれーぷ”といったかな。近くの出店で売っていたので、幾つか買った。美味いぞ」


 そう言ってそのクレープとやらに齧り付くセトに倣って、エマもその見慣れないモノが沢山詰まった生地に口を付ける。舌にじんわりと――エマは知らない事だが、クロが元居た世界ではクリームと呼ばれるものだ――甘みが広がって、果実独特の香りがすっと鼻を通る。


 食べ慣れないものではあるが、中々美味い部類には入るだろう。ナイア辺りに教えれば、喜ぶ様子が自然と眼に浮かぶ。


「……それで、何か私に用でも?」


「いいや、特に――とでも言えれば格好は付いたのだろうが、まあ、あると言えばある。大したことじゃあ無いさ」


 気の強そうな話し方は、この体に残っていた記憶の一端――キルアナ、といったか。彼女の面影が重なるが、しかしながら目の前の女性とキルアナとでは容姿が似ても似つかない。キルアナは彼女ほど背も高くなかった。

 セトの身長は女性にしては中々高いものであり、目測ではあるが、170後半程度に見える。スラリと伸びた手足は綺麗なもので、白銀の髪は雪原のように美しい。

 セトはエマがつい先程出てきた扉を見つめて、思い出したかのように呟いた。


「そこの扉の奥で寝ていた男に用があってな。取り次いで貰おうかとでも思ったが……どうやらその必要も無くなったらしい」


「……ぇ」


 不意に、ドアノブがカチャリと音を立てて回り、扉が押し開かれる。


 同時に、殲滅鎧(イージス)を纏った右腕が伸びて、エマを背後へと押し退けた。セトとエマの間を阻むように立ったクロは、その紅と黒のオッドアイでジッと彼女を睨みつけている。その濁りきった瞳の奥に覗くソレは、もはや殺気に近い。

 そんな不機嫌そうな表情でセトを見つめるクロの様子に、当のセトが心底可笑しそうに唇の端を笑みに歪ませた。


「……何の用だ。生憎と、俺にはアンタみたいな真っ白の知り合いは居ないんだが」


「心配するな、別に知り合いという訳ではない。それ以前に私自身、お前の事を知ったのはつい先程さ」


 当たり前だろう、とでも言いたげに宣言するセトに、クロが訝しむような視線を向ける。いつの間にやらクロの後に続いて出て来ていたのか、ナイアがクロの手を不安そうに握り、セトをその蒼い瞳で見つめていた。

 セトはそんなナイアの様子を見て不思議そうに見て、「何か怯えさせるような事をしたか……?」と首を傾げる。不意に彼女はふぅ、と息を吐いて両眼を閉じると、数秒と経たぬ間に納得したようにあぁ、と呟いた。


「そういう顛末か。成る程、理解した。これは悪い事をしたな」


「……何を一人で勝手に納得してんだよ、こっちはまるで話について行けないんだが」


「いやなに、傷心の所に余計な不安要素を持ち込んでしまったのだ。売り込みをして居る場合ではないな、これは」


「……売り込み、だ?」


 訳の分からない事を口走るセトに、クロがいい加減苛ついたように声音を荒くする。(エマ)の記憶にあるイガラシ・クロのイメージと何処か乖離したその様子にエマが困惑したような目を浮かべたが、クロはそんな彼女の様子も知らずにセトへただ殺気を向けていた。


「ああ、売り込み――俗に言うセールスアピールだな。お前の行く末は、場合によっては私の得になると判断した。故に、そのささやかな手伝いをな。お前に分かりやすい言葉で言えば……スポンサーか?」


 スポンサー、と言えば資金提供者……つまりは出資者と言うことになるのだが、勿論言葉通りの意味、という訳ではないのだろう。クロ達は別に金に困っているという訳ではない。

 資金ならば、『真祖龍』と『黒妃』を討伐したという功績でむしろ有り余っている程だ。この世界の金銭事情を詳しく知らないクロに、この大金を扱うのはあまりに危険過ぎる。


 故に、この場合に於けるスポンサーと言えば、恐らくはクロ達に足りないものの供給。つまり、現状のクロが最も求めているもの――つまりは


「情報が、あるのか」


「ああ。お前達の功績に応じて、私も私が持ち得る情報を教えよう……私が持ちかけているのはそういう契約だ」


 その言葉にクロがピクリと眉を動かして、セトの真っ白な瞳を見つめる。しかしながら相変わらず彼女のソレは何一つの感情も感じ取れず、ただ不気味に小道へ射し込む陽の光を映すのみ。


 ふとエマが視線を落とせば、何故だかナイアが普段の明るい表情を青ざめさせて、いくら何でも異様な程恐ろしそうにセトを見つめていた。小さくその肩を震えさせてクロの手に縋り付く龍少女が抱くのは、明らかに“セトを不気味に感じている”程度の感情ではなく、もっと大きな――エマの知らない何かが、ナイアを怯えさせているようで。


 と、不意にクロが目を閉ざした。


「――無理だな」


 キッパリと、そう告げる。

 答えを聞いたセトが何やら面白そうに微笑み、その銀の瞳を細めた。彼女は何やら期待するような眼差しで彼を見つめると、少し声音を低く下げてゆっくりとクロに問う。


「理由を、聞いても?」


「見て分かるだろ、この子がアンタを怖がってる。……俺の目的は手段を選んじゃいられないが、そもそもの原因が『俺の過失でエマを傷付けた』って事なんだ。ナイアも大事な相棒なんだよ、二度も取り返しのつかない事を繰り返す程、馬鹿じゃない」


「……成る程、そいつは重要な事だな。ならば仕方がない、諦めるとしようか」


 セトは思いの外アッサリと――むしろアッサリし過ぎていて、逆に疑念さえ湧き出てくる程にすんなりとそう呟くと、くるりと踵を返して歩き始める。

 クロがその諦めの良さに思わず声に詰まって、そんなクロの様子にセトが目を丸くして振り返った。


「どうした、何か驚くような事でも言ったか?私は」


「い、いや。別に何もおかしい事はない、んだが……悪い。忘れてくれ」


「ああ、もう少し粘るとでも思っていたが?無論、取引を呑んでくれるならばいつでも大歓迎だが……無理に押し付けても互いの信頼関係にヒビを入れれば、協力も何もないだろう」


 至極真っ当な理論で当然のように返してくるセトに肩透かしを食らったような感覚がして、クロが思わず脱力する。疲れたように両眼を瞑って頭をガシガシと掻くクロの様子を見て愉快そうに笑ったセトは、「いやまあ」と言葉を続けた。


「勿論、後から気持ちが変わったというのならばそれはそれで構わない――というか、きっとお前は私の手を取るよ」


「……は?それは、どういう……」


 意味が分からないとでも言いたげにクロが不満げな目を向けようとするが、しかしその視線は空振りに終わる。クロが視線を向けた道の先には既にセトの姿など無く、綺麗さっぱり、その断片すらも消え失せていたのだ。

 思わず目を向いたクロに、不意打ちの如く一陣の風がぶつかる。思わず顔を覆った彼の耳元で、幻聴とも取れてしまうほどに小さく、そして美しい声が発された。


「忠告だ、今すぐにアヴァロナルへ戻れ。でなければ、また大切なものを失うぞ」


「――?」


 バッと振り返っても、そこに居るのは青ざめた様子のまま手を握ってくるナイアと、困惑した表情で現状を見守っていたエマのみだ。彼女らの様子から見てもセトがどこに行ったのかなどまるで分からず、即座に周囲を一面見渡しても、影も形も見当たらない。

 魔力を通して探索を試みようとしてみるが、今になって気付く。セトからは一切、魔力というものが感じられなかったのだ。どうやって“存在しないものを辿れ”というのか。


 何処からどう見ても胡散臭い、のだがどうにも無視出来ない。クロの経験則――ではないが、こういった物語での忠告は、そういった胡散臭い者が言うものほど信憑性が高かったりもする。


 アヴァロナルに戻れ、というのはどういう事なのか。また大切なものを失う、とは何の事だ。


 エマのような事が、また起こるというのか?『四黒』はもう居ない筈だ、ならばそれに並ぶ何か別の脅威……あり得るとすれば魔王関連か。だが、現状で魔王につながる理由が一切読めない。

 無論、元から狙われていたといえばそうなのだが、しかしならば何故アヴァロナルなのか。


 ――いや、それはそうだ。問題はアヴァロナルじゃない、ここが『トーキョー』……つまりは“魔界首都”であるということ。


 魔界の首都、つまりは中心部。魔王が居城とする街であるという事だ、そりゃあ留まるのは危険に過ぎる。一応、当初からそこを警戒して長居は出来ないと決めていたつもりが、酔ったエマの介抱に思いの外時間が掛かってしまった。


「――アヴァロナルに戻ろう。そろそろ日も暮れる」


「……その、(マスター)。申し訳ありません、(しもべ)として気を張らねばならないというのに、意識を失うなど……」


「……?ああ、ありゃあっちのミスだ。気にすんな、今はそれより……ナイア、どうした?」


 クロがいい加減疑問に思ったのか、少し屈んでナイアの青い瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女は怯えたような表情でクロの顔を見返すと、勢い良くその胸元に飛び込んだ。

 驚きつつもクロがしっかりとその身を受け止め、目を丸くしながらも優しくその背を叩く。小さく震えるその体の意味が図れずに困惑するが、しかしそれでナイアの気持ちがマシになるのならば、と一先ずはその艶やかな金の髪を撫でた。


 同時に、クロの手を握る力がギュッと強まる。ほんの少しの嗚咽すら聞こえてくる程に、今セトとたった一度(まみ)えただけで、彼女は追い込まれていたのだ。


「……ナイア?」


「……お願い、クロ。ちょっとの間だけ、このまま」


 涙声でそう言葉を絞り出すナイアに、クロが言葉に詰まる。あのセトという女が何者なのか、それは分からないが、あの女が、ナイアがここまで追い詰められる原因になると言うのであれば、尚更あの女の手を取る事は出来ない。

 あのナタリスの森の奥でナイアを拾った時から、ずっと一緒にここまでやって来たのだ。つい先程出会ったばかりの胡散臭い女と、これまで共にここまで生きてきた大切な相棒。どちらを信じるかなど、考えるまでもない。


この子が苦しんでいるのならば、少しでもそれを払いのけられれば、と。



 ――しかしながら。





「……ごめんなさい、クロ」




 ナイアが胸の内に抱えるその真実に、彼が気づく事は無かった。





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