第73話『幸福へ辿り着く為の試練を』
とくん、とくん、と、稼働している筈のない肉体から鼓動じみた音が聞こえて来る。それは『最低最悪の魔王』の肌を覆う真紅の脈動とリンクしており、彼の体を流れるその穢れた魔力は鎖を伝って、部屋中に展開された小さな魔法陣に吸収されていく。
中でも、その遺骸が今現在縛りつけられている、他とは一線を画すほど巨大な魔法陣。ソレは『最低最悪の魔王』のソレを繋ぎ止める鎖を伝って、その肉体に内包された魔力を急速に吸い上げていた。
だが、その肉体からは魔力が途切れる事はない。常人ならば、一秒と保たずに干からびてしまうほどの吸収量にも関わらず。
ナイアがゆっくりと歩み寄って、遺骸の前に膝を突く。そのまま静かに腰を下ろして、ペタンとその怪物の前に座り込んだ。その小さな白い手を伸ばして、彼の頰に触れる。
まるで墨のような黒さだ。例え燃え尽きて墨になったとてこれ程の色にはならないだろう。そんな異常な色は彼の遺骸の全身にまで広がっており、それはつまり彼が『禁術』を限界――その身で耐え得る再奥に辿り着くほど、酷使し続けたという事だ。
「……酷いよ。こんなこと、一度だって話してくれなかったのに」
ナイアがそう呟いて、瞳の端に小粒の涙を浮かべる。しかし遺骸の真っ白に染まった長い髪から覗く真紅の瞳は何の反応も示さず、ただ輝きを失って重力に従い、地に描かれた魔法陣を映し出すのみ。
これは封印だ。『最低最悪の魔王』というこの世界の汚点――最大級の絶対悪を完全に封じ込めるための、封印。既に死した者とはいえ、その肉体に封じ込められた力は人智を超越している。彼に次ぐ新たな悪が、この遺骸を利用せんとするかもしれない。
だが、埋めても燃やしても、この肉体には効果を及ぼさない。土に還ることも無ければ、燃やしても灰になる事はない。驚異的なまでの自己再生能力が、命を無くした今でも働いているから。
故に、その身に眠る魔力を封じ込めねばならないと。その身に有り余る魔力を全て取り除かねばならないと。
勇者と、世界中の極術使い達が総出で組み上げた封印術式。例えナイアの凄まじいまでの魔法的才能があったとしても、これを解除する事は不可能だ。それは、今実際に目にしてすぐに理解出来た。無論、最初から封印を解く気など更々ないが、それはそれとしての話だ。
――やだ、いや……っ!置いていかないで、私も一緒に……っ!
頭の中で響く声がうるさい。ナイアは知らない筈のその記憶は、しかし今も彼女の脳裏を蝕んでいる。
小さな黒龍がその蒼い眼に深い恐怖を浮かべて懇願する。記憶の奥底に刻み込まれたその風景は、まるで自分の事のようにナイアの心に苦しみを植え付けていく。
違う、これは自分の記憶ではないのだ。だから、全く気にする必要などない。だというのに、まるでナイアの自意識を侵食するかのようにその感情は心の奥から溢れ出してくる。
寂しい。痛い。苦しい。悲しい。
知らない、知らない、そんな心、知るはずがない。だってそんな記憶、ナイアが実際に体験したものではないのだから。植え付けられたその摩耗と焦燥が鬱陶しい、だからこそ、ここに来れば何かが変わると思っていた。
この、記憶に深く刻み込まれた場所、黒龍の原風景。この部屋は、その場所そのものだ。
「……随分、様変わりしてるんだね」
「数千年前とは、見違えたものでしょう」
唐突にに呟やかれた何者かの言葉に、ナイアが特に驚いた様子もなく振り返る。その視線の先では真っ白なフードとローブを纏った大柄な男が立っており、フードの下からチラリと覗く紅い瞳がナイアを見つめていた。
その腰には、全長2mにも届くかという程の大剣が吊られている。それはエマの持つあの大剣とも並ぶ程で、一目見ればすぐに相当な業物だと理解出来た。
ローブの裾から覗く肉体は鍛え上げられており、記憶に残るソレとは幾分か印象が違う。随分と強くなったのだろう、その身に纏う雰囲気があまり記憶にある彼のそれと違う……ような気がする。
元よりナイアの記憶ではないのだから当然といえば当然だが、あまり鮮明ではないのだ。この記憶の中に眠る情報は。
「ごめんね、あなたの事はぼんやりとしか憶えてなかったんだ……知らない、って言った方が正しいかもしれないけど」
「元より私達も覚悟の上ですよ、ナイア様。私たちの存在の記憶など、我らが王の策には不必要だ……計画が順調に進んでいる証です――貴女様が、此処を訪れた事も含めて」
男はそう言って、フードを深く被り直す。それはぼんやりと残る記憶通りの彼であれば、恐らくは彼なりの気遣いなのだ。自身の顔を隠すのは、ナイアに自身の事を思い出させないようにするため。
そんな彼の様子に感じるものが無いでもないが、しかしどこか妙に引っかかる。彼の素性が認識し辛いのは、恐らくは彼の羽織るローブが原因だろう。それはかつて『最低最悪の魔王』が彼に与えたもので、それ自体はあまり関係ない。
だが、ナイアは彼と何処かで会ったような気がするのだ。この植え付けられた記憶ではなく、ナイア自身が。
脳裏に残る違和感を無視して、ふとこの城へ入る時のことを思い出す。あまりに薄い警備はまず確実に『魔王』がこの城に居ないという事を裏付ける証ではあるが、その具体的な場所は分からない。
「……あの子は、何処に行ったの?」
「魔王様は、既に行軍を開始しております。三日もあれば、『英雄の眠る街』に辿り着くでしょうね」
男が告げたそんな言葉に、ナイアが小さく息を呑む。彼女は驚いたように眼を見開くと、すぐにぎゅっとその眼を閉ざして魔力感知に全神経を注ぎ込んだ。
起動するのは遠見の魔法。魔力で形成されたそのレンズが此処とは違う風景を映し出し、その膨大なまでの軍勢が広大な荒野で隊列を組んでいた。彼らは確かに、その鎧の何処かにかつてブルアドの店で襲撃を掛けてきた暗殺者の装束と同じ紋様を刻んでいる。
その軍勢の、先頭。本来ならば軍勢の先陣など将が切るべきではないというのに、しかしながら彼女は、そこにいた。
長く伸ばされた真っ黒な髪と、顔を覆う同じく真っ黒な仮面。そして、その身に纏うこれもまた漆黒のマント。それらは恐らく、彼女の種族を隠す為のものでもあるのだろう。覆い隠されたその体は小柄で、ドレスじみた礼服で着飾っている。
そしてその手に収まるのは、黄金の長刀。凄まじいまでの威圧感を感じさせるソレは、恐らくクロの持つクラウソラスやイージス、そしてキルアナが持っていたグングニルと同格のものだ。
そしてその後ろ姿を、ナイアは――いや、ナイアに刻み込まれた記憶が知っている。その小さな背中は、かつてこの記憶が何度も見続けたものだ。その事実にナイアが眼を見開いて、男に向き直る。
「だめ……っ、待って!今はダメっ!!クロも、エマも、まだ戦える状態じゃないの……っ!」
「あの子もそろそろ継いだ頃でしょう、好機は今しか無いのです」
「違う……っ、エマは、もう違う道を辿ってる!計画はもう狂い出してるから……だから、せめて、エマが元に戻れるまで……!」
「ええ、ええ。あの子は既に異なる未来を辿っている、“それ故に、今試さねばならない”。今、異なる歴史を辿ろうとしている……いや、今まさに異なる歴史を辿る彼女を、“エマ様”を――今度こそ、幸福へ導くために」
重々しい声音で呟くその男に、ナイアが絶望に染まった眼を向ける。すぐに彼女は立ち上がって、駆け出そうとする。だがその一歩を踏み出す事すら出来ずに、その足は自然と止まる事となった。
ナイアの目の前に、白銀の刃が突き付けられている。その巨大な刀身が彼女の行方を阻んで、ナイアが焦ったようにその歯を噛み締めた。
次の瞬間に、その体が消滅する。ソレは彼女の持つ異能、『転移』を用いた証。誰にも予測し得ぬ、彼女のみがその行き先を知れる、完全なる零時間移動。
――だというのに。
「……っ!」
「……その異能は確かに強力だ。しかし、とある特性を持つ者達にのみ限定して、それは殆どのアドバンテージを失う……分かっていますね、ナイア様」
男は、その転移の軌道が分かっているかのように、ナイアの道を塞いでいた。冷たい瞳で自身を見下ろす男に、焦ったようにナイアの表情が歪んで、悲痛さすら感じさせる瞳で声を張り上げる。
「退いて、退いてよっ!早く、伝えに行かないと……っ!」
「帰るのは構いません。ただし、この事を伝えるというのならばそれは無理になる」
「出来る訳ないっ!二人が死んじゃったら――!!」
「――。」
……と。
必死な様子で叫ぶナイアの声を遮って、男が何事かを言い放つ。
途端にナイアが驚愕の表情を浮かべて眼を見開き、すぐさまその口が噤まれた。その両腕がカタカタと震えて、まるで温もりを求めるかのように己の肩を抱く。
蒼い色彩を持った美しい瞳が一瞬にして涙で濁り、ナイアは首を振りながらその場に座り込むしかなかった。少しずつその視線が持ち上がって男に向けられ、恐怖すら浮かぶその顔で小さく問いかける。
――本当なの?と。
男はその問いに無言で頷き、肯定の意を示す。サァッ、とナイアの表情が青くなって、極限まで追い詰められたせいか俯いてしまった。男が小さく頭を垂れて彼女の前に膝を突くと、その紅の視線を彼女に向けた。
「……貴女も、戦うことになるでしょう。個々の力量としては、軍勢はそう強い訳ではない……ですが、数だけは凄まじいものがあります。油断は……なさらぬよう」
「……わかった」
ナイアが虚ろな表情で立ち上がり、その体を転移によって一瞬にして消滅させる。今度は男も彼女を追う事はなく、ただ無言で彼女が先程まで向き合っていたソレ……『最低最悪の魔王』の遺骸に向き合った。
男はその骸の前に膝を付き、物言わぬ置物と化したソレをただ見つめる。やがて一つ大きな溜息を吐いて、しかしすぐに「いや失礼」と取り繕う。
「……この世界の平和、か。――我ながら、とんだ詭弁を吐いたものだ……平和など副次結果。求めるものなど、ただあのお方が幸福で在れる世界のみだというのに」
「お話は終わったのですかぁ?」
ふと、男の背後からそんな声が聞こえる。彼がその声に従って背後に向き直れば、そこにあった扉から室内を覗き込むのは薄桃色の髪を持つ少女だ。その鮮やかな髪色とは裏腹に、しかしその両目は白い。
それはつまり、彼女がただの人間ではなく、白の眼を保持しているという証。だが彼女はその代償として通常の視力を失って、覗き込んでいるとは言っても、何の光景も見えてはいないのだ。
彼女を導くのはただ一つ。その白の眼が持つ、強力な未来予知の力のみ。
男が一つ苦笑して立ち上がると、その見えぬ虚ろな目をぱっちりと開く少女に、呆れたように警告した。
「まったく……貴女様はなぜそう奔放なのか。少し前まで囚われの身だったとは思えません」
「囚われ……とはいっても、ただ言われた通りに未来を見るだけでしたからねぇ。むしろ、生活を補助してくれる分それまでよりもずっとマシな生活が出来てましたよぉ?ちょ〜っと扱いが荒いのは不満でしたけどぉ」
そんな何とも言えない能天気な話し方に、男が小さく呆れるように笑う。視界を失っているというのに発揮されるそのたくましさは正直賞賛すべきモノではあるが、流石に自身の立場くらいは把握してほしいものだと、男が困ったような顔を浮かべた。
と、不意にその白い瞳が魔力を帯びる。「お、おぉ?」と少女がこめかみに手を当てて、何歩か小さく後退した。それを察した男が即座に駆け寄って、バランスを崩した少女を支える。
「……また、視たのですか?」
「んー、みたいだねぇ。……へぇ、珍しいなぁ」
少女が目を丸くして、人が変わったかのような口調で言いながら面白そうに笑みを浮かべる。その表情に男が疑問気な表情を浮かべて、「どうしたのですか?」と首を傾げた。少女は小さく微笑むと共に体を起こして、その身に纏う巫女としての礼服を揺らして、トントンとブーツを鳴らしながら走り出す。
困惑する男に少女がその真っ白な視線を向けて、ニッとその星のように眩い笑顔で声を上げた。
「私、ちょっと出てくるね。面白い子を見つけたんだ。『白の巫女』として、この未来は放置出来ないねぇ」
……そうして、堕ちた英雄の探し求めるその少女は。
――『白の巫女』は、開け放たれた窓からその身を踊らせた。




