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第70話『交差する勇者たち』

 その日の始まりは何も特別な事もない平和なもので、いつも通り7時半を回ったというのに起きる気配のない兄に溜息をつき、朝食を取ってから制服に着替え、両親の見るニュースを横からボンヤリと聞き流す。

 あの怠け者の兄は両親を、私も含めて『朝が早い』と形容するが、私達に言わせて貰えばむしろあちらの朝が遅過ぎるのだ。


『恋華はああなっちゃダメよ、生活リズムを崩したらどんどん身体壊してくんだから』


『分かってるよ。心配しないで』


 母のそんな言葉に笑って応えて、コップになみなみ注いだ牛乳を一気に流し込む。空になったソレを流し台に持って行ってから軽く手を濯いで、手首に付けていたゴムを外し、肩甲骨に届くか届かないか程度の髪を纏めて縛った。

 このゴムはいつ買ったものだったか……ああ、そうだ。何年か前に、縁結びの効果がある神社で売っていたんだ。『縁を辿る』とか何とかという売り文句が引っ付いていたが、買ったのは純粋に何となくデザインが気に入ったから。


 縁結びの効果なんて信用していなかったが、やはり出会いなんてこれっぽっちもなく、兄と同じように誰かと付き合った経験なんてゼロだ。あの兄と同じように高校になるまで相手の一人も見つからないなんて事は避けたいところだが、肝心の相手が見つからない。

 遂にこの前仲の良い友人にも彼氏が出来たらしく、勝ち誇られたので思わず口汚く罵ってしまったの良い思い出だ。付き合いも長いので心地好さそうにドヤ顔をされたが、結構言いたい放題言ったような気がする。


 だが私は謝らない。年齢=彼氏いない歴同盟の誓約を破った罪は重い。


 鞄を肩に下げて引っ張り出し、通り慣れた通学路を通って中学へと向かう。今年の初めまでは兄も同じく通っていたのだが、兄が高校に入ると共に行きは別れて出発するようになった。

 少しばかりの寂しさを感じないでもないが、しかし別に不満に思う程でもない。通学途中に遭遇した友達と軽く会話をしながら駐輪場に自転車を停めて、校舎へと足を進める。


 何気無い日常、いつも通りの光景だ。週明けの登校初日の宿命か全身が怠いのは、まあ仕方のない事だろう。憂鬱な学校もまた、学生の楽しい日常の一ページだ。


 日常に、なる筈だった。



『五十嵐さん!居るっ!?』


 そんな緊迫した表情と共に一時間目の途中に教室に滑り込んできたのは、担任である理科教師だ。彼女は普段、心優しく穏やかな人物なのだが、そんな人がここまで慌てて居るのも珍しい。一体何事かと、クラス中の視線が彼女の方に集まった。

 当然、次第にその名を呼ばれた恋華にも注目が集まる。担任は恋華の姿を捉えるとすぐに彼女に駆け寄って、その肩を掴んだ。


『五十嵐さん、落ち着いて聞いてね……今、ご家族の方から連絡があったんだけど――』


『……っ!』


 その報せは、あまりに唐突過ぎた。


 人生初の早退は、あまりに味気ない。心を埋め尽くす緊迫感がそんな余裕を生み出さず、ただ全身を支配する恐怖だけが陸上で鍛えられた両足を回す。乱暴ながらもカゴに鞄を放り込んでペダルを思いっきり踏み込めば、チェーンが廻って後輪を力強く回転させた。



 ――五十嵐さんのお兄さんの通って居る高校で、原因不明の爆発事故が起こったって……お兄さんの無事も判明しなくって、ご両親が、すぐに帰ってくるように、と……!



 ガラガラと車輪を回して、未だ朝日の差す道を行く。嘘だ、嘘だ、と心の中に現実を受け入れようとしない弱音が反響して、さらに恋華の冷静さを奪い取って行く。

 その焦りが原因か、それとも元よりそういう運命だったのか、それは分からない。信号のない道を横断しようとした時に、彼女は死角の道から出てきたトラックに気付けなかった。


 プツリ、と、首の後ろ辺りで何かが千切れる音がする。何だろうと振り返ると、長年使い込んでいた縁辿りのヘアゴムが千切れて、宙を舞っていた。パサリと纏められていた髪が広がって、風に大きく揺れる。

 その黒髪の後ろから大きなクラクションの音が鳴って、次いで全身を凄まじい衝撃が襲った。


 全身の感覚が一瞬にして遠のいて、意識がどんどん薄れていく。視界に黒い斑点が徐々に浮かび上がって、やがて目の前を真っ黒に埋め尽くした。


 周囲で起こる喧騒が少しずつ小さくなって、掠れるように絞り出した声はしかし何の音にもならない。形容し難い喪失感のようなものが体の節々で起こり、どうにも心地悪い。

 動きの鈍い右腕を持ち上げて、いつの間にか地を這っていた体を引き摺るように前進する。ただ脳裏には、あのヒョロっちい、しかし優しかった兄の姿が浮かんで、しかしそれもやがて消滅した。



『…………お、に……ぃ、ちゃ、……ん』



 呂律が回らない。すぐに辛うじて動いていた腕もその機能を停止して、全身を酷い寒気が包み込んでいく。冷える全身を温めようと体をさすろうとしたが、しかしもう指先すらピクリとも動かなかった。



 ――“縁辿り”の力、か。丁度良い、キミも此方へと招待してあげよう……最も、その状態のキミを、キミであるまま再構築するのは不可能だけれど。



 そんな、妙に頭に響く声が聞こえて、薄く目を開ける。しかし相変わらずその光景は真っ黒で、何一つ視界には映らなかった。混濁する感覚が完全に閉ざされて、ボンヤリと灯っていた小さな命の灯火も、やがてその輝きを終える。完全に自意識が融けて、五十嵐(イガラシ)恋華(レンカ)という一人の人間の命は、今この時、完全に潰えた。




 そして、彼女が再び目を覚ました時。


 世界は、一変したのだ。












 ◇ ◇ ◇












 パチリと目を開ければ、まず最初に目に入ったのは埃っぽい空間とその先に見える木製の扉だ。ついさっきまで周囲を囲っていた魔道具の山は綺麗さっぱり無くなっていて、そもそも部屋の構造から違うように見える。

 足元には輝く魔法陣がその魔力を少しずつ放出していたが、やがてその内包した魔力を消費しきったのか、すぐに光を失っていった。


 辺りを見渡せばナイア、エマは勿論、メイリアやレコーアもしっかりと存在している。もしや、先程の魔法はまたメイリアお得意の分解、郵送、組み立てセットなのかとも一瞬思ったが、しかしそれ特有の頭痛も発生していない。


 恐らくは、完全な転移魔法。メイリアが普段使っているのであろう擬似的なソレとは違う、正規の手順を踏んだ長距離瞬間転送術式。


 だが、その転送先が分からない。周囲は薄暗い壁に囲まれていて、窓の一つだって存在しない為に外の様子は分からない。ともすれば、ここが地下であるという可能性もある。


「……なんだ、ここ」


「アヴァロナルからはちょっと離れたかな、まあ外に出れば分かるよ」


 メイリアがそう言って歩き出して、眼前にあった扉を開く。どうやらその奥は階段のようで、先は上に繋がっていた。彼女はトントンと、軽い調子で階段を上っていく。レコーアが何か言いたげにチラリとクロの方を向いて、しかし言葉に詰まったように目を逸らすとメイリアの後を追った。


 ナイアが一つ首を傾げたが、クロの手を引いてその後を追う。彼女の誘導によってクロが移動を始めたのを見て、エマがその背後に周囲を警戒しながら続いた。


 先に行っていたメイリア達は既に階段の最上に到達しており、そこにある扉の隙間からは光が漏れ出している。クロ達が来たのを確認したメイリアは、ポンとレコーアの頭を撫でてその扉を押し開けた。


 眩い輝きが扉から差し込んで、その陽射しに思わず目を覆う。少しだけ目を慣らしてから階段を登り切れば、やがて扉の外の風景が視界いっぱいに広がった。


「……は?」


「驚いたでしょ。魔界首都『トーキョー』、かつて『最低最悪の魔王』がその拠点として築き上げた理想都市……まあ、彼の配下と言えるのは『四黒』の他の面々だけだから、何でわざわざこんな凄い街を造ったのかは謎なんだけど」


 メイリアがそう笑って指したのは、眼前に広がる街の風景だ。

 いや、それはいい。それはいいのだが、街がおかしい。クロがそれをおかしいと言うのも妙な話だが、しかしながらこのアルタナという世界に於いてその風景は明らかに異質なモノだった。


 無数のビル群や店、住宅の建ち並ぶその街はどう見たってクロの知る『東京』そのもので、明らかに“魔界首都”なんて肩書きが似合う場所ではない。


「……東京、だよな。これって」


 呆然と呟いたその言葉が聞こえたのか、ピクリとレコーアの肩が震えた。彼女はなにやら懐かしむような瞳で眼下に広がる街を一望して、その両手に収まる杖をギュッと握り締める。

 そういえば、彼女は孤児だと聞いた覚えがある。だとすると、昔にこの街で暮らしていた事でもあったのだろうか。


 ふと気になって思考を巡らせていると、突然街を一望したナイアが、その目を輝かせて走り出す。ワンピースから覗く背中から唐突に白銀の甲殻を持つ龍翼が広がる。

 彼女は一息に翼を振り下ろすと、その反動で風を受けて一気に空へと舞い上がった。風を受けて気持ち良さそうに飛翔したナイアは上空で翼を羽ばたかせて対空すると、滑空するようにビル群の隙間を抜けていく。


「――クローっ!凄いよここ、街中に魔力があるっ!飛んでると凄い気持ちいい!」


「……飛ぶのもいいけど、あんま遠くに行きすぎんなよ!それか、遠くに行っても良いけど待ち合わせ場所指定しとけ!」


「それじゃあ、あの凄い高い塔のとこー!お昼くらいに行くー!」


 はしゃぎ回るナイアにそう言って指示すれば、彼女も声を張り上げて街の中心辺りに建つ巨大な塔を指差す。明らかに東京スカイツリーをモデルにしているのであろうその建造物は相当に高く、明らかに本物よりも高いように見えた。

 彼女はくるりとソラで体を回転させると、一気に翼を倒して急速に下降していく。そんなナイアを見送ってから改めて街を見渡せば、確かに彼女の言う通り街には魔力が溢れているように見えた。


 相変わらず視界に映る赤い靄が煩わしいが、それでもこの光景が懐かしく映るのは変わらない。いつか必ず戻ると決めた世界が、今目の前に似ているだけとはいえ存在している。

 何よりも求めた景色だ。絶対に取り戻すと願った、本来の『日常』の風景。


 だが今は違う。戻るのは、まだ先だ。


 ここがメイリアの言う通りに『魔界首都』であるならば、それはつまりここは城下町……魔王城の領域であると言うことに他ならない。それはつまり、『白の巫女』の情報が現状最も収集し易い場所であるとも言える。


『白の巫女』を奪ったカルロという魔族は、魔王軍の所属だ。であれば多少なりとも此処にその痕跡が――運が良ければ、此処で『白の巫女』を見つけ出せる可能性もある。


「あの魔法陣ね、昔私達が『四黒』討伐の旅で使った、トーキョーとアヴァロナルを繋ぐ固定式転移魔法陣なの。本来一人では原理上絶対に行使できない多人数転移魔法を使うための、いわば座標指定ポータル……魔力を注げば誰だって使えるから、普段はああやって使用を制限してるの」


「……そりゃそうか、人口管理クソ喰らえみたいな事してる訳だしな」


 これまで訪れた街は、全て入る際に名簿への名前の登録を求められていた。流石にそもそも文字を使う文化のないナタリスの集落では無かったが、恐らくそれらは人口管理のためのものだろう。


 その街に今現在どれだけの人が住み、どれだけの人が滞在しているのか。それらが政治を行う上で重要な事なんて素人のクロでも理解出来る事であり、最もな理由に納得する。

 元々この転移魔法陣だって、共栄主世界戦争(ワールド・エゴ)にて『四黒』と戦うためのものだったのだ、後にも自由解放なんてしている訳がない。


「……え、でもいいのか?そんなの使っちまったら人口管理の意味が……」


「私が把握してるから大丈夫よ、これでも立場的にはお偉いさんだからね」


 ドンと胸を叩くメイリアはその懐のポーチから青い結晶を取り出して、ひょいと地面に放る。結晶は空中で崩壊したかと思えばその体積を増大させ、やがて人一人が乗り込める程度の極小の船のような形を取る。

 どうやら例の如く魔力を帯びているようで、なにやら微妙に浮いているらしい。船の内側にある取っ手はどうやら魔力を通す為のパスのようで、乗り物の様にも見えた。


「擬似的な飛行用のアーティファクト、レコーアちゃんは降りる時と帰りに使うように。危ないからね」


「は、はい!ありがとうございます!」


「ん、よろしい」


 レコーアのすっかり元気を取り戻したらしい返答にメイリアがニッと笑って、彼女の頭を優しく撫でる。メイリアはもう二つ同じ様な結晶体を取り出すと、クロ達に見せる様に手のひらの上で広げた。


「キミ達も要るならあげるけど、どうする?」


「ああ、よく見りゃ階段無いのか……いいや、これくらいの高さなら普通に降りれる」


「オッケー。それじゃ私はさっきの転移魔法陣紹介したかっただけだし、一回戻るね。まあゆっくりしてくるといいよ、ここなら色々と情報も集まるでしょ」


 メイリアはくるりと踵を返して、先ほど出てきた階段を駆け足に下っていく。「またね」と軽く手を振ってくる彼女を見送ってからチラリと振り返れば、レコーアが屋上の端に寄って眼下の光景を眺めていた。


 そんな彼女の様子を見たエマが訝しげに顔をしかめたが、しかし直ぐに目を閉じて興味も無さそうに周囲の警戒に移る。どうやら彼女にとってもこの光景は慣れぬものらしく、どうにも警戒心が普段に増して強まっているように見えた。

 言えば従うだろうが、しかし断らないと分かっていてあまりアレコレと命令を出すのも気が引ける。これ以上彼女の意志を縛り付けるなど、クロとしてもなるべく避けたいのだ。例えそれが、独り善がりだと分かっていても。


「……レコーア。付いてきたって事は、行く場所でもあったんだろ?俺達は俺達で回るから、好きに回ればいい。帰る時も、俺らを探す必要はないぞ」


「……ぇ、あ、……、そ、その……」


「……?どうした」


 妙に言葉に詰まるので、一体どうしたのかと聞いてみる。が、しかし彼女は何かに迷うように視線を彷徨わせると、「……ごめんなさい、なんでもない、です」と逃げるようにアーティファクトへ乗り込んだ。

 妙な違和感を感じつつも別に追求するつもりも無いので、トンと屋上から跳んでビル群の建ち並ぶトーキョーの街へと身を踊らせる。叩き付けるような暴風が全身を襲って、風圧がクロの髪をグシャグシャに吹き上げた。


 それを気にした様子もなくくるりと体を回して、ビルの壁へと足を伸ばし、靴底で一息に壁を蹴る。新たに加えられた力のベクトルによって下への勢いを削ぎ、周囲に人の少ない路地を選んで滑るように着地した。

 本来なら即死必然の行為だが、生憎と今のクロのステータスはこの程度で傷が付くほどヤワでは無い。精々気を付けたと言っても、着地の衝撃で道が壊れないか程度のものだ。


 次いでエマも器用にビル群の壁を蹴って伝い、横方向への動きを大きくする事で下への力を分散させていく。やがて街灯の一つに手を掛けた彼女はくるりと宙で一回転してから、見事に勢いを全て殺して着地した。


 側から見れば完全に人外の所業だろう。が、別にそんな事を気にするつもりも無いし、長いの予定もない。すぐにやるべき事を終わらせて帰ろうと、適当な人物に聞き込みを――



「……五十嵐君?」


 ――それは、紛れもない日本語だった。


 自動翻訳される、明らかに知らない言語であるはずなのに意味の伝わる普段の声ではない。明らかに、意味を直接理解できるあまりに聞き慣れた言語。それも知った声音であり、ふと思い当たる節を思い浮かべて急ぎ振り返った。


「八重、樫?」


 肩ほどまで伸ばされた茶髪に、同色の瞳。以前纏っていた深緑のローブは変わらず、所々に見慣れない装備を身に付けている点以外は、殆ど変わらないように見える。だがその内包魔力は以前とは桁違いで、その実力は相当に高まっているのだと瞬時に理解した。


 そして同時に、何故ここに居るのかと。

 クロが人界を離れて、たった三ヶ月。その短い期間の間に、どうやってこの地までやってきたのか。そして人界を襲っていたあの大量の魔王軍達は、一体どうしたのかと。


 彼女がここに居る。それだけで、数多の疑問が膨れ上がってくるのだ。



 そう。



 ――八重樫(やえがし)紅葉(くれは)。かつて別れたクラスメイト達の内の一人は、その焦げ茶色の瞳に、ただ困惑を浮かべていた。

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