幕間『失くしたものを取り戻す為に』
街は、前日の静かさと打って変わって、いわゆるお祭り騒ぎといった状態だった。
街中で人々が歓声を上げて、道端では酒がなみなみ注がれたジョッキが打ち合わされる。街の中心に立つ城ですら兵士たちがその槍を掲げて、成された偉業のあまりの大きさに酔いしれ、皆一様に“彼”を讃えた。
各地の酒場は既に満席で、どこもかしこもどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。普段はそういった騒ぎを嫌う貴族達も、今日ばかりは大掛かりなパーティーを開いて、共に英雄を祝福する。
『黒妃』が倒された。
その報せは一瞬にして魔界中に響き渡り、世界を数千年に渡って脅かし続けてきた災厄の消滅に、全世界が湧き上がる。『黒妃』に家族を殺された者は予期せぬ葬いの機会に涙し、戦友を失った者は倒しようの無かった仇の死に歓喜の咆哮を上げた。
『真祖龍』、『黒妃』、世界に轟く絶対悪である『四黒』の半数、現代に残る神話の負の遺産を全て討ち取った『イガラシ・クロ』という英雄の名は、瞬く間に知れ渡ったのだ。
だが、人々は知らない。
彼の身に深く刻まれた、身を滅ぼす呪いを。
彼の心を強く蝕むことになる、人形の存在を。
◇ ◇ ◇
「……ごめん、なさい。私が、『黒妃』の誘導なんて頼んだせいで」
「違う、アレはどうしようも無かった事だ。『黒妃』と『オーディンの槍』が通じてるなんて誰が知ってたよ、あんたのせいじゃない」
アイリーンが深く頭を下げて謝罪し、クロが無感情な声でそう否定する。彼の風貌は以前会った時と様変わりしていて、左半身の痣はより広く範囲を広げ、黒かったその両眼は左のみ紅く染まっていた。クロが元居た世界で言うオッドアイのようなソレは、元々『源流禁術』の発動時のみ起こっていた事象だ。
ちょうど、変色した瞳の上。左眼に掛かる前髪のみ白く色が抜けており、元あった艶は少しも残っていない。
その要因の一端たるキルアナとジライヤは、いつの間にか姿を消していた。果たして逃げたのか、それとも今もあの墜ちた城に潜んでいるのかは分からないが、どちらにせよあの傷では暫く動けないだろう。
浮遊島は、度重なる戦闘の余波によってその身を削り、島を持ち上げるための鉱石は効力を失って、トドメはあのクラウソラスだ。空を貫くほどの巨剣の直撃を三度も受けた島は、すぐにその浮力を失い、やがて大地へと墜落した。
結局、『オーディンの槍』の重要参考人たる二人の行方は掴めず、本拠地かと思われていた城もダミーに過ぎなかったそうだ。中に居た構成員達は皆肝心の組織についての記憶を消去され、掴めたのは記憶消去を行える程の術者がいると言う程度の事。
可能性のあるキルアナはあの状態だったので、少なくとも彼女以外に高位の術者が居るのは間違いないと見て良いだろう。
クロの淡々とした報告を受けるアイリーンは少しだけ目を伏せて、申し訳無さそうに視線を横に逸らす。その視線の先には腰の大剣の柄に手を添えた銀髪の少女がおり、そのナタリス特有の紅い瞳は静かに閉じられていた。
と、唐突にその眼が開き、アイリーンの瞳を見返す。
「貴女の、その憐れみの意図が分かりません。我が身への侮辱のつもりですか?」
「……そ、そんなつもりは……っ」
あまりに無機質な声だ。何の感情も感じさせないような、氷のように冷たい声音。それはアイリーンの知る無口な、しかしとても優しかったエマという少女とはあまりにもかけ離れていて、こちらを睨み付ける眼光は刃のように鋭い。
しかし怒気が含まれているというわけではなく、そも全く心を持ち合わせていないかのような、機械の如き無色の圧力。それはかつての彼女とは少しも似ておらず、背筋が凍りそうになる。
「やめろ。話すな」
「しかしながら王。私への侮辱は、私を生み出した王にも直結します。従者として、そのような狼藉は」
「――話すなっつったろうが。その声で、その体で、お前が勝手に喋るなって」
ゾッ、と。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけではあるのだが、アイリーンは、本気で死を覚悟した。
クロがその怒りと苛立ちを孕んだ声でエマに言えば、彼女は途端に口を噤んで引き下がる。頭を下げて謝罪の意を示すと、先程までと同じように部屋の端で立ち尽くした。
初めて二人と会った時の、あの初々しい恋仲のような仲睦まじい様子はどこに行ったのか。一体何があったのかと彼に聞いても『俺のせいだ』としか言わず、肝心のエマもあの様子で、取りつく島もない。
『真祖龍』、そして『黒妃』の討伐。
この数千年間、誰にも成し得なかった偉業をこの短い期間で二つも成し遂げた英雄は、しかしその代償として大切なものを失った。それはまるで、今はもう殆ど失伝してしまった、とある英雄の物語のように。
どうしようもないほど、彼の心は死んでしまっていたのだ。
――
「……クロ」
「ナイアか、悪いな待たせて。首の傷はもう大丈夫か?」
「うん、それは大丈夫。クロの魔力分けて貰ったし、今もちょっとずつ再生促進の魔法掛けてるから」
ナイアがその肩ほどにまで掛かった金髪を掻き上げて、首の後ろにある傷跡を見せてくる。今こそ塞がって跡が残る程度だが、元々そこにはキルアナによって穴を開けられていたのだ。
竜種の治癒力によって大事には至らなかったが、それでも大怪我には違いない。無事に治癒出来て本当に良かったと、内心胸を撫で下ろした。
その小さな頭をぐしぐしと撫でてやれば、彼女は心地よさそうに目を細める。しかしながら、ナイアは少しだけ目を逸らしてエマの姿を視界に捉えると、気まずそうに顔を曇らせた。その意図を察して、クロもまたギリ、と歯を噛み締める。
――エマは、より正確に言うならば、エマの魂は消えてしまった。
勿論、魂と魔力の癒着による治療が失敗していた、という訳ではない。むしろあの治療法はこれ以上無いくらいに成功していて、エマの肉体はこれ以上無いほどに健康だ。しかしながら問題は、魂と魔力を結び付けてしまった、という所にある。
契約、従属の魔法。本来は罪を犯した罪人に施す、所謂奴隷紋のようなモノであり、対象者に術者、または主人と定められた者の命令を強制的に守らせる。しかしながら自由意志までは許されており、命令さえこなせば、それ以外の思考、行動は自由だ。
その基盤は、魂に干渉する事で枷を設定し、特定の存在の命令を魂の奥底に強制するよう指令を掛けるというものだ。クロが施した治療はソレによく似ており、魂の殆どを喪失し掛けていたエマの器に、まっさらな魔力を注ぎ過ぎたのだ。
一度ヒトの体を通された魔術は、指令を待つため待機状態となる。それと同じように、エマの魂に癒着した魔力の塊は、その主人たるクロの指令をただ果たすだけの装置という性質を、残り火のように小さく存在していたエマの魂に上書きしてしまった。
結果、エマの自意識は消失して、このようにただ忠実な駒としてしか動かなくなったのだ――と、アイリーンに借りた資料と、かつて召喚直後に王城の大図書館で読んだ内容と照らし合わせ、推測する。
つまり、今エマの肉体に収まっている魂は、ただクロの命令に従うのみの人形でしかないのだ。
嘘だよ、と言ってほしかった。
冗談、と笑ってほしかった。
そういう彼女に『意地の悪い冗談はやめてくれ』と笑って、安堵の溜息を吐きたかった。けれどそんな声など何処からも聞こえて来なくって、エマの瞳には冷たい輝きが宿るのみ。
「……悪い、ちょっと席外す。先に宿へ戻っといてくれ」
「……分かった。あんまり、遅くならないでね」
ナイアが悲しげにそう答えて無言で佇むエマの手を引き、馬鹿騒ぎの続く街を小走りに進んでいく。遠くなっていく二人の背中を見送ってから、クロは一人街の裏路地へと足を向けた。
コツ、コツ、とブーツの踵が鳴って、誰の姿も見えない狭い道を一人進んでいく。周囲の建物に遮られて陽の光すら入り込まないそこは、誰の目にも付かない場所だ。ここならば誰かの迷惑になる事もなく、誰にも見られる事はない。
倒れ込むように壁際に座り込んで、両の手で顔を覆う。ふつふつと抑え込んでいた感情が湧き上がって、それを無理矢理に押さえ込もうと拳を地面に打ち付けた。
すると『源流禁術』も使っていないというのに、いとも簡単に踏み固められた地面が砕ける。『黒妃』を殺したからか、またステータスが上がっているのだろう。加減したつもりだったが、匙加減を見誤ってしまったらしい。
そうして思考を別方向に逸らそうとしてみるも、しかし脳裏から、あの時の彼女の顔が離れない。あの時の彼女の声が離れない。
――や、やだっ!やめてっ!お願い……っ!そんなの嫌……っ、わたし、失くしたくない……っ!
――違うっ!そうじゃないのっ、そんな事になるくらいなら、死んだ方がいいっ!お願い、奪わないで……っ!それだけは、絶対に……!
当時は、その意味がまるで分からなかった。必死だったのもあっただろうが、しかし落ち着いていたとしても結局は同じ結論に辿り着いていただろう。エマの魂を救う方法はそれしか思い付かず、今もそれ以外には無いと考えている。
しかし、それでも。
「……っ、ク、ソがぁァッ!!」
いつかの時代のチンピラじみた罵倒を吐いて、拳を振るう。拳が地面に突き刺さる度に地面を覆う砂が巻き上がって、細く……しかし巨大なヒビが、少しずつ辺りに広がっていった。
何度も、何度も何度も何度も、何度も拳を振るう。その度に拳が切れて血が流れ、しかし一瞬の内に黒い痣が傷を覆い隠していく。今や意図して『源流禁術』を行使しなくとも、多少であれば傷を即座に再生するようになってしまっている。
怒りのまま、後悔のまま、悲しみのまま、ごちゃ混ぜになった感情を満たすためだけに、ただただ何度も拳を振るう。
自分のせいだ、自分が何も知らずにあんなことをしたから、エマはああなってしまった。
じゃあどうすれば良かったんだ。他にどうすればエマを救えたと?
知る訳がない。けれどエマの願いを、懇願を無視して、エマをああしたのは自分だ。
ふざけるな、理不尽も大概にしてくれ。エマを見殺しにしていれば良かったとでもいうのか。
せめぎ合う自責の念と理不尽な状況への罵倒がクロの心を蝕んで、行き場のない怒りが拳に籠る。口からは声にならない叫びが上がって、更に彼の精神を食い潰した。
彼女の笑顔は、もう二度と見られない。彼女のあの優しい声も、もう二度と聞けない。今エマの身に在るのは笑顔でも優しい声でもなく、無感情な顔と冷たい声だけだ。
「え、ま……っ、エマぁ……っ!」
彼女をこれ以上、傷付けさせはしないと誓った。力を得て、その誓いを果たせると、身の程も弁えずに思い上がっていた。だが、これでは何も守れていないではないか。
エマを傷付けさせない?ふざけるな、今の彼女を見ろ、傷付いたなんてものじゃない。彼女は他でもないクロに傷付けられて、その意志を奪われたのだ。ナタリスの家族達になんと言えばいい、どう顔向けすればいい、殺されたって文句は言えない。いや、それ以前に――
――彼女自身に、どう謝ればいい。
「ぁ、ぁあぁあああぁ……っ、ぁぁ……!」
呻くようにそんな声を漏らして、額を地面に擦り付けて、涙を無遠慮に垂れ流して、再び強く握りこんだ拳を叩き付ける。みっともなく喚き散らして頭を掻き毟り、やり場のない衝動を発散する方法を探すように暴れた。
くそ、くそ、くそ、という罵りが行き場を無くして反響し、やがて消えていく。
憂いは、少しだって晴れようとはしなかった。
「――どう、したの?」
「……?」
ふと、誰もいない筈のこの路地裏にそんな声が聞こえてきて、涙でグシャグシャになった顔を上げる。少しばかり視線を動かせば、すぐにその姿を捉える事が出来た。
「……ルーシー、か」
「……やっぱり、お姉ちゃんのこと?」
「……っ」
唐突に現れた少女の言葉に図星を突かれて、思わず言葉が詰まる。ルーシーはそんなクロの様子を察したのか、申し訳無さそうに目を伏せた。
ルーシーには、騒動の間一切の記憶が無いらしい。ナイアによるとキルアナの魔法で催眠を掛けられていたらしく、騒動中意識こそあったものの、彼女が正気を保っていたのは一瞬たりとも無かったのだろう。
結局、キルアナ達がルーシーを攫った理由は分からずじまいだ。これも聞いた話ではあるがルーシーの手を借りて儀式を執り行っていたらしく、その儀式は古代のモノであるためにナイアには解読できなかったそうだ。
だが、ルーシーの魔力神経の痕跡を検査したところ、何かしらの情報が抜き取られているというのは確かだったそうだ。となるとキルアナが行ったのは、ルーシーの知識の一部の抽出、ということになる。
ごく普通の家庭の出であるルーシーから何を知りたかったのかなどまるで分からないが、ルーシー本人に特別な覚えはない、という。仮にあったとして、それを抜き取られたせいで忘れてしまった、という可能性も無くはないが、今更言ってもどうにもならない。
話を戻すが、ルーシーには全ての事情を隠し、これまで通りに接する……という結論になろうとしていた。しかしながら時は既に遅く、カイルによって全ての顛末を聞かされた後だったのだ。
故にエマがああなってしまった事も、それに関する事なのだと理解してしまったのだろう。
だが、その罪悪感は違う。ルーシーは何一つ気にする必要はないのだ。だってあれは、自分のせいなのだから。
「……ごめんなさい、って、謝っても、きっとお兄ちゃんは否定するよね」
「……ルーシー?」
様子が、おかしい。
見ればバチン、という音と共に、ルーシーの周囲に魔力が走る。クロの左眼に移る紅い流れが何故だかルーシーの周囲に集まり始めて、それらはそのままルーシーの両眼へと注ぎ込まれていく。
じわ、じわ、と彼女の眼が徐々に色を失って、両の瞳の色彩は白銀へと染まっていった。そしてその眼には膨大なまでの魔力が含まれており、「ぅ……」と小さくルーシーが呻く。
「……白の、巫女様」
「……ルーシー?何言って……」
「……この街からずーっと離れた所に、白の巫女様っていう人が居るんだって。その人に頼んだら、お姉ちゃんを元に戻せる方法、分かる、かも」
「――!」
文献曰く。
白銀の眼を持つ者は本来誕生する筈がないが、例外としてとある特殊な魔眼を持つ者のみ、その眼を持つ事が可能となる。その魔眼は一般に“白の眼”と呼ばれ、主に二種類存在する能力のどちらかを持つのだそうだ。
一つ目は、この世全てを見通す力。自身が現在存在する世界全てを見渡し、全てを知る事ができる千里の眼。
二つ目は、全ての未来を見渡す力。この先に続く無数の未来の出来事を観測し、人々に掲示する超刻の眼。
「……ルーシー、お前は」
「みんなには、内緒にしてて。この眼はあんまり知られちゃいけないって、言われてるから」
ふと、ルーシーの眼が元の蒼に染まり直す。集っていた魔力も一瞬にして霧散し、彼女が纏っていた輝きもスッと薄れていった。唐突にその体が力を失ったようにがくんと崩れて、慌てて手を伸ばし抱き留める。
その小さな肩を支えて様子を見れば、彼女の全身には魔力がごっそりと失われていた。
「お、おいっ、ルーシーっ!?何を……!」
「……だいじょうぶ、ちょっとつかれただけ……ほんと、うは、こんなこと、しちゃ、ダメ……なんだ、けど」
彼女は息も絶え絶えと言った様子でそう呟き、慌てた様子のクロにニッと笑い掛ける。確かにその身体の異常は魔力欠乏による症状とよく似ていて、クロが魔力を渡せばすぐに多少の改善を見せた。
「……ねぇ、お兄ちゃん。すっごく、苦しくって、辛いと思う。けど、それでも、それでもお姉ちゃんを、助けたいなら」
再び、ほんの少しだけ、その眼が白く染まる。今一度ルーシーの体からごっそりと魔力が抜けて、一気にその意識が薄れた。
「……『英雄が眠る街』、に。きっと、巫女様に、会えるから」
こうして。
――クロはこの日、戦い続ける理由を得た。




