第60話『Re:berth』
――全ての始まりは、あの炎の景色だった。
その原因が何だったのか、今になってはもう覚えてはいない。ただ、未だこの世の理不尽というものを知らなかったその少女は、ただ何を憎むでもなく、何かを憎む事すら出来ず、家族に引かれる手を追って走る事しか出来なかった。
息を切らして尚止める事なく足を動かしていると、不規則に大地が大きく揺れる。それは何度も地震が断続的に起きているという訳ではなく、今まさに彼女の目の前……自身の手を引く両親に直撃した、轟々と燃え上がる炎弾が原因だ。
一瞬にして両親の姿が炎に包まれ、髪が燃え、肌は焦げ、やがてロウソクが溶けるようにドロリと蒸発するのを、少女はただ見ている事しか出来なかった。爆風が少女の体を吹き飛ばして、数度バウンドしてから、道の横にあった崖下に放り出される。
全身を包む浮遊感に襲われながら最後に見たのは、朱く空を覆う厚い雲だけだった。
――
『……ちょ、おいおいおい……っ、漂流者って奴か……?洒落になんねぇぞ……流石に、城に連れてったら介抱して貰える……よな』
微睡む意識の奥底で、ぼんやりとそんな声を聞いた覚えがある。
その声音はとても優しくて、肩から感じられる手のひらの感触はとても暖かくって、どうしてもその声の主の姿が気になったので、鉛のように重い腕を懸命に動かして、自身の肩を支えるその手をきゅっと握った。
どうしようもない程の眠気に襲われる瞼を必死で持ち上げて、少女はその人と初めて視線を交わす事になる。
真っ黒な髪に、同色の瞳。紅いヘアピンで長い前髪を寄せた少年は、心配そうな表情で少女の顔を覗き込んでいた。
この人なら、大丈夫だと。そう自分の“眼”が訴えかけてくるので、少女は自分の眼を信じて、今は眼を瞑って、体を休める事とした。慌てた少年は少女を背負い上げて、彼の拠点となる城に銀髪の少女を連れ帰る事となる。思えば少女が少年に恋をしたのは、この時からだったのかもしれない。
もっとも、それは何も知らぬ生まれたばかりの小鳥に、刷り込みを行うようなモノに等しかったが。
――
『だから……っ、あの子はそんな事しないっつってんだろうが!』
『無能が意見してんじゃねぇよ!だいたい、どんなにしおらしく見せたって魔族は魔族だろうが!だから弱ってるうちに殺しちまえって言ったんだ!』
『お前……、それでも人間かこのクソ野郎……っ!」
“見えてくる”その光景に眼を塞ぎ、全てを見通す紅い瞳を瞼の上からギュッと押さえつける。心無い男の言葉が彼女の胸に突き刺さり、白い髪を掻き分ければ現れるその長い耳に手を添えた。
それは、彼女が魔族である証。人族たる彼らと、魔族である少女の決定的な違い。
かつての時代、魔族は人界ととても長い間戦争をしていたのだと言う。魔族を束ねる王は人界へと攻め入り、一度はその領土の七割を奪い取った。王は支配下に置いた人間の民に圧政を敷き、奴隷のように扱ったとされている。
しかし、残った極少ない領土でも人族は諦めず、魔族を人界から追い返すチャンスを虎視眈々と願っていた。
そこに現れたのが、“救世の英雄”スカー・ジークフリート。かつて神すら殺したとされる最強の人類、『神殺し』の技を継いだ、聖剣『アヴァロナリア・エクスカリバー』の担い手である。
彼は『極点の魔法使い』『無重の王子』『王龍種の賢者』、そして一体の少女を仲間として旅を続け、その果てに魔族を魔界へと追いやっただけでなく、魔界へと進軍し、魔界を統べる王を討ち取って見せたのだ。
人族の面々はその報せに歓喜し、祝杯を挙げた。ジークフリート率いる五人を伝説の英雄として祭り、その勝利を讃えようとした。
だが、人々は凱旋した英雄の姿に、違和感を覚えた。
スカー・ジークフリートは、死んでいたのだ。物理的に、と言う訳ではなく、精神的に。
そして、彼らと共に居るはずの少女が、姿を消していたのだ。各地に話を聞けば、やがてその少女が死徒――つまりは、魔族だったという説が浮上したのだ。
人々は激昂した。あの魔族が、英雄ジークフリートの心を殺してしまったのだと。あの死徒が、讃えられるべき英雄を地に落としたのだと。人々はその魔族を悪魔――当時人界に伝わっていた宗教の書物の一文から、『アンラ・マンユ』と名付けた。
以降、打って変わって人族は魔族を迫害するようになり、人界ではただ魔族であると言うだけで奴隷以下の扱いを受けるようになった。少女がここまで無事に過ごして来れたのは、ひとえに“彼”と、彼を支える強き少女のお陰であり、しかし今その均衡は崩れようとしている。
王城で魔族を匿っている、と言う話は、すぐに噂となって広がった。人々の中では『王城に巣食う魔族を殺せ』という風潮が広がり、そしてその時王城には、魔族である少女を十分に殺せるだけの戦力が揃っていたのだ。
少年と強き少女は、決死の覚悟で周囲に訴えた。外界からの召喚者とされる彼らには『魔族』がどれ程に恐ろしいものなのか、という教育を施してはいたが、しかし少年は断固として譲らず、強き少女もまた少女の意志に従った。
しかしそれでも、総てを見通す眼を持つ少女には、周囲から向けられる悪意が総て突き刺さっており、それらは、純真な少女の心を打ち砕くには充分過ぎたのだ。
やがて少女は唯一、心から何一つ曇りなく自身に優しさを向けてくれる少年に、どんどんと依存するようになっていった。
――
『……死ね……ッ!死ねっ!!この下衆野郎が……!地獄に落ちろぉぉッ!!』
少年のそんな、煮え滾る憤怒の表情を、男は嗤って見下していた。
少女の体は力無く横たわり、下腹部に走る僅かな痛みをただ虚ろに眺めている。「ごめんなさい、ごめんなさい」とうわ言のように漏れ出る言葉は、今まさに男に蹴り飛ばされた少年へと向けられたものだ。
私が弱かったから、私が強くなかったから、少年に総てを捧げると誓った筈で、しかしその誓いを守れなかった今の自分に絶望し、そして失望する。
ごめんなさい、ごめんなさい、と、そう謝り続ける事しか、少女は考えられなかった。自分の為に激昂する少年の姿も、その少年をいたぶる男の姿も、そして人知れず周囲に集い始めていたそのドス黒い“何か”も、少女の万能の眼は捕らえられなかった。
ツー、と、一筋の涙が目尻を伝って、耳側に落ちる。
余裕なんて欠片もなくって、思考の一つすらままならない。この時、もう少し少年に眼を向けていれば、その悲劇を回避出来たかも知れないのに、しかし少女には、そんな考えなど少しだって浮かばなかった。
そうして少年は、少女を不幸にするこの世界を呪った。本質的にこの世界の敵対者と自らを定め、そして。
少年は、『最低の悪』に触れた。
――
『大丈夫だ。ずっと、一緒に居よう』
そう言って、真っ黒に染まった手が少女の頰に触れた。少女が少年の胸に額を押し付ければ、愛おしそうに少女を抱き締めてその髪を撫でる。その度少女は身を焦がすほどの熱に身を火照らせ、恥ずかしそうに笑った。
少年は、世界と敵対した。『最低の悪』と契約した彼は、その身を悪魔に捧げる事で、膨大なまでの力を手にしたのだ。彼の話す『お前が幸せになれる世界』へと渡るために、少女は総てを投げ打って少年の力となる事を決めた。
たくさん殺した。障害となる一切を全て切り捨てて、彼に貰った力を使って、何万、何億と殺した。それが、彼のためになると本当に信じて。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して――――。
ざくり、と突き刺したソレを引き抜いて、べとりと着いた血を振り払う。また少年に褒めてもらおうと、彼の姿を探して、ようやく彼女はその事に気付いた。
少年は、もう居ないのだと。
◇ ◇ ◇
紅い、電光が弾けた。
クロの瞳が一瞬にして赤く染まり、しかし鮮やかな輝きはそこに無い。悍ましいまでの怒りと絶望のみがその視線に込められて、莫大な殺気が全身から溢れ出す。
バチチ、という音と共に漆黒の痣がその範囲を更に広げて、とうとう少年の半身を全て覆い尽くした。バキン、という音を立てて、何か大切なものが崩れ去った気がする。
しかし、そんなもの今どうだっていい。自分がどうなろうが知ったことか。絶対に、絶対に、この化け物だけは殺すと、拳を強く握り締める。
『黒妃』はただ、そんなクロを何の反応も起こさずに見つめていた。
「――おま、えぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーッ!!!!」
バガンッと、瓦礫の山が大きく砕け散る。クロの全身が一瞬の内に消滅して、 瞬きに眼を閉ざす暇すらなくその拳が『黒妃』の腹部に突き刺さる。『黒妃』の外殻がその一撃のみによって砕け散り、その肉を一瞬にして抉り抜いた。
しかしその反動によってクロの右腕もまた、衝撃に耐えきれずに粉砕される。しかし『源流禁術』によって無理やり治癒を施し、一呼吸もする暇なく二撃目の拳が『黒妃』の頰を打った。
ばきゃり、とその頭から伸びるドス黒い角の一本が折れて、『黒妃』の体が部屋の柱へと叩き付けられる。当然のように柱は豆腐の如く崩壊して、支柱を失った部屋はこれまで散々痛めつけられた蓄積もあり、簡単に崩壊を始めた。
降り注ぐ瓦礫の山を物ともせずにクロはその拳を握り締めると、その力によって周囲の空気が瞬間的にクロへと引き寄せられる。同時に『源流禁術』によって圧縮された力をその右手一本に込めれば、圧倒的なまでの圧力が周囲一帯をまるで押し潰すかのように広がった。
衝動のままにトン、と、吹き飛ぶ『黒妃』に追い付いて、ただ一発殴り付ける。全力が込められた一撃により『黒妃』の手剣が簡単にヘシ折れて、即座にその体が黒霧を引きずって大地へと叩き付けられた。
だが、まだ終わらない。終われる訳がない。この程度で済ませてたまるものか、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる――!
「ぁ、ぁぁぁぁァァァァァァァァァーーーーッッッ!!」
右の拳を打ち込む。ゴキンという音と共に、『黒妃』の骨が外れる音がした。
左の拳を打ち込む。バキリ、という粉砕音が響き、黒霧の下で頭蓋が陥没した。
まだ足りない。もう一度拳を打ち込めば、ぶちりという音を立てて腕が一本弾けた飛んだ。ばしゃりと赤黒い血が散って、クロの頰を濡らす。
まだだ、絶対に許さない。『黒妃』の紅い双眸に手を伸ばせば、それを避けようとしたのか、手はもう一歩残る異形の角を掴んだ。逃げられないように握り潰さんばかりの力でソレを握り締め、両脚を共に『黒妃』へと叩き付ける。
大地が激震して巨大な穴を形成し、クロの怒りのまま拳を叩き付ける度に『黒妃』の体から血が巻き上がった。
『……aa……Aaaaaaaaaaa!』
「黙れ……化け物が……ぁッ!」
目の前の怪物が放つその声にそう罵って、掴んだ頭蓋に膝を叩き込む。ばきゃ、という骨が砕ける音がして、しかしそれでも許せないと靴底でその剣足の一本を踏み潰す。ぶちんと根元からその足が千切れて、黒く変色した脚らしきソレが遥か彼方に飛んだ。
一撃、一撃と拳を振り下ろすと、一度拳を振るう度に『黒妃』の肉体が無残に崩壊していった。それでも尚瞼の裏に焼き付いたあの光景が思考から離れなくって、その現実から眼を背けるように何度も、何度も拳を振り下ろす。
もはや、その拳には信念も何も存在しない。ただ怒りのまま、ただ感情のままに振り下ろすソレは醜く、合理性も何もあったものではない。『源流禁術』で加速されていなければ、そんな拳は簡単に見切られていたことだろう。
しかし、何故だか、同じ『源流禁術』を扱える筈の――こんな拳、簡単に見切れる筈の『黒妃』は、何故だかクロに反撃をしてこなかった。ただなされるままに、自分を何度も何度も殴り付けるクロに、何一つ抵抗せず拳を受け続けている。
その黒霧に覆われた全身は窺い知れないが、普通の血液なんかよりもよっぽど暗い色合いをした血液のような何かが、ボタボタと巨大なクレーターの底に溜まりを作り出していくのだ。
まるでそれが自分を馬鹿にしているかのように感じて、クロの脳裏にさらなる苛立ちが満ちる。ギリ、と歯を食いしばって、振り上げた拳を握り締めた。
「好き勝手して、好きに殺して、好きにいたぶって、楽しいか――!?……いや、楽しいんだろうな、お前らみたいな化け物にとっては……!死ね……ッ!死ねっ!!この下衆が……!地獄に落ちろぉぉッ!!」
全力の、全霊を込めた打ち下ろし。あまりの膨大な力に島全体が激震して、ただでさえ崩壊途中だった建物が更にその勢いを増していく。紅い電光はよりその激しさを増して、バチバチとクロの全身に浮かぶラインで弾け飛んだ。
背中から伸びる翼の根を掴み、引き千切る。残る片腕の肘に足を置いて、踏み潰す。剣のように変質した足はその金属部を打ち砕いて、『収納』から伸ばした剣で刎ね飛ばした。右腕、左腕、と交互にその拳を打ち込んで、『黒妃』の肉体を破壊していく。けれど、どうにも一つの違和感が拭いきれずに、硬く食い縛った口を開いて、クロが問いを投げた。
「……やり返せよ……っ、お前、敵なんだろうが……!敵なら敵らしく、最後までみっともなく足掻けよ!敵だからエマを殺したんだろうが!じゃあ、俺の事も殺そうとしろよ……っ!抵抗、してくれよ――!」
クロの煮え滾る怒りに冷水を掛けるかのような、その事実。先程から『黒妃』はまるで反撃も抵抗もせずに、クロの拳を受け続けている。無抵抗の相手をひたすらに痛め付ける、というこの状況が、クロの日本で生まれ育って得た良心に酷く突き刺さるのだ。
まだ、『黒妃』が抵抗してクロを殺そうとしたのならば、まだ『正当防衛』という観点から戦えたのかもしれない。けれど、『黒妃』はクロの拳を甘んじて受け入れ、全身に致命傷を受けて尚クロに反撃しない。
抵抗すらしない相手をいたぶるというのは、クロの良心への呵責が激しいのだ。それは本来美徳である筈なのだが、この時、この状況においてのみ、クロは自身のその性質に恨みすら覚える。
目の前の怪物を今すぐにでも殺してやりたいのに、これ以上は耐えられないと自身の心が悲鳴を上げる。どうしようもない程の怒りが全身に満ちて、しかしその怒りのやり場にこれ以上感情を吐き出す事が出来ないのだ。
『黒妃』を覆う黒霧が、少しずつ薄れていくような気がした。過呼吸気味な息を整えて、しかしまだ憤怒を宿した眼で目の前の怪物を睨み付ける。ほんの少しだけ、黒霧の下の口元が見えて、小さくその唇が一つ、呟いた気がした。
――ごめんなさい、と。
「――っ!!」
底知れぬ罪悪感と行き場を失った怒りが心の中でぶつかり合い、喉に声が詰まる。硬く握り締めた拳を声にならない叫びと共に瓦礫の山へと叩き付けて、それを粉々に粉砕した。
『黒妃』の元を離れて、自身が元居た場所……倒れるエマの横に一秒と掛からずに駆け寄って、その体を抱き起こす。出血が激しい、傷口も広い。既にそのおびただしい血液量はエマの体と比較しても五分の一ほどに達し、かつて学校にいた頃に保険の授業だったかで習った事を思い出す。
人は、全体の血液量の三分の一を失うと死亡する危険性がある――それが魔族にどれほど適用されるのかは分からないが、依然危険な状況には変わりない。どうにかして、傷を塞ぐ方法はないのかと、混乱する思考を急速に回転させた。
「……ぁ、ぁ」
「……っ、エマ、喋るな……!絶対助ける、絶対俺がどうにかするから……!」
そう早口に告げて、エマの胸に空いた巨大な風穴の端に指を触れる。やはり、今持ち得る手段の中で、エマの命を救う可能性はこれしかない。『源流禁術』の超速再生を、一時的にエマに流し込む事によってエマの傷を塞ぐ。やった事など一度も無いが、手探りで感覚を掴むしか無い。
紅いラインがクロの手の甲の紋様から、ゆっくりと広がっていく。バチリ、バチリ、と赤色のスパークが弾けて、指先から何か奇妙な感覚が流れ込んでくるのが伝わってきた。
それがエマの体に繋がる『末端禁術』の伝達神経だと気付くには数秒も掛からず、すぐさまそこに『源流禁術』の治癒能力を流し込んでいく。クロの指先からエマの胸に紅い電光が移って、徐々にその肉体の修復が開始された。
肉がかすかに膨れ上がって、少し、少しずつその大穴を塞いでいく。それによってドス黒い侵蝕がエマの体にも刻まれる事になるが、しかし行使しているのはクロだ。彼女が自身で『源流禁術』使うよりも遥かに負担は少なく、また命と比べれば安いものだ。
どうか、どうかと願いを掛けて、その傷の修復を見守る。
しかし。
「……なんで、なんで……っ」
『源流禁術』から感じ取れる彼女の魂が、一向に回復へ向かわないのだ。肉体が再生しているというのに、それに付属する筈の魂が一向に再生しようとしない。
このまま治癒を続けても魂が朽ちれば、それはただエマの肉体が残るのみだ。そこにエマという少女は既に存在せず、物言わぬ抜け殻が在るのみ。ダメだ、そんなこと。それでは死んだのと同義ではないか。
ふと、アイリーン屋敷で読んだ文献の内容が脳裏に浮かんだ。
――『魂変術式』。『黒妃』が常にその身に纏う常発魔法であり、物理的に傷付けた相手の魂……エーテル体を損傷させる、最悪の術式。
つまりは今、エマの魂は『黒妃』に致命傷を与えられた事により、致命傷に等しい程の傷を魂そのものに受けてしまっている、という事になる。そして現状、この世界でそれを治療する技術は解明されていない。
ふつふつと、クロの心に絶望が湧き上がる。どうすれば、と持ちうる知識の全てを探り、解決策を見つけ出そうとする。
不意に。
「……ぁ、ああっ、あああああ……っ!!」
「……っ、痛むか……?くそ、もうちょっとだけ我慢してくれ。すぐに何か手を……!」
「……違うっ、違うの……!わたし、そんな……知らなかった、しらなかった、だけで……!」
唐突に、エマの口からそんな言葉が漏れて、しかしその意味がイマイチ理解できない。エマは目を見開いてボロボロと涙を零し、耳を塞いで、半狂乱とも言える程の様子で首を横に振り乱した。
明らかに異様な彼女の様子にクロが歯噛みして、恐らくは傷と失血による混乱だと結論付ける。この状況で冷静さを保てる頭などクロが持ち合わせている筈もなく、ただエマの魂を再生させる手のみを考える。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!そんな、つもりじゃ、なくて……っ、わたしは……!」
「――クソッ!可能性に、賭けるしか……!」
うわ言のようにそう呟くエマを強く抱き寄せて、その頭に右手のひらを添える。『源流禁術』がエマという少女の肉体へと侵入し、やがてその最奥……魂の領域へと、そのパスを接続した。
同時に、待機中に漂う魔力を急速に集めて、魂の領域へとそれらを送り込む。魂を構成するエーテル体は、本質的には魔力と殆ど変わらない――故に、魔力を魂の代替として練り上げて、エマの失われた魂の欠片を補完する。
エーテル体に魔力が紐付けられると同時、エマが弾かれるように顔を上げた。
「……や、やだっ!やめてっ!お願い……っ!そんなの嫌……っ、わたし、“失くしたくない”……っ!」
「気持ち悪いかもしんないけど我慢してくれ!助けるにはこれしか……!」
「違うっ!そうじゃないのっ、そんな事になるくらいなら、死んだ方がいいっ!お願い、奪わないで……っ!それだけは、絶対に――!」
全身を蝕む罪悪感を押し殺して、エマの魂に魔力を繋ぎとめていく。彼女には酷かもしれないが、『源流禁術』を使ってでも、命が助けられるならばそうしよう。じわ、じわ、とエマの魂が魔力塊と癒着し、傷は徐々に塞がっていこうとする。
腕の中で抵抗しようとするエマを押さえ付けて、治療を進める。魂はやがて元の傷口を塗り潰し、彼女の胸に空いた穴が完全に塞がると同時、エマが大きく目を見開いて、何かを言おうとし――
――そうして、“それ”は、産まれてしまったのだ。




