第58話『その黒は、幸か不幸か』
「……エマ」
「……く、ろ。ごめん、なさい……私も、戦わなきゃ……いけないのに……っ」
「それは気にすんな……って言いたいとこなんだが、正直手が足りない。体は大丈夫か?」
クロが苦笑してそう愚痴り、エマの麻痺で震える手足に視線を投げる。彼女はゆっくりとだがその手を掲げて、ある程度は動けるようになったと動きで示した。
だが、以前本調子には程遠く、戦闘に参加するのは些か無理があるだろう。
「……ちっと気は引けるが、ナイアの精神に干渉して、人化させる事は出来るか?」
「……?多分、出来るとは、思う。けど、流石に『末端』じゃ、あの傷は治せない、よ?」
「構わない、別に戦わせようって訳じゃ無いからな。兎に角、サイズを小さくしてくれりゃいい、頼む」
クロの焦燥を含んだ申し出にエマが少し困惑したような表情を浮かべるも、しかし彼女はそれを無視して、こくりと一つ頷いた。クロがその様子ににっと笑って、「ありがとな」と礼を告げる。
全身に『禁術』を巡らせて、しかし戦闘態勢は取らない。これからの戦いは全て時間稼ぎだ。ひたすら逃げ回って攻撃を凌ぎ、エマ達の準備が整うまで注意を引く。
バガンッ、と瓦礫が砕ける音が響き、クロの体が霞んだ。
紅いスパークが部屋中を駆け回り、その位置を一歩遅れて踏み砕かれた瓦礫が散る。床のみに限らず、壁、天井、柱、縦横無尽に反射するかの如く飛び回る漆黒の残像は、『源流禁術』によって劇的に強化された機動力による賜物だ。
距離を取りつつ、タイミングを見計らって攻撃を加える。いわば、ヒットアンドアウェイをアウェイ寄りにしたような戦法だが、実際あの二人相手ならば一度のヒットのミスで命取りになりかねない。
それならばそもそも攻撃をしなければ良いのだが、そうするとキルアナが不味い。彼女の持つ創世神話・撃滅槍は、回避という行為が全く意味を成さない。ソレを撃たれれば、良くて大怪我を負い、『禁術』で再生するまで数秒間の行動停止、悪ければ脳を吹き飛ばされて即死だ。
故にこそ、それを撃たせないために、キルアナへ隙を与えない事が最重要項目。
だが、だからといってジライヤを放置する事も出来ない。ある程度天叢雲剣の性質の目星がついたとはいえ、それでも確信を持っている訳ではないのだ。彼が何かを隠している、という可能性も考慮しなければならない。
「――っ、だ、らァッ!」
「っ、が……!」
キルアナがグングニルを構えると同時、即座に詰め寄ってその腕を蹴り上げる。グングニルを弾き飛ばす事こそ出来なかったが、僅かな隙を縫って回し蹴りを叩き込む。細い体が軋んで、黄金の軽鎧が多大な衝撃に凹みを作った。
が、その瞬間にジライヤが背後へと迫り、その刀を振るっている。普通に受けては首が飛ぶので、即座に屈んでその一刀を回避。横に転がって斬撃の範囲外に逃げ、再び全身を加速させる。
そして、今度は捉えた。
あの天叢雲剣は、一撃を放つと同時にその刀身を歪ませている。避けようとするクロを追って、刀身が曲がったのだ。ただ、恐らくそれはあの刀が持つ能力による副作用。
あの刀の本質は、恐らく――
「……クロっ!!」
「よし来た――ッ!!」
チラリと横目で、エマとその腕の中で眠る血濡れのナイア――あの幼い少女の姿をした人化状態になった相棒を見つけて、すぐさまそちらへと飛ぶ。
一歩走る度に、衝撃で瓦礫が砕かれていく。姿勢を低くして最短ルートで駆け抜けて、そのまま両腕を伸ばして床に蹲るエマとナイアを抱え上げた。驚くエマに「口閉じてろ、舌噛むぞ!」と叫んで、二人を担ぎ上げたまま崩壊寸前の壁を駆け上がる。
壁にブーツの踵を引っ掛け、一息に跳躍して眼下を見やれば、キルアナがその片腕でグングニルの投擲態勢を整えていた。ジライヤもまた跳躍し、こちらの後を追ってくる。
だが、もう遅い。
バチリ、という雑音を立てて、巨大なノイズの穴が広がっていく。それは急速にその範囲を広げて、瞬く間に天井を覆い尽くした。キルアナがその眼を見開き、ジライヤが警戒するようにその眼を細める。
膨大なまでの力の奔流がその穴から溢れ出し、その奥に在る“それ”は今一度その姿を顕現せんと、強大な圧力を周囲一帯にばら撒いた。
白銀の刃が降りる。創世神話・撃滅槍が真正面から激突するも、一瞬の均衡すら発生せずに弾かれて、その勢いを緩める事すらない、圧倒的な迄の大質量。
突然出現したソレにジライヤが眼を向いて、即座に天叢雲剣を構えた。しかしながらその威力を押し殺すなど到底不可能であり、一瞬にして地面へと撃ち落とされた。
あらゆる抵抗が意味を成さない、あらゆる策が意味を成さない、その一振り。
断世王・封龍剣。クロが持ち得る中では、およそ最大威力の攻撃法。今までに見たあらゆる神宝の中でも最も規格外のソレは、あの『真祖龍』すら殺したのだ。
いくら超常の域に達したとはいえ、人間が真正面から受け止めようなど、思い上がりも甚だしい。
しかしながら、回避ならば可能だ。『収納』はあくまでモノを仕舞うという役割がメインであり、無敵性はその副産物に過ぎない。細かい調整など出来るはずもなく、多少の時間があれば回避も容易だ。
二人もそれを看破したようで、それぞれ刀身を避けるように分かれる。クラウソラスが地面に突き刺さると同時、その衝撃を利用してジライヤがその刀を構えて飛び上がった。
クロもまた真上から彼の元へと落下し、小さな穴を開く。その中から取り出した一つの壺を開いた両足で挟んで、向かってくるジライヤへと落とす。彼は小さく眼を細めて刀を霞ませると、直後に壺は粉々に砕けていた。
「……、これは」
同時に、中に詰まっていたそれが弾ける。無色透明のその液体はジライヤへと降り掛かるが、彼が再び刀を霞ませれば、すぐさま液体は全て弾かれていた。ジライヤの体には、一滴すらも掛かっていない。
完全に対処された。奇襲のように交えたそれすらも対処されるとは、流石の腕だという他ない。
故にこそ、クロはこの賭けに勝てたのだから。
天叢雲剣が霞んで、その刀身を走らせる。クロが防御のために展開した盾をすり抜けて彼の首筋に迫り、その頭を刎ね飛ばさんとして――
――“そのまま透過する”。
「――な」
「隙ありってな……っ!」
初めて生まれた、決定的なジライヤの隙。
その一瞬は、いくら両腕に二人を抱えたままとはいえ、クロの前ではあまりに長い。即座に空気を蹴ってクロがその懐に潜り込み、全力を込めたドロップキックを落とす。ジライヤの体がくの字に折れて、キィィィィィィィィィン!という空気を貫く甲高い音を立てて、やがて瓦礫の山に叩き付けられた。
クロもまた衝撃を殺すように落下して、両腕の中で呆然とするエマと、未だ意識を取り戻す様子のないナイアをゆっくりと下ろす。二人を置いたままだと、クラウソラスに巻き込んで仕舞う危険があったのだ。上手く行ってよかったと、内心で胸を撫で下ろす。
確実に、今の一撃はジライヤの芯を捉えた。防御のために伸ばしたであろう腕ごとへし折ったので、少なくとも暫くは刀を振るえない筈だ。それ以前に、もう起き上がる事すら不可能だろう。
瓦礫の山の中で埋もれるジライヤは、全身を血に染めてピクリとも動かない。
「……クロ、いまのって……」
「『天叢雲剣』……まあとある話に出てくる剣なんだが、こいつは元々、怪物の中に埋まってた剣なんだよ」
須佐之男命は、その素行の悪さから神々の世界を追放され地上に降りた際に、嘆き悲しむ老人夫婦に出会った。彼が二人に訳を聞けば、八つの頭を持つ蛇の怪物に時折若い娘を生け贄として差し出さねばならず、その生け贄として二人の娘である櫛名田比売が選ばれた。
最愛の娘を怪物の生け贄に出さねばならないという苦しみから、老人夫婦は悲しみに暮れていたのだ。
須佐之男命は老人夫婦に交換条件を持ち掛けた。八岐大蛇を討ち取って櫛名田比売を助ける代わりに、彼女を嫁に欲しいというものだ。
老人夫婦は娘が助かるのならと、これを了承。須佐之男命は八岐大蛇を討つため、老人夫婦に酒を用意するように要求したのだ。
そう、酒。正確には『八塩折の酒』というものだが、須佐之男命はこれを持って八岐大蛇への手土産とした。
八岐大蛇と相対した須佐之男命は、八岐大蛇をおだてて酒を飲ませ、酔い潰す事で眠らせる。そして八岐大蛇が眠った事を確認した彼は、眠り込んだ八岐大蛇の八本の首を落とし、全身を切り刻んで見事八岐大蛇を討つことに成功したのだ。
ただ、その尾を切り落とす過程で、須佐之男命は自身の持つ剣が欠けた事に気付く。不思議に思った彼は八岐大蛇の尾を切り離すと、その中に眠る一本の剣を見付けた。
それこそが、天叢雲剣。八岐大蛇の具現ともされる、後の三種の神器とされた神剣だ。
八岐大蛇の具現、天叢雲剣は、その大元である八つ首の龍の性質を色濃く受け継いでいると言われている。クロが最初に目を付けたのは、ここだ。
クロが最初に天叢雲剣を掴んだ時、剣はクロの手を透過して直に首を狙ってきた。その際、クロの手には僅かな水気が残っており、クロがそこから連想したのは八岐大蛇の性質だ。
一般に、八岐大蛇だけでなく龍というものは、意外とも取れるかもしれないが『水の神』としての性質も持っている。加えて、八岐大蛇は一説によると、洪水の化身としての側面もあり、水とは八岐大蛇そのものであるとも言えなくはない。
故にこそ、あの刀の特性は――
「水……刀身を水に変化させて、その構造を作り変える。多分、そんな能力なんだろうな。あの剣は」
「……じゃあ、防御をすり抜けてきたのは……」
「金網に物を投げてもぶつかって止まるが、水なら隙間から抜けて素通りする。それと同じように、防御した所で少しの隙間があればそこを通って、また刀身に変化して相手を斬る……そりゃ止められない訳だ」
クロがそのあまりの反則さに思わず呆れて、一つ大きな溜息を吐く。なんという初見殺しか。真正面から鍔迫り合いで受けようと思った時点で死が確定するのだ。
能力こそ地味だが、その効果はジライヤの腕と相まって非常に高い。
「……じゃあ、さっきのは?」
「ナタリスの集落で、魔除けのまじないを掛けた酒だっつってデウスが持たせてくれてさ。酒なんてアレしかなかったから、本当に運が良かった」
あの剣が八岐大蛇の具現だというならば、弱点は存在する。それは八岐大蛇が敗れた原因――須佐之男命にまんまと乗せられ、彼の前で眠ってしまった要因。
つまりは酒。クロが投げた壺に入っていたのは、かなりの度を持つ魔除け酒だ。
ジライヤはこれを天叢雲剣を用いて斬り、そしてその酒に刀身を浸した。八岐大蛇の具現たるその刀に、多量の酒を浴びさせたのだ。
故に、刀が“酔う”ことによって不調が現れ、水に変化させた後、元に戻すことが出来なくなった。もしも刀から水に変化できなくなった時に備えて展開したクロの防御を抜けた刀は、そのまま水としてクロの首を少しばかり冷やしたのみに終わる。
それがあの時クロの首を、刀が素通りした理由。
「……まあ、もしもこの推測が全くの見当違いで、刀に何にも影響がなかったら、普通にさっき死んでた訳だ。やだ怖過ぎ」
「――。」
そんなことを戯けて言ってみせるクロに、エマが言葉を失ったように目を丸くした。その決断力と行動力を讃えるべきなのか、そんな無茶をする彼をたしなめるべきなのか、言葉に迷った彼女は「……うぅ」と小さく呻いて、ポカポカと彼の胸を叩くに留まった。クロとしては軽いジョークのつもりだったので、思わぬお怒りに軽く困惑する。
……と。
「――っ、退がれエマッ!!」
「……ぇ」
咄嗟にエマの前に出て、上空から迫っていた黄金の軌跡に合わせて『収納』から盾を展開する。無敵という特性上、如何に強力な神宝とはいえこの盾を貫くことは原理上不可能なために、槍は盾に阻まれて一度は弾かれる。
が、しかしその勢いを保持したままの槍は盾を迂回すると、再び凄まじい勢いで直進を始めた。クロがそれを掴み取ろうと手を伸ばすが、間に合わない。
創世神話・撃滅槍はその威力をほぼほぼ最大限保持したまま、クロの下腹部を吹き飛ばした。
「――っ、がぁ……!?」
ビシャリと鮮血が飛び、座り込んでいたエマの頰にいくつかの紅い斑点が付く。その赤い瞳に愛する少年のはらわたが映し出されると同時、貫通したグングニルが地面に衝突して、爆発と共にエマの体を吹き飛ばした。
小さな悲鳴と共に彼女は部屋の端へと叩き付けられ、力無く倒れ伏す。なんとか首を起こして視線を上げれば、その先では真っ赤な水たまりに浮かんだクロと、その腹部を突き抜けて瓦礫に突き刺さるグングニルが在る。
血溜まりに浮かぶ彼には、意識が無いように見えた。
「……ぁ、ああ、ぁ……っ」
思わず、声が漏れる。
大きく開いた傷口からはズサズタにされた肉片と、ドクドクと溢れる血液が流れ出している。その身が再生する様子はなく、『源流禁術』特有の紅いラインは浮かんでいない。
それはつまり、彼が『源流禁術』による超高速再生を発動できていないという事。そして、彼の傷はどう見たって致命傷だ。それはすなわち、彼に死の危機が訪れている事を表す。
だめだ、ダメだ、それは、絶対に。
嫌だ、嫌だ嫌だ、死んでしまう。彼が、クロが、死んでしまう。
「……だ、め……やだ、お願い……っ、起きて……クロ……っ!」
掠れた声では、彼の耳には届かない。いや、仮に届いたとしても、それを彼は認識する事が出来るだろうか。すでに大量の出血がある、これまでだって積み重ね相当の無茶をしていた。しかも、あれはどう見たって致命傷だ。もしかしたら、既に死んでいる可能性だって――
「……うる、さい……っ、生き、てる……!」
心の中の弱音をそう罵って、力の籠らない腕を必死に動かす。砂利で荒れた瓦礫の山を這って進み、その度に擦った膝に傷が入った。しかしそれすらも無視して、進み続ける。
頭上から、声が聞こえた。
「――立て、ジライヤッ!」
見上げれば、黄金の甲冑を夕陽に晒したキルアナが、戻ってくるグングニルを掴み取っていた。その黄金の槍を振り翳した彼女はその表情に憤怒を浮かべると、何処から出ているのかというほどの大声で叫ぶ。
「私が、ヴァルキュリア・オリジンが命ずるぞ、ジライヤ……!立て……っ!戦えッ!“アレ”を裏切ったその男の息の根を止めろと――私は、既に命じたぞ……ッ!」
それに気付けた者は、この場に置いてキルアナ本人しかいなかっただろう。
その言葉に込められた魔力、その命令に含まれた術式、意味を理解しているのは、キルアナしか居ない。唯一可能性があったであろうナイアの意識は既に無く、クロも既に生死の境だ。魔力を観測できないエマに、知り得る筈もない。
一部では、その名を『死霊魔術』と呼んでいる。
死体に干渉して、その亡骸に偽物の魂を吹き込むことにより傀儡と化す、道を外れし魔法の一種。何者にも干渉を許さない生と死という概念に介入する禁じられた魔法は、本来既に失伝したモノだ。
別に、ジライヤが今死んだという訳でもない。新たにジライヤという人形を創造した訳でもない。
初めから、彼はそうだったというだけで。
ボコリと、瓦礫の山から、ボロボロの人影が立ち上がる。両腕が折れ、腹に大穴が開き、両足もズタズタでありながらも尚、刀を持って立ち上がる影がある。
肉体はゆっくりと、しかし着実に再生し、元の原型を取り戻していく。パキ、バキと骨が軋んで、ゆっくりとその一歩を踏み出していく。その光景は実に奇怪で、そして悍ましい。
ダメだ、殺させない。彼を、殺させてはいけない。その一念のみに縋って体を這わせて、彼の元へと。
しかしながら、どうしたってその速度は遅くて、歩く方がずっと早い。未だ足の麻痺は取れず、歩く事が出来ない自分の肉体に本気の憎悪が浮かぶ。彼を助けなければならないのに、今度こそ、彼を助けるのだと決めたのに。
ジライヤの形を持つソレが、クロの横に立ってその刀を振り上げる。既にソレは刀としての姿を取り戻しており、ガリガリと瓦礫の山を削って、その切れ味が健在である事を示した。
そして同時に、キルアナがその槍を構える。アレを放たれれば、今度こそ本当にクロが死んでしまう。力が槍の内側に集って、膨大なプレッシャーが辺り一帯に広がった。
届かない。この役立たずの手はどうしたって彼の身に届かず、助けるなど到底不可能だと告げる。そんなことは自分だって分かりきっているけれど、それでも諦められる訳がない。
どうか、誰か、誰だっていい、お願いだから、何だってするから、だから。
『――Laaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!』
咆哮と共に、ジライヤの体が彼方へと転がり。
キルアナの持つ創世神話・撃滅槍が、弾き飛ばされ。
まるで、クロを守るかのように。
――“『黒妃』”は、降臨したのだ。




