第54話『見つけた道筋』
――に、――ん、……い、――……に、……ん――!
ぼんやりと、微睡んだ意識の中に誰かの声が入り込んでくる。瞼が重く、体の反応は鈍い。まるで自分の体が鉛のようで、自分のものではなくなってしまったかのような虚脱感。
全身の関節に錆が入ってしまったかという程の歪な感覚をなんとか押し退けて、軋む両腕を支えに上体を起こす。目を擦ってみればやがて視界を覆い尽くすボヤも薄れて、次第に自分が今居る場所が鮮明に映し出されて来た。
クロも訪れた事がある場所。エイラの服屋の裏、その客間だ。
それを理解するのにたっぷり数秒掛けて、未だ覚醒しようとしない思考を鈍く回す。あまりに重く愚鈍な自意識に出処の分からない苛つきが湧き上がり、しかしそれすらも億劫だと直ぐに苛つきも引っ込んだ。
と、そこまでいってやっと体が揺らされていることに気付く。一体なぜ、と周囲を見渡せば、その要因は直ぐに見つかった。
「……カイ、ル、か」
クロの服の袖を掴んで目の端に涙を浮かべた少年は何かを言おうとして、しかし寸前に何か言葉に詰まったかのように俯いてしまう。クロが首を傾げて辺りを見渡せば、周囲は不気味さすら感じる程に静かだった。
ふと思い出して、これまで共に旅をしてきた銀の少女の姿を探す。しかしながら彼女はこの場には居ないらしく、無意識ながらも少しばかり落胆した。
彼女は、どうしたのだろうか。今朝それぞれの使命を果たすべく別れたきりだが、その後無事に済んだのだろうか。
こうしてはいられない。彼女を信じてはいるが、それと心配はまた別物だ。今はただ無事を願って、ひとまずその姿を探そうと――
「……兄ちゃん」
「――?どう、した」
怠さの残る首を巡らせて、暗い表情を浮かべる少年を案ずる。明らかに正常な様子ではない、あの常に楽しげだったカイルがここまで暗くなるとは、一体何があったのか。と、いうか。
「……ルーシーは、どうした?」
「っ」
小さく息を呑む様子が、未だ目の醒めないクロの寝ぼけ眼でもハッキリと見て取れる。流石にその様子からただならぬ気配を感じ取り、クロの脳も自然と明瞭になり始めた。
慌てて立ち上がって廊下に飛び出し、その先に見える店の扉越しに外の様子を見る。大通りにはかつてクロが通ったときのような賑わいは無い。強いて言えば、2台ほど見慣れぬ馬車が止まっているくらいか。
直ぐに布団の横に横たえられていた直剣を掴み取り、反応が鈍い体を鞭打って外に飛び出そうと駆け出す。が、直前にカイルがクロの腰布を掴み引き留めた。
焦った様子でカイルへと視線を向ければ、顔を上げたカイルが小さく口を開く。
「……ルーシーが、攫われたって」
「――!」
カイルがぼそりと呟いたその一言に、自身の悪い予感がまたも的中してしまった事を悟る。何かしてくるだろうとは思ったが、まさか子供を誘拐してくるとは……いや、それもあの様子ならば、これまで読んできた様々な物語の展開から充分に考えられた事だろう。この世界は物語の、俗に言う『お約束』が詰まった世界だ。
ならばそれを悟れなかったのは、完全な自分のミス。
そしてルーシーが攫われたとなれば、確実にエマ達は助けに行く。今の店の周囲が静かな所を見れば、恐らく戦場は『オーディンの槍』の本拠地、または支部に移っている筈だ。
探さなければならない、周囲の者の心を読めるエマならば、こちらがその意思を持って探せば直ぐに彼女から見つかる筈だ。合流は容易い、と想定する。
「……兄ちゃん。あの、怖そうなおじちゃん達、ドラグなんとか、って言ってたんだ」
「……ドラグなんとか……?あぁ、王土鱗の事か」
オーディンの槍が探しているとされる、『最低最悪の魔王』の負の遺産。神話にその名を刻む災厄の象徴が用いたとされるその鎧――名前から察するに鎧だろう――がこの店の地下に埋まっているとして、彼らはエイラにこの店からの立ち退き……正確には、この土地の譲渡を要求した。
エイラは戦死した夫が遺したこの店を渡す事は出来ないと、この要求を拒否。衛兵とエマ達の助力で、オーディンの槍に抗戦する事を選んだ。まあ、当時俺は衛兵の詰所にオーディンの槍の構成員を引き渡しに行っていたので、エイラの抗戦の理由はエマから聞いたのだが。
カイルは少し躊躇ったように視線を下げて、しかし首を横に振って決心の表情を浮かべると、ゆっくりとその事実を口にした。
――とんでもない事を。
「……おれ、それがある場所、多分知ってるんだ」
「な……!?」
◇ ◇ ◇
「うっそだろ……」
「昔、ルーシーと隠れんぼしてた時に見つけたんだ。秘密基地みたいって、母ちゃんにも話してなかった……」
カイルに案内された先は、子供部屋の押し入れの端。よくよく見れば床に小さく隙間が空いており、そこに爪を引っ掛けて持ち上げれば、人1人の横幅ほどの大きさの穴が姿を現した。縦穴になっているそれには梯子が掛けられており、床下へと続いている。
妙に整備されているのを見る辺り、誰かが意図的にこの穴を作ったのは間違いないだろうが、一体なぜ。『最低最悪の魔王』の遺産など、埋めてしまえばいいものを。
誰かが、使っていたのか?誰が?カイルとルーシーは偶然見つけただけとして、他に誰がこんな場所を――
「――エイラさんの、旦那さんか」
昔に兵役に駆り立てられ、戦死したというエイラの夫。この家を建てたという彼ならば、この穴の事を知っているのは当然の道理……いや、むしろ彼がこの穴を作ったとしても不思議は無い。
その場合、彼こそが『最低最悪の魔王』の遺産をこの地下に埋めた、という可能性が浮上する、のだが。
梯子を降りて地下の空間に入れば、中は思いの外広かった。坑道のような道が奥の方まで続いており、カイルの後に続いて奥へと進む。カイルの指先からは魔力と共に光が発されており、『ライト』という魔法らしい。
魔法の初歩の初歩、生活でもよく使われるらしい。莫大なレベルアップと共に魔力が伸びた今なら、俺でも使えるだろうか。便利そうなので、全てが終わった後で習っておこうと心に決める。
「……昔、おれとルーシーで、奥まで行ったんだけど、へんなところがあってさ。おっかなくて引き返したんだけど、そこに、変なのがあったんだ」
「……変なの、な」
もしもそれが王土鱗ならば、引き渡すかどうかは別として、『オーディンの槍』との交渉材料になり得るのは確かだ。エイラの店が狙われる必要も無ければ、ルーシーを取り返す事も出来るかもしれない。
勿論、可能ならば彼らの捕縛も狙うべきなのだろうが、そう上手くは行かないのは分かりきっている。もしもの保険とするには十分だろう。
多少カイルの魔法で照らしているとはいえ、薄暗い道を慎重に進む。そうして暫く進んで行ったところで、ようやく部屋のような場所に出た。
――瞬間、その異様な雰囲気が全身に重くのし掛かる。
「……っ」
確かに、これは『変なの』だ。
周囲に漂うドス黒い霧がその物質の輪郭を殺し、正体を覆い隠している。台座の上に乗せられたソレはただそこに有るだけでプレッシャーを放ち、成る程これは正に呪いの武具だと考えるだろう。
だが、クロはこれを知っている。より正確にいうならば、これに似たものをクロは所持している。
これは呪いの武器では無い、この圧倒的な重圧を、クロは一度身を以て体験したのだ。そしてそれは、呪いなどでは無かった。というかそれは、『存在次元の違い』によるものだ。
断世王・封龍剣。あの極大剣と、同じ規格の武具だ。これは。
ゆっくりと近付き、『禁術』によって黒く染まった左腕で、漂う黒霧を払い退ける。思ったより簡単に霧は周囲に散り、やがてその役目を終えたかのように消滅した。
その内から現れたのは、籠手。正確には、肩から手先までに掛けてのみを守る、鎧の一部分。黒銀の輝きを宿すソレを手に取ってみれば、鎧の内側には銘が彫られていた。
「 ……ははっ、何が王土鱗だ。ぜんっぜん違うじゃねぇか、これ」
そこに彫られていた銘は、『殲滅鎧』。伝承によってはアイギスとも呼ばれるそれは、盾だと言われたり、鎧であったり、肩当てだと言われたり、その解釈は様々だ。
女神アテナが携えるソレは、あらゆる災厄、邪悪を払う聖なる存在だ。なぜそんな物が『最低最悪の魔王』の武具などと言われているのかは分からないが、兎も角、これで『オーディンの槍』との交渉のテーブルに就ける。
と、不意に。
「ーーーーっ、ぎ、ぁ……っ!?」
強烈な頭痛が走る。思わず膝をつく程に強いその痛みは、クロの頭蓋を直接締め上げているかのような痛みだ。『源流禁術』の侵蝕によるおぞましい不快感すら一瞬薄れてしまうほどに、重い。
一体何事かと思わず閉じた目を開けば、殲滅鎧の表面には見覚えのある紅い輝きが走っていた。
『源流禁術』の、輝き。
殲滅鎧を持つ手から紅い輝きが体へと伝わり、クロ自身の体に刻まれる『源流禁術』の刻印に繋がる。頭痛が和らぐに連れて新たな感覚器を移植されるような違和感が腕に宿り、だというのに痛みが消えて『禁術』特有の吐き気のするような不快感が戻ってくる頃には、体に馴染んでしまったかのようになんともなくなっていた。
未だイージスを手に持っているというのに何の感触も感じないどころか、少し意識すればイージスはその通りに動く。まるで体に新たな腕が追加されたかのような気分だ。試しに振ってみれば、きちんと籠手からも風圧に晒される感触が伝わってくる。
というか
「……うそん」
手から離れない。
接着剤で手のひらに固定したが如き安定感で、全く離れようとしない。まさか本当にそのままの意味で呪われてたりするのか、だとすればとんでもないポカミスをやらかしたという事になるのだが。
うん、というか、やらかしたんだろう。
あまりの急展開に表面上はポーカーフェイスを保ってはいるのだが、激しい動悸が収まらない。どうしようか、これ。教会とか行けば呪い解けるかな、なんて無駄な希望に縋りつつ、取り敢えず腕から離れないものかと念じてみる。
と、意外にも籠手は腕から離れた――のだが。
「……浮かんで周りに待機すんのね」
流石は異世界ファンタジー、物理法則クソ喰らえ。
兎も角、一連の流れからアイリーンの言葉を思い出す。『己の意思を持っているかのように宙を舞い、鎧にも剣にも、果てには矢にさえも成ったという伝承が一部では残っている』……成る程、伝承通りの能力だ。
正確には己の意思ではなく、持ち主の意思、なのだろうが。
……あれ?これどうやって渡せば――
ーーーーォ、ォォォォォーーーーーーーーーーーー!
「……な、ぁっ!?」
「ひっ……っ」
不意に、頭上から膨大な魔力を感知する。それは魔力適正などからっきしなクロですらもハッキリと感じ取れる程であり、人並み程度には魔力を扱えるカイルなど震えてしまうほどだ。
しかも、その発生源が二つ。片方に覚えはないが、もう片方は知った魔力だ。
かつてナタリスの集落に居た頃、『真祖龍』との戦いの最中、何度も感じ取ったものだ。彼の龍の膨大な火力を誇る超高威力ブレスに含まれる、無尽蔵とも思えるような高密度の魔力放出。そして、それを取り込んだナイアによる貯蔵の放出。
『真祖龍』は既に死んだ。であれば、この魔力の発生源はナイアに他ならない。
では、交戦中なのか?だがこの魔力の発生源は、どう測っても街よりも遥か上、空に掛かる雲のそのまた上だ。交戦しているにしては座標が高過ぎる。『オーディンの槍』の拠点が上空にあるとでも――
「……あり得るな。ここファンタジー世界だし」
と言うか、ナタリスの集落から馬車でこちらまで出てくる最中になんども空に浮かぶ島を見た。流石に上に街なんかは築かれていなかったが、拠点の一つや二つならば十分に可能性がある。
だとすれば、2人は今上空に居るというのか。だとすれば詰みだ、流石の『禁術』とは言え、ひとっ飛びで雲を越えるというのは厳しいだろう……厳しい、と思いたい。
いや、もしかしたら可能かもしれないが、無理だった時のリスクが大き過ぎる。ジャンプし過ぎて高所落下なんてマヌケな死に方は御免だ。そもエマがどうやってそこまで登ったのかという話になるのだが――いや、ナイアが居れば可能ではあるか。
だが、そうなればクロが向かう手段が断たれたという証明になる。詰みの現状に歯噛みして、『殲滅鎧』を持つ手に力が篭った。
「なぁ、兄ちゃん、今のって……」
「多分エマ達だ。ルーシーを取り戻しに行ってるんだろうけど……あんな大技使うって事は、相当厳し――」
思わず呟いたその失言に気付いて、すぐに口を閉ざす。だが少しばかり遅かったようで、カイルが悲痛そうに顔を歪めて俯いてしまった。内心で『しまった』と後悔する。
カイルは唯一の妹を誘拐されているのだ。エイラ同様、その心労は計り知れない。きっとクロなどが想像もつかないほどに心配していることだろう。そんな子供を不安がらせてどうすると、不用意な自分を叱咤する。どうにか安心させようと言葉を探すが、咄嗟に口が回らない。
しばらく頭を悩ませている内に、ぎゅっとその両手を握り込んだカイルが、ふと顔を上げた。
「兄ちゃん。お願い……ルーシーを、助けて欲しいんだ」
「――。」
それは、そうだろう。
カイルはエイラの店で、クロとエマが『オーディンの槍』の構成員を一瞬の内に制圧したのを見ていた。クロが戦えるのは知っている筈だし、であれば見知った相手であるクロにルーシーの救出を頼むのは当然とも言えた。
だが、クロにはルーシーを助けに向かう事すら出来ない。場所が高過ぎるのだ、『源流禁術』を全力で行使しても届くか分からないほどの高さ。途中に足場があればまだしも、この街で目視出来るほどの高さに浮遊島が来ていた事は一度も無い。
せめて、浮遊島でなくとも何か高い、足場になり得るものがあれば――
――いや、あるじゃないか。十分に、足場になり得る物が。
『収納』で展開したものを足場にする、というのは無理だ。クロが触れた瞬間に無敵性が解除されてしまうために、足場にしてもすぐに崩れて落ちるのが簡単に予測できる。
だが、"崩れようが、無敵性が解除されようが関係ない"ものならば、存在する。
ニィ、と、無意識に笑みが浮かんだ。
「……分かった。絶対連れ戻してくる、任せとけ」
「――っ」
ぽんとその頭に手を置いて、泣き出しそうになるカイルを撫でてやる。安心出来るようにその背中をさすってから、殲滅鎧を右腕に纏った。
同時に、膨大なまでの魔力――いや、魔力とは違う別の力が、全身に循環する。意識が拡張されて、クロの意志に従うかのようにその籠手は剣へと姿を変えていく。
何故だか、その使い方が手に取るように分かるのだ。まるで、ずっと使い続けて来たかのような馴染み方。今はその感覚が、ただ心地良い。
「待ってろ、今行く」
英雄は、再び立つ。