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第48話『小さな憂い、小さな嫉妬』

お待たせいたしましたぁっ!

「……?」


 ルーシーは、ふとその顔を見上げる。

 ぐうぐうと寝息を立てて眠るカイルの横で絵本を読んでいた彼女がその異変に気付いたのは、閉めていたはずの窓の方から風が流れ込んできたからだ。


 先程から、外は少し違和感を感じる程に静かだった。何時も聞こえてくるような街の喧騒すら無く、まるでこの家だけが街から切り離されてしまったかのような無音。それでも窓から覗く景色は普段と何も変わらなかったので、ルーシーは特に気にする事なく絵本へと戻ろうとする。

 だが、唐突にその窓が開いた。風で開いてしまったのだろうかと思ってみるが、鍵は閉めていた。


 不思議に思って顔を見上げてみれば、そこに居たのは一人の女性。腰に黄金の剣を差して赤い髪を揺らす彼女は、その顔に穏やかな笑みを浮かべると、その金の手甲に包まれた右手を差し出してくる。


「おねえさん、だあれ?」


「――キルアナ・カナストル・ノッデス……いいや、"ヴァルキュリア・オリジン"と名乗るべきかな」


 そう名乗った彼女はその紫紺の瞳に、ルーシーの青い瞳を映し出す。その手甲から伸びるしなやかな細い指がルーシーの髪を優しく撫で、心地良さげに目を細める彼女に小さく囁いた。


「おいで、ルーシー・リハッター。少し遊ぼうじゃないか」









 ◇ ◇ ◇









「……ルーシーが、居ない……!?」


「嘘っ!?」


 エマとナイアがその知らせを聞いたのは、突然に撤退し始めた『オーディンの槍』構成員達に困惑し、追い打ちをし損ねて撤退した後の事だった。

 恐らくは体勢を立て直すためと推測されるが、相手のアジトが分からない以上追撃も出来ない。追い掛けても何故か見失ってしまうのだ。恐らくは、これも何かしらの魔道具による効果なのだろう。

 ならば、こちらも少しでも体勢を建て直すべきと撤退したその直後に、エイラが焦燥を顔に浮かべて話しかけてきたのだ。


「家中探しても見当たらない、カイルも寝ちまってて見てないんだ……くそ、私がちゃんと見てりゃ……」

 

 そう零すエイラの前で、エマもまた悔しげに唇を噛む。何処で見落とした?極力、家に敵は近付けないよう監視していた筈だ。紅の眼(リード)による透視能力も、確かに発揮されていた筈。害意があれば直ぐに看破できる。

 そして何より、店は――ルーシー達は、ナイアが守っていたのだ。


「ちゃんと対物結界張ったよ。誰かが入ろうとすれば弾いた上ですぐ分かるし、誰かが出ようとしても反応するように術式も改変してたのに……」


 目を伏せてそう言うナイアの言葉に勿論嘘などある筈もなく、実際何の用意も無しに家へ入ろうとすれば、バチンッ!という衝撃と共に弾き返される。結界の波紋は家を囲うように広がり、魔力が見えないエマには分からないが、他の誰かが見れば一目瞭然だ。

 こんなもの、誰かが侵入しようとした時点ですぐに気付く。そして、ここで一番の疑問なのは――


「結界、全然壊れてないの……何処にも穴が開いてないから、私以外の人が通れる筈ないのに……」


 しょんぼりと肩を落とすナイアの髪を撫でて慰めてやりつつ、エマはその脳を回転させる。ナタリスに魔法など無縁ではあったのだが、今は生憎とそうも言っていられないとして、大まかな原則は覚えた。


 このアルタナには、遥か昔から"スキル"と呼ばれる技能証明が存在する。

 ステータスと呼ばれる当人の能力を示す数値リストは、かつてスキルと共に突如現れたものだ。人々の価値をそのまま映し出すその窓は人材抜擢に活用されたが、その原理は何一つ解明されていない。


 一説によれば『創造神アルルマが、人々に己の価値を正しく認識させるために作った』だとか、『「共栄主世界戦争(ワールド・エゴ)」に於いて戦争に行く人材を見出すために、神代の魔法使いが組み上げた大魔法の遺産』だとか、そういった事も言われているそうだ。

 あくまでこれは指標。何か特別な力を与える訳ではなく、本人の能力を可視化して表すだけのものだ。だが、"出来ることが分かる"というのは、人々に想像以上の力を与える。


 魔法もまた、その一つ。


 魔力を特定の法則に従って循環させ、世界的現象を小規模に収縮し、放つ。これが基本的な魔法の法則だ。

 元々これは神代に存在した人族(ノルマン)の王が発見したものであり、その頃の魔法こそ全て失伝してしまったが、魔力を使って世界法則を書き換えるという概念は残っていたのだ。

 それを近代の学者達が研究し、唯一神アルルマの啓示もあって、現代の魔法体系を成す事に成功した。


 その基本原則は、三つ。


 第一に、一度発動すれば、目的を果たす、または魔力が尽きるまで終わる事はない。それを阻害しようとすれば、特定の定められた反応を起こす。


 第二に、基礎6属性である、火、水、風、地、光、闇の通りに区別される。熱と破壊を司る火、調和と心を司る水、流れと力を司る風、定着と形を司る地、良識と輝きを司る光、悪意と不安を司る闇、それらを組み合わせることによって、全ての魔法は構成される。


 第三に、魔法は当人の体内魔力(オド)からのみ発生する。大気魔力(マナ)は原則、体内に取り込んで体内魔力(オド)に変換するまでは魔法的効果を表さない。それの貯蔵量こそが、ステータスで『魔力』と表されるモノだ。


 今回ナイアが用いたのは、水、地、闇属性から成る、対人用の警備結界――『アンチ・ヒューマンズ・フィールド』と呼ばれるモノだ。外界からの侵入を妨げ、同時にその事を術者へと通達する、世界でも最も汎用性が高いであろう守護魔法。

 その術式にナイアが独自のアレンジを加え、効果を更に向上させたものだ。


 ナイアは魔法師としては初心者だが、既にその腕前は一流をクラスだ。それも彼女の才能故だが、その彼女にすら気付かれないように術式改変が出来るほど上回るとなれば――


「宮廷魔法師クラスの敵が居る……って事だね」


「……ヘルメス」


 その癖っ毛混じり金髪を揺らした少年……ヘルメスは、腰に差した刀に手を乗せて薄く笑みを浮かべている。この状況でもその余裕が崩れる事は無いようで、それは彼がこの現状に於いても、焦りを覚えていないという事だ。

 護衛対象の一人であるルーシーが奪われ、その行方も追えないというこの場で、何故それほど冷静で居られるのか。

 紅の眼(リード)から読み取った心情をも判断材料に加えれば――彼には、この状況を覆す策の持ち合わせがあるという事になる。


「……聞かせて、ヘルメス。どうすれば取り戻せるの?」


「流石、頭の回転が早いね。だが……」


 ヘルメスがその言葉を紡ぐ寸前に、彼はぱっとその場から飛び退る。何を、とエマが問い掛けようとした所で、エマは漸く……いや、早くもその存在に気付いた。


 ――白銀の刃が、閃く。


 放たれた剣閃は、エマからすればお世辞にも上手いとは言えないようなものだ。剣筋はブレているし、力の重点もしっかりと定まっていない。一般人と比較すれば確かにかなり上手いが、しかしそこまでだ。達人とは言えない。だが。


 その一撃は、大地に巨大なヒビ割れを刻んだ。


「……っ!?」


 地面が激震し、足元が覚束ない。何が起きたのかと冷静に判断する暇もなく、襲撃者はその銀剣をヘルメスに振るった。当のヘルメスは、やはり余裕を浮かばせた顔でその一撃を見切ると、両手の二刀で上手く力を受け流す。

 衝撃の余波が虚空へと舞い上がり、反動で大地に亀裂が入った。


 というかこの力は、どう見ても――


「……クロ……っ!?」


「――エマ……ナイア……?」


 普段は漆黒に包まれたその瞳が、今は紅く変色している。それは彼が『禁術』を行使している証であり、同時にそれは彼が『禁術を使わなければならない』という状況にあると判断した、ということに他ならない。

『黒妃』と遭遇したのか?いや、周囲に『黒妃』は居ないようだし、何より今彼が攻撃したのは確実にヘルメスだ。


 一体なぜ?ヘルメスは味方の筈だ。エマの『紅の瞳(リード)』で見ても、彼に敵意はない。むしろ、こちらへの感情とすれば友好的な色のみが浮かんでいる。

 なぜそんな事をするのかと問い掛けようとしてクロに視線を戻し、漸く、その異常性に気が付いた。


「……見え、ない?」


 クロの心が、見えない。

 心の声が明瞭に聞き取れるほど便利なものではないが、確かに他人の感情程度ならば読み取れるナタリス固有の瞳が、今の彼からはどんな感情も読み取れないのだ。まるで真っ黒な霧に覆われているかのように、彼の心が不明瞭になっている。

 これまで、そんな事は一度だってなかった。勿論そんな魔法が存在する筈も無いし、彼が『禁術』を行使しているといっても、そも『禁術』には心を覆い隠す力など無かった――筈だ。


 クロはその紅い輝きを宿した瞳でエマをジッと見つめると、やがて感情を感じさせない声音で口を開いた。


「……下がっててくれ、アイツを殺してくるから」


「……どう、したの?……今のクロ、何か……変、だよ?」


「……気の所為だ」


 違う、何かが違う。この目の前にいるクロは、エマの知るクロと何かが決定的に違う。肉体は全く同じであろうと、何か別のものがその内に巣食っているのだ。

 じわじわと、ほんの少しずつではあるが、頰に掛かる黒い痣がその面積を広げていく。それは彼の肉体を何か違うモノに作り変えていくようで、酷く悍ましい光景だった。


 駄目だ、あれを看過してはいけない。絶対に。


「……君が、イガラシ・クロか。僕、君に何かしたかな?」


「――今はまだ何もしていないだろうよ。だがお前の存在は、必ずや"ワタシ"の致命傷となる」


「随分と聞いていた人物像とは違うね。それに、これから起こる事を知っているかのような口振りだ」


「知らないとも。"ワタシ"が知るのは起こり得るであろう未来の可能性の一筋、"俺"の未来が"ワタシ"に分かる筈もなし」


 もしや、これは。今表に出てきているこの人格は、まさか。


 あのキルアナと名乗った女騎士が言った通りに、クロの前世である『最低最悪の魔王』が、表層に現れたとでも言うつもりか。

 だとすれば、あの体に既にクロは居ない?嘘だ、信じない、信じたくない、そんなこと。きっと、『黒妃』と遭遇した事で『禁術』の制御が効かなくなっているだけだ。


 魂の深いところまで、侵蝕の根が降りているのだろう。どうする、どうやって彼の意識を取り戻す。侵蝕を治癒する手段など、軽度の侵蝕に対する『ライヴ』の行使くらいしか知らない。クロほど進んでしまった侵蝕を直す方法は、現状何一つ知らないのだ。


 ――と、頭を悩ませていた所で、気付く。


「……ナイ、ア?」


 先程までエマの隣に居た筈のナイアが、忽然と姿を消していた。

 この異常事態に何処へ行ってしまったのかと周囲を見回して、彼女の固有能力――『零時間移動(テレポート)』の事を思い出す。もしも異能を使ったのだとすれば、何のために?次々と溢れ出る疑問に混乱しつつも周囲を見渡そうとすると、その姿はすぐに見つかった。


 というか、クロの目の前に。


「……ナイア?」


「まだ、ダメだよ」


 不意に、再びナイアの姿が搔き消える。

 彼女はいつの間にかクロの首に両手を回しており、驚いたように目を見開いたクロ……正確には、その内に巣食う何かは、何のアクションも起こさなかった。

 ナイアはそんな彼の様子に優しげに笑うと、そっと彼の唇に、屋敷でした時のモノとは違った、穏やかな口付けを落とす。


 同時に、どくん、と。クロの体に刻まれた漆黒の痣が、そんな音を立てて脈動した。

 驚きに目を剥く暇もなく、『源流禁術』特有の真紅のスパークがクロの体から放たれる。同時に、じわじわと広がっていた筈の侵蝕が僅かに消失して、クロの変色した赤い瞳が普段の黒へと戻っていく。


 スパークはナイアの唇から彼女の全身へと伝っていくと、バチンッ!という音と共に、彼女の肩へ黒く小さな痣を残した。

 まるで、クロの身を穢す侵蝕を、彼に代わって引き受けたかのように。


 と、不意に唇を離したナイアが、目を回しながらフラフラと後退した。


「……う、ぎゅう……、あたまいたい……」


 彼女は涙目になりながらも、ぎゅっとクロの手を握って踏み止まる。そのまま意識を失ったクロの体を抱き締めるように支えると、何処からその力が出るのか、クロの体を平然と担ぎ上げた。

 まあ彼女もクロ相当にレベルが上がっている筈なので、その程度の力は軽くあるのだろうが。


 ナイアはそのままポンとエマの横へと跳ぶと、未だ驚きに身を固めるエマに話し掛けてきた。


「エマ。クロを休ませてあげてもいい?」


「……ぇ、あ、うん」


 あまりの状況変化に付いて行けずに生返事を返してしまったが、ナイアはニッと笑うと、クロを担いだままエイラの店へと駆けていく。その小さな背を見送りかけて、やっと思考の処理が追いついた。

 慌ててナイアを呼び止めれば、ナイアはピタリと足を止めて不思議そうに首をかしげる。


「……ね、ナイア。何を、知ってるの?」


 ナイアは少しだけ目を見開くと、少し困ったような顔をして頰を掻いた。


「ごめんね、エマ。まだ、言えない。エマにも、クロにも」


紅の瞳(リード)』に映るのは、葛藤と焦り。その理由を推し量る事がエマに出来る筈も無く、言えないと言われれば追及は出来ない。ナイアにも何か事情がある、というのは分かる。

 彼女が何を知っているのか今は話せないというのならば、今すべきことに集中するしかない。視界の端でホッとしたようにため息を吐くヘルメスと連携して、ルーシーの行方を追うのだ。


 クロが回復するまで、自分が可能な限り動かなくては。そう心を紛らわせてみるも、どうにも脳裏から場違いな思考が離れない。


 思い返すのは、ナイアとクロのキス。一度目は親愛の、二度目はクロの暴走を止める為のものだ。片や本人に全く"そういった気"が無く、片や完全な治療目的だったとは言え、エマの心情としては微妙な気分にはなってしまう。


「……ずるい」


 クロの想い人の事を考えるならば、不用意に"そんな事"をすべきでは無いと遠慮していた自分が馬鹿に見えてしまうのも、ナイアにほんの少しの妬みを持ってしまうのも。


 あまりに不器用な恋する乙女には、仕方のない事ではないだろうか。

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