第21話『化け物』
テンプレ臭が酷いのは仕様。
びしゃびしゃっ、ぽたっ、ぽた。
赤黒い血が、水を染み込ませた雑巾を絞るかのように流れ出る。千切れ、断裂した肉が外気に晒され、その吐き気を催すほど酷い傷口がありありと視界に映し出された。咄嗟に何が起こったのかなど理解できるはずもなく、ただ困惑して一歩、二歩とよろめいた。
ナイアが甲高い声で鳴き、"影"が冷たい視線を向けてくる。
そうして時間を置いた事で、漸く俺は己が状態に気がついた。
「――ぁ、あぁ……あ"、がぁあぁぁぁぁ"ぁ"ぁぁぁッッ!!!?ァァ、あああ"ぁぁあっ!!!」
灼熱の龍はしかしその傷口を焼く事はなく、尋常ならざる激痛が失われた左腕から伝わってくる。半ば無意識に絶叫が口から漏れ出し、思わず残された右腕で胴体まで少し抉られてしまった肩口を抑えた。耐え切れないほどの苦痛に唾液が口から垂れ、先ほどまで噛んでいた唇からの血と混ざって濁る。視線の焦点が合わず、ただ掠れた悲鳴だけが大部屋の中に響き渡った。
両目からは止め処なく涙が零れ落ち、同時に襲い来る正気を失いそうになる程の喪失感と痛みに、俺は何度も頭を地面に打ち付ける。ゴロゴロと硬い石畳を転げ回り、その灰色に赤黒い鮮血を撒き散らしていく。体が痙攣し、身動きすらままならない。すぐさま悲鳴のような鳴き声を上げて近寄ってきたナイアにもその血が撒き散らされ、その白銀の鱗を紅く染め上げた。
なんだ、この痛みは。なんなんだよ、これは。
こんなもの知らない、こんなもの知るはずが無い。これまで怪我なんて、大きくたって骨折程度だったじゃないか。それがなんだ、なんでこうなる、どうしてこんな目に会わなきゃならない、確かにエマに恩を返したいという気持ちはあったが、こんな目に会うなんて知らなかった。俺だって聖人君子じゃない、知っていたなら来なかったのに。
ふざけんな、俺はただの高校生なんだぞ。歴戦の戦士でもなければ、ファンタジー世界の生まれですらない。こんな目に合うくらいなら、引き篭もって大人しくしていたさ。くそっ、くそっ、なんでこんな目に――
――いや、自業自得か。
定番だろうが。異世界に落とされた主人公が絶望のドン底にに突き落とされるなんて、テンプレ中のテンプレな展開だ。そうでなくとも、ここは異世界なんだぞ。殺し合いがデフォルト、いつ死ぬかなんて分かったもんじゃない、そんなこと事前知識で分かりきってた事だ、なんでこんな単純な事を忘れていた。
平和ボケしていた。この世界に来て直ぐその事は覚悟しておいた筈なのに、この二ヶ月間の穏やかな生活で、そんな危機感が薄れてしまっていた。俺はとっくに、『世界を越える』なんていう馬鹿げた体験をしてしまっている筈なのに。
ああくそ、痛ぇ、畜生、どうしろってんだ、死ぬのか、帰れないのか、結局。以外と早かったな、いずれこうなる可能性も考慮してたんだが、それでも実際にその時が来ると、怖いもんだ。
ああ、死にたくない。逃げたい、生きたい、帰りたい。
「……チッ、無意識に体を逸らしたか。しかし、その傷ではもう助かるまい」
影の、そんな声が聞こえる。ああ、俺、気付かない内に反応してたのか。そうなると今生き残っているのもまた、エマに受けた特訓の成果になるって訳か。あぁ、俺あの子にまた助けられたんだな。ああくそ、情けねぇ。
でも、俺じゃエマを助けられない。
俺に、こんな痛みを負ってまで誰かを助ける覚悟なんてない。俺は自身の苦痛を勘定に入れない聖人でもなけりゃ、死ぬ気で誰かを守るような騎士でもないんだ。だから俺は、エマを諦めて逃げる。俺を二度も救ってくれた彼女を見捨てて、自分の命欲しさに尻尾を巻いて逃げ帰る。誰になんと言われようと、俺はそんな自己犠牲なんて出来っこない。
ナイアがその瞳を潤ませて、こちらの顔を覗き込んでくる。その目をボヤけた瞳で見返し、必死に残された右腕で床を這った。その距離は微々たるものだが、少し、また少しと、血塗れの石の床を進んでいく。助かるか助からないかなんて、今考える事じゃない。今はとにかく、この男から逃げないと──
「……時間を使い過ぎたな。早くあの女を殺さねば、依り代として完成してしまう」
知るかよそんな事、俺にはどうでもいい、俺にはどうでもいい、俺にはどうでもいい。
俺にはどうでもいい、どうだっていい事なんだ。
俺はエマを見捨てる、そう決めたろうが。おい、何してんだよ、自分可愛さにあの子見捨てて一人生き延びるんだろ、今更聖人ぶってんじゃねぇぞ、大体何が出来る、左腕も失ってマトモに体が動かねぇってのに、そんなお前に何が出来る。
……なに、やってんだよ。ふざけんな、俺は行きたいんだよ、生きて地球に帰りたいんだよ、こんな所で死にたくないんだ。怒ってなんかいないだろ、なんであってたかだか2ヶ月の奴のためにそこまでしなくちゃならないんだ。
何で、何で、なんで、なんで、なんで――!
なんで俺は、『アイツに向かって立ち上がってる』んだよ――!
「……何?」
影が、僅かに息を呑む気配がする。おい待て、自分でも分かってるだろうが、いうこと聞けよ、黙って地べたに這いつくばってろよ、頼むから大人しくしといてくれよ、死にたくないんだ、これ以上痛い思いをするなんて御免だ、生きたいんだ、邪魔をするなよ、頼むからやめてくれ、そんな事何の意味もない。
──殺してやる。
出来るわけないだろうが、ラノベの中のピンチに覚醒する主人公気取りか?お前は主人公なんざじゃねぇんだよ、吹けば飛ぶような一般人なんだ、あんな化け物相手に挑み掛かるなんて無茶な真似、絶対にしたくもない。それだというのに、右手はその拳を強く握りしめ、禁術の紋章が勝手に広がっていく。
あの不快感が、再び俺の全身を襲った。酷い吐き気に頭痛、三半規管が狂い、平衡感覚すら無くなっていき、思考が掻き乱されていく。それは紛れもなく、『禁術』の発動の証。赤黒いスパークが、全身を巡る。同色のラインが体に走り、侵蝕と引き換えに肉体がその限界を超えた。
──殺してやる。
違う、俺はそんな事望んでない。誰なんだよ、俺の体で好き勝手しやがって。立ち上がるな、逃げろよ、この状況からアイツを殺すなんて不可能だってわかんねぇのか。俺はもう怒りなんて抱いちゃいない。もうどうしようもない事なんだ、どう足掻いたって俺はエマを救えない。諦めさせてくれよ、そんなお前の勝手な怒りに俺を巻き込まないでくれよ。
足に力が込められる。石の床に亀裂が入り、てこの原理か何かなのかは分からないが、一部の床は片側を踏み付けられたシーソーのように跳ね上がった。ナイアが、困惑したかのような瞳を俺に向けてくる。
ああ、くそ、止まらねぇ。もうちょっと体の持ち主を大切にしろっての。こちとら腕をもがれて死ぬ程痛い思いしてんだよ、少しは手加減してくれ。
──今行くから、エマ。
あぁ、くそ、もういいや。
分かったよ、好きにしろ。
◇ ◇ ◇
「……化け物め、『神話の残滓』を飼っているとは思っていたが……!」
肉が、盛り上がっていた。
『禁術』の紅いスパークが肩の傷口に集い、その肉を活性させていく。何処から生成されたのか生々しい血肉が次々と伸びていき、腕の形をとっていく。徐々にその形は『ヒト』のそれへと近付いていき、新たに生成された皮がその肉を覆った。その皮は元のソレよりも黒く、まるで腕全体に広がった痣のようだ。
そして『禁術』の源流、その証たる紅く輝くラインはその腕にも伸びていき、直ぐにその全体を覆う。痣は腕だけでなく肩を伝って頬にまで届き、その日焼けとは程遠かった肌に火傷の如く刻まれた。黒かった瞳はスパークと同じ紅に染まり、殺気だけであらゆる生物を射殺すかのような眼光に満ちている。その身が纏うオーラは完全に人間のソレではなく、魔物――否、化け物のソレであった。
その姿が、突然に搔き消える。
「――ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"あ"あ"あ"ーーーーーッッ!」
「――――!」
紅いスパークを纏った拳が、"影"に突き刺さる。
影はその衝撃に声を発する暇もなく、部屋の壁を叩き割り、元より地下故にそのまま岩盤に突っ込むも尚止まらない。粉々に粉砕された壁は崩落し、遺跡全体が激震する。衝撃は地震となって大地を揺らし、その大地すら撃ち砕く拳の直撃を受けた"影"は、しかし何とかその原型を保っていた。
声を発する事すら出来ない。その身に纏う影を完全に散らされ、血肉を撒き散らして大地の中を突き抜けていく。暫く進めば直ぐにマグマの中へと突き刺さり、その荒ぶる灼熱の本流に全身を焼かれる。しかしそれでもその影を払われたソレ――機械人形No.3、固有名『ドグラ』は、その機能を停止させる事はなかった。その胴体に巨大な凹みと多大なヒビ割れを刻み込みつつも、高い耐熱性でマグマすらも弾き、マグマの高い粘性でその勢いを削ごうと魔力の膜を展開する。
しかしすぐさま漆黒の残像が追撃の様に迫り、ドグラの首を圧倒的な破壊と共に掴む。当然首は手形の形に凹み、すぐさま先程の拳とは真反対に投げ飛ばされる。これまでの軌道を逆戻りするかのように空洞の穴を進んでいき、しかし直ぐに逸れて別の空洞に抜けた。そこまでボロクソに全身を破壊されても尚その勢いが止まる事はなく、空洞を暴落させつつもその更に奥の壁に突き刺さった。
その機械仕掛けの両腕はもげ、全身の装甲はそこらじゅうボコボコに凹んでいる。ギギギと首が不自然に動き、粉々に粉砕された背部は既に核が剥き出しになっている。
忌々しげにドグラは顔を上げ、目の前に立っている『無傷の男』を睨み付けた。
いや、それはもう既に彼と呼べるのかすら分からない。人の身でありながら音速を超え、ドグラを追ってマグマに突っ込んでも尚無傷。更に世界でも最高クラスの強度を誇る合金によって作られた全身装甲を、その拳一つで粉々にしたのだ。それでも傷一つつかない人体など、絶対に有り得て良い筈がない。
『世界の守護』の為に生み出された機械人形であるドグラには高度に人間の魂を複製した核が存在するが、それでも人間程の豊かな感情は無い。が、それでも使命半ばで終わるこの世界の理不尽に恨み言の一つも言いたくなった。
なんなのだ、目の前のこの存在は。『神話の残滓』を持つ眷属である事は明らかだが、その中でもこの残滓は危険過ぎる。こんな存在が、人類史に存在していたのか。ああ、いや、確かに存在していたが、だとすれば有り得ない。
『神話の残滓』は本来、その原本となる『神話』の担い手――その子孫が稀に持つものだ。
故に、"種族が違うこの男が、《最低最悪の魔王》の子孫である筈が無い"のだ。
クロが、その拳を振り上げる。赤黒いスパークが先程ドグラ自身が喰らった筈の左腕に集い、世界の光景が歪むほどの異常な魔力が崩落していく空洞内に満たされる。その黒かった筈の赤眼から放たれる視線がドグラを射抜き、剥き出しになった核に狙いを定める。
ドグラは呻くように、呪うように、己が持つさっきの全てをクロに向けて、一つ呟いた。
「……この、化け物め」
「――。」
再度凄まじい衝撃が、広大な魔界の大地を揺らした。
「――?」
エマは、体の主導権を奪われた果てに辿り着いた遺跡の再奥――身を包む透明な液体の中で、その音を聞いた。
水中にいる筈なのに、不思議と呼吸は出来る。目を開いても視界がボヤけることもなく、水中特有の浮遊感以外は殆ど地上と変わらない。ただ、全身に浮かぶ青白いライン──ナタリスに伝わる『禁術』の証たるその紋様が熱を発し、体の力を少しづつ奪っていく。体は思うように動く様にはなったが、体力を奪われた所為で体が殆ど動かないのだ。到底、泳いで脱出する何て事が出来る筈がない。
エマの沈むその暖かな海に光は差さず、ただ己の体に輝く青白いスパークだけが光源と成り得ている。
孤独な世界の中で浮くのは、エマだけではない。"ソレ"は大地を揺るがすその衝撃に反応するかの様に、直接頭に響くような音で声を漏らした。
『――騒がしいね。もう、あともう少しで移植が終わるっていうのに、空気読めないなぁ』
「……お願いだから、私を集落に帰して……!」
『ダメ。っていうか、帰しちゃったら私の目的を果たせないしね』
相変わらずの答えを返してくるその存在──『真祖龍』と呼ばれた存在は、何処か面白がっているかのような声音で笑っていた。
エマがこの海にたどり着く前、閉ざされていたらしい古びた遺跡の入口の前に立つと、奇妙な光に包まれ、気が付けばここに浮かんでいたのだ。そして真っ暗闇に浮かぶ中、最初に聞こえてきた声がこの龍の言葉。即ち──
"――キミには、私が解放されるための生贄になって貰う。悪いけど、これからの生は諦めてね――"
と。
その意味に気づく為に三十分、そして残りの三十分は、この理不尽な運命に泣き叫んだ。なんでこんな目に合わなければならないのか。なんで私なのか。なんでこうも突然なのか。
もっと話したかった。もっと一緒に居たかった。これからを一緒に生きて行きたかった。お父さんと、お母さんと、ナタリスの皆と。そして、あの日外からやってきて、私の前に現れてくれた彼――クロと。
ずっと集落で育ってきた私にとって、彼が語ってくれた話は、まるで夢の世界の話のようだった。レンガという石で組み上げられた可愛らしい家に、あの集落よりも数倍大きいという、お城。それらが集まり、ナタリスの集落なんかとは比べ物にならない程沢山の人々が住む『国』。
クロは、人界に好きな人を残してきたんだという。その人ともう一度会う為にも、早く帰りたい、早く強くなりたいのだと、彼は言っていた。そう語る彼の顔はとても優しくて、一途で、穏やかで、でも少し、格好良くて。
そんな風に、誰かを愛する事が出来る彼に、少し憧れていた節があったのかもしれない。
だから私は、ずっと彼と一緒に居た。
彼は、得体の知れない魔族である私達にも優しかった。まるで本当の家族のように接してくれて、時折みんなが知らないようなすごい事を教えてくれたり、子供達とも楽しそうに遊んで、気にしなくても良いというのに、村の皆を手伝ったりして。
正直私は、ナタリスの他の種族を相手に家族のように接しろと言われても、いきなりは出来ないと思う。やっぱり相手が名も知らぬ相手なのは変わりなく、どうやっても警戒してしまうのだ。きっと、他のナタリスの皆とてそうだろう。──けれど彼は、私達が信頼出来ると一度判断した途端に、私たちが魔族であるにも関わらず信頼してくれた。
本当に、差別の欠片もないのだ。相手が魔族だろうと何だろうと、心が通わせられるのなら排斥などしない。ロクに付き合いも長くないナタリスに対しても、彼は友好的に接してきたのだ。
……世界中で忌み嫌われる、《最低最悪の魔王》――ナタリスが、その力を継いでいると知っても。
だから、私は将来彼が村を出るとき、付いて行こうと密かに決めていた。
外の世界を見てみたいという気持ちも、確かに大きかった。彼が愛した人を、彼が帰りたいと思う場所を、見てみたいと。──けれど、それと同じくらいに、彼と一緒に居たいという気持ちも、確かに存在していたのだ。
私が知る中で、最も優しい彼。その背に、私は確かに憧れていた。
――だからこそ、こんな所で終わりたくない。
こんなところで一人死んでいくなど、絶対に嫌だ。もっと彼と居たかった、もっと彼の姿を見たかった、もっと彼の声を聞きたかった。出来るならば、その隣で彼の役に立ちたかった。
両腕で己の肩をぎゅっと抱きしめ、小さく丸くなる。嘆いたところで、もう助かる事はない。この龍はいずれ私の全てを奪い取って、外に出るだろう。その時、私の体に既に私は居ない。私の短かった生は、この暗闇の中で孤独に終わる。
『――!』
何かを、真祖龍が叫んだ。けれど、それを聞く聴覚すら失われかけている。私の魂と半ば同化しかけた『核』に力を奪い取られ、私という存在が失われていく。耐え難い喪失感に身を震わせ、襲い来る寒気に腕をさすった。どうやら、既に体温すら奪われ始めているらしい。視界も半ば黒く染まり、息も苦しくなってきた。四肢の感覚が遠ざかり、寒さから身を守るように体を抱いていた腕すら満足に動かせない。
ああ、もうすぐ、私は死ぬ。どうやら、それに偽りも勘違いもないらしい。
ガタガタと震える手を何とか伸ばし、真っ暗な頭上に伸ばした。
何が出来るわけでもない、誰かが救いの手を差し伸べてくれる訳でもない。けれど、手を伸ばさずには居られなかった。どうしても怖くて、怖くて、けれど何も出来なくって。だからこそ、私は手を伸ばして、涙を零すしか無かった。
ああ、お願いだから。誰でも良いから、どうか――
「――助けて」
そう呟くと、同時。何か、暖かな感触が全身を包んだ。
ギュッと、何かに抱きしめられたような気がしたが、意識は既に落ちかけている。「……間に合った」という聞き慣れた声が耳元で聞こえたような気がしたが、その正体を確かめる間も無く、私の眼には幕が降りる。
伸ばした手を引き戻し、完全に眠りに落ちる寸前に、その暖かな何かに精一杯縋り付く。それだけで、不思議と不安は薄れていき──。
────閉じかけの瞳に、紅い輝きが見えた気がした。




