第100話『日の本に生まれたいのち』
約1年待たせたってマジ?
光が、降り注いでいた。
果ての見えないほどに広い樹海、遥か遠くに連なる山脈、ソラに散らばる青く霞がかった浮遊島。
目覚めてからこの一か月間を過ごしてきた大地――ヒメノが『獣界』と呼称したこの場所。こうして静かに過ごした日々で、俺は長らく彼女以外のヒトと出会っていない。
それもその筈で、この付近一帯には人が暮らしていた形跡が何も見当たらない。俺達の暮らす小屋を除き、人工物のようなものが影も形も見当たらないのだ。
ヒトの居ない大地、自然溢れる世界。
あまりにも広い世界の中で、彼女と俺、たった二人きりしか居ないかのようだった。
「また、ここに来てたの?」
「――ヒメノ」
不意に、背後から声が掛けられた。
振り返れば、やはり初めて出会った時から変わらずに美しい少女が、穏やかな笑みをこちらに向けている。ヒメノと名乗るこの少女が恐らくは只者ではない、というのは目覚めてからこの一か月間で容易に理解できた。
どうやら俺の記憶喪失は、ヒメノ曰く脳の記憶領域の一部――エピソードに関する部分だとか、そういった部分が欠損しているようで、言語や常識だとか、そういう記憶領域は比較的被害が少ないようだった。
無論、自分でも気づいていないだけでいくらかの欠落はあるのだろうが、記憶が無いのだから検証のしようもない。それに関しても、やはりこの少女に頼らざるを得なかった。
「ごめんね、退屈でしょ」
「仕方ないんだろう。君は何も悪くない事ぐらいは、分かってるつもりだよ」
確かに、手持無沙汰と言えばそうなるだろう。ここには彼女の建てたあの小屋の他には、ただ自然が広がるばかりだ。
生活のために、狩りや食べられる植物の収集などすべきかと思ったが、それも気づかぬ間にヒメノが終わらせている。既に小屋の中には、向こう一週間は容易に食い繋げるだけの食材が整っていた。
基本的に、俺の出来る仕事は俺がやるよりも彼女がする方が100倍は効率が良いのだ。そのため、現状の生活は完全に彼女におんぶにだっこ。やはり情けない気分が無い訳ではない。何も出来ない自分の現状を自虐するように苦笑して、空を見上げる。
「――綺麗な景色だな」
「……?」
ぽつりと呟いたニグレドの言葉が意外だったような反応で振り向いたヒメノは、彼の視線に倣うように、その隣に並び立って眼下の光景を一望する。
翡翠の瞳が、眩い太陽の光に少し細められた。
「……そう、ね。今まで、ちゃんと見ようとした事も無かったけど――」
一陣の風が、二人の間を吹き抜ける。崖下の森から風が攫ってきたのだろう無数の木の葉が舞い上がって、陽の光を遮るように掲げられたヒメノの手のひらに収まった。
まるで映画でも見ているかのような光景だ。眼下に広がる絶景は勿論のこと、その風景を背景にその翡翠の瞳で世界を見渡す彼女の姿は尋常ならざる美しさで、この世のものなのかどうかすら疑わしい程だ。
「そっか。こんなにも、綺麗な世界だったんだね」
掌に載せられた葉を優しく包んだヒメノは、まるで、長く見ていた悪い夢から放たれたような、安堵したような笑顔で。
そう言って、笑った。
――――――――――――――
「……ファイヤ。レベルセット、セカンドレベル、チャージ。リビルド」
魔法、というものを教わったのはつい最近の事だった。
俺がこうしてヒメノ以外の誰とも交流することなく静かに過ごしている要因は、そのまま俺の記憶喪失の原因に直結するらしい。
というのも、俺が記憶を失ったのは事故とかそういった類ではなく、むしろ体を蝕んでいた、曰く“呪いのようなもの”に対する対処療法の結果なのだという。その“呪いのようなもの”に侵されていたこの肉体は、どんな些細な事であれ、魔力を扱うことすら要観察、といった具合だったそうだ。
一か月経過を見てようやく魔法の使い方を教わった――とはいっても、教わったのも、行使を許されているのも、この指先ほどの大きさの火を灯したり、こうして火力を調整したりする程度のこと。
現状、ヒメノに許可された行動は、室内の本棚いっぱいに並べられた蔵書を読むことと、規定範囲内での散歩、そして今のように彼女から教わったレシピを頼りに、料理を行う事程度。
呪いの経過次第で次第にできる事は増える筈だから、暫くの内は我慢してほしいと何度も謝られたのが印象深い。そもそもの話、俺の体の事で迷惑を掛けているのも、謝らなければならないのもこちらだというのに。
「えー、と、蓋は……」
コンロ下の棚を引いて、フライパン用の蓋を引っ張り出す。有難いことに例のごとくヒメノ手製のそれは真ん中に覗き窓が設けられており、蓋を閉めたままでも中の様子を見る事が出来る便利仕様。ハンドメイドというのが疑わしいレベルだ、こんなガラスなんかはどこから持ってきているのだろう。
蓋を閉めるよりも先に、小皿の半分程度の水をフライパンの中に投入する。途端にじゅうぅぅぅぅっ、という音と共に凄まじい勢いで湯気が発生するので、蓋でそれらを受け止めるように蓋をした。
「……知識としての記憶は、残っててくれて助かったな」
不幸中の幸い、と言うべきか、残っていた記憶の中にはある程度纏まった数のレシピが残っていた。どうやらある程度料理も嗜んでいたようで、簡単なモノであれば料理の感覚もしっかりと手に残っている。
その記憶を身に着けたのがいったいどこなのか、という本来セットで在って然るべき記憶が存在しないのが奇妙な心地だが、残っているものは活用すべきだ。
近況を敢えて表すのなら、当然のように料理の腕も遥かにニグレドを上回るヒメノに教えを受けながら料理の勉強中、といった状況になる。
「ん」
ふと気配を感じ取って背後へ振り替えれば、厨房の入り口から少し体を覗かせてこちらを覗き込むヒメノの姿。先ほどまで何やら術式の調整を行っていたようだったが、用事は終わったらしい。ニグレドの視線に気付いた彼女はうっすらと微笑むと、軽い足取りでクロの横に並び立つ。
蓋の覗き穴から中身を覗いた彼女は小さく笑うと、隣のニグレドの顔を覗き込むように見上げた。
「目玉焼き、好きだね」
「それもある、けど、出来栄えに納得いってないってのが七割。まだ君のお眼鏡にかなう出来のは作れてないからな」
「前にも言ったけど、料理に正解なんてないんだよ。人の好き嫌い、その時の気分、こだわり、そういう要素でいくらでも変わってきちゃうものなんだから」
「それでも、せめて君の好みぐらいは網羅したものは作りたいんだ。君に貰ってるたくさんのものを、ちょっとずつでも返せる唯一の目途なんだから」
「意地っ張り」
「何とでも言ってくれ」
揶揄うように言ってくるヒメノに苦笑を返しながら、蓋を引き上げる。フライパンの中で充分に熱し蒸されたベーコンと卵はいい具合に焦げ目がついて食べ頃だろう。素早くフライ返しでフライパンの中から掬い上げて、平らな皿に移し替える。
食料棚にまだ食パンが残っていた筈――と高い手を伸ばしたところで、ふと背中にもたれ掛かってくる感触があった。
「……ヒメノ?」
「……気にしないで、ちょっと、人肌恋しかっただけ」
背中に感じる彼女のぬくもりと、額を押し付けられる感触。
別に珍しい事ではなかった。あの日ああして目覚めた以降も、不定期に彼女はこうしてニグレドの体を抱きしめるスキンシップを図る。こんな誰とも関わることのない毎日だ、誰かと触れ合いたいという気持ちが、時たま溢れ出すのも仕方のない事と言える。
さぞ、記憶を失う前の己は幸せ者だったのだろう。こんなにも優しい少女に、これほどまでに愛されていたのだ。
くるりと体の向きを変えようとすれば、ヒメノは腕を緩めてすんなりと許容してくれる。そのまま今度は正面から抱き着いてくる形となった少女を、ニグレドもまた優しく抱き留め返した。
「――っ、ぁ」
「……ヒメノ?」
「……ううん。なんでもない」
胸の中でほんの小さな声が漏れたような気がして彼女に問いかけるも、変わらず穏やかな口調のままにヒメノは首を振る。そのまま彼女はニグレドの体に回した手に力を籠めると、より強く彼のぬくもりを抱きしめ続けた。
離してしまうことに怯えるように、手放してしまうことを恐れるかのように。
「――ごめん、ね」
なぜだか分からないけれど、ぽつりと呟いた彼女の様子がやけに痛々しく見えて、ちくりと心に痛みが走った。
――――――――――――――
「――――。」
窓の外から、ジー―、という虫の鳴き声が微かに聞こえてくる。
夜の暗闇に木々の隙間から差す月光が、部屋の中に届いて床のフローリングを照らし出す。深夜に差し掛かろうとした今も、元より人の居ないこの森の静けさでは昼も夜もさほど変わらない。
四季の概念の薄いこの地域は、一年を通じて涼しい気候に保たれており、生活に於いてあまり環境的な不自由も少ない理想的な環境と言える。
そうでなければ困るのだ。如何なる理由であれ、今の彼に対して負荷を与えるのはあまりにもリスクが高い――そして何より、もう彼にこれ以上苦痛など感じてほしくない、と。
それが、これだけの力を持っていながら、こんなにも擦り切れた彼に対して何も出来なかった己の無力感を誤魔化す、唯一の方法だった。
「――、くん」
声にもならないような、ただ風の掠れる音がわずかに鳴った程度の声で、今は呼んではならないその名を呟く。
既に居ない男の名だ。
この世に存在しない男の名だ。
消えなければならない筈の男の名だ。
今はもうこの記憶の中にしか無い、かつての“ミノリ”を孤独から救ってくれた少年。特別な才能も無ければ地位もなかったただの少年。今だけは、この知識も記憶も何もかもをため込んで焼き付ける頭に感謝した。
些細な事でも忘れたくなかった。ほんの僅かな所作でも、彼の思い出を失いたくなかった。
もう“彼”ではない彼との思い出の中にも、戻ってくることの許されない“彼”を紛れさせたくはなかったのだ。
「にぐ、れど」
それが、今の彼の名。遥か遠くの国で、『黒』を意味する言葉。
今の彼も、紛れもなく彼自身ではあるのだ。けれど、やはりミノリとあの世界を多少なりとも過ごした彼ではない。だから、どんな些細な事でも、彼の名の残滓を少しでも感じたかった。
大きめのベッドの中ですぅすぅと寝息を立てて眠る彼の、黒く染まった頬を軽く指先で撫でる。その微かな動きの瞬間にも指にはいくつかの凸凹した感触が帰ってきて、肌に刻まれた無数の細かい傷の存在を示すのだ。
そこだけではない、全身に刻まれた無数の傷跡は、もうきっと消える事は無いのだろう。これまでに彼が進んできた過酷な道の証左、傷つき、苦しみ、血反吐を吐きながら歩んできた足跡がこの傷跡だ。
「わたしが、ついていれば」
彼は、こんな事にならなかったのだろうか。
或いは、守ることが出来たのだろうか。
今更考えても無為な事だ、無暗に心を傷つけるだけの、精神に瑕を残すだけの思考だ。
だが心というものはそう単純な話ではなくって、そんなマイナスにしかならない考えは延々と脳裏でリピートされてしまう。理屈では分かっていても止められるものではないのだ、悪感情に限って影響は色濃く傷を刻み込んでいく。
「……ヒメ、ノ?」
「っ」
意識外から掛けられた声に、少々肩を震わせながらも視線を上げる。
紅い瞳が、薄暗い部屋の中にぼんやりと僅かな光を帯びていた。かつては黒かった筈のその瞳に宿るその光は、恐らくは源流禁術の余剰魔力が未だに彼の体から抜けきっていない印。その証拠に、僅かずつではあるが瞳の光は日を重ねるごとに薄れてきているように見える。
当人にそんな自覚はきっと無いのだろう。微睡んだ意識のままに、ニグレドはゆっくりとした動きでその真っ黒な左腕を持ち上げると、ヒメノの頬に手を添える。
「……眠れないのか?」
「……ううん、大丈夫。すぐに眠るわ」
添えられた手に自分の手のひらを重ねて、抑えた声でそう答える。
彼は記憶を無くそうとも優しいままだ。かつての彼と同じように、この人間離れした自分を恐れることも、気味悪がることもなく受け入れてくれる。だからこそヒメノは自分がありのまま自分自身で居られる彼との時間が好きだったし、同時に彼がいない世界が――自分の居場所のない世界が、恐ろしかった。
――いつか、私は“彼”を忘れなければならないのだろうか。
“彼”が帰ってくることは二度とない、あってはならない。それはそのまま、実質的な死では済まない、本当の意味での彼の死を意味する。だから彼に……ニグレドに“彼”を求めるのはただ不毛なだけの自傷行為だ。
でも、それでは本当に、ある意味では物理的な、本来の死以上の意味で“彼”が死んでしまう。“人が本当に死ぬのは、人に忘れられた時だ”なんて言葉があるが、ヒメノもそれ自体には深く同意している。
だが、しかし、でも。
だめだ、どれだけ気を紛らわそうとしても悪い思考が止まってくれない。
――彼の事を覚えている限り、きっと、私が心から笑える未来は永遠にない。
自分勝手なのは分かっている、誰よりも苦しんでいるのは自分ではない事だって分かっている。そんなのはとっくに知っていて、それでも。
あんまりにも残酷だ。
「……どう、すれば」
音にもならないような声で、あまりにも苦痛の滲んだ悲鳴が漏れた。
世界に愛され、万象に愛され、この世全ての才を注がれて生まれた少女は、この世の残酷を呪う。未来など何処にも見えることのない、暗闇に包まれた今を呪う。
どうしようもないほどに、ヒメノにとって、この世界は“詰んでいる”のだ。
創作物で言うファンタジーの世界ではあっても、ゲームとは違う。リセットなんてできない、途中で止めることなんてできない。紛れもなくこの世界は現実であり、変えようのない事実だけで構築された紛れもない世界。
――不意に。
「……?」
ざく、っと。
遥か離れた距離ではある、ここからは3~4キロは離れているだろうか。山の中腹にあるこの小屋からはかなり遠いが、山の入り口辺りになるだろうか。僅かに結界に反応があったのを、ヒメノは見逃さない。
人除けの結界を張ってあるこの場所は、基本的に偶然で人が迷い込むことはない。あるとすればそれは結界に気付いた魔術に通ずるものか、或いはあらかじめこの結界があることを知っている者だ。後者の場合は特定の手順を踏んで、正式に結界を開いて入ってくる――どうやら今回はそうらしい。
こういった場合、大抵はあの金色の“極術使い”だ。だが彼女がこちらを訪ねてくる場合は、ニグレドと鉢合わせにならないように事前に連絡を取ってくる。今回のようにアポなしで訪ねてくる、というのは前例がない。
既に眠ったニグレドを起こさないように小屋から出て、魔力による補強で一息に山を駆け降りる。山道にも随分と慣れたもので、十数秒にも満たない間に麓へと辿り着けるようになった。上空を飛べば話は早いのだろうが、あまり魔力を散らすと結界は勿論、ニグレドの体にどんな影響が出るかもわからない。
結界による魔力の残滓を受けて成長が促進された樹木は頑丈になって、ヒメノの着地程度であれば余裕をもって耐えてくれる。両足に帰ってきた衝撃を魔力で散らして立ち上がれば、こんな夜更けに訪れた客人の姿が露になった。
「――あな、たは」
隠蔽の術式が編み込まれたローブから覗く髪の毛は淡い水色だ、同色の瞳はジッとヒメノの姿を見上げている。たった一度ではあるが、一度見たものを脳に死ぬまで刻み付けるヒメノの頭脳は彼女の姿をしっかりと記録していた。
名は、確か。
「レコーア・カド・ソロモネル……いいえ、“五十嵐恋華”といいます。兄が、ここに居ると、メイリア様に聞いて、来ました――あの、お願い、します。兄に、会わせてください」
前話でもあとがきで触れたとおり、かなり長期間執筆にがっつりと時間を割ける状態に無かったため、トンデモな期間お待たせしてしまいました……
一応目指す職には遠くはありますが、生活に問題ない稼ぎを得られる職は見つかりました。ただし少々重労働ではあるため、執筆をするにもなかなか時間と体力の関係で厳しい現状は続いております。自分の体力がついて仕事に慣れてくる頃になれば執筆にも取り組める余裕も出てくるとは思いますが、それまでは不安定な低頻度の更新になります。収納を今も待ってくださっている、という方が居れば引き続きお待たせしてしまう事とはなりますが、僅かずつでも進めていきますので、どうかこれからも収納の応援をよろしくお願いいたします。