幕間『ニグレド』
短いです。
「……ぁ、ぁ」
掠れた声が、喉の奥から零れるのを感じた。
鳥のさえずる声がうっすらと耳に届く。葉と枝の擦れる音、風に揺られてしなる木々、そしてその隙間から覗く太陽の光。
随分と心地が良かった、揺り籠に揺られているかのような暖かな感覚が全身を包んで、穏やかな気分が心に広がっていた。
すぅ、すぅ、という規則的なリズムの寝息が耳に届く。それでようやく誰かが至近距離にいるという事実に気が付いて、重い瞼を少しずつ、光に慣れさせるようにゆっくりと広げた。
最初に目に入ったのは、シルクのように綺麗な肌だった。
一瞬何なのかと疑問が浮かんだが、鎖骨が浮かんでいる事からそれが誰かの胸元なのだと認識する。それと同時に自分の体を包んでいるものが何かを理解して、慌てて飛び起きて後退った。
驚くほどに綺麗な少女だった。歳は15か16といったところだろうか、長い黒髪の下の顔は見惚れるほどに整っていて、見た目から推測できる年の割には女性らしい体つきが目立つ。
薄緑の裾が長いシャツに白いジャケット、控えめな赤のミニスカート、薄茶色のロングブーツ。
背丈は小柄という程でもないが、高くもない。自身に比べると頭一つ分は低い程度だろうか。
「……誰、だ?」
そもそもとして周囲の状況についての理解も及んでいなければ、目の前で眠る少女が誰なのかも分からない。よくよく辺りを見渡せば、思いきり野外――それも周囲に人影も無ければ、家屋の姿も見受けられなかった。
なぜこんな屋外で眠りこけていたのかは分からないが、兎に角このままでいる訳にもいかない。まずは目の前の少女が目覚めるのを待とうと、声を掛けようとしたところで、気付く。
「……ってか、俺は、何を」
記憶がない、何をしていたのか思い出せない。この現状に繋がるまでの記憶を掘り返そうとして、どんどんと脳裏に意識を集中させていく。しかしそうしていくにつれて、致命的なその“違和感”がどんどんと大きくなっていくのだ。
「俺、は」
……誰だ?
――何も思い出せない。
確かに今まで確実に俺という存在は生きてきたはずなのに、その人生に付随するエピソードが何一つとして出てこないのだ。
困惑しながら、瞬きを繰り返す。自分の顔は?年齢は?親は?生まれの場所は?
――無い。記憶をいくら掘り返そうとしても、どこにもそれを俺自身に示す材料が存在しないのだ。俺という存在を構成するものが、完全に白紙になっている。
「うそだ」
焦燥に駆られて、走り出す。少し走ると見えた小さな池に駆け寄って覗き込めば、水面に反射した己の姿が映し出された。
「誰なんだ」
映った顔は、ひどいものだった。
顔の半分が真っ黒に変色して、髪も本来は黒かったのだろうが、半分近くが色が抜けたように白くなってしまっていた。およそ真っ当な生き方をしたとは思えない。
池の淵に突いた両腕も同じような惨状で、左腕に至っては完全に漆黒だ。手の甲に浮かんだ正体不明の刻印も気味が悪い。
“俺”は一体何をしていた?記憶から消滅した俺という存在は、何だ?
胸の中にぽっかりとあいた空白、何か致命的なことを忘れてしまっているのではないかという焦燥、それらが“俺”に言いようのない不快感を与えてくる。
故郷がない、繋がりが無い、何もかもが不透明なこの現状が、自身の存在のあやふやさを際立たせる。
何もない、世界と繋がる自身の痕跡が何処を探しても見当たらない、家族も友人も何も、帰る場所すらどこにもないという虚無感。
恐ろしい。
まるで、己の存在が、吹けば消えてしまうような霞のような存在のようで。
まるで、己の存在が、この世界に認められていないかのような錯覚があって――。
「居たっ」
どっ、という軽い衝撃が後ろからぶつかってくる。
ふわり、と、日の光の中に居るような、暖かな感触が広がる。
驚いて後ろに視線を向ければ、背に縋りつくようにしていたのは先ほどの少女――目を覚ましたのだろう、今“俺”という存在が知る、唯一の他者であり、同時にこの状況について知り得る可能性を残した手がかり。
人間離れした美貌の少女はその顔を不安そうに歪めながら、“俺”を力いっぱいに抱きしめる。彼女にとって“俺”がどういった存在なのかも分からない以上その行動にはただ疑問しかないが、彼女が俺について何かしら知っている事は分かった。
ただ、必死に抱き着いてくる彼女の姿に困惑よりも心配が勝って、思わず口を開く。
「……大丈夫、か?」
「……っ」
ぽつりと呟いた言葉にびくりと反応して、少女は驚いたように顔を上げる。その顔は何か期待しているような、或いは懇願するかのような表情で眼を見開いている。
「悪いけど、その、何か知ってるなら、教えてくれないか?頭にぽっかりと穴が開いたみたいに、記憶が丸々思い出せないんだ」
「――――。」
期待の表情は一転、諦めすら容易に見て取れるように唇を噛んだ彼女は、深く息を吸い込んで下を向く。
頬には涙が伝っていた、零れるそれを何度も拭って止めようとする彼女の姿がとにかく痛ましくって、ますます心配が大きくなっていった。
「……わたしの、名前は、“ヒメノ”」
不意に、俯いたままの少女が呟く。
ゆっくりと顔を上げた少女の瞳は、翡翠のように美しい色をしていた。
「――あなたは、私の、ただ一人の、大切なひとだったの。“ニグレド”」
ヒメノと名乗った少女は複雑そうに、バツが悪そうに。しかし、悲痛な、傷だらけの心から絞り出したような声で。掠れ切って、辛うじて言葉として聞き取れるほど声で。
“もう、どこにもいかないで”と。
そう、告げた。
途中で何度か失踪しかけたり就活が始まったりと色々と紆余曲折ありましたが、ようやく三章も完結させられました。度々感想で応援していただいた皆様の期待に応えられるものをお届けできていればいいな、と思います。
という訳で次からは四章ですが、前述のとおり就活が始まっているため少々更新が難しい期間が続くかもしれません。それでも宜しければ気長に、これからも『収納』(最近タイトル詐欺気味になって来たな……)をよろしくお願いします。
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