第96話『既に、人形ではなく』
今回は少し短め
「――ぁ」
体が重かった。
全身に何束もの鎖が纏わり付いているかのようだった。或いは、泥水の底に沈んでいるかのようだった。イマイチはっきりとしない自意識は、ただただ己の座り込んだ床を見詰め続けていた。
何も見えない、何も聞こえない、混濁した意識の奥底。
――何かが、エマを包み込んでいた。
慈しむように、愛おしむように、優しく包み込んでいた。確かな温もりがそこにあった。胸の奥がじんわりと暖かくなるような、そんな心地良い感覚だった。
ずっと、ここに居たい。
それは抗いようのない誘惑、体の芯から溶けていくような、甘い甘い、己自身の誘い声。
だが。
『――それで、いいの?』
他ならぬ己自身の声が、そう、問い掛けてきた。
「……?」
視線を持ち上げる。微睡んでいた意識にもその声はやけにハッキリと響いてきて、瞼は自然と上がっていった。
自分は何も言っていない、誰だ。他ならぬエマ自身の声を使って、よりにもよってエマに問い掛けるその人物の姿を探して、瞳孔を広げていく。
そして暗闇の中、何も見えないはずの深海に。
それは居た。
「……な」
『本当に、それでいいの?』
髪は結んでいない。
墨汁で黒く染め上げたようなドス黒い、長い長い髪だった。
乱雑に伸ばした前髪は右目を隠していて、唯一見える左目はぼんやりと紅い輝きを宿している。
服はエマが着ているものと似ているが、どこもかしこもボロボロに破れていたり、あるいは泥まみれに汚れていたり、とても清潔とは言えない姿だ。
肌には各所に漆黒の痣が広がっていて、その痣の上に浮かぶ真紅のヒビ割れのようなラインは、時折同色のスパークを弾けさせる。
足には何も履いていない、擦り切って足裏の皮膚は剥がれ、指の下に小さく除く剥き出しの肉は血濡れていた。
そして、その顔は。
エマと、まるで同じ顔だった。
「……『黒、妃』」
かつて、クロが見た姿とは大きく変化している。最もエマがそれを知る由もないが、その姿は絶命の瞬間の怪物の如き容貌からはかけ離れ、人間のそれに近付いていた。
――それは、『黒妃』自身が自分の姿だと信じる形だった。
『……そうして寝てるなら、代わってよ。私にその体を渡してよ』
「……出来、ません。この体は、あの方に護れと命じられて」
『“エマ”に返すんでしょう?なら変わらないよ、私がクロの隣に行く。クロを守るの。私の方が強い、ずっと強い。貴女よりも、“エマ”よりも、ずっと』
「それ、は」
事実だ。
彼女に委ねれば、全てが変わる。あの3人が相手だろうが簡単に切り伏せられる、あんな状況など彼女だけで簡単にひっくり返せる。分かるのだ、確信出来る。
『私ならクロを守れる、全員殺せる。もう誰もクロを悪く言わない。誰もクロの邪魔なんかしない』
「……出来ません」
『どうして?どうせ何もできないのに』
「……っ」
事実だった。
口を噤む、目を伏せる、何も言い返せす言葉が見つからなくって、ぎゅっと拳を握り合しめる。彼を救うにはあまりにもこの身は力不足で、とてもじゃないが何の役にも立たない。ただここで燻っているだけしかできない脆弱さ。
エマを見つめる『黒妃』の眼は、まるで氷柱のように鋭く、冷たかった。
『貴女だって、“エマ”の体を借りているだけ。その器はあなたのモノじゃない。なら私が入る』
冷たい声だった、恐ろしくなるほど温かみを感じさせない冷ややかな声だった。どころか、軽蔑すら感じさせる声音だった。とても、エマという少女の声で発される言葉ではないと思った。
だが、『黒妃』は宣言する。
『だって、私は“エマ”なんだから』
「……っ」
知っている。
この肉体が知っている、この器を引き継いだ時からずっと、頭の片隅に押し込んで封じ続けてきた記憶。イガラシ・クロが『黒妃』を殺すと共に流れ込んできた、怪物の記憶。
『黒妃』の、いや――
――エマという、最悪の怪物として世界を敵に回した少女の記憶。
『貴女はクロを守りたいんでしょ?私もそう。クロが好き、だから守るの。そのためにたくさん殺してきたの』
何でもないように、まるで当然であるかのように、エマはそう告げる。あまりにも残虐的なことを、あまりにも恐ろしいことを口にする。だがそれが『黒妃』にとっての当然だった。
殺して、守る。それだけのこと。
『後は私に任せて?貴女はもう、何もしなくっていいから』
……そう、なのだろうか。
彼女に任せれば、全てが好転するのだろうか。クロを守り切る事が出来るのだろうか。
少なくとも確かに、自分が居るよりはマシなのではないか。こんな弱い足手まといが付いているよりはずっと、彼は幸せになれるのではないのか。そもそもとして、彼は私の事を快く思ってはいないだろう。
心を知った、想いを自覚した。故にこそ分かってしまった。
――今の私は、あの、絶望の眼でこちらを見る彼の表情の意味を、理解してしまった。
私は、失敗から生まれただけのジャンク品だった。
視線を上げる。紅い二人分の双眸が交じり合った。
漆黒の少女が微笑んで、その黒く変色した右腕を差し伸べてくる。その手を取れば全てが変わる、クロは守られる、全て、全てが好転する。もう彼を苦しめる事は無い。
彼女の方が、きっと、“エマ”に相応しい。だから、私が、消えれば。
「……あの人を、どうか」
『うん。絶対に守るよ』
全てを差し出す、全てを託す、もはやエマに出来る事はそのくらいだったから。
記憶が脳裏を駆け巡っていく、消滅を覚悟した頭が、短い間彼と共に歩んだ道のりを遡ろうとする。付き従い、駆け、戦い、言葉を交わし、息を吸い、世界を見た。
巡る、巡る、巡る。記憶を思い返して、思い返して――
――なぁ。
「……?」
――それで良いのか。
そんな、さっき聞いたような問いと共に。
ぼうっ、と、エマの胸に黄金色の輝きが宿った。
『……!』
ぱしん、と乾いた音がする。
エマが、“黒妃”の手を払った音だった。
呆然と眼を見開く。ついさっきの事だったというのに、どうして思い出せなかったのだろうか。こんなにも強く抱いた自分自身の願いを、どうして今まで忘れていたのだろう。
隠されていたのだろうか、それとも見えていなかったのか、けれどもはや関係ない。
茜色の眼を持った魔法使いが、教えてくれたことだった。
――“生きたいなら、生きたいって言いなさい”
「……ぁ」
――“願いがあるなら、主張しなさい”
「……そう、だ」
――“全ての命には、その権利がある”
「わたし、は」
黄金の輝きが、闇を照らし出していく。何も見えなかった世界に、眩い光が満ち溢れていく。エマの心を縛っていた呪縛の鎖がジリジリと焼け焦げて、その形を歪めていく。
それはエマの体に刻まれた――否、ナタリスという種に刻まれた刻印だった。
エマの全身に浮かび上がったソレ、末端禁術の刻印に酷似した――いいや、或いは『禁忌術式:第一鎖』という名の呪い。
それが今。
解けて、消えた。
「――死にたく、ないんだ」
全ての前提条件が覆る、何もかもがひっくり返る、濁り切った頭が澄み渡っていくような感覚があった。鉛のように重かった四肢が軽くなっていた。
心の隅々に、暖かな勇気が滲み渡っていた。
『……余計な、ことを』
黒妃が、憎々しげに天を仰いだ。その視線の先にあるのは、爛々と輝く一番星。たった一つの星は何故だか太陽のように暖かくて、自然とエマは立ち上がっていた。
分かるのだ、その先にある道が。
彼のために何をするべきか、願いを果たすためにどうすべきか。どうにせよ、それらを成すためにはあまりにも――
――この世界は狭すぎた。
「……ごめんなさい。私は確かに“エマ”じゃない」
仮初の肉体が解けていく、現実へと意識が浮上していく。その最中に、エマは黒妃へとそんな謝罪を向けた。
『……なんで。そこは、私の居場所なのに。私の居場所は、そこしかなかったのに』
それは半ば、八つ当たりのようだった。愛する“黒”と分かたれた怪物の、呪いのような恨み言だった。
エマはそれに。
たった一言を返した。
「――それでも私は、消えたくないの」
世界は、音一つ立てずに消滅した。
――――――――――――――
「――正気?」
「はい~、正気ですよぉ」
『日蝕』の問いに、白の巫女が満面の笑みで応える。わざわざ確認まで取ったのはたった今白の巫女が口にした『未来』が、それ程までにあり得ないものだったから。
確かな未来を見る白の巫女へ、今になって疑いを抱くほどに、あり得ない顛末だったからだ。
「彼を貴女に預ければ、本当にそうなると?あまりにも荒唐無稽に過ぎる」
「それでも事実そうなりますのでぇ、魔王様も再び『やり直す』のは嫌でしょう?でしたらぁ、この提案に乗っていただいた方が魔王様の為にもなるかと思われますがぁ、いかがでしょうかねぇ?」
沈黙する。
相手が他の何者かであったのならば、一笑に付して消し飛ばしていただろう。だが相手は他でもない白の巫女、未来を見る本物の預言者。でまかせであったとしても、軽んじて扱えはしない。
既に状況は“詰み”に至った。それが日蝕の見解だったのだ。だがそこに加わる彼女という存在による一石は、あまりにも大きな波紋を生む。
信用できるのか、本当だと言えるのか。だがもしも本当だったならば、悲願の達成をわざわざ捨てる手はない。二つに一つ。
――ならば。
「……そも、ハナからあなたが決裂する交渉に挑む訳も無いわよね」
「お判りいただけて何よりですぅ」
未来を知る彼女が、実らないと分かっている交渉に臨む筈がないのだ。彼女がここに来たという事は即ち、未来の自分自身がその交渉に応じたことは明白なのだから。
……何より、アヴァロナルから感じたあの忌々しい黄金の魔力。イガラシ・クロを抱えたままあんな化け物から逃げ切れるなど、到底思ってはいない。
選択肢など、初めからなかったらしい。
脇に抱えた少年を、白の巫女へと送り渡す。魔力の繭に包まれた黒衣の少年はふわりと重力に逆らって浮遊し、やがて白の巫女の両腕の中に納まる。彼の身柄を受け取った彼女は足だけ軽くお辞儀の素振りを表すと、ふとその場から溶けるように、イガラシ・クロごと消失した。
白の巫女が示した未来、長い時を切望しながら待ち続けた、しかし決してあり得ぬと断じていたその結末。それは。
――『イガラシ・クロという少年と、エマという少女の幸福』。
たった、それ一つだった。