余話 夢の中の母
決してこの後も平穏では無かったが、私が東京の大学に入学して樹さんのマンションに転がり込んだり、樹さんの友人と交友したりと楽しい日々を過ごす事が出来た。
ただ樹さんの家庭教師の能力には弊害もあった。私の適正な能力より2ランクは上の大学に合格出来てしまった事だ。
東大とは比べられないが、一流と呼ばれる大学ではある。必死といえば必死に勉強したのだし、学びたい教授を調べていたので別に文句は無い……のだが、入学後も日々必死に勉強しなければついて行けなかった。
父は良いと言ってくれていたが、私としては遊行費ぐらいはバイトで稼ぎたいと思っていた。しかし身の丈に合わない学校に入ったばかりにそれどころでは無かった。
バイトは基本的に短期のバイトしか出来なかった。ただバイトをいれる分を樹さんに勉強を教えて貰っていた。そうして樹さんと蜜月を重ねていった。
漸く一息吐いたのは3年になった頃。
追いついたと言うよりも学部の勉強がいよいよ専門的になったからだろう。
一息吐いたといっても成績は真ん中ぐらい。油断できるほどの成績ではない。
そんな風に私が高校を卒業して数年後、大学在学時で樹さんと同棲中で家に不在の頃である。父の事務所で働いていた事務員の女性と父が再婚した。なんと出来ちゃった結婚である。
まあ正確にはそれ以前に結婚を前提として付き合い始めて家族を含めた周囲にも告知済み。もう大分前から意図的に避妊はしていなくて妊娠したら直ぐに籍を入れると宣言していた。
そうで無くとも弟妹が学校を卒業したら籍を入れると。
父は50代前半、相手の女性は30代半ばでもあり、周囲は「いい大人だし」で納得していた。相手も初婚ではなくて10年近く前に旦那さんと死別した未亡人な事もあるだろう。
互いにそう若くもないので、チャンスは逃がさないようにする。だけれど仕事とか私や弟妹の関係でちょっと落ち着かないから運を天に任すと。
そうしたら命中しちゃった。特に不妊治療もしていなかったので相性が良かったのだろう。
そうしたら何処で聞き付けたか何故か母が号泣しながら電話をかけてきた。ちょうど帰省中に電話を取ってしまった、運の悪い事に。
「浮気者・不誠実・子供のことを考えていない・捨てられた私が可哀想……を無秩序に
並べ立てて無駄に膨らませた」会話を数十分の間は叫び続けられた。
父に比べればだいぶ若いが、前夫と死別の女性とつきあい始めたのは、母が出て行ってから1年後だそうだ。それでも食事に行くぐらいだったそうだが。
本格的につきあい始めたのは、母の再婚後(しかも第4子妊娠後)というから、どの角度からでも母が文句を言う筋合いはない(これは偶然だったらしいが)。
さすがに頭にきた。母の呪縛も薄れていたので微に入り細に穿ち母を論破して、私達から見た母を存分に理解させた。
そこで始めて自分の所行を自覚したらしい。呆れた事に自分を無情な夫に捨てられた一方的な被害者だとすら思っていたようである。
「……え。私が悪い……の? でもだって。だけれども。いや」
狼狽えたように、言葉を詰まらせながら母は囀っていた。
「……でも、私には貴女をピアニストにする義務があった。だってそうして夢を受け継がなければ、あと一歩で夢が叶ったのに夭折したあの娘の意志を継かせると誓ったの……貴女にとっても親戚でもあるのよ。それを……」
積年の疑問が晴れた瞬間である。
疑問というかね。まさかそんなベタな事だとは想わなかった。
「……自分でなれば良かっただけでしょう。なんで貴女の友人だか親戚だか誰かのために左目を失明させかけるほどにしなければならないのですか? しかも貴女はがなり立てるだけで、何一つ失ってはいないのに。貴女は指導一つした事も無く好きな音楽すら無い。それで良く娘をピアニストに~なんて言えたものだ」
電話だから言えた。面と向かったらまた興奮して言葉にならない罵声を浴びせた事だろう。
「私はあなたが大嫌いです。思い込みだけで虐待しておいて、私の左目を潰そうとして何で話かける事ができるのか心底不思議です。私はおろか貴女だって音楽なんて好きでも嫌いでもなかったのに」
「小学校の時に習っていた空手を中学でも続けたいといった私を、すりこぎ棒で打ち据えて一晩放置ってのもありました。その後発熱して一週間寝込んでも、ピアノのレッスンに行けと家から放り出されました。確かあのときは行き倒れましたが、あの所行で私に慕われていると思うのは思考能力が無いのでしょうか」
「丁寧に丁寧に男性に対してほんの僅かでも心を向けると罪悪感を抱くように刷り込んで下さいましたね。おかげさまで男の人と恋愛なんて出来そうにありません。そうした感情を向けるのも向けられるのも吐き気がするぐらい気持ち悪い。貴女が私をそうしました、おかげさまで男の恋人が出来た事なんてないし、これからも出来ないでしょう。で、どう責任を取って下さるって言うのですか?」
母はグダグダと言い訳をしていたが、逆の立場で同じ目にあったらどうかの問いに、電話ですら分かるほど震えていた。
「貴女は始めに私の母たるを放棄して弟妹も捨てた。女としても父の妻としてもとっくに放棄していました。現に貴女の側にいるのは父では無い男性です。つまり貴女はもう私とは何ら関わりの無い人です、ただ血が繋がっているだけでね。父や弟妹は知りませんが、今後貴女に私は関わる気はありません。冠婚葬祭を含めて一切の付き合いをお断りいたします。万に一つ貴女が成功して巨額の遺産なりがあったとしても私は放棄させていただきます」
鼻白んだような気配がしたが実際には判らない。
実際すべて本音だ。私だとて子供ではないから、母の鬱屈が彼女だけのせいとも思わない。
だが頻度の差こそあれだ、多分私は死ぬまであの惨めな時を思い出すだろう……たとえどんなに幸福になろうとも。
夜中とはいえ棒で打ち据えられて裸で放り出された屈辱を。TVで男性アイドルを見ていただけで髪の毛を掴んで引きずられて淫乱と罵られた絶望を。何より右目の視力を奪われかけた恐怖を……けっして忘れる事ができない。
今でも夢の中であの仕打ちに遭いながら屈辱と恐怖と絶望で絶叫しつつ目を覚ます事がある。
彼女の顔を見れば、仕返しと称してどんな風な事をしでかすか予想もつかない。
今更ほじくり返したい気持ちではないのだ。どんな風に復讐しても消せない記憶なぞ。
「では他所で勝手に生きて下さい。幸福になろうが不幸になろうが……死のうが貴女がどうなろうと私の知った事ではありません。もし私につきまとってきたら弁護士を入れさせてもらいます」
声だけは冷静を装えていたが、全身に冷や汗が流れ、油断すれば全身が瘧のように震えてくる。
母の事なぞ知らない・興味がないと言い聞かせていてもだ。母が側に来ればと考えただけですらこの有様だ。
将来に普通になる時が、笑い話になる時があるかは知らない。
だが今の私に彼女を許す……彼女と日常的に接する所か、顔を合わすだけの度量もない。将来どう変わるにしても今はそうだ。
「もう電話なさらないで下さい、お・か・あ・さ・ん。弟妹達や父は知りませんが私は貴女と話すことなんて何もありませんから。着信拒否させていただきますし、公衆電話や他人の携帯からかけてきても貴女だと知れたら切ります。それでもなお言いたい事があるのなら弁護士を通してください」
そうして嗚咽混じりに何か喚いている母からの電話を切った。
宣言通り以降は彼女からの電話を着信拒否し、どうにかしてつながった電話は無言で切った。にもかかわらず母からは月に数度電話がかかってはきたようだが。
それどころか私の携帯にまで掛かってくるようになる。着拒しても公衆電話や未登録の家電からも掛かってくる始末だ。
母方の祖父母に連絡して、電話を止めさせるように言った。もし止めないようならば、弁護士を入れて何処までも話を大きくし、やられた事を倍にして仕返しするとも。
その後手紙が月に何度か来たが、受け取り拒否で読まずに送り返していた。母には私の住所や電話番号を教えなかったのに祖父母が教えたらしい。実家に掛けていたようだが父も弟妹も相手にしなかったらしい。
父が弁護士を通じて抗議をしたら止まったという事である。
その後に母の彼氏だか現夫だかが「親子だから~」「血が繋がっている~」なぞと言い募ってきたらしいが、弁護士に内容証明を送って貰ったら途切れた――何がしたいんだかね。
それから10年近く経つが、事務所を立ち上げる折に一回携帯を変えて引っ越しもしたので、母から連絡がくる事はなくなった。多分本当に母が死んでも私は葬式になぞ行かない。
しつこく仲を取り持とうとしてくるので祖父母とも完全に縁を切った。元から絶縁気味な上に、孫は私達だけでも無いのに何がしたいか分からない。
多分は母一途で純心すぎた。これは褒め言葉なぞではなくて、むしろ罵倒である。
漫画等でたまにあるお花畑な展開。信じれば必ず叶うとか、夢を諦めなければ叶うとか言う展開のアレである。
そうしてスポーツ選手や芸術家等にある、親のエゴでスポーツや芸術をやらせる場合。いやエゴでなくてもだ。
一流アーティストや一流アスリートとして活躍するため子供に育てるには、子供らしい日常を犠牲にせねばならない場合“も”ある。
無論そうせねば無理な訳でもないが、幼少期から遊ぶ事を拒否して、ただひたすら一つの道に邁進させる。心を鬼にして幼少期の不自由を……成功したアスリートや芸術家やその周辺の述懐でよく聞こえてくる話である。
だがだ、成功すればこそ美談や成功譚にもなるそれは、失敗すれば社会不適格者や社会的弱者が生まれるだけかも知れない。それだけの話といえばそれだけの話だ。
母は無邪気だった、強く思えば叶うと。だが強く願うだけでは何も変わらないのだ。努力とは脇目も振らない事だけではなくて、視野を広く持つ事でもあるし、環境を整えることでもある。
母は出発点だけを作って、後は鞭を振り回しただけだ。世の中にはそれで一流になれる人もいるからアレなのだが。
何れこの言動・思考を後悔することもあるかも知れない。だが母は自分の幸せを追求してもいるのだし、今は私も自分の幸せを追求することにしよう。
なんと樹さんと私が互いの子供を持てるかも知れないとまあ。結婚(に似たような事)も認められる立場も得たので、かまってる暇もなかった。
忙しくも幸福だったのである。