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ズレ  作者: 火素矢
本編
4/5

第3話 夢のあと……悪夢から未来へ

 平穏な日々の中、2年の1学期が終わり近く、受験が私にも直接的な影響が出始めた頃、前触れもなくその報が耳に入ってきた。 


 色々都合がついて、優君が留学することになった、と。


「へー」


「ファンの子達は大騒ぎだよ。夏休み中に高校を中退するって。向こうの学校に編入だかなんだかするって。いや向こうが何処か知らないけれど」


「……祐子、知らなかったの? ご近所さんでしょ」


「親しかったのは鏑木君と言うよりその母親、それも私じゃ無くて私の母がママ友ってくらいだし。その母だって遊んでたの私が小さい頃で、しかも離婚して出ていったから」


「そっか」



 本来それは中学卒業後に向かうはずであった。


 オーストリアだがウイーンだかに師事したい人がいて、その人が色々忙しいから保留していた、と噂されていたそうだ。語学やその間の音楽の勉強は……ってな具合に聞こえてきたが、その辺は私にとってどうでもいい事である。


 所詮は又聞きの噂である。 

 細かい差異はどうでも良い。重要なのは優君は中退して渡航してしまうことだ。

 優君を問いつめる……後にも先にもこんな考えは浮かばなかった。友人ですらない、厳密に言えば顔と名前だけは知っている程度の“誰か”にすぎない。



 ちょうど土曜の帰りに聞いた話だ。

 その足で貯金を下ろし、東京へ、樹さんの家へ向かった。

 ちなみに後でクラスメートに聞けば、校門を出た頃は何か取り憑かれたような顔だったという。


 オマケに月曜は我が校の創立記念日で休みである。日曜に多少はっちゃけても、ってのは後付けの知恵で、この時は後先なんて考えていない。




 実際バイトをしていない、活発なサークルにも入っていない樹さんである。

 まだ休みの時期ではないが、さりとて一日不在とは考えづらい。まだ未成年な訳だし飲み会はないと思う(この頃の私は純真だった)。


 合い鍵なんてもらっていない。いつも約束してから来ていたし。

 それにセキュリティがしっかりしているはずの樹さんが住まう賃貸マンションである。


 だがどんなに考えても、途中で邪魔が入った記憶がない。なのに気が付けば樹さんの部屋の前で、ボウッと立っていた。誰かに迷惑を掛けてはいただろうが、凄い迷惑でないのを祈るだけだ。


 時間の経過は分からない。1時間か2時間か、あるいはそれ以上か。

 あるいは十分かそこらだったかもしれない。油断すれば涙が零れそうで、でもなんか表情をつくるのすら面倒だった。


 自分でも可笑しくなる。ここまで衝撃を受けたこと自体にだ。

 この想いは一から十まで偽物だ。


 真実は何一つなく、欺瞞というか代替行為以上の意味もない。実際そこから感じた慕情と、それが拗くれた情欲には前向きな要素など一片たりとない。

 万に一つ、我が拗くれた情欲が成就しても、それは一時欲望が満たされて、そうして食品サンプルを口にしてしまったような、徹底的な違和感と嫌悪を感じてしまうだろう。

 実際私が欲しかったモノは情欲ではないのだから。


 

 私は知っていた、その慕情の欺瞞と矛盾を。

 それは想い人に似た面差しの別人の似姿で自慰する行為に似ている――いやその物でしか無いだろう。


「それでも」


 壊れかねなかった私は、そうして歪んだ欲望を内在させて自分を守っていた。偽物で欺瞞ですらあるのすら百も承知でね。



 七月の終わり、もう夏真っ盛りである。

 それでも日が暮れる時間で、夜風は少し涼しいのか何なのか。少し理性を戻して、妹に電話で樹さんの部屋に泊まることと、今日の夕飯の支度を頼む。


 さほど疑いもせずに、応諾を得た。まあ少し訝しげな雰囲気もあったが。


「お姉ちゃん頑張ってね」


 何を頑張れというのかは分かりかねる。



 その時に何を考えていたのかは、正直に言って良く憶えていない。

 怖かったような気もするし、捨てられた……何にと自問自答していた気もする。

 

 

 ……後で聞いた話である。

 涙を流して顔がクチャクチャなのに無表情だったと。

 よく近所の人に通報されなかった物だ。若い世帯向けの2LDKマンション、その上に土曜の午後だから、両隣の人の帰宅は遅かったらしい。


「あれ、祐子。どうしたの」


 心配そうな(そりゃそうだ)顔で樹さんが声を掛けてきた時、私は狂っていたように思う。樹さんの顔を見た時の凄まじい多幸感と歪んだ寂寥の想い――クスリなんてやっていないのにね。 

 

 その時に樹さんの全てが分かった気がした。そこまでは錯覚だが、ちょっとした感情とか触感とか樹さんが“ほんの少し分かった”のだ。


 この些細な能力を持っている事によって、私と樹さんの人生は奇妙な方向に捻れる。悪い方では決してないが、一般人A からオカルトアクション物の登場人物に姿を変える。 

 それは随分後の話で、大学に入ってからの樹さんの友人である水上海里さんとの繋がりで得た、蜘蛛の糸を登り切ったような奇跡が叶った僥倖である――ハイリスクハイリターンではあれ。


 だがまあここでは関係ない。


 滂沱の如き涙と、初夏の頃とはいえ全身汗塗れで夜風に当たっていたために身体は冷えていたので、顔色は悪かった(そうだ)。そりゃまあ驚くし、心配するわ。

 

 虚ろな瞳の私に、樹さんは性的暴行を受けたのかと疑ったらしい。


「樹さん、鏑木さんが、鏑木さんが……」


 後で考えたら自分でも理解できない程に動揺していた。酒飲んで酔っ払っていたか、クスリでもやっていたか疑う程に。

 性的暴行の果てにおかしくなったと思われても不思議は無い。



「鏑木くんがどうしたの」


 ユックリと私の目を見ながら問い質す。


「優君が留学するって、噂になったの。でもそうしたら、そうしたら……」


 私はそこまであの人に心を寄せていただろうか? 答えは否である。

 この頃は樹さんへの想いを自覚していたし、比べるべくもなかった。

 樹さんに抱いた想いは、尊敬であり共感でもあり友愛ですらあり、何より恋慕であった。それは一方通行ではなくて彼女からも少なくもない想いが返ってきている実感があった。


 多分放っておいても、私が東京に出る頃には付き合い始めたろう。

 女同士ではあるが、少なくとも私は多分に後天的性癖である。無理に矯正しようとすれば年単位、十年単位は掛かるトラウマからなる性癖でもある。


 だが無理はしなくても、心を通い合わせる恋人がいるのなら、それで良いのではないか? それに「この想いこそは宿世の恋」なぞと盛り上がっていたわけではない。


 そう盛り上がるのは、色々煮詰まった二十代後半に入ってからである。

 だが結婚・出産・子育てにリアリティがない。自分の子供を玩具のように扱った母の有り様に嫌悪を憶えたからかもしれない。

 単に若いからリアルにそうした物事に向き合えてないだけなのかも知れない。


 そうだ、まだ若いのだからその時その時の衝動に従っても構うまい。十年後にどう思っているかは不明だ、だが現状では妊娠しないのだから、別に憚る物はない。


 自分の恋愛を吹聴して回る趣味なぞ無いのだから、迷惑も道徳も後回しだ。




 ……なぞという普段の私の思考は一切表に出なかった。ただあったのは「裏切られる」「痛めつけられる」である。


 樹さんに、では無い。確かに振られたら悲しいし、その時の状況次第では、立ち直るのに数年を要するかも知れない。

 だが意志ある以上行き違いや誤解で別れることもある。別れる以前につきあって(・・・・・)いないが、彼女との出会いは偶然であり、気が合ったので惹かれたにすぎない。


 では何に「裏切られる」「痛めつけられる」? 当然「運命」にだ。

 そこまで厨二病的では無いつもりだが、しかしそれ故にこそ自分の理不尽な境遇には耐えられなかった。

 ピアノが上手じゃ無いから、罵られて殴られた果てに、左目を潰されかけた。本来は最大の庇護者たる母にである。


 今だに謝罪はされていない。


 母は特にピアノに興味が無い人であった。楽譜も碌に読めなかったし、所有していたCDですら娘をピアノ奏者にしたい母親のそれとは思えぬ。

 基本的に音楽の好みは無い母である。CDなぞ歌謡曲に流行歌を数年に1~2枚買うか買わないか程度。


 いやだからなんでピアニストなのか。


 頭がお花畑な母なので、ベタな所で夭折した親友だか従姉妹だかの夢がピアニストだったとかその辺だろう(まさかその通りだったとは思わなかった。自分でピアニストになれ、そんなのは)。

 

 私は飄々としているフリは出来た。だが他人は騙せても自分は騙せはしない。

 ごく普通の子供は母親に嫌われれば、普通ではいられない。そうして私はその凡庸な子供であった。

 当然だが母を嫌悪していたが、悪意無く怒りをぶつけても糠に釘な私の憎悪は境遇自体、つまり大仰な言い方をすれば「運命」に向けられた。

 怒りを持続させ続けるには、母の有り様が捉え所がなくて、知ろうとすれば虚しくなりそうであったから。だって馬鹿な真相しか出てこないっぽいんだもん。


 結局出てくる言葉だはだ――「何で私が」である。

 だからだろうか、ほんのささやかな願望を()の人に抱いていた。

 いや本気で抱いていたかと問われれば微妙だが、まあそんな感じにね。

 代替行為であり、私の内側にのみ有効である。何よりも救い難いことに、私はそれを自覚しているという事である。


 樹さんと知り合って、だいぶ緩和されたと思っていた。事実として情欲にすら変換されていたそれはなりを潜めていた。一時は訳も分からず()の人の顔を思い描くと激しい劣情に襲われていた。

 克服できたと思っていた。多分1年後であればそれなりに冷静に流せたろう。

 大抵の傷は時の力によって癒やされる、それが精神であってもだ。ましてや私はカウンセリングに通っていたのである。


 だがギリギリ克服しきる前に聞かされたのだ……多分。


 勿論先方にとっては単なる言い掛かりである。私を考慮すべき理由など一片たりとも無い。息子の友人ですらない、単なるご近所さんの娘に何を考慮せよというのか。


 いやそんな事よりもだ。

 このままでは私は全てを奪われる。


 純粋に趣味であった空手のように。


 弱くても居心地の良かった部活のように。


 弟妹の笑顔や父の安らいだ顔を長らく見られなかったように。


 ……何でそこまで病的に強迫観念的被害妄想を抱いていたか、後年の私には理解できない程である。だからこそのトラウマだろうが。



「どうしたの祐子。気分でも悪いの?」


 樹さんは真摯に私を心配してくれて顔を覗き込み、台所に水でも取りに行こうとしたのか腰を浮かせた。




 気が付けば樹さんを組み伏せていた。


 幾度か軽く口づけただけの唇を、貪るように奪う。


「何を……」


 口を開こうとした樹さんの唇を再び……何度も唇で塞ぐ。


 今は樹さんの言葉を聞きたくなかった。

 樹さんの想いが分かるように、私の想いを伝えることも出来た。なぜだかその能力を不思議とも思わなかった。


 樹さんは混乱して同調して吟味して納得して屈服したようだ。


 私とて年頃の娘だ。それに傾向としては同性愛者……ビアンだ(と思っていた)。そうした傾向の物を読み耽る事も間々ある。

 だが私からは軽いコミュニケーションの如き触れるだけのキス以外は、全て初めてである。いや軽いキスすら樹さんからが殆どである。

 何をどうすれば良いかなど、皆目見当もつかない。


 だが思考が軽く混ざり、触感が少し感じられる――樹さんが触られた時の快不快、何をどう感じたかの漠然としたものだ。


 だが身体を交えるのに必要十分な能力である。組み伏せた樹さんの甘い吐息が、私を興奮させた。柔らかい肢体に甘い唇、唾液を啜り豊かな胸に舌を這わせた。


 何となく樹さんの感じる事が分かる。何処をどのように触れればどのような反応が返ってくるか、短い時間で効率的に分かっていく。


 我ながらこの時の集中力は凄まじかった。良しそうした能力があるにせよ、所詮は快不快が少し感じる程度ではある。

 身体を交える度に少しづつ強力になる能力だが、この時はそれこそ気のせいと言われても納得する程度である。



 樹さんの嬌声を聞いた時、それだけで絶頂しかけた。

 樹さんが泣き叫ぶ声を引き出した、その充足感で、ますます貪るように樹さんを蹂躙した。


 唾液を啜り涙を啜り。それが天上の美酒にも感じられた。


 狂ったように柔らかく滑らかな白い肢体を犯す私は気が付いてはいなかった。

 屈服というよりも受け止められた事に。樹さんは拒絶の言葉を一言も発していなかった。


 私はそれを良いことに、全身で彼女を貪り味わい尽くした。







    

 気怠い身体に眉を顰めつつ、目を覚まして私はこの上ない幸福と、圧倒的な絶望を感じた。


 軽くクーラーの効いた樹さんの部屋のリビングで、2人で全裸で寝ていた。

 絹糸の如き黒髪が、キスマークが目立つ胸元に流れるように掛かっている。


 あまりに扇情的な美しさに、目眩にも似た欲情が湧き上がった、この際だから手の平で豊かな胸を撫でる。

 溢れんばかりの幸福に酩酊したような気分になる。


 だが一晩貪るように樹さんを喰らい尽くして溺れていたので、嫌でも冷静になった。

 今の状況ならば、もう一度溺れるのも容易い。だが昨日の私の所行を思えば、私はこのまま絶縁されるかも知れない。


 何をどう思い返しても、昨日の私の所行はレイプである。


 気持ちよかったからいい、などと言う寝言はだ、バレた時に金さえ払えば万引きなど罪がないと言い切るのに似ている。


 確かに樹さんと私は「友人以上恋人未満」ではあった。しかしレイプという犯罪は、時に恋人・夫婦という間柄ですら成立する。

 刑法以外、つまり倫理的やら心情的なら余裕でOUTである。


 この時私は茫然自失になり、樹さんを襲った理由を忘れた。

 そんな事よりも樹さんに振られるかもしれない自分の所行の方が、何十倍も大事(おおごと)だ。


 冗談抜きで手首を切るか、首を吊るかを考えていた。

 単に振られるならいい。悲しいがそれはそれで仕方が無い事でもある。

 だが“私”が踏みにじった結果で嫌われ蔑まれて振られるのは耐え難い。


 結局は私も、あの母の娘なのだ。自分の感情や衝動をぶつける事が、相手の意志よりも重要なのだろうか。

 父によると、昔は聡明で思いやりのある優しい人であったそうな。もしかすると、本質的にはその頃と変わってないのかもしれない。


 何かの歯車が噛み合ってか、ズレたかで私の知る母になった。

 良くわからん拘りのためなら「娘を失明させてもいい」と思いきり、後悔すらしないで実行出来るような。


 それは正直に言って戦慄すべき事柄である。


 歯車が良い方に噛み合っていればいい。

 悪い方で噛み合えば、平気で他人を踏みにじり、その事に気が付きもしないで加虐的になって顧みない事が出来るのだ。


 寧ろ自分は被害者と、よりいっそう相手を責め立てる。


「いやだ、いやだよう。誰か助けて」


 大声を出したつもりはなかった。

 後で聞けば結構大きな声ではあったらしい。セキュリティと共に防音が高いマンションでなくば、警察を呼ばれたかもしれない。






 躁鬱病に等しい、なんというか自分でも制御しがたい感情の起伏。

 母の恐ろしい顔を思い出す。小学生の中頃でも、母は私がピアノ教室で満足な結果を残せないと怒ってきた。そう、あくまで『結果』だけを気にしていた。


 母にとって過程は重要ではなかった。重要ではないから適正どころか、才能の有無すら気にしたことなどない(ように見えた)。

 母にとっては私がピアニストになるのは既定以外の何物でもなかった。


 だがだ。


 中二から頑張って中の中、いや中の下の成績から進学校に潜り込めた。その時の努力は筆舌に尽くし難い。

 複数の家庭教師に学ぶ……その時に父は忙しい中でも、色々と調べて教材や家庭教師の情報を集めてくれた。何せ片目に色々不具合があったし、複数の医者に通いながらだから精神が不安定でもあった。それに努力だけでそうそう成績が上がるわけがない。

 父の様々なサポートがなければ、多分もう三段階は下の学校に通うことになったろう。

 勉強で疎かになる家事も、臨時の家政婦さんを呼ぶことで手助けしてくれた。

 

 当然湧き上がる疑問である、「何故母は父と同じようにしてくれなかった?」を消すことは出来なかった。これは音楽おいてもだ。

 楽譜すら、いいや曲名すら知らない母主導の状態で、私が音楽家の片隅にでもなれたならば、それは私に豊富な才能があった証左だったろう。


 だが結果はご覧の有様である。


 私は眼鏡をかけた頃から、斜に構えていると言われていた。

 私の視点で正確に言えば斜に構えているフリはしてきた。


 そうしなければ自己憐憫と母への蟠りで泣き暮らしていたろうから。必死に気を張って未来に心を傾けさせなければ蹲って自傷行為にでも走りそうだったから。


 

 だってだ、左目を潰されるほどに悪かったのか、私に音楽の才能が無いことが。

 彼女も音楽に興味など欠片もないのに。そうして父が受験に協力してくれたように学ぶための手助け1つしてくれなかった。ほんの僅かでもそれを望めば「甘え」と断じて怒られた。

 自分はヒステリックにがなり立てる以外何もしないのに。送り向かいさえ適当にされたのである。

 小学校低学年の頃なら言われるままに「私が悪い」と言って自省も出来た。だが成長すれば理不尽な事は理不尽と分かるし反発の一つもする。


 私は必死に訴えた。


 幾度でも言うように、趣味としてならともかく、私にプロのピアニストになるような才覚はないと。

 子供の私がざっと調べてすら、厳しい世界だと言う事が分かる。音大で好成績を収めてすら、人並みに食べていけるほどになるのも難しいと分かった。


 いや探せば幾らでも音楽の仕事があると言う人もいるだろう。だが私にとっては入学することすら、難易度が高い。ましてや音大や専門学校で好成績など有り得ない。

 さらに言えば熱意すらない私に、どんな仕事があるものか。

 

 それが母には怠惰の言い訳に思えたらしい。母にはどうしても娘に音楽の適性がないという事が理解できなかった。

 だっては母は誓ったのだ、どんなに娘が泣き言を言ってもピアニストにすると。


 自分は誓うだけだから楽な物ではあるが。


 幼子のような純粋性、基本は善良であるが故に自分の考えが無謬と思い切れる一途さ。私にしてみればたまったものではない。


 だが父は母の盲信というか狂信を許しはしなかった。

 だから母はますます私を責めた。母の思う通りに出来ない私を。


 まあだからこそ助かったとも言える。

 母が本気で勉強して一流の講師を探し出した場合、私はもっと窮屈な生活を強いられただろう。そうして運良く音大に入れたとしても、成績も振るわなかった卒業生だか中退しただけの者が、運良くピアノに係わる職にありつけたとも思えない。


 奇跡とも思えるほどに運が良くて音楽教師か音楽教室の雇われ講師、悪ければ自称ピアニストの素人楽団の一員だろう。そこに奇跡を持ち出さねばならない程に、ありとあらゆる意味で音楽家のとして素養は欠けていた。


 いや本気であるならだ、そんな私でもピアノに係わる仕事を探すことは可能だろう、調律師とか楽器の修復とか販売店とかね。


 それで母が満足するとは思えないがね。


 母はとにかくピアニストになりさえすれば、何とでもなると思い込んでいた。

 頑張れば夢は叶う。綺麗な言葉だが、私にとっての夢でもないので頑張る謂われもない……とは考えなかったようだ。


 心から頑張ったって大して状況が変わったとも思えないのだが、そこはそれ。殴られ罵られて、最初から特に好きでもなかったピアノを弾く事を、職業に選ぶほどに習熟できる器用さなど私にはない。


 だか私は母を恨むと同時に後ろめたさもあった、子供時代からずっとで、正直に言えば今もある。母は純粋に私をピアニストにしようとしていた。


 子として母の意に添えない事は、理由の如何に寄らず痼りはある。


 事の理非善悪や可能か否かはおいて、私の精神の隅々まで塗りつけられているのだ「ピアニストになれ」という母の言葉が。

 いかにも二昔以上前の少女漫画にありそうな設定ではないか。ただそうした少女漫画の主人公とは違い私に適性がこれっぽっちもなかっただけで。



 親の言う事に、大抵の子供は従う。私も例外ではなかった。

 今思えばだ、空手を幼少の頃から学んでいた私は、小学校高学年の頃には力尽くで抗えたろう。

 いやそもそもピアニストにさせたいなら、空手を学ぶ事を許してくれた意味もよく分からない。指が云々ぐらいは馬鹿でも思いつく。その程度にすら実際のピアニストその物に興味がなかったのだろう。空手を止めさせられたのも、純然に練習時間のためであったし。



 私が斜に構えた態度を取るようになったのは、眼鏡を掛けた頃から――中二の2学期頃からである。

 それまでは従順とまではいかないが、素直に母に従ってきた。

 学校の勉強をおざなりに、ピアノの練習を第一に過ごしていた。無意識にだが弱小のテニス部を選んだのもそうだ。空手部がなかっただけでは無いのだ。

 眼鏡を掛けてからは、意識的に母の矛盾点や殴られた時の痛さ、罵られた時の惨めさを心の中で繰り返してきた。


 そうしなければ――対抗しようと気を張らなければ、萎縮してまた唯々諾々のグダグダのデススパイラルに戻ってしまうだろう。


 そんな時に樹さんに出会った。


 ある意味樹さんは私より不幸で、私より恵まれていた。

 実の両親や血の繋がった祖父母との縁は皆無に近いほど希薄で、伯父夫婦に当たる義理の両親とはこの上なく良好であった。

 その樹さんに憧れと羨望を抱いた。樹さんは目先の欲に囚われず、自らの歩む道を模索していた。

 私の性癖は確かに歪んでいたが、多分本来の私に同性愛的思考は希薄であった。

 ただ母に対する歪んだ慕情があっただけで。しかし軽い対人恐怖症になりかけていた私は樹さんと出会い、感情の方向性を見つけた――依存しかけたと言っても良い。





 母は私に対して始終酷い扱いをした、訳では決してない。

 寧ろピアノに係わらなければ良い母だった。だから私も、そうして父や弟妹たちも母が本格的に壊れる中学入学以降……私にピアノの才能が欠片も無いと断言されるまで、決定的亀裂に至らなかった。


 勿論だがだ、母が私に暴言・暴力を振るう度に、父は立ち向かい、母の実家にも相談し、母をカウンセリングに連れて行こうとした。だが母と母方祖父母の反対に遭ってきたという。


 父が仕事明けの息抜きの晩酌に付き合った時(勿論飲酒は父だけだ)「子供への虐待を頻繁に止めていた。そのたびに愛情が磨り減った。だが子供に母親が必要と思ってな。結果がこうならもっと早く離婚して俺が親権を取っていれば、お前の左目もなあ」と言われた。


 この頃の私はカウンセリングに通っていた。

 多分私は母を反面教師にしていたのだろう。


 祖父母は激しく後悔していたし、父からの援助に後ろめたさも感じていたようだ。

 その歪んだ劣等感が、母がカウンセリング等に通う事に忌避感を感じていたようだ。

 母方祖父母は昔の人だった。カウンセリングに強い拒否反応があったらしい。家のリフォームや母の弟妹の学業や生活に対する援助もしていたようだ。

 その母が精神に病を抱えていると、いよいよ頭が上がらなくなるとでも思ったようだ。


 援助はともかく、孫に会いたいなぞと言うからだ、私達姉弟は月に何度か顔を出していたが、母と私達を安易に会わせたものだから、以降祖父母とも顔を合わせてはいない。


 何があったわけでは無い。私が瘧のように震えて嘔吐しながら意味不明の罵倒をし、妹が泣き叫び、弟が殴りかかっただけである。



 まあ実際、私は日常的に心療内科に通ってはいるが、一足飛びに解決するするような病でもない。私の母に対する諸々の感情は、下手をすればPTSDやらになって生涯付き合わねばならないかもしれない。

 安定する事はあっても、治る事は一生ないのかもしれない。

 それでも放置していて良くなる事は滅多にない。セカンドオピニオンや情報収集、先生との相性も見逃せない。相性が悪いばかりにかえって悪化した事例も結構聞く。


 それが怖かった。

 だからカウンセリングに足繁く通い、それなりに治療を受けてきた。カウンセラーの話では致命的な症状はでていない、筈であった。


 では私の先ほどまでのヒステリックな暴走は何だろう。

 どう考えても、樹さんに欲情をぶつけただけだ。百歩譲っても、今まで身体を重ねた事があるのならばともかく、友人以上恋人未満な現状でレイプ同然に襲うなど、我ながら気が狂っている。


 ではだ、今回のケースだとどう思う? 考えるまでもないだろう。


 幾ら妊娠しないと言っても、強引にねじ伏せていい訳があるものか。無法な行いによって意志をねじ曲げられる辛さと屈辱は、私は知っていたはずだ。

 


 樹さんを起こして誠心誠意謝るしかない。許されるかどうかは二の次である。

 もし樹さんが、激情のまま私に襲いかかってきたら……それはその時の様子次第だ。




「助けて、もう嫌だよぅ」


 幼子の如き滂沱の涙をこぼしながら、私はひたすら誰かというよりも、“何か”に助けを求めていた。

 深い考えがあったわけでも、明確なポリシーやらがあったわけでも無い。

 だが踏みにじってしまった樹さんに助けを求めるのは、人としてどうか。だから信じてもいない神でもなくて、何かに……それとも誰かに救いを求めた。

 救いが死というのならば、この時の私は喜んで受け容れただろう。


 私的には声を噛み殺して泣き喚き続けた。



 後から思えばダウナー系の危ない薬でラリってでもいたのかと。

 行動力が変に増していたから鬱病でも無いようだが、まあメチャクチャである。

 想い人をレイプした挙げ句に、大声を噛み殺し(たつもりで)泣きじゃくる女。


 いやどう考えても頭がおかしいし、状況はカオスである。


 斜に構えたフリで封じ込めた想いが、だだ漏れで溢れ出した。そこに何かに繋がるような前向きな物はない。

 さりとて世を儚み、呪詛をまき散らす類の凶悪さがある、とは御世辞にも言えぬ。私は良くも悪くも凡庸な存在のようだ。

 樹さんに対しての非道な行為も、所詮は身内に甘えてのヒステリックなそれに違いあるまい。


 だからこそ質が悪いとも言えるが。

 どう考えても小人物的ではあろうし、どう少なく言ってもDVだ。

 考えれば考えるほど愚かしく煮詰まっていく




「まったくもう」


 急に樹さんが裸のまま起き上がり、背中から抱きしめてきた。


「どうにも煮詰まっちゃって。祐子、貴女は考えすぎて爆発するタイプね。全く処女(おとめ)の純潔を何だと思っているの。腕っ節は貴女の方が強いから、今まで遠慮してきたのに。こんな事なら卒業祝いとでも称して、貴女を私の物にしておけば良かった」


 私を抱きすくめながら、耳元で囁いてきた。

 樹さんの吐息が耳元や首筋にかかり、私は高鳴る胸を抑える術が分からなくて困惑していた。


「い・樹さん」


 ようやく振り絞った声は名前を呼んだだけ、後は少しも続かなかった。どんだけヘタレなんだ私は。


「……いくら何でも暴走しすぎでしょう? 切っ掛けも無く貴女は誰かをそこまで踏みにじれる人でもないわ。何があったか言ってみなさい――ちなみにウダウダ言うのは却下よ」


 胸を押し当てたまま樹さんは漢前な台詞を仰った。

 そこで私は覚悟を決めた。


 正直に言えば墓場まで持って行くつもりであった。

 「想い」なぞと言えば、私自身を鼻で笑う。多分逃避であり代償行動なだけだと判断もしている。

 ……と言うよりも、当事者の私すら納得出来ない心の動きなのだ。



「……言ってみればどうしようもない話だわ。私の母は何をどうしても私をピアニストにしたかった。けれどもちょっとだけ裕福な家庭で生まれ育っただけの母にはピアニストと言うよりも、あらゆる意味で音楽の素養自体が無かったの――それが発端であり、逆に言えばズレた歯車はそこしかなかった。でも小さなズレは結局は大きな不具合になって修復しようもなく壊れてしまった」


 幾度も言うように母は音楽鑑賞する事が無かった。

 音楽の良し悪しはおろか、日常的に楽しむ習慣もない。適当に流行曲などは聴くが、クラッシックやジャズなぞ興味すら無い。

 習い事で何某かの楽器を習った事が小さい頃にはあったと言うが、すぐに止めてしまったようではある。


 無論それは責められるような事では無い。

 音楽鑑賞の趣味が無い事は一般庶民としては別段マイナスではない。ただ音楽的素養がない者が、音楽家を育てようとするのはどうか? なだけで。

 少なくとも環境に対する理解と、教育に対する知識の二つ。その次に音楽への愛情も必要だろう。それが皆無な親の子供が音楽家になる場合は、子供の才能次第だ。 


「素養どころか愛情も無い。だから良し悪しも分からない。練習以外に音楽に触れる環境すらも無い。これで私が音楽家になれたら奇跡だわ」


「美味しい物を食べずして、包丁の扱い方だけを勉強して料理人になれる人がいるかしら? 野菜の目利きや調理の火加減を本で読むだけでプロにって……まあそんな訳よ、樹さん」


 アイドルになりたいでも小説家でも、いやクリエイティブな職業に限らず大概の職業は愚直さだけではなれない。少なくとも良師について基礎を徹底してから応用に移る物だ。 良師は先達なり上司なりに置き換えても良いが。


「それなりに有名なピアノ教室と、まあまあ高価なピアノを買っただけで母は自分の役目は、いいえ準備は終わったと……。勿論世の中には超絶な人もいる――貧乏な母親が無理をして息子にエレキギター1本買い与えたらロックスターになったとか、自転車を買い与えたら競輪選手になったとかの伝記が無数にあるのも知っているわ」


 特に珍しくも無い。変種では友人と一緒に記念で数万人規模のオーディションを受けたら自分だけが受かったとかか。


「だけれどそんな希有な例って、宝籤と一緒でしょ。それにお嬢様学校を卒業して、適当に親戚の家業を手伝っただけの、言ってみれば家事手伝いに毛が生えただけの母には、修行の大切さが今一理解できなかったようです。番号を押せば通じる電話くらいに軽く考えていたみたい」


 狭き門は、選ばれた人だけが通れるから狭き門なのだ。

 いや殊更狭くない門でも、通れない人は必ず出てくる。難易度の問題だけでは無くて向き不向きの問題でだ。

 同じように思えるかもしれないが、向いていない場合は難易度以前の問題なのである。簡単だろうがどうだろうが、千や万の努力すら全くの無意味だ。


「私には音楽の才能が無かった……と言うのも烏滸がましい。結局したって無駄なそれは努力の名に値しないもの。だから苦労して苦痛をおぼえて時間を費やしても死力を尽くしていないし、それ以前にピアノ教室を小学生で止める人の平均ぐらいの腕前。才能云々を言い出す10歩手前ぐらい。それで音大に入るなんて言ったら……」


 何度も言うがそれが私の客観的評価だ。それでも私が音楽に対する愛情があったなら自分で道を調べるなりしただろう。だがあの状況は音楽を愛する環境では無かった。


 先達の名演奏も、生のコンサートも聞いた事が無い。精々近所の公民館の町内楽団の無料の演奏ぐらいだ。


 クラシックのCDのすらろくに聞いた事が無い。

 ピアノの講師にお薦めというか必須のCDを聞いて、母に強請(ねだ)ったら図書館で借りろと言われた。図書館に無いと言えば、同じ演奏の曲なんて幾らでもあるでしょ? と不思議そうに言われた。


 そうつらつらと話ていたら、樹さんは呆れたように絶句していた。


「……それは……」


 ただそこまではまだ(・・)良かった。

 母は頭がお花畑で世間知らずなだけにすぎなかったのだから。

 何の根拠もなく「努力や思いは報われる」と思っていたに過ぎない。その努力は正しいかとか、その道に適性があるかは二の次でなければ一理あるとは思う。


 母も私もそれなりに裕福ではあれ、社交界(今でもあるのかそんなモノ)だの何だのに煩わされる程でもなく、政略結婚を画策されるほどでも無い。


 母が通ったお嬢様学校の中で母の実家の資産は下のほう、さらには名家名門でも無かったし、名家名門の分家か分派の末裔、つまり成金ですら無い地方の小金持ちにすぎなかった。母の代でほぼ資産は微妙になるが、彼女の代の子供たちを高額な私立には難なく通わせる程度には裕福であった。


 例えば父が普通のサラリーマンだったなら、既に母の実家の家が少し大きいだけの普通の庶民であったろう。

 いや父は収入こそ多めだが、庶民以外の何物でもなかったけれども。


 祖父母は不自由しないで暮らせるだろう、しかし母の世代に回る遺産はどれだけか。

 それなりの母実家のリフォーム代を父が援助と言うか手助けしたぐらいだ。


 父が手がけたのでなくば、もっと高額になっていたろう。

 資産分与と慰謝料と養育費は正直、母方実家への援助の返還で相殺になってしまった。勿論だが母有責なので、慰謝料は父が受け取る側だし、養育費も私達が受け取る側である。

 ただ算定した慰謝料や養育費の額と財産の分与を、母実家の援助返還で相殺した方がマシと思われただけである。父はかなり売れっ子の建築士だったので、資産もそれ相応にあった。


 それはともかくだ。上流階級と呼ぶほどでもなくて中流とも言い切れない。

 母の実家は微妙に、と言うよりも絶妙に中途半端ではあった。


 上流の姫君に必須の義務も無く、中流の家よりも裕福。妙な格式もプライドも無いから、上品さはあれども傲岸さは感じられない。祖父母の前の世代の遺産で余裕はあったが、遺産相続も考えれば母の代まで余裕が残る額でも無い。

 

 お嬢様学校で上っ面に純粋培養されて育ったために、お花畑な思考そのまま。


 まあ家事は得意だったし、金遣いは父の収入を考えれば普通の範疇だろう。「ピアニストの母」なぞという拘りさえ無ければ、存外良妻賢母を謳われる賢夫人になっていた、かもしれない――いや実際に言われていた。


 父母は見合い、というか仕事上の付き合いからの紹介らしい。

 別段政略結婚と言うほどでもなく、まだ学生だった母と仕事上とか親戚とかの柵から出会い,そうして気に入ったから数年付き合って結婚した、というあたり。


 特に珍しくもなくドラマチックでもない。それでも夫婦仲は悪くなかった、寧ろ仲が良い方だったろう。


 私の幼い頃の記憶によればだ。


 気が付けば、遅くとも小学校高学年の頃には歯車が盛大に狂ってしまっていた。


「この辺までは何度か言っていたと思います。まあこれ以降もさらりと言ってはいましたが。「ピアニストの母になりたい」というたった1つの不整合が、本来善良で穏やかな女性を、頑迷で偏狭で愚劣な存在にしてしまいました」


「まあ単純な話、私をピアニストにしたいと洗脳……いや教育しようとするのなら、幼い頃からコンサートにでも連れて行けば良かった。その手間暇すら手を抜いたからね?」


 そうして溜息をつくと、箒の柄を握って殴りつけながらギャンギャン行ってくる母の顔を思い出した。




「残していった日記によれば自分の血を引く娘の才能やらを高望みしていた訳でも無い母は、娘が一流ピアニストになれる! と思ったわけでも無い、でもプロの水準以上のピアニストになるだけならば難しくないと思ったみたいで……」


「……なんで?」


 呆れたように樹さんも洩らすように声を紡ぐ。


 「なんで?」か。私が1番その答えを聞きたい。


「世間知らずの苦労知らず。大抵の仕事で見習い期間があり、大半の仕事で挫折する人がいるわ。そんな大人、と言うよりも物心ついた者なら誰でも知っている事をあの(ひと)は知らなかった。いいえ、知らないと言うよりも想像すら出来なかった」


 だから頑張ればピアニストになるぐらい簡単だと、そう思っていた節がある。


 中途半端なお嬢様らしい。



 むしろ本物の上流階級のお嬢様の方がそうした事を知っているはずだ。柵の多い彼女たちは個々によって折り合いの付け方は違うだろうが、反面自分と折り合いを付けるのを早い内からしなければならないでいた。


 籠の鳥のままの者もいれば、そこから飛び出す者もいる。

 だがその何れを選んでも幸福など約束されてなどいない。籠の鳥のままでいても迷い込んだ野良猫に食い殺されるかもしれない。籠から飛び出しても餌をとる事も出来ずに惨めに飢え死にするかもしれない。

 籠の鳥であっても最良の(つがい)をあてがわれて存外幸福に暮らせるかもしれないし、籠から飛び出して傍目には苦労の連続であっても、自分の力で生き抜いたと実感した充実のまま生涯を終えるかもしれない。

 

 その何れが来るかなぞ誰も分からない。未来なんて何の保証もない。心持ちやら努力だけでは最良を引き当てられやしない。

 夢に向かって血を吐くような努力しても適性が皆無かもしれない。手慰みで始めたことが、才能があってそのまま大金を稼ぐのかもしれない。



「本気で私をピアニストにしたい、というよりもね。あの人の中ででは決まっていたの。“娘がピアニストになる”ってね。それは乳歯が永久歯に生え替わるとか、初潮が来るとか、普通なら確実に起こる当然のことってね。それぐらい無邪気な確信があったの」 

 

 憶測雑じりだが。そう大外しでもない確信がある。


「どんな仕事があるとか、どんな舞台で弾いて欲しいとかではなくて、ただただピアニストになれ。正直に言えば自分がなれば良かったとしか思えないわ。あれアイドルでもマンガ家でも科学者でも政治家でも同じね。その職業自体に何一つ興味がない、それでも何らかの妄執のスイッチが入っちゃっただけ」


 おそらくは自分自身の妄執ではなかろう。

 それなら音楽に対する愛情の無さが解せないから。ただその裏に如何なる感動の美談が隠れていても私の知った事ではないのだ。


 私はカラオケマシーンでもジュークボックスでもない。例えどんな目に遭うともコインを入れたら曲が流れる機械ではない。


 いや機械ですらぞんざいに扱えば壊れるのだ。


「まあ母親の言う事に従わないってのも違います。従っていたけれど、なまじ側にいた彼が理想的すぎたから比較され続けたの、鏑木優君を相手にね」


 母親がすごいピアニストで、本人もピアノが大好き。

 才能もそれを磨く環境も、周囲の理解も本人のピアノへの愛情もある。


 しかしそんな彼ですら将来の成功は約束されてなどいない。早熟なだけかもしれないし、怪我や病で全てを棒に振るかもしれない。彼の持ち味は時代とズレている事も有り得るし、気負いすぎて精神の病で斃れる事も有り得る。



 誘惑の多い立場故にそこで挫折して立ち上がれないかもしれない。

 成功するかもしれないし、そうでないかもしれない。

 ただ彼は自分の力で、次のステージに上がるチケットをもぎ取ったのである。今ですら私の登れなかった1段目のステージより遙か高みではあるが。

 

 それでも彼の事を羨ましいなんて思わない。


 私にはピアノに対する愛情なんて欠片もないから彼の才能に敬意を払えどもその立場に成り代わりたいなんて思えない。10年近くピアノをやってきて良かった思い出なんてない、というよりも思い出せない。


 多分小さい頃にはあったが、全て苦痛と屈辱と罪悪感に塗りつぶされていた。それらを昇華して懐かしく思い出す事が来るかは微妙だ。




「母は彼の表面を見続けた。コンクールに上位入賞し海外留学も噂され、眉目秀麗にして学業優秀。確かにすごい人だけれども、その代価を考えた事はあるのかしら。およそ幼い内から自分を磨く事だけを考え続け、周囲もそれを助けた」


 その是非はこの際どうでも良い。

 ただその代価を支払うのは本人ばかりではなくて、周囲もなのだ。

 良い音楽を日常的に聴かせる事は当然として一流の講師を付けるし外国語の習得も欠かせない。活躍の場を広げるのなら、その為の手助けを。良い環境を作るためには手間暇に金銭を惜しまずだ。


「母はその手間暇すらかけなかったの――いえ違うわね。その必要を感じなかった。ピアノを有名な教室で学ばせたし、高価なピアノも与えた。それ以上必要だとは思えなかった。母の頭の中では最大限の手をかけたという事でしょう。ピアノ教室に申し込んでピアノを楽器店に注文しただけで子供がピアニストになれるのなら、世はプロのピアニストで溢れているわ」


 外で口に出さなかったが、彼女の中では私は優君のライバルだったようだ。良く理解できないのだが。


 だがだ。


 幾ら練習しても上達は牛歩の歩み……というよりも足踏み状態。

 そりゃピアノが好きな訳でもなくて才能も特にない私は上達も止まるだろう。



「確かに年齢がきても乳歯のまま、思春期になっても初潮が訪れず。そうしたら大概の親は医者にみせるでしょう。でも母のそれは歩き方や最低限の言葉を教えた幼児に幼稚園を飛び越えて中学の問題が解けないとか、中学の運動会で優勝できないと詰ることに等しい。その前に越えるべきハードルが幾つもあるでしょう」


 後から考えればフェアな言い草では無いな。最低限はやったのだから。

 何れにしてもお手軽に結果を求めたのだ。高校三年生2学期に偏差値38の人間にだ、偏差値70以上の学校を受験・合格しろと言うようなものだ。


「でもまあ現実に小学生に入ったばかりならば、理不尽でも従っていたわ。だって頑是無い幼児に母親に逆らう事なんて出来ないもの。それにあのひとは内弁慶で外面は良いから、モンスターペアレントの類いにはならなかった。内弁慶は常に内向きな訳です」


 樹さんも異論は無いようで頷いている。


「それにね、小学校高学年になった頃には上達が止まっているし、その他にも色々起きるでしょう。初潮とかブラジャーとか」



 まあでもね。本題はここからなのだ。

 ここまでも十分に俗に言う毒親だろう。だが今思えば間が悪かった。

 父が常に側にいればここまで暴走もしなかったろう。だがちょうど私が小学校高学年の頃に父は建築士として脂がのってきた頃で、しょっちゅう出張していたし、土日も休みなど殆ど無かった。

 

 大口の仕事が続けて入り私が中学二年の春まで落ち着けないでいた。まだ立ち上げた建築事務所を軌道に乗せることに必死だった。


 当時は恨まなかったと言えば嘘になるが、冷静に振り返れば誰のために働いてくれていたのか? という事でもある。



「……母は初潮が来た時に箒の柄で私を殴ったわ、満足にコンクールにも出れないくせに色気づくのかと。初潮って色気づいて来るって初めて知ったけれども。中学に入った頃、流石に胸が膨らんできたからブラジャーが欲しいって何度目か言ったときには気絶するまで殴られて服を剥ぎ取られて外に放りだされたわ」


 よくもまあ変質者に悪戯されなかったものだ。深夜だから人目につかなかったが深夜だからこそ危なかったとも思う。ただ運の良いことに気絶した私を助けてくれたのは父であった。弟妹が電話で父に助けを求めたようである。


 下着等はちゃんと買ってやれと、父に怒られて渋々買ってくれた。


 とにかく母は私が性に関わることに異常な嫌悪を示した。少しでもそれが感じられると箒で殴りつけられた――正邪理非善悪に関わりなく気分次第で。大して強くは無かったようだが、学生時代に薙刀をやっていたそうだからそれなりに痛かった。



 大概は着ている服を剥ぎ取られて水をかけられ放置された。さすがに外に放りだされたのはその一件だけだが。


 母は色々と取り繕っていたから、父はおろか祖父母もご近所さんも気がつかなかった。 だが内部では暴君だった……だから弟妹達も母に怯えた、当然だが。


「……そんな風にね、私に徹底的に性は忌避すべき物・厭わしい物、汚らわしい物って刷り込んだの。男なんて言語道断ってね」


 確かに樹さんとこうした仲だが、私のそうした性癖は多分に後天的な物だろう。

 思春期に入った時に刷り込まれた恐怖は中々消えない。母はそこまで運動が得意というわけでも無い。だから喧嘩をすれば私が勝てるだろう。だが母親に逆らえる子供も早々いない。


「母は苛立っていた。私が上達しないから――より正確には私が通っている音楽教室で評価されないから。もっと有り体に言えば思う通りにならないから不服だった。だからますます厳しくなり、私が少しでも恋愛だとか性を匂わす事が見えるとぶちのめされた。本当に狂ったようにね」


 ある種の性的虐待だった。もちろん母は同性愛者ではないし、ついでに本格的な性的虐待をするような性癖もなかった。

 だが一途で純粋な母は、それ故に自らの誓いを全う出来ぬ事に苛立っていた。自分の望む水準に達していない娘が第二次性徴を迎える事自体が汚らわしくて厭わしく、裏切りその物にも思えでもしたのだろうか。


 私が少しでも性的に興味を……は適当に怒られた。

 論理的でもなく倫理に沿って叱るでもない。


 ただ駄目だから駄目と怒鳴りつけ殴られ蹴られた。如何に私が義務を果たさないで男なんかに現を抜かす駄目で淫乱な女なのかと微に入り細に穿ち、酷い時は一晩がなり立てられた。




 ならばせめて娘をピアニストにするにはどうすれば良いか、才覚がない場合の事も含めて勉強してくれれば良かった。



「中学時代、優君との仲を勘ぐった噂が流れたわ。でもそうしたら酸っぱい物がこみ上げて、吐きはしなかったけれども気分は悪くなったの。こんな地味な私でも告白されたことが数回合ったけれども、その時も同じ。「少しでも男の子から恋愛や性の対象とみられると気分が悪くなって倒れそうになった」の。結局は吐くまではともかく倒れたことはないけれども」


 母が家を出てからカウンセラーの下に通い、幾らか処方された薬を飲んでみたが、母に目を潰されかけたPTSDもそうだが、男性を性の対象にするorされる嫌悪は完全には消えなかった。


 だがいくら忌避しようが、いくら遠ざけようとしようが体は成熟に近づく。ましてや不本意なプレッシャーをかけられ、過剰なストレスを抱えた私だ、性的欲望は歪んで発露した。


「始めは母への憎悪がねじ曲がった……のかな。母よりももっと優しくて道理も弁えている母じゃない母を求めた。それに優君、というか彼を象徴とするピアノその物にも嫌悪が湧いた。優君自身への興味はないけれども母だけは彼と私を比較した。どう考えても比較すべき対象じゃないのに」 


 だから同世代に対する興味が薄れた。いや私は助けてくれる、助けられる誰かを求めた。それに同世代は不足である。


「中学時代までに私が欲したのは「保護者」。私を愛し導き守ってくれる守護してくれる保護者を求めたの。いやそんな都合の良い存在っていないと当時でも分かっていたけれども――それが鏑木慶子さんというわけです」


 あの地獄の如き(本人主観)あの頃、そうした慰めでもなければ自分が保たなかった。

 ちょっと背伸びしたティーンズ雑誌を持っていただけで狂ったように箒(と言うか棒状の物)で叩かれて、破かれて捨てられた。友人からの借り物といっても駄目である。


 テレビで男性アイドルが出てくると、突如狂ったように私を叩き始めるときがあった。まあ滅多にある事でもないけれども、4~5回はあった。


「優君の母親の慶子さんは美人で優し……そう、よくは知らないけれども。だって同じ学校に通い同じ学年の優君ですら挨拶すら滅多にしないのに、その母親なんて顔を合わせる訳もない」


「でもだからこそ……妄想には都合よかった。だって彼女がどんな人かなんてどうでも良いもの。寧ろ本当はどんな人なんて知りたくもない。偶に顔を合わせた時に優しく微笑んでくれさえすれば良い。それが本当か嘘か……社交辞令か近所の子供に対する上辺だけの笑顔だろうがどうでも良い。冷静に考えれば虐待されていた私の事を気が付いている様子もなかったし」


 勿論それを責めようと思った事もない。30年ぐらい昔のありがちな下町のドラマや映画・漫画なぞで良くある、近所・幼馴染み・学校の先生が助けてくれると言う展開。


 バレないようにしていたから当然無かったが。事後ならば先生にはお世話になった人もいたが、まあそんなもんだ。


 もし知った風な事……「本当はお母さんも貴女を愛して云々」「実の子を想わない親はどうたら」に類する事を言われたら、言った相手を殴り続けるぐらいはする。

 愛していれば……想っていさえいれば、その対象をどう扱っても良いならば、痴情の縺れはニュースにもならない。尊属殺人は合法で死んだ者は運が悪かっただけだろう。



「……だから心の中で美人で優しそうな理想のお母さん(・・・・・・・)っぽい鏑木慶子さんを妄想の母(・・・・)に仕立てた……だけなら問題なかったのだけれど」


 なにせ夢想で妄想の中の理想だから真実なんてどうでも良い。

 本当の鏑木さん家がだ、教育ママで潤いが一切ない自分の思い通りに息子を操る親であっても別に良い。


 だって本当に本当(・・)の鏑木慶子さんなんて興味なんてなかった。


 優しく教え導いてくれる理想の母親たる鏑木慶子に……想いを寄せていた、とも言える。 

「……母がね、本当に徹底的に壊してくれたから――私の男性に対する感情を。カウンセラーも眉を顰めるぐらい徹底的にね。でも思春期の、しかも負荷が掛かりまくっている小娘が外に出せる捌け口の方法なんて幾つもないわ」


 よくぞ援助交際とかナンパにフラフラついていくサセ子の方向に行かなかったものだ。父や弟妹が私をギリギリで救ってくれていたからだし、性欲がねじ曲がって居たからでもある。


 弱いテニス部所属もよかったかもしれない。


 顧問の先生はインターハイ経験者で、それからもプロ寸前までいった御仁である。だが私達の適正と思考を鑑み、弱いなりに楽しむテニスを教えてくれた。

 厳しい練習をしたからといって、誰もが高みに手が届く訳でもない。厳しい練習は諸刃の剣で、達成すれば高揚感を生むが、分に合わぬそれは心身何れかの破滅すらも生む。


 それに楽しむ=手抜きでは決してない。


 下手は下手なりに競技を楽しむ事は不可能ではないのだ。基本をしっかり身につけ、ゲームを理解し怪我に気をつけて勉学の妨げにならないように楽しむ事は矛盾しない。


 それはそれで楽しい日々ではあった――滅多に公式試合で勝てなかったけれども。

 許された時間内で効率的にメニューを組み、技術をキチンと身につける。劇的に強くならない代わりに、血反吐を吐くような無理な練習の積み重ねで競技を嫌いになる事も少ない。


 練習しても勝てない代わりに、テニスを愛する心を磨り減らす事もない。

   

 隻眼に近い私が続けられないだけで大人になってからもテニスは大好きで、大きな大会はテレビで見ている。


 たとえ有料放送でもね。


 逆にその出会いがあればこそ母のピアノの向き合い方に疑問を憶えたとも言える。



「……老若を問わず男に性的な何某かを抱くと嫌悪感と罪悪感がルンバを踊り出すもの。だからってごく普通の凡人な私は即女性に性的嗜好を移せる訳もないわ」


 そうだ、そこまで単純には出来ていない。


 だが精神内科に通うことを父は許してくれた。


 みっともない(・・・・・・)と受診することを嫌う場合もあるらしいから幸いである。担当医もカウンセラーも私には合っていたのだろう――少なくとも目のPTSDは直ぐ収まった、というか外では表面化しなかった。



「……でもね。私は確実に歪んでいたのよ。捌け口のない……多分行き場のない劣情。それは妄想ですら男に向かうことは無理矢理に堰き止められた。じゃあ歪んで抑圧された女の子は我慢できると思う? 多分誰でも何でも良かったのよ、捌け口に出来さえすればね。だからその時家族ではなくて好意を寄せていた……鏑木慶子さんが自慰の妄想相手だった、と言えるかな」

 

 同性異性を問わずアイドルや漫画やアニメのキャラクターは不適切だった。あの頃の私が何よりも欲したのは“母”だった。


 この辺は私も分からない。


 正直に言えば母に絶望した頃まで、慶子さんを少し綺麗と思っていても、それ以上の感情は一切なかった。

 横目で見て「美男子の母は美人だな」くらいの物だったし、正直に言えばだ、この時点でも、それ以降も殆ど変わっていない。



「……私にとっても意外だったの。だって自覚的には慶子さんに憧れてさえいなかったもの。優君には美人なお母さんがいるな-が精々で、込み入った話をした訳でもなかった。「ちょっと優しそうな他所のお母さん(・・・・・・・)」でしかなかったし」


 初心うぶな小娘だったからか、歪んだ発露だったからか、特にセックスしたいとか、抱かれたいとか思ったというかと言えば少し違う。  


 歪んで方向性が非常に狭まっていた。私が鏑木慶子さんに抱く思慕の情の中に恋愛的、或いは性的要素は皆無だったはずだ――少なくとも抱き始めた当初は。


 カウンセラーにも虐待に追い詰められて云々、とは言われた。

 外面的要素で妄想の母親にしただけだった。だが母が性的な罵倒を始めた時から私の何かが壊れていった。 


 教育(!)は行き届いていたのだろう、妄想の中ですら男性はおろか誰とでも抱擁すら思い浮かべない。ならば何故自慰の時に顔を想い浮かべるのか……それこそがねじ曲がった倒錯の果てだろう。

 これだって樹さんとは恋愛のプロセスを経たからこそ、比較して分析できたと言うか、冷静になっただけだ。

 樹さんとの交流が無ければどう蓄積し発酵して発露したか分かった物じゃ無い。


「……例えばね、私は鏑木慶子さんに邪な想いを抱いてはいるの。でも間違っても恋していない……少なくとも普通の意味では。だからあのひとを抱きたいとか抱かれたいなんて思ってもいない……ではね、どんな妄想をしているかといえば……」


 勿体ぶっていると言うよりは、しょうも無さ過ぎて言葉を切った。それでも乱暴に樹さんを襲った私は照れなんて許されるわけがないと言葉を続けた。


「特に妙なことを妄想しているわけでもないの。姿と言うか顔を思い浮かべる程度で頭を撫でて貰える……ですらないし、そうして欲しいわけでもない。会話なんて以ての外ね。樹さん、何度でも言うけれども鏑木慶子さん(・・・・・・)の事なんて(・・・・・)どうでも良い(・・・・・・)のよ。彼女を仮想「お母さん」に仕立てているだけ。あんなお母さんがいればって」


 我が事ながらこの辺は笑えてくる。

 初心云々以前に、本当に歪んでいるだけで“想い人”ではあっても片思いと言う言葉すら当てはまりがたいのだ。

 


「……だからね、お母さんが当然来るであろうイベントの卒業式に見かけるぐらいで良かっただけなの。中学の時はそれで気が済んだし」


 フゥと溜息をつく。

 邪恋と自分で言ったのだが、正直に言って恋ではない。いやあえて言えば“普通な母”と言う事象にに恋している、のかもしれない。


 それだとて性的に、と言われると微妙だ。妄想のネタに使った……この辺は多分思考回路が変に繋がった結果だろう。



 いや穿った見方をするのなら、樹さんに恋したこと自体も年上の女性(・・・・・)という部分も大きかったかもしれない。切っ掛けというか最初はだ。


 樹さんはガチな……だと言ったが、多分私は違う。


 これ以降も男性に性的な目(恋愛感情)を向けるのは気持ち悪かった。何か妙に嫌悪感が湧き罪悪感を刺激する。向けられるのは平気に……は別にならないが、普通にはなった。

 露骨に嫌らしい目で見られれば普通に嫌悪感も湧くし、嫌らしく触られるのはいやだ。だがその程度だ。これから暫く後の習い事で男性と接触するようになるが、ごく普通の対応をとれるようになる。


 その過程で告白される事もあるが、そちらは別に平気だった……断れば良いだけだし、それ以上言い寄ってくる男には肘鉄を食らわせれば済む。


 だが仮定でも恋愛対象として私の方(・・・)が意識すると猛烈な自己嫌悪と罪悪感が湧いて話にならなくなる。


 これでは男性と恋愛・結婚なんて無理な話である。


 それでももし樹さんと会わなければ、年上の女性の同性愛者と出会うためにそうした場所に出入りしていた可能性もある。そうして遍歴を重ねて、自分は微妙に同性愛者ではないと悟ったかも。

 そうして三十路四十路と馬齢を重ねて出会いに恵まれれば、次第にトラウマが薄まり異性の伴侶に巡り会えた可能性もあるし子供が望める未来すらあるな。無論これよりずっと後の、ある程度客観視できるようになった後の無駄な思考実験もどきの果ての考察だが。


 無論だが倒錯と自傷の果て、さらに歪みながら年老いて孤独死な可能性の方が高いけれども。



 いや歪んだままで、真っ当に生きる方法も実はあった。鏑木優君と結婚して鏑木慶子さんの娘になるだ。


 無論前提からして壊れている。何せ互いに異性として興味が無いのだから。

 しかも仮に上手くいっても破綻するだろう。慶子さんは理想の母かなんて分からない。いや妄執で美化200%に出来上がった理想通りの人なんて存在しないだろう。だから勝手に失望して終わるだけだ。


 何れにせよ歪み自分を傷つける道しか無かった。



「……貴女が望むのなら卒業式に彼女に出席してもらえるように頼んでも良いけれど」


 樹さんが私の頭を撫でながらそう囁く。暫し自分の考えに耽っていたので返事が少し遅れた。その声に聞き惚れながら、しかし考えもせずにユックリ首を振った。



「いいえ樹さん。それは遠慮というか……謹んで辞退させてもらうわ」


 苦笑、と言い切るには苦さが勝る顔をしていたろう。

 実際の話、優君の卒業式に出席しているから良いのであって、そうでないならノーサンキューだ。


 母親絡みと近所であるが故に、挨拶程度はしている。だがそれ以上の関係は全くない。無理を言って面倒臭そうに出られても微妙だし、そもそも鏑木慶子さんと私自身に交流は殆ど無いから出てもらっても。


「……我ながら面倒臭く歪んでいるとは思うの、でも何度も言うように慶子さん本人に拘りはないわ。慕情と言ったけれど、母に対する憧憬の代替以上ではないもの。だから“母”である鏑木慶子さん以外に会っても「美人」だなって思うだけでどうでもないわ」

 

 私は鏑木慶子さんに踏み込みたくもないし踏み込まれたくもない。彼女が優君に見せる母の顔(・・・)を垣間見て夢想したい――それ以上は望まない。


「慕情であっても恋情ではなし。憧れてはいても自分の物にしたいわけでもない。樹さんと出会わなければね、多分その辺を勘違いして一回り二回り年上の人を求めるようになったでしょう」


 慶子さんが優君ではなくて“私”を見詰めて母のような(・・・・・)情を示してくれたらと想像すると……反吐が出る、とすら感じた。


 同情で母の代わりなんて御免だ。そうで無ければ怪しげな趣味があったとしか思えない。心の交流が足りない母替わりなんてたちが悪いにも程がある。


 



「何れにしても男とは真面(まとも)には付き合えないけれども、もしかしたら歪んでならば付き合えたかも。女性と付き合う踏ん切りが出来なければ、寧ろ軽侮するような(たぐい)の男と進んで付き合って……付き合うとかではなくてもっと軽い馬鹿な付き合いをしていたかも。この胸の空虚さと憎炎が一時でも忘れられるのなら何でもするわ……なんて言い切っていたかも」


 むしろ嫌悪すればこそ、進んで悪所に入り浸る事も有り得た。


 性的虐待や婦女暴行された女児が長じて、悪夢を振り払うためにかえって無節操に性的に奔放になる事もあるようにだ――自分は傷付いていない、と。


 トラウマの上書きであるから結末が幸福である事は少ない。かえって身を削り心を壊しながら何時しか心の底まで歪んでしまう事すら有り得る。



 胸のモヤモヤを解消するために、私は幼児虐待を受けた子供とか性的被害を受けた被害者のノンフィクションを読んでみた。被害者が加害者に変わることも多いし、そうした物事を頑なに拒絶する場合もある。


 むしろ愛情があるモノに触れられるのをこそ嫌悪する症例もあると言う。どうでも良い相手とは普通に寝所を共に出来るが、愛情がある相手とは嫌悪を憶える、そうな。そうならなくて幸いだった。


 何れにせよ、己が思い出したくもない記憶を打ち消すためだ。悲惨な末路も多い。


 だがこの日より、そうした本をそれ程熱心に読まなくはなった。

 特に必要なくなったからだが。



「……そう、だから鏑木君に卒業まで居て欲しかったのね。優君を見つめる慶子さんを見るために。そうして優君を見つめる母の慈愛の視線(・・・・・・・)が流れて貴女を見つめる……見る事があるかも知れないから」


 ああ、なんて回りくどくてややこしく、それでいて彼女の中身なんて欠片も興味がない憧れ(・・)なのだろう。歪んでいるし、これが恋慕の一種ならば邪恋には違いあるまい。

 二次元の美青年や美少女に恋するにも似て、私は慶子さんという絵姿に恋していた――のならもっと分かり易く、失恋()も素直に受け止められた。


 私がもう少し愚かだったら、その慕情を頭っから恋情と思い込み慶子さんの歓心を買おうとして、気持ち悪がられたろう。


 私がもう少し賢明だったら、劣情と慕情をまぜこぜにしたりして拗らせずに母なる存在への憧れだと飲み込んで終われただろう。


 なんて愚かで歪んだ幼稚な感情な事か。劣情の妄想の相手が浮かばずに母への慕情の代替的に強く憧れている慶子さんの顔を思い浮かべた。


 その背徳と忌避の情に興奮した、と思っていた。だが本来は別個の感情から生じる物を一緒くたにしたのだ、違和感は生じるので考えるのが辛くなる。だから私は慶子さんに必要以上に近づくのを無意識であれ極力避けた。


 まあ避けるまでも無く滅多に会う事も無いけれど。ご近所さんとはいえ、生活のリズムが違う人と顔を合わせる機会は少ない。ただでさえ忙しい人なのだから。



「……そうした部分も都合が良かった。だって内面を推し量れないでしょ。だからこれは邪恋……いいえ恋ですらなくて歪んだ心が妙に拗くれて劣情に繋がってしまった母的な物への憧憬。本来そこに劣情が混じる余地なぞ一片も無いのに、通路を幾つも踏み潰されてしまったから、繋っがただけの……馬鹿な小娘の勘違い」


 必死に客観性を保とうとしてはいるが、これはそうした書籍を複数読んで解釈した気になっただけの戯れ言である。


 大筋で外れてはいないと思う、だからといって解決策など無い。そこで自分をコントロールできるようなら、その劣情が歪んだ発露をしたのをとっくに修正している。


 ……だが。


「でも正直に言えば解決というか解消というか……そうね昇華した――しかけている想いだったの。もう自分を慰める時に慶子さんの顔が浮かぶことは無くなっていた……だってちゃんと好きになって抱かれたい・抱きたい人が現れたもの。私は本来そんな性癖では無かったから凄く悩んだ……だって私は重い女だもの。依存して寄り掛かろうとするもの」


 依存できて寄り掛かれそうだから、絆されていったのでは、と。


 自分の想い(・・)に自信が持てなかった。優しくされたから縋り付いただけでは、と。


 慕情を憶えても罪悪感や嫌悪感にのたうち回る事がない――樹さんと触れ合う内に軟化したのだろう、私の中の何かが。

 それでもトキメクのは2種類だけだった。私が女性に劣情を覚えるのは母のような包容力のありそうな女性キャラと樹さん似(・・・・)のキャラだけだ。女優でもグラビアアイドルでも二次元キャラ変わらずに。




 包容力のある年上というキーワードに飛び付いただけで本当の恋(・・・・)では無いのじゃ無いかと。誰かに抱かれる温もりが欲しいだけではと。


 この頃のこの辺を思い出すと……青臭くてのたうち回る程に恥ずかしい。何だよ本当の恋(・・・・)って。


 後になって黒歴史確定な程に明後日の方向に思い詰めていた。





 樹さんが何か言いたそうなのを、手を上げて遮った。


「だからね、私は自分の立つ場所を固めたい。どう転んでも結婚は出来なさそうだし、キチンと手に職をつけて自分の足で立てるだけはしたい。そうすれば……縋り付くだけじゃ無くて、ちゃんと恋愛に向き合えると思うから。だから樹さんほど頭良くないけれども、私なりに頑張れるって自信がついてから、答えようと思ったのに……」


 女同士の恋愛だ、どうしたって不都合が出てきてしまう。

 高給取りになれるかはともかく、自立出来なければ相手の顔色を慮るようになって萎縮してしまう。


 この時はもう素直に樹さんのことは好きだ、と言えた。


 その生き方、自らの在り方を受け止めることの出来る強さと弱さも愛しい。日本人形のような容姿も素晴らしいスタイルの肢体も大好きだ。


 だがその将来に一抹の不安だってある。樹さんは自分の出来る職業を選び、困る事はなさそうだ。だが怠惰で弱く縮こまって自己憐憫に耽る私は、キチンと勉強しなければ碌な未来がありそうに無い。

 

 依存し縋り付き、そのくせ自分は被害者だと泣き喚く醜悪さは耐えられない。他者にノルマを課す一方で、自らは貢ぎ物を捧げられる権利があると踏ん反り返る想像上の姿に母を思い出してしまう。


 親子だから似ても居るだろう。つまり勝手な思い込みで大事な人を害する事も十分有り得る。だからより一層自らを律して未来を掴み取りたい、と思っていたのに。


「……私が思うよりも真剣に考えてくれていたのね。うそ、信じられないぐらいに嬉しい」


 そうして樹さんは私に抱きついてきた……裸のままで。

 

 思えばシュールな光景だろう。

 先程まで妙に深刻な表情で少女の年齢が2人、フローリングの上で何も身に着けないで話ていた。そうして美しい年上の女性(ひと)の胸に抱かれたまま仄暗い情炎がまた灯りそうになる。


「い・いつ・樹さん、怒ってないの? わ・わ・私は侮蔑されても仕方が無い行動に出てしまった。暴力的だったのは間違いないし、踏みにじったのもねじ伏せたのも事実でしかない。……いいえ樹さんが受け容れてくれたぐらい分かっているのよ」


 だって心が軽く繋がったから。いやそれは流石に盛りすぎた嘘だけれども。


 快or不快程度は分かった……気がした。精々顔色を読む程度の理解度だから分かる、と言い切ると違うと思う。


 何かオカルト的だが、非常に些細な力だ。それでも触れた場所が心地良いのかそうでは無いか、ハッキリと嫌なのかを判断する材料になれた。


 さらに私が出来る程度の事は樹さんも出来ると思う。


 超能力や霊能力なんて異能というとだ、あまりにも盛りすぎなそれだけれど。顔色を読める事に毛が生えた程度の力。



「勿論怒っているわよ? 強引に押し倒されて嬉しいとは……流石に言えないわね。けれども貴女も私の話を聞いてくれたわね――あんな重いドン引きするような話を。だからどんな事があっても貴女の話も聞こうと思ったの……純潔を奪われるような話になるとは思わなかったけれども」 


 うわあ。


 穴があったら入りたいとはこの事だ。


 だってだって樹さんとの初めて(・・・)は、って乙女チックな拘りの1つや2つもあったのだ。 


 そうして麻痺していた羞恥心が急に湧き上がる。おいおい私も全裸だよ。


 上から下まで裸ん坊だよ。理性なんてぶっ飛んでたのに靴下まで明後日の方に脱ぎ捨ててある。樹さんだけなら眼福だがって、樹さんも屑糸一つ身につけていないって……やばい、また滾ってきた。


 思春期の男子か私は。

 頭を振って、前々から思っていた事を整理して説明しようとする。


「……真面目な話ね、私は怠惰に過ごせばね、膝を抱えて上目遣いで餌を待っている。そのくせ感謝しないで文句ばかり――ってな情景が思い浮かぶの。別に本当にそうなる確信があるわけじゃ無いけれど、母よりも“言い訳”がある私が恋愛に溺れて蹲ればそうなる可能性もある、かも」


 何度も言うようだが母もピアノへの拘りが無ければだ、世間知らずで頑迷故にトンチンカンな事を言う事もあるけれど、概ね善良で優しい人だったのではないか。


 頑迷故に自らの思いの正当性を確信し、基本善良故に私の為もあって暴走して中途半端に壊して……。


 罪悪感なぞ全くないままに、それでも父が怒ったから逃げた。


 母に似ているかどうかは分からない。だが頑迷に閉じこもって母のように成りたくはない、それだけは確かなのだ。


「……膝を抱える要因を見過ごしたまま樹さんと付き合うと、それを言い訳として依存したまま都合の良い台詞を吐き出す気がするの。「運命とか宿命とかで糊塗した恋」「本当とか真実とか聞こえの良い愛」とかを都合良く口にして樹さんに依存する」


「結婚という制度に守られない、子供も生まれない……生涯恋人か愛人な女同士だもの、天秤があまりに一方的なら感情が離れるわ。もし将来別れるにしても、「負ぶさって依存して」挙げ句に結局見捨てられて別れるのは嫌よ」


「互いの感情が離れたから……他に好きな人とか生き方の違いといった色々な不都合があるから別離を選ぶのは仕方が無い。でも別れた事を捨てられた(・・・・・)と泣き叫び、他に生きる術が無いような娘になるのは嫌なの」


 良くも悪くも恋愛には素直いたい。

 別段奔放に生きたいわけでも手当たり次第なつもりも無い。私は貞操観念は普通……と思う。恋人が出来たら余所見なんてしてほしくはないし、したくもない。


 ただ惰性と情で相手を縛りたくはないのだ。女同士で子供ができない、ならば互いを縛るというか律する物は愛情や友情などの情だけだろう。それを思い込みや見捨てる後ろめたさといった負の情で束縛するなんて吐き気がする。



「……別に私は物わかりの良い子じゃないから、別れ話をされても縋り付かないとかじゃないの。ただ依存するだけは嫌なだけよ。その上でなるべく良い関係、末永い関係を築きたいと思っていたの」


 なのに負の感情を爆発させるなんて、誰に言われるまでも無くて最低だ。


 ……は取り敢えず置いておく。なんとなく許してもらえそうだが、それで黙り込むのも違うと思う。


 この機会に私の想いを知ってもらいたいと思った。




「互いに女だから、どちらかが家庭に入って家事、てな選択肢はないと思うの。勿論付き合いが続いてどちらかが病気や怪我で倒れて仕事の継続が困難になるとかの例外時はおいておいて、どちらかが一方的に寄り掛かれば長続きしない。それ以前に、樹さんと上手くいかなくても私は男の人と付き合える日が来るとも思えない。ならば手に職をつけるようにしないと将来困ると思う……母みたいには成りたくはないもの」


 私は夢見る女の子だから恋をしたら末永い付き合いを願う。だがそれと同じ位に愛し合っていたはずの父母をも思い出す。


 最後には罵り合っていた“仲が良かった”筈の男女の姿が、目に焼き付いて消えてくれない。


「公平に見れば父は必死にやっていたと思う。ただ母は……というよりも母方の親族全てが甘やかされた雛鳥のような人達だった。巣でパクパクと口を開けていたら餌は誰かが運んでてきてくれると待っているような」


 現実にはそこまで奇異な存在ではない。


 元庄屋の小金持ちの家系で母の祖父、私にとっての曽祖父は戦後商売で財を為した人だったらしい。だがその人は才覚ではなくて特殊需要に乗っかっただけの「まぐれ当たり」と自らの商才に見切りをつけた。


 その為にある程度年齢がいったら税金対策的な事をして、全ての資産を不動産や有価証券に置き換えて子孫に残してくれた。


 だがちょうど三代で使い切る程度ではあったようだ。母の父母、つまり私の祖父母が亡くなれば相続税も含めてそこまで残らないという。金額に換算して相続すれば、兄弟に普通の家一軒分ずつの資産が辛うじて残る程度。それはそれで大した資産だが、不動産も含めたそれはお金で分散するのは苦しい。

 家賃収入などで生活にゆとりを出すには困らないが、それだけで生活というと贅沢できる程ではない――祖父が仕事を引退した頃にはそうだった。


 祖父は普通に仕事をしていた、そう普通に。少し大きめの会社の課長として大過なく過ごしてはいた。だが大きめの屋敷の維持や庭の修繕を頻繁に行える程の収入ではない。


 特別なエリートなぞではなくて、経験はあれども才奔る事のない、最終的に役付きとなって引退する人だった。

 母の兄姉たちも同様な、言ってみれば凡庸な人々である。裕福とは言える、だが仕事をしないでいられる訳でもないし、特別に優秀でもない。


 だがなまじ適当な財産のある彼等は、財産を増やす方向に行かないで、それを緩やかに消費する方向で生きてきた。


 財産を使い潰したわけでもないので程々ではあったようだが。


 あの人たちは良くも悪くも、ただジッとしていれば大抵の事が収まると言う方向で生きていた。

 食い扶持を稼ぎ趣味に生き、足りなくなれば祖父を頼る。

 祖父も定年退職し、稼ぎが不安定になったというのに、その事を今一つ認識していなかった。不動産は資産としてそれなりに安定してはいるが、正直に言って自由に動かせる手持ちの金ではない。


 早急に現金化しようとすれば買い叩かれもするのだ。そうして資産を切り崩していけば減っていくのも道理である。ましてや不動産を切り崩せば不労所得も減るのである。


 なまじそれなりな土地持ちだが、四人兄弟を含めた親族全てを満足させる程ではない。一頃流行った不労所得ではあれ、給料以外の余裕分以外を求めれば、全ての腹を満たす程ではなかった。

 土地を土台に商売に出る、とかできなかった時点で曽祖父の懸念は当たっていたのだろう。不労所得も家計を全て賄う程には出来なかったのだし。



「母方の親族の人達は善良ではあったの。でも感謝すると言う事を知らない人達でもあったわ。母は父に祖父母の援助させていた……祖父母どころか伯父伯母にも平気で援助させようとした。流石にそれは保留になったようだけれども。だって両親が揃っているのに私立中学の従兄弟たちの学費を私の父に援助させるなんておかしいでしょう?」 


 足りなければ持っている人に頼れば良い――それが彼等の言い分である。

 父は確かに叔父達や祖父よりも倍以上の高収入であったが、独立した一級建築士と言う個人事業主なだけでもあった。

 地方とはいえそれなりの規模の会社に勤めている祖父の方が安定していたろう。

 

 それに年齢にしては……平均よりも稼いでいるだけで、別段巨万の富を、と言うわけでもない。建築関係だから祖父の住居の修繕やリフォームには融通も効いたが、単純な援助を際限なく出来る程に懐が温かいわけでもない。


 曰く「願い頼った事は出来て当然だし、殊更感謝するような事ではない」である。


 そうした人々と蟠りも無く付き合える程に父は収入も度量もで大きくはなかった――そんな風に大きい奴なんて滅多に居るか! だが。


 それでも食い下がってきた事はなくて、「図々しい奴等」と思う事はあってもそれ以上でもなかった。



「環境だとは思う。9時5時で出世にも齷齪しないで、特に破綻もせずに裕福に暮らせていた。でも母の代で資産はさらに分散し、次の代まではそう残らないでしょうね」


 相続税もあるし、分散されもする。

 個々人が特に出世したわけでもなく、貯蓄に励む様子もない。派手に使わずとも増やさずに使う以上は、元はそれなりに大きい財産とても減っていくのだ。


「……だからね、願った事は努力(願えば)していれば大丈夫だと、心から信じていれば夢は叶う(何もしなくても)と。そうお思いこんでいたの、心の底から」


 祖父や叔父達はそうした傾向がある、程度だったが、祖母や母・伯母達は本気で父が自分たちへの援助を渋る事を驚いていた。


「でもね、家事は完璧にこなしたし、浮気したわけでもない。ボタンの填め違いが無ければってね。基本は善良な人だから……てやつ。そうしたら今でも仲の良い家族でいたかも知れないわね」



 ふと思う。 

 実の両親に恵まれなかったけれど、育ての親の愛情には恵まれた樹さんと、片親だけおかしかった私。どちらが……って不毛ではあるが。


「……だから土台をしっかり築きたいの。グズグズにすると誰かに縋り付いて終わりそうだから」


 私は敢えて不幸になりたくはないのだ。色々あって私の有り様は歪められ、普通に男性との恋愛・結婚・妊娠・出産・子育ては不可能に近い。


 無理にその道に行けば、表面をどう取り繕うとも歪みが時限爆弾のように内在しかねない。すぐ爆発するのか一生抑えられるかは不明だが、幼少期に念入りに刷り込まれたそれが、簡単に矯正されるとも思えない。


 結婚を諦め、子供を持つ事も諦める――その事を割り切れるようになったのは随分後の話である。


 いや心から割り切れるようになれたのは、ある解決策が出来た後だ。解決策(・・・)つまりは後々まで割り切れてやいやしない。




「……そう、貴女を初めて見た時から、何処か心惹かれるとは思ったの。でも似たような所があるから、かしらね。まあ貴女に心惹かれたのはそうでも、貴女を好きになったのは、心通わせたからよ、祐子」


 樹さんは私を胸に掻き抱いて、そう言ってくれた。

 ……いやだから裸なんだってば。ブラも付けない状態の胸で抱かれていれば、頭に血が上る。



「……改めて言うわ祐子、私と付き合って。あの日本最高学府には入れても私には目標なんてなかった。けれど、貴女が夢を抱くなら、その夢を一緒に追えるように自分を磨くわ。だから貴女も一緒に自分を磨いて、出来れば末永く共に居ましょう?」


 この時の私の感情は言葉では言い表せない。

 でも私のした事はどう言い繕ても……だ。


「……樹さん、私は爆弾を2つも抱えているわ。事ここに至っても、まだ私を所有物(むすめ)と考えかねないで勝手な事を言ってくるであろう、私を産んだ人(ははおや)。もう一つ、大好きな人であれ衝動的に踏みにじる不安定な心。勿論、今でもカウンセラーに通うし、場合によっては投薬も考える、でも言わないのはフェアじゃないもの」


 特に後者は自分でも驚き絶望した。私は他者を安易に踏みにじれる母の同類(ろくでなし)であったかと。


「……それを言うのならね、実父の一族のゴタゴタが、何時私を巻き込むか分かった物ではないわ。 まあ万に一つって処だと思うけれども」


 樹さんは嫡出子と認められたわけでもなく、公式に認知された存在とも言い難い。

 そうした裁判を起こせば、アッサリ返り討ちに遭うだろう。巨大企業の利益を守る敏腕弁護士と個人では、相手になるはずもない。


「私だって百害あって一利なしの状況なんて御免よ。ただ何がどう事態が動くなんて読めないから、自分で出来る事はやっておこうと……だからね、そんな万が一があったら出会った頃のように私を助けてね?」


 衝撃を受けた。

 だって私は何も出来ないと、父に助けを請う事すら出来ない無能と絶望していた。

 そんな私が誰かの救いになっていた上に、助けを請われるなんて。



「……どう? 駄目なの?」


 大人っぽい樹さんが、捨てられた子猫のような目で見てきた。


 キュンとした……のだろう多分。だがそれよりも、だ。


「……樹さん、私は少しでも……本の少しでも助けになったの?」 


 話相手程度の自負ならある。だがそれ以上となると自信なぞ無い。



「……本当の事を言うとね、実父の死を知らされたあの日、自暴自棄になってゲームに参加しようと思わないでもなかったの。億の金を1年で300倍って、要するにイチャモンで、真面目に一族に取り込むつもりは無いって事でしょ? もう一つの迎え入れる方も政略結婚……いえ適当に優秀なトロフィーぐらいにはしてやらないことも無いってのも馬鹿にしているような物だし」


 無論だが無茶で無謀で無思慮でもある。どう考えても真っ当に考えようも無い。


「刹那の間に()ぎった妄想よ。あの一族総てがそんな試練を受けている訳が無い。つまりは(ふるい)に掛けた……と言うより脅しただけ。物馴れぬ小娘が、身の程知らずにも調子に乗って側に来ないに用に、とね」


 樹さんは優秀な女性(ひと)だ。

 少なくとも学業に関しては、東大というこの国の最高学府に合格している。少なからず能力も有り、それに応じた矜持もある。だからそんな馬鹿げた提案に乗る訳がない、とは思っていた。

 だがまだ飲酒・喫煙すら咎められる年若い少女なのだ。考えてみれば当然だが、傷けられた矜持は見返してやろうと反発もする物だし、見下され側に寄る事も忌避されれば悲しくもなる。


「……勿論だけど、頭の片隅に芽生えた妄想だわ。愛してくれる義両親に義弟妹達。あの人たちに迷惑が掛かると思ったから口に出す事さえしなかった。でも「私ならばあいつらの鼻を明かしてやる事が出来るのでは?」って思考が、どうしても消えなかった。単なる自暴自棄だけれども」


 あの時の樹さんにそんな考えがあったとは意外だ。


 もっと軽やかにそうした柵を振り捨てたように見えた。




「……貴女がね、私の話を聞いてくれたから。誰にも言えず、愚痴すらこぼせない状況は辛かった。少女漫画なら鏑木君こそが私の憂いを取ってくれる王子様なんでしょうけれども」 


 良くも悪くも樹さんは男に興味がなくて、優君は女性に熱心な(たち)では無かった。少なくともあの時は。


 後で聞いたが友人にはなれたそうで、メアドを聞いて年始の挨拶程度の遣り取りもあるらしい。その程度と言えばその程度ではあるのだが。


 学校の友人たちにも話せなかった……性癖の事も含めて。


 カミングアウトしたのは随分後だそうな。


 当然全ての友人がそのまま付き合える訳でもなかったらしい。


「……私が半端な欠陥品だから因縁を付けられて、その上に側に行く気も分け前を要求する気も、いいえ葬儀に出席する気すら元からなかった親族(・・)に因縁を付けられて。まあ馬の骨を警戒する気も分かるけれどもね」

 

 想像してみたが、確かにそれは凄いストレスの元だ。


「愚痴なんてね、吐ける訳もなかった。家族には心配かけるから無理だわ。友人たちなんてもっと無理。余計な事を言っても理解されるかは厳しいもの。……そこに可愛くて惹かれた貴女が居てくれた、私の話を聞いてくれた……それだけでも嬉しかったのに、私に想いを寄せてもくれた。もう舞い上がって、漠然とした未来の夢すらなかった私が将来設計まで始めてしまったもの」



 後に聞いた事だが樹さんは大学入学後から資格マニアとなる。

 特に宅建とかそれに付随する建築関連や法律関連の資格を幾つも取る。

 学業を疎かにこそしなかったが専念した訳でもなかった。


 だから学校の成績自体は上の方では無かったそうだ。


 まあ樹さんの通う学校は日本でも1・2を争う優秀な学生が集まって学ぶ学校だ。樹さんといえども手を緩めてトップを争える訳もなかったのだろう。全精力を傾けてすら適うかどうかも分からないのに。


                

「……決めたわ樹さん。いいえ建築士になる事は決めていたけれども、とにかく頑張るわ。樹さんと一緒に歩けるように頑張る。同じ大学に行くのは無理だけれど、学部や教授をちゃんと調べて、私の糧となる学校に行くわ。だから樹さんお願い、私と付き合って……一杯一杯大好きだから」



 この告白を思い出すと叫びたくなる。のたうちまわるような恥ずかしさと………………罪悪感で。


 誰が何と言おうと私は樹さんを踏みにじった。


 女同士だから不本意な妊娠なぞしないが、それは言い訳にもならない。



                                                          

 ただまあ罪悪感については、少し薄れる事になる。




「……そうね、貴女が東京の大学に来るのなら、一緒に暮らしましょう。そこからは……想いが残っていれば……細々(こまごま)と先に決めないでも未来は無限に広がるわ」


 そうして私の額に唇を寄せてくれた。  


 勝手な言い種は百も承知だが、此処で終わっていれば色々と綺麗に終われたのだ。


 いや分かっている。暴走して無理矢理……なんて老若男女や性癖の如何(いかん)を問わずに最低な行為だ。

 性的虐待の事例を読んだ時、女性から少年にしたそれだって十分トラウマと知った。


 性別美醜の如何を問わず強引に性的行為を強要した時点でそれは陰惨な行為になる。

 そこに何かを付け加えられるのは、物語だからこそだ。好きだから云々なんてのは言い訳にならない。時に夫婦間ですら強姦としか言いようのない事もあるのだから。



 だが、だ。




「けれどもね、ケジメは必要よね。まだここジクジクと痛いし」


 私の右手を自らの下腹部に導くと、そう流し目で私を耳元で囁く。

 実際にだ、こう言われて何を言い返せば良いやら。


「……」


 さっきもっと凄い事をしでかしたのに、一時の狂躁状態が醒めたなら物凄く恥ずかしい。



「……私は祐子の物にされてしまったのだもの、祐子も私の物になってくれるわよね。だって私達は相思相愛の恋人同士なのですもの」


 耳に息を吹きかけられながら、樹さんの声が淫靡に響く。


 つい頷いた気もする。だが自分の心と身体がままならないまま、樹さんは私を押し倒してから貪るように私を食べ尽くした。前から後ろから……上から下まで。








 ……クゥーとお腹の虫が鳴いている。

 



「……こういう時に空が黄色いって思うの本当なんだ――何か磨り減った、私の中の何かが確実に。でも不思議だ。名家の血を引く樹さんはともかく、限りなく庶民に近い私に異能がねぇ」


 先祖や親類縁者に陰陽師や呪い師がいたとは聞いていない。


 異能者という奴が世の中に存在しているのは知っていた。だが何処かにいると、自分がそうでは話が違う。



 最初の交りでは、精々感覚が僅かに繋がる程度だった。だが身体を重ねる度に感覚の共有が増して、樹さんの身体で感じる事が私も感じている。


 私の感覚も樹さんが感じていている事が分かる。 


 私に触れる樹さんの指先の感触が私にも感じられ、触れられた私の感触が樹さんのものとなる。

 私の見る物は樹さんも見えて、樹さんの聞こえた音は私にも聞こえてくる。


 だが意識自体には干渉されないし、又出来なくもある。


 2人分の感覚がある、と言うと凄いのだか何なんだか。


 感覚の共有もあってか、鈍い痛みを遥かに超える快楽に溺れた私達は、一晩中は御飯も食べずに盛っていた。

 途中汗でベトベトになり風呂に一緒に入ったが、そこで樹さんが我慢しきれずに襲いかかってきたために盛り続けた。

 ビスケットやスポーツドリンクの類を飲んだくらいで、ひたすら互いの身体を貪り、漸く眠りについたのは空に日が差し始めた頃である。




 


「……でも実用性はないかな。もう遠いもの」


 もう一度重ねれば、共感というか共振というかは又起きると確信できる。

 だが逆に言えば身体を重ねなければ、その現象は起きない。


 後に練習を重ねて、2人で念じれば念動もどきとか発火能力を発見する事になる。だがそれも大した威力でもなく、ボールペンを動かせるとかライターの代わりになる程度の小さなものだ。


 疲労等はともかくだ。凄まじく集中せねばならず、その結果が大道芸以下ならば意味もない。


 特に勝手に発動したりもしないので、危険もなかろうと、外的能力の開発はそこで止めにした。

 しかし共感というか共振の能力は適当に磨いていった。


 樹さんの大学に入ってからの友人、水上海里さんという古流武術の使い手と知己と教えを得た時に視点の共感は非常に役立った。

 達人はともかく大学進学後に始めたにしては綺麗に技術を吸収したと褒められた。


 ビデオなどではない、自分を肉眼で見つめる武術の練習は凄く効率的に捗った。


 これで意識の交換が叶うのなら、そこまでいかなくてもテレパシーでもあるなら、東大生の樹さんによる絶対にバレない替え玉が効くのだが。


 嫌出来ても私達の共感の範囲は視界内というか、せいぜい十メートル。カンニングには使えない。


 それ以前に大概の大学には抗呪式が張られているともいう。扱いは普通のカンニングと同じであり、やはり悪い事は出来ないだろう。



 こうしたことの大半は随分後日になってから分かる事も多くてそれ程思い悩んでもいない。この時熟々と考えていたのは、別に血族でもない樹さんと私の能力の共感が起こるなんて不思議なことだと思っていただけだ。




「……起きているの? 祐子」


 身体を起き上がらせて私を抱きしめた後……唇をあわせてきた。

 何時もの軽く触れるだけのキスではなくて、貪るように激しい口づけだ。



「……ゥン。樹さん……もう……お昼です」


 今は午前十一時を回った所だ……って。


「樹さん、戦隊物とかニチアサ系全滅です。レコーダーは?」


 焦って聞き倒す私。


 特撮オタクというほどでもないが、結構イケメンと美女が出る仮面のバイク系も戦隊物もチェックはしているし、女子供向け戦闘ものとはいえ魅力的キャラが多数いて毎回百合カップル妄想も楽しい魔法少女系列の女子ヒーロー物のそれは大好物で御飯が三杯は行ける。 


 樹さんも同様だが……落ちついている。


「レコーダで毎回予約は必須よ? 後で一緒に見ましょう」


 うう、嬉し恥ずかしのピロトークだ(とこの時の私は思っていた。しかし冷静に考えれば単なるオタクの会話だろうこんなの。つまり舞い上がっているだけだ)。



「樹さん、アルバイト料が出るように交渉してみるから、私の家庭教師お願いできない? 樹さんと同じ学校は無理だけれど、それでもキチンと勉強したいもの。3年になったらともかく、まだ予備校通いに齷齪しないでも良いでしょう?」


 いやキチンと勉強はするよ?

 ただ電車で気軽に来られる距離だから、いっそ樹さんに勉強を見てもらいたい。



「……そうね。追い込みというか来年の今頃は様子見でしょうけれど、それまでは色々兼ねた方が良いわね。建築科のある学校を調べて、その傾向も考えておくわ」


 ごくあっさりと受け容れてもらえた。これで勉強の後のご褒美も期待できる。


 結局は予備校に通う事はなく樹さんの家庭教師だけで志望校に合格する事が出来るのだが。樹さんの家庭教師技能は思ったよりも高かった。


 もっともその家庭教師技能だが。私以外を相手にする事は随分後まで無かった。家庭教師樹さん無双が炸裂するには10年余りを待たねばならない。


 もっともこの時の私達は浮かれまくった恋人同士の会話に過ぎない。

 


「……今日はこのままゴロゴロしてく? それともせっかくだから秋葉原辺りまで繰り出す?」


 樹さんの声に聞き惚れながら、起きる準備を始める。


 色々面倒な私だが、樹さんに捨てられないように頑張ろうと思いながら。


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