第2話 現実の先……誤解の果ての出会い
高校に入学してからは、優君に絡めて変に煽られる事は丸っ切りなくなった。
あの時期、眼鏡を掛け始めた時の私は正直病んでいた。それでも皆に、という程とも思えないが、気が付く人は気が付いていた。目立つかどうかはともかく確かにあの頃のは情感の一つも篭めて優君を見つめていたろう。
だが高校入学してからは大半の人が私達を知らず、優君は勿論だが私も特に側に寄らないから噂にすらならなかった。
私は部活も御座成りにしてひたすら勉強していた。何せ補欠入学であるのでついていくのがやっとだったし、入学当初は下から数えた方が圧倒的に早い程度の成績だった。最初の中間テストも辛うじて赤点が無い程度だった。
さらに家族4人で分担したが、家事も中々大変だった。必然的に私がメインになったからね。
一応は我が校は部活に全員入れという事だったから、活動も稀な読書部に入った。
放課後に集まって読書会を開き、意見を言い合う。
会誌も何もなく、感想文を書く事すらない。
週に2~3回の頻度で図書室で集まる、という事にはなっているが、全員が集まるのは月一程度である。精々議事録と称するそれらしいものをでっち上げるための会合、それとて小一時間も経たずに終わる。
実質的に、部活に入った、という言い訳のためのそれだ。全員参加が建前の部活は、真面目に参加しても負担の少ない部にした。部員のほぼ全てが同類だった。
真面目な話、当時の私の成績で毎日クタクタになるまで部活に励んでいたら、成績が大変な事になる。
勉強が苦ではなく一息付けるようになったのは2年に進級してからだ。
目標のために積み上げていく過程も、そうしてようやく理解できるようになった諸々の知識が実になっていく実感も。だからこの頃の思い出は勉強している事が多い。
色々あって勉強に没頭する事に逃げたとも言える。
正直に言えば、この高校に入りたての時期は何もなかった。
あえて言えば優君に彼女が出来た事ぐらいか。高校入学後すぐのGW開けぐらいに噂に聞いたが、優君に釣り合う見目麗しい先輩と付き合うようになった(らしい)。
眉目秀麗・成績優秀で云々らしいが、全く興味ないので知らない。漏れ伝わる噂によると、その先輩と付き合うために、この学校に来たらしい。だから一ヶ月は噂を聞くのが遅かったとも言える。
思えば私に関する妙な噂が全く出回らなかったのも、その先輩と付き合ったからなようだ。傍目から見てもラブラブらしくてね――ある時期まで真偽なんて興味なかったし。
いや実際はだ、中学時代も「優君の相手が私」ってな噂も半信半疑な人の方が多かったと思う。優君はそうした外野なぞ無視していたから――その内実までは知らないけれど。ラノベや漫画のラブコメ主人公張りに鈍感なのか、俗事に係わらないようにしていたか、噂は不快でも実害が無ければ無視していただけか。
中学時代だって実際には幼馴染みと言う言葉を殊更ロマンチックに捉えたい一部の声の大きな人達が騒ぎたて、火の無いところに煙が云々式の曖昧な噂だった。
高校に上がって騒がれなかったのはだ、誰も彼もが恋愛脳というわけでもないという事だ。恋愛沙汰など興味すらない者も一定数以上居る。側に居るわけでも言い寄るわけでもない上に、特に突出したところのない同学年の幼馴染みなんて騒ぎたてる程の事でもない。
今思えばおかしな話である。私を幼馴染みと規定するとだ、同程度の娘は幾人か居た。何回も同級生になった者も可愛らしい娘も、それこそ私以上に親しい娘も居たはずだが、何故に派手でも側に寄るわけでもない私が噂に上がったのだろう。
要するに声が面白おかしく騒ぎたてる大きな人がいなければ私なんて特に噂される事もないと言う事だ。
高校に入って最初のテストが終わった、その頃は前述の通り勉強に四苦八苦していた。
疎遠な幼馴染みなんぞに注視する暇などない。カウンセリングや眼科にも頻繁に行っていたし、雑事も忙しくはあったのだ。
中間テストが終わった開放感に浸れるはずの週末の自室である。夜半にベットの上で事後の自己嫌悪が私を包む。
気怠い身体で身繕いを終えながら刹那の快楽と同時に吐き気を出る程の嫌悪を思い出す。それ以上にただ頭に浮かぶ顔がだ、あの人である事が嫌悪を深くさせる。
理屈を無数に考えて免罪符を探す。そんな都合の良い物は心の中の何処を探しても有りはしなかった。
救いがない……私が倒錯的性癖を持っていたならば、想い人があの人であっても不思議では無い。
いや人の思いとは儘ならない物だと言う。だから性癖に関わりなくそうした事があっても不思議でも無い――だがこれは違う、恋慕でも愛欲でもない。憧憬でも劣情ですらない。
もっとたわいもなくて、もっといい加減な憧れに過ぎない。
漠然としてなら思い当たる節もある。だから勘違いはしないが、その分気色悪い。
彼女に抱かれたり触れられる事を夢想した訳ではない。ただ強い情動が湧いた時に、あの人の顔……それ以外が思い浮かばなかったのだ。
色々追い込まれている。蓄積された歪みが表面化しつつある。この頃が分水嶺だったのだろう。
我が事ながら原因も何も分かり易く歪んでいる割に根深い。
「もうヤダ。誰か助けて……」
そう言って啜り泣いた。
そんな夜を幾度重ねたか。もし誰かの腕に抱かれる事が、僅かでも安らぎになると言うのなら、喜んで不道徳に耽溺したろうし、我を忘れる事が出来るというのなら飲酒や薬物に手を出したかも知れない。
そんなギリギリな私が件の彼女と知り合ったのは、その彼女……先輩が訪ねてきたからである。
確か高校1年6月半ばくらいだ。
「……貴女が結城祐子さんね? 始めまして3年の佐久耶樹です」
部活の後に1人で図書館で本を読んでいる最中に、挨拶されてビビった。
疎らに図書室に人はいるが、こちらに注視している人はいない。目の前の美人さんを見つめるが、見覚えがない。
部活の先輩ではない以上、他に上級生に接点なんてない。
内向きに忙しい私は、付き合いも悪い方である。読書部なんて所属しているから、先輩にも社交的なは人はほぼいない。同級生でも昼を一緒にする程度の友人はいるが、放課後に一緒に遊ぶような親密な付き合いもない。
だから友達の友達って線はほぼ無い、と思う。別に孤立していた訳もないが、友人の先輩が訪ねてくるような付き合いはしていない。
「はぁ」
と間抜けな返事をしたのもむべなるかな。
これが噂の「放課後に体育館裏な」って事かと戦々恐々としたものだ。
「ごめんなさい、いきなりすぎたわね。私は貴女の幼馴染みの鏑木優くんとお付き合いしているの」
クスリと笑われた後に、そう言われた。
「はあ」
と又も間抜けな返事をした。
だって昔の知り合いがだ、誰と付き合おうが結婚しようが知った事じゃない。
幼馴染みったって、現実の異性のそれの大半は高校生になりゃ疎遠だよ。
いや目の前のこの人の立ち位置が分からないから、そんな暴言吐きはしない、というよりも出来ない。
「?」
アレって顔で私をマジマジと見つめる佐久耶先輩。
それなりの長身に腰まである長い黒髪。メリハリのあるボンキュッボンな肢体に柔和な日本人形のような整った顔立ち。声も澄んだ透明感を感じさせて凜として美しい声だ。
うわっ、美人さんだわぁ――とは思った。
だがまあ知らない人ではある。才色兼備な人として適当に有名人だったらしいが、つきあいの幅が狭い私は知らなかった。
だがイマイチ彼女の目的が見えてこない……などと考えてようやく思い当たる。
ああ、この人は牽制に来たのか。
ただ中学時代の噂になったにしてもだ。実際付き合ってなどいない幼馴染みらしい地味娘。さらにはガリ勉眼鏡の割に成績の悪い「彼氏の非クラスメートA」なんてモブ気に掛ける程か? とは思ったけれども。
「……場所を変えて良いですか? 込み入った話になりそうですし、今の時間の図書室に人が少ないとはいえ居ないわけでもないですし」
溜息をついて、そう提案する。
暴力を振るわれるとは思わないが、激昂して怒鳴りあうくらいなら……と思うと憂鬱になる。せっかく読み始めた格闘小説が面白かったのにね。
「ええ、勿論」
そう頷かれたので、外野のいない場所に移動した。
偶々今日は鍵の管理を任されている読書部の部室に誘って、二人っきりで向かい合う。ティーバッグぐらいはあったので備品の電気ケトルでお湯を沸かして2人分いれる。予算は低空飛行な部活だが、なんで電気ケトルは備品であるのやら。
2人で一息ついたところで佐久耶先輩が口を開いた。
「……貴女は優くんの幼馴染みなのでしょう?」
そう探るような目を数秒続けてから仰られた。
って言われてもなぁ。
「はぁ、まあそう言われればそうなんですが。近所で母親同士が適当に仲良かった、それにピアノ教室が一緒だったから、結構遊んだ時期はありますね」
遊んだったって小学校低学年の頃ですが、と付け加えて言った。
探るような目は続いていたが、でも目的が見えてこないから迷ってしまう。
「……でも中学校時代、何度も不機嫌そうにラブレターの橋渡しをしたのでしょう? 部活の後輩に聞いたわ」
外から見るとそんな風に見えるものなのか。脱力して二の句が告げられなくなった。
「中学の時にはもう碌に喋りもしない男の子へのラブレターの橋渡しを頼まれてもね。だから表情の選択に困るから無表情を装っただけです。そうか、あの頃ツンデレ呼ばわりされるはずですね。単に他所のクラスの単なる顔見知りへの橋渡しに緊張していたし、面倒なので不機嫌にもなったけれど、他意はこれっぽっちもありません」
ツンデレって――と思っていたが、そういう風に見えていたのか。
差し詰め「私以外の誰かからの手紙よ。でも承諾したら泣いてしまうから」ってか。
でもニコヤカに渡すのもね。どういう表情ならって今更か。
彼女が出来たなら、断る口実に出来る。少なくとも高校時代は彼女の1人も作ってほしいものだと思っていたし、出来たと聞いても特に感慨も湧かなかった。だって高校に入ってからこっち、優君絡みの面倒は起きていないからどうでも良くなっていた。
「……結城さん。単刀直入に聞くわね。貴女は鏑木くんをどう想っているの」
と聞かれるが。
でもまあ変に迷えば痛くもない腹を探られるか。
「小さい頃遊んだ事もある幼馴染み。最近はピアノで全国コンクールなんかも入賞したり優勝したりで凄いなーと。ついでに結構な美形よねー、ぐらいは」
素直にぶっちゃけた。正直不満そうな顔の先輩に困惑する。そうか、恋愛感情を聞いてきたんだよね。失敗失敗。
「……美形だけれど話は合わないですかね。いえ最後に「話た」って、それこそ小学校低学年の頃ですが。それでお互い話ても面白くない、趣味が違うって事に気が付いて、母親同士はそこそこ仲が良くても特に側に寄らなくなったのですよ。親同士の関わりなんて小学校高学年では関係なくなったから別に幼馴染みって言ってもね」
幼馴染みというか友人関係自然消滅というか……と付け加えた。
一般的に幼馴染みなんて成長するにつれて自然に疎遠になる。
異性だろうが同性だろうが特に喧嘩とか決定的な何かが無くても、年齢が上がるにつれて疎遠になるもの普通の事だ。
私と優君はその圧倒的多数例に属していただ、それだけだ。
幼馴染みではあるが友人では無い――そんな誰にでもある極々有り触れたことを、何故に皆は疑うのか。
「最近その私の母親も離婚してしまったし、特に接点は無い、これからも持ちようもない知人ってところです。仲が良い以前に、悪くなるかもしれないような交流は、小学校低学年の頃には途絶えていたってところです」
同じクラスになった事も無し、積極的な会話も無し。小さい頃に会話ても面白くないと刻まれた心証は、今現在も絶賛継続中だ。
私の方はかれ個人に悪い印象は無い。悪い印象が無いだけの異性の幼馴染みだが、逆を言えばその他に彼と会わない部分があるためにあえて近寄りたいとも思えない。
「……噂とは違うのね」
面食らったように佐久耶先輩は仰った。
どんな噂かは4分の1程度は想像出来る。
「……素直になれず、遠くから眺めているけれども、アレは絶対鏑木君に気があるよ――ですか」
あるいは橋渡しは受け容れるくせに、仏頂面で手渡し手紙の主の成就を邪魔する根暗女か。
いやどっちでも良い。良いが文句を言うのならば自分で渡せばよかったのに。
「……牽制とかではなくて、貴女の気持ちを聞きに来たの。幼馴染みで想いを押し殺した女の子がいるって聞いてしまってね」
たとえそうでも放っておけば良いのに。実際に違うが、例え私が本当に恋する乙女であっても文句を言う筋じゃない。
恋とは必ずしも早い者勝ちではないだろうが、行動しない者には何も実りはしない(とそれらしく書いてあった本を思い出しただけだ)。
それに想い人(?)はいない事も無いのだ。
優君にでは決してないが、私の慕情を表に出す事は憚られる。だから私の想いが実る事は決してない。
百歩譲って行動に出て想い人の心を恋愛的に得ても、多分それは私が本当に望む在り方ではない。つまりどうあっても手に入りはしない。
いや唯一手に入る方法もあるが、そこまでする気にはなれない。
一生とは言わぬが、長い時間を無駄にする。それに多分それも望んだ通りではない。
まあ実行したとしても九分九厘は無駄に終わる。その結果は想い人(?)に蛇蝎の如く嫌われるだろう。
だから現状維持だ。私の願いは後一度、特別な時の刹那の邂逅……視線の交差だけなのだ。
「もしそうだとしたら、ポッと出の私が横取りしたようにも思えて。だから一言だけでも言いに来たの」
物思いに耽っている間に彼女が口を開いてきた。
言葉を額面通り受け取るのなら、彼女は筋を通しに来ただけか。
必要はなさそうだがまあ良い。受け容れてさっさと帰って貰おう。
「そうですか。それは御丁寧にどうも。何れにしろ張り合う気はありません。いえ先ほど言った事に嘘はないからアレですが、私が受け容れた方がスムーズでしょう」
なるべく皮肉を込めないように言ったつもりだが。どうにもイヤミっぽい。でもなんて言えば良いのこれ。
それはともかく目の前の先輩がどういう思惑でも、私は彼女を結構好きになった。
筋を通す質なのは間違いない。
たとえそれが額面通りでも、腹に一物を抱えていた牽制であっても、それはそれで見栄えのする美貌である。私に含むところが少しもないのなら私は陶然と見惚れていたろう。
だがそうだ、問題は私の側だと話ながら気が付いていた。
「ごめんなさい、とんだ邪推よね。ただ鏑木くんは素敵な人なのに、幼馴染みの貴女は本当に何も想いはないと?」
聞き惚れる声でそう問いかけてくる佐久耶先輩。念押しだろうか。
だがねぇ。性格も良く能力も高い美形だからって、必ず惚れなくてはならない義理もないだろう。
「いやそういう言い方をするなら結構好きですよ、容姿とかスペックとか。女の子が将来自分の隣にいる事を仮想する異性……その理想の体現ですし」
美形・性格良・成績優秀・スポーツも得意・ピアノは全国レベルの演奏者。
何処の少女漫画だと思わなくもない。私は見れない訳でもない程度だが、逆に二昔前の少女漫画のヒロインっぽいだろう。
実際の絵的美形度ではなくて、作品内評価の「ヒーロー様に釣り合わない、辛うじて可愛いと言える程度のヒロイン」という意味ならば。
だって大概の少女漫画の平凡ヒロインって水準以上な美人じゃない? 派手かどうかは別にして、明らかにライバルに美人度で圧倒的に負けている平凡ヒロインって少なくね?
だから私は挿絵のない小説の平凡ヒロインってところだ。
いやどうでも良いが。
「でも話が合わない人と長時間話すのはゴメンです。性格がどうこう言う以前の段階で鏑木君とは性格が合いません。相性が悪いから会話も楽しくない」
「互いへの興味が薄いですからね、楽しい訳もない。別に嫌ってはいませんが、それ以上に好きではないです。最近の彼とは話ていませんが、まあ「三つ子の魂百までも」と言うじゃないですか。今更あえて仲良くなろうと近づくのも……」
実際にはそうした想いが刻み込まれたのは7~8才だろう。
私だけが彼と遊ぶのを忌避した訳ではない。彼も遊びに来なくなったし、親に連れられて来ても私と遊ぶのに積極的ではなかった。
男女の性差も含めて疎遠になるのは必然的流れだが、母との確執が大きくなるにつれてピアノ自体が好きではなくなっていったのもある。
私は好きではないピアノが何より大好きな異性の男の子。幼少の頃の遊びでも嬉しそうにピアノを中心とした音楽の話をする事が多い。
彼自身に罪や落ち度は少しもないが、存在自体が微妙に嫌悪感を憶えたのは何時だったか。
ただまあ嫌悪感も彼本人に覚えた訳でもないから普通に接する事が出来る。二言三言挨拶がてらに喋るくらいだし。
いや顔を合わせる度に挨拶なんてしてないよ、そんな面倒な事。あくまでも挨拶する必要があった場合である。そんな事など滅多にないけれども。
逆に言うのなら本格的に疎遠になる前であっても、その程度の付き合いではあった。
「もっとも疑問がないでもないです。私に聞きに来るより、鏑木君に聞いた方が早く事情が分かったでしょうに。少なくとも幼い頃の遊び相手にして現在は知人と迷いなく答えてくれたでしょう。いや事は横恋慕の話でしたね」
私の事を優君に聞けば寸毫の迷いもなく「ご近所さんで子供の頃の遊び相手の1人」と答えてくれたろう。いやもっとぞんざいな言い方をしただろうか。
いやもっと端的な方が妥当だろうか。
「少なくとも私の方から鏑木君、いやあえて昔の呼び方の優君と、これから先にお友達になりたいとも思いません。子供の頃の顔見知りを、それなりに無難な言い方をすれば「幼馴染み」な訳で、ただそれだけです。いえもっと端的に表現できる言葉がありました。多分この感情だけは双方一致していると思います――単なる「顔見知り」ってね」
別に浪漫溢れる言い方をしなくてもね。だが説明が簡単でもある。
現実世界でどれだけ「幼馴染み」と結ばれる事があるのだろう。そうしてまたその後に婚姻関係となる者は、どれだけいるのだろうか。
別に居たって構わない。だが私のこの状況を、そうした希少例になぞらえて変にロマンチックに見られてもな。
一時期疑っていた「優君は私を虫除けに使っている」が、本当でも嘘でもお役御免という訳だ。
彼を想う少女たちの相互監視の状況で、数少ない見咎められずに告白できるルートが私経由だった。
ただ差出人が顔を出さないし、私だって手渡しするだけだ。「直接手紙を渡してもくれない人では……」と理屈を付けて断りやすくはなっている。
ルートが1本あると、そこに集中して他を無視できる面もある。
現に片っ端から断って、今に至る。
どうでも良いけれど。だってどうであってもこれ以降は知らないから。
この高校に入ったのはゴールじゃない。目一杯勉強してより良いレベルの建築科のある大学に通う。一文の得にもならない、ましてや欠片も私が介在しない他人の恋の鞘当てなんてどうでも良い。
漫画とかなら、実は優君は私をずっと好きで、この先輩もただの友人。
そうして私の反応を見ようと紆余曲折なんて事もありそうではある。
いやそれならいっそ気が付かないフリをして遠ざかるね絶対に。そんな回りくどい恋の鞘当ては御免だ。
そんなお花畑な事態は万に一つもないけれども。何度でも言うが私は幼馴染み以上ではなかろう。大人になっても憶えていられるか微妙である程度だ。いやいやこの時点ですら優君は名字はともかく名前まで憶えていたかどうか。
自尊心が気持ち良いから、頭の中のごく一部の妄想でお花畑な事を思ったけれど、私と優君の繋がりなんてその程度だ。
流石に私はあんな派手な幼馴染みを忘れないが、多分そんなのも居たぐらいだ。「二十歳すぎればただの人」って可能性もあるが、何れにせよどうでも良い。
精々ニュースにでもなったら周りに自慢する事にしよう、ピアノ教室は一緒であったと。飲み会の話題の一助くらいにはなるだろう。
「幼馴染み」だからって色々な意味で特別な感情があるとは限らない。嫌いじゃないからって好きとも限らない。友情すら端から存在しない。
実際には彼に対して、と言う訳ではないが、微妙な感情が無い事もない。
墓場まで持っていく、そう言いたくなるような想いだ。優君の関係者には決して言えない“想い”である。
だからこの場では口が裂けても言えない。この美人先輩と彼がどれくらい続くかは知った事ではない、しかし今現在は優君の関係者なのだから。
「それにです。あまり広めて欲しくはないのですが、中二ぐらいに目を傷めしまして。その治療に時間を取られていますし、勉強も得意じゃないので人一倍時間を掛けなければなりません。恋愛沙汰に気を取られている暇はないのです」
相当背伸びしてマグレ込みでこの高校に入学した。入学しただけでは背が伸びる訳でもないので当分は背伸びし続けねばならない。
「……本を読んで大丈夫なの? 勉強にも差し支えるのでは」
心配そうに訪ねる先輩。
まあ大丈夫ではないが、そうも言えない。
「一応は大丈夫です。一時は失明も覚悟したのですが。今左目が極端に視力が落ちていますので、色々治療とか回復とか。手術も検討していますし、まあ一応」
幸い失明はしなかったし、顔に傷も残らなかった。
ただ現在左目の視力は0.01以下である。元は両眼とも1.5だったから、視力の不均衡で眼鏡無しだと辛い。
定期的に眼科に通っている。上手くすればもう少し視力回復するかもだ。言われた通りの間隔で目薬を差し、真面目に通院もしている。
「実際、鏑木君は眼鏡を掛けた理由も分からないでしょうし、特に知らせようとも思いません。なんか幼馴染みで、臆せずに話かけていたから私が片恋している、という事になっていました。話かけていたと言っても年に二言三言の挨拶ぐらいですが」
実際興味ないから挨拶は緊張する事もない。美形を側で見た緊張ぐらいはあったがそれだけである。別段親しくはない級友程度の態度だったはずなのだがね。
「別にこの学校も追い掛けてきた訳ではないです。近隣公立高校というか県下の共学では一番の進学校だから頑張って入っただけです。断ると余計に面倒がおきそうだから中学時代はラブレターの橋渡しを頼まれましたが、先輩が居るのなら断れますね」
なんか目的が不明瞭な人だな、と思い、そろそろ会話を切り上げようと思ってきた。
よし私が優君に片思いをしているとしても、何しに来たのか分からない。
この人の見た目は眼福だが、優君絡みに自分から首を突っ込んで行くのも意味不明だろう。いらぬ邪推を呼ぶ事になる未来しか見えない。
地味子な私にとって、目立つ幼馴染みというのはつくづく厄介なものだなあ。
正直に言えば「性格良い美形なら必ず惚れるだろう」って、発想がオヤジみたいで嫌だな。ネット的に言うと「ただしイケメンに限る」か。
相性やら何やらもあるし、私のような凡人は気後れやコンプレックスの一つも出る。
「……なにか警戒されてしまったかしら。でも他意はないのよ。子供の頃から一途に鏑木くんを慕っていた、そんな子が居るのなら、話ておきたいとは思ったの」
少し困ったような顔で、話出す先輩。
別に意地悪言いに来たとか勝利宣言に来たとかではない、と言いたいらしい。
優しさからか優越感かどうでもいい。
嫌われて苛められるのも御免だが、仲良くなる気も無い。だって本当に特別な何某かな想いがあるから未練があるみたいじゃないか。
「ただ幼馴染みで一途にって噂の割に、全く彼の話題に出ないし、隠している風でもなかったもの。だけれど私の後輩で鏑木くんと同じ中学の子は貴女の話題が必ず出てね。貴女は彼のお母様とも仲が良いってね」
そうか、別の学年までそんな噂が出ていたか。
揶揄される割に苛められても居なかったが。それにしても何でそんな話になっている。佐久耶先輩の後輩が同じ中学出身なら色々把握されていただろう。
「さっきも言った通り、1年前ぐらいに父と離婚した母が、ご近所の鏑木君のお母さんとママ友って奴でしたから。子供の頃はしょっちゅう会っていたから、学校で会えば挨拶ぐらいはしますよそりゃ。でも小学校高学年からこっち、挨拶とかラブレターの橋渡し以外話た事も無いですよ。何度も言うように顔と名前は知っていて、小さい頃に話た事のある誰かさん以上じゃないです」
眼鏡を掛け始めた頃の情感を込めた視線(笑)とやら、それだけが何時までも噂される原因なのかね。
「私はピアノの話題が嫌いです、特に最近は。どちらにしても小さい頃からピアノに隔意を抱いていました。別に彼がピアノしかないつまらない人、なんて思いませんが、趣味の違いって態度に出ます。好きな事を嫌いな幼馴染みって、仲違いする事もありそうでしょ?」
「実際には仲違いする前に疎遠になりました。だって普通は低学年の頃に家族ぐるみで遊んでいた異性の幼馴染みなんて、成長したら会話も無くなる事も多いでしょう。私と鏑木君はそうした多数例なんです」
喧嘩した訳でも、意地悪された訳でもハッキリと決別した訳ですらもない。だが嫌々ピアノ教室に通っているのは態度に出た。頑張ってピアノを練習している優君にとって「嫌なら辞めろよ」と思われていたのは想像に難くない……仮にそこまで思わなくても、あえて会話をしようと思うだろうか。
無視された訳でもないが、積極的な会話は消えた。そのまま気が付いたら、挨拶以外の会話は消えた。挨拶っても子供だから大半は気にせず通り過ぎたが――まあそれだけの話である。
別に優君以外でも、それなりにある話だ。異性同性を問わずにね。
段々苛ついては来た。「何やってんだ私」と。
好きでも嫌いでもない幼馴染みの――つきあい始めた彼女さんの的外れな恋敵牽制に――貴重な放課後の時間を潰されている。話題がループしているし。
でもに私には先輩に切れる程の度胸もない。綺麗な女の子と二人っきりと言うのも精神衛生上よろしくない。
「……ごめんなさい。なんだか要領を得ない話ばかりで、不安になってしまって。何人かに聞いたり、友達の伝で貴女たちの中学校の子に聞いても名前が出てくるから……」
そりゃ凄い。思わず口笛を吹きそうになった。
しかし見ていただけで、そこまで噂になるかね。
「釣り合わないから身を引いた・物陰から見守っていている――何時か、結ばれる日を夢見て……有り得ません。正直に言って私がそこまで鏑木君に拘らねばならない理由がありません。ピアノ嫌いの私が、わざわざエリート・ピアノ奏者に近づこうとも思えません」
溜息をついた、願わくばこれが優君絡みの最後である事を願って。良くも悪くも優君個人に含むところはない、ただ最後の一瞬だけ彼に向けられる視線のお零れが欲しいだけ、本当にただそれだけなのだ。
そうしたら、寧ろ困ったように佐久耶先輩は私を見つめていた。
「……嘘なのよ。恋人というのも、何もかもよ。何というか、お家騒動に巻きこまれないための誤魔化しのためにね」
お家騒動ときたか。
私の父のように、それなりに稼いでいるだけの一般庶民と違い、優君は名門の傍系だった。
本家からは遠いとはいえ、彼の父君は実力で創業一族の会社で若くして役員まで上り詰めた。
父が稼ぐ人だから庶民の範疇の中では小金持ちな我が家と、例え傍系とはいえ本当の名門の鏑木家に連なる家では格が違う。
とはいえだ、所詮は本家から外れて居る傍系にすぎない。ある意味分家でさえないのだ。優君とお家騒動とは遠いように思えた――いやよくは知らないけれども。
適当な噂話やご近所小母様方の井戸端会議を漏れ聞いただけだから、確信は全くない。
この時の樹さんと会話て話た事で始めて知った事も多い。むしろ数年後に落ち着いた後に聞かされた話もある。
「私の父はある名門の、華族の流れを組む家の当主よ。但し母はお妾さんですらない愛人で、私は非嫡出子ってわけ。つまり佐久耶は……今の養父母の姓なの。でも父は高齢でね、既に90代後半なの。私は父が79才の時の子って訳。でも流石に今は病に伏して、今日明日の命って状態でね、実感湧かないけれども。5才にもならないぐらいに数分間会ったきりだしね」
妙な気迫に圧されて聞くままになっていたが、聞いて良い事なのかね。
でもまあ良いか。この人は誰かにぶちまけたかったのだろう。特に私にではなくて、聞いてくれる“誰か”を。
偶々無関係で、何となく聞いてくれそうなのが私なのだろう、私だって誰かに聞いて欲しい事がある。
でも今は聞くか。
「でも、お家騒動で殺されそうって大袈裟な話な訳でもないの。愛された訳ではないけれども、害する程嫌われている訳でもないの。でも一応は認知、みたいな事はしてもらっているから色々面倒でね」
何じゃそりゃ、とは思ったが聞きにいける雰囲気でもないので曖昧な態度で聞いていた。
「総資産は冗談みたいな額で、一族への生前贈与もそれなりに終わっているの。だけれど末っ子、ううん、最後なだけの忘れられた子供でも、億を超える財産が回ってくる可能性もある。でも私は学費と生活費を貰えれば良いので放棄するつもり」
勿体ないと思いつつ、面倒毎ではあるのだろう。財産を受け取るという事は、他の何かも受け取らねばならないかもしれない。いや想像も出来ないけれど。
「父の……義父でもある伯父の友人の鏑木慶子さんにも相談したら、まずは変な存在から守ろうと言う事になってね」
傍流とはいえ名門鏑木家に連なり、それなりに力もあるご夫婦の側が居るという事が、それなりに牽制になるそうだ。
逆に言えばその程度の牽制で手を引く程度の輩しか引き寄せられなかったと言う事でもある。
「下手な名門の私立校よりも公立の進学校に通ったのもその辺。正直私が表だって財産を受け取ろうとしたら、企業につく超一流弁護士をダース単位で相手取らなければならないかもだわ。そこまでして負ければ社会的に抹殺されるかも」
十中八九負けるけれどね――そう言って苦笑する先輩。
「だから母が頂いた分と、学費や生活費という体で頂けるている分で私は良い。それだって大きな金額で、庶民育ちの私には有り難いわ。私立大で医者になろうとも、留学しようとも贅沢さえしなければ賄えるぐらいはあるわ。変に欲をかかなくても大人になるまでは普通に暮らせる、それで十分」
社会人になるまでの保証と+αで、企業や父の家とは、一切関係を断つ。本妻は母と出会う前に既に病没している。後妻は娶らなかったから、不倫という訳でもなくて別段法律的に後ろ暗いところはないそうだ。
ただ50歳以上離れた二十歳にも満たない程度の小娘を妊娠させたとあっては外聞が悪いのは言うまでもない。
何人も居る子供や孫達も、今更競争相手が増える事を望まない。それ以上に醜聞も御免だろう。
「金額はともかく、外聞が悪かったのよ。母は老舗レストランの経営者の長女でね、でも祖父母も後を継いだ長兄も時代の流れに乗りきれずに、莫大な借金と共に潰れかけたの。そこでお定まりの援助するからって訳……らしいのだけれども」
そこで終わっていればまだマシであった。だがそこで終わらなかったから樹さんが生まれたわけであり……。
「お店が持ち直したのは良いけれど、高校生の娘がお腹を大きくしてって。ただ母は父を憎からず思ったみたい――反対されたのに子供を産む程度には。母は私が生まれてから入院しっぱなしで、物心つく前に亡くなっているから顔も憶えていないけれど。私は次男の伯父夫婦に育てられたわ。母方の祖父母は私に会いたくないようだしね、当時既に家を出ていた下の伯父には何も分からず、祖父母とは上の伯父共々疎遠だから、話も聞けないの」
凄い話だ。そこにあったのはロマンスか、歪んだ嗜虐心か。そうして母親にあったのは、どうした感情か。諦観かお腹の子に情が湧いたか、そこまでの人物であったか。
そこまでならまだしも、周囲の反対を押し切って子供を産むとなると、よく分からない話だ。
今の私ぐらいの年齢で80近いお爺さんの子共を産む、想像もつかない。
伯父は2人、実家に住まう長男な跡継ぎと、全く違う業種に就いて外に出た次男。
妊娠して家を追い出されて、まだ独身の次兄宅に転がり込んで先輩を出産し、そのまま数年闘病してから亡くなられたとか。
病院代は実父が全額払ってくれた上に、養育費・学費相当はもらえたそうだ。
伯父は最初金額を突っ返そうとしたようだが、弁護士に諭されて受け取り続けたようだ。
「別に向こうの親族も、殊更私を疎んだ訳でもないの。企業イメージを損なうから側に来て欲しくないみたいだけれど、それなりの学費と生活費の名目でなら幾らかくれるそうだし。私もね、この若さで莫大すぎる財産なんて、道を踏み外す原因にしか思えなくて」
後年第三者からの噂を色々聞くと、破天荒だが面白い人物ではあったようだ。
案外普通に恋愛沙汰だったかもしれない。年老いた異性が好きな奇特な御仁は男女問わずにいるものだ。
それとも意に沿わぬ行為の果てに自暴自棄になっていて、妊娠した途端に母性にでも目覚めたのか。
「でも、言ってしまえばお母様は寵愛されたのでしょう、先輩。ならばその方面でもお父様に配慮して貰えたのでは」
人様のご家庭の事情にとやかく言うのもなんではあるが、ふと疑問に思って聞いてみた。人見知りする質の私が短時間で不躾な事を口にしたから後で結構驚いた。
「……私が5才ぐらいまでは、会いはしないまでも気に掛けていた、そうよ。本当か嘘かは分からないけれども。ただ色々と一族や関連企業に心を砕いて、生前贈与を含む遺言状を作成したら……呆けてしまいました。でもかえって良かった、私にとって父とは伯父だし、母は伯母だもの。弟妹も居るし不幸じゃないもの」
だがだからこそ疑念を生み、小物達の欲望や野心・欺瞞が横行した……そうな。万に一つ特別な遺言があるやも、と。
欲深ければ疎まれて欲を抑えれば疑われる。世知辛いと言えば世知辛い。
「何せ私が会った最初で最後は5才以前の時。そのこと自体は憶えてはいるけれど、実父の顔も憶えていないし理解もしていなかった……特に何を言われたわけでも無くて一瞥くれただけだしね。だから本当の親子なんて今でも実感は湧かないわ」
物心が辛うじてついた幼児の頃に一度だけ見えただけの老人。顔も憶えていないその老人に情が湧かないのは当然かも知れない。
「それに今だって危篤状態とは言うけれども。私には来るなと言われたし、正直に言えば来いと言われても行く気も無いの。本宅に線香をあげに行くのも何だし、落ちついたらお墓参りだけさせてもらおうかと」
実感は全く湧かず、援助は多少多めではあれ概ね身の丈に合ったもの。伯父夫婦も金銭に対する欲は、無い訳ではないが、これまた良くも悪くも弁えていた。
養子にしなかったのは、母の遺言だそうな。
「別に気取って言う訳では無いけれど、彼等から必要以上にお金が欲しい訳でもないの。そりゃぁね、柵もなく、ただ貰えるのなら喜んでもらうわよ。私は木石ではなくて、それなりに欲望も持っているもの。でもね、お父さんやお母さんは共稼ぎで、それなりに稼いでいる方だわ。生みの母の遺産は、それなりに……地方なら郊外に中古の家一軒買うぐらいはあるし、学費の援助も十分な程に頂いているもの。これ以上は望まない」
そういう樹先輩の顔に悲壮感はない。
多少の蟠りはあれど、それほど実感はないし、恨み言を言う程に現状は不幸でもない。
実の父と会えない、と言ってもだ。明らかに歓迎されていない上に呆けていて本人すら分からない状態のようである。
無理に会えば方々に角が立つだけだと、まあ。その角が立つが嫌われる程度ならまだしも、最悪であれ命の危険すらあるとなれば、だ。
「何時か後悔するかもしれない。でも無理に会えば、今、後悔するでしょうね――余計な波風を立てた事を。私にとって『実の父』なんて御伽噺の中みたいなもの。ならば私は「会わず主張せず」で済ませるわ。父母にあった「何か」が知りたくもあるけれど、当事者の1人は既に亡く、もう1人が老いで近しい人も分からないほど呆けたなら、真相は不明でしょう」
そう言ったきり私から顔を背けた。
話ている内に、妙に盛り上がって一気に喋ってしまった先輩は、少し冷静になったようだ。
「……御免なさい。彼がどうあれね、貴女の方が彼を一途に想っていたなら、言い訳をしようと思ったの。2学期までくらい、どう考えてもそこまで父は保たない。そうすれば遺言状は明かされて今の欺瞞の仮初めの恋人は終わる……だからそれまで許してねって、暈かしながら」
何というか真面目な人だね先輩は。
苦笑とも何ともつかない、でも馬鹿にした訳でも無い笑みを浮かべていた、と後に樹先輩は言った。
「先ほど程も言った通り、私の方は彼に対しては何もありません。そりゃ分類上は「幼馴染み」でしょうがね。色々言われたお返しに、私の方も言い辛い事を聞いて欲しいのですが、私も整理がつかないので後日……そうですね、仮の恋人関係が終わって落ちついてからとしましょう」
実際中学時代の親友である友恵にすら言えなかった事だ。中学生に相談するのは、些か重い。テニス部の顧問には色々と相談していたが、男性だから際疾い相談は出来なかった。
一応カウンセリングの先生には聞いてもらっているが、医者だしね。
「それよりも先輩。先輩こそ鏑木君に想いを寄せなかったのですか? かなり美形ですよ。それ以前に何故鏑木君なんです。大企業なんかと喧嘩できるのですか彼は」
名家の傍系の、更にその末裔。つまりは限りなく庶民に近い少年。
ド庶民の私とは格が違うが、名家のカテゴライズでは微妙だろう。
「彼のお父様・お母様は、物凄い遣り手でね。殆どコネ無し、一般から入社で、企業の中枢に登った父親と、音楽家として日本だけじゃなくて世界とも交流のある母親の……言ってみれば侮れない夫婦なの。彼等を敵に回す事は誰もが躊躇うような」
つきあっている、と言うよりも婚約していると言った体だそうな。
小金をつかむために、別の企業の大物を敵に回すのは本末転倒だと、大抵の人間に判断されるとか。
愛人の子供だから、何処まで行っても中枢には行かない。その割には大金が来るのでは? と言う期待はなくもないが、子供孫曾孫に兄弟の縁者まで含めると大勢いる状況ではね。
だからドサマギで小金を掠め取ろうとする小悪党がよって来る兆候があった。
あるいは中枢まではともかく、ちょっとした地位の向上を望む小物の見合いの申し込みが多かったと。
小銭稼ぎか、お家騒動用の傀儡としてなら有用らしい。互いに成人してから酔っ払った樹さんの言によればだが。
「結局は何処まで行っても、私なんて枝葉なのよ。遺産相続っていってもそこまで期待は出来ないって。でも認知はされているから立ち回り次第では小金を稼ぐ事が出来るのでは、って夢を持った人が多くてね」
数人の子供がいて、その多くが適当に子供を産んでいる状況。子・孫・曾孫に下手をすれば玄孫、従兄弟に又従兄弟にその子供もまで含めて、少なくとも数十人以上の係累が居る。そこに割り込む認知だけはされている非嫡出子は、非常な努力が必要である。
逃げ出したいが、ただ逃げるのも微妙な場合は、外部の面倒の少ない実力者に庇護してもらうのが有効か。
優君も頭も良くて見目麗しい樹さんなら、たとえ偽りでも悪い気はしないだろう。
なるほど容姿的にはお似合いのカップルだ。本当に私が優君に想いを寄せる可憐な乙女だった場合は1人でウジウジしていたかもしれない。
「それにね、あの子の好みって言うか、恋人付き合いというか学友以上になるには多分ね、音楽の素養か教養が深い人だけだと思う。少なくとも今現在はそれ以外は排除していると思うの。それ以前に今は恋愛どころじゃ無いと思っているのかも」
そうなのか。こじつければ思い当たる節はある、などと言ってしまいそうだけれど。
会話を交わさなくなって10年近く、その交わしていた時期は幼少期とあっては、恋の話なぞ欠片もしてはいない。
その前だとて友人と言い切るには微妙な、当たらず障らずな付き合いであった。
自分の中で夢想するならともかく、他人の考察には「そうですか」というのが精一杯だ。
カテゴライズ上の「幼馴染み」はだ。否定するのも何なので「幼馴染み」と言われても否定しないでいただけだ。
少なくとも私達の間に「少女漫画的関係」は一切ない。無理にこじつけるのなら、下手な美形アイドルを凌駕する美形を見れば多少の感慨がある程度……か?。
「私も少しは聞くし、バイオリンを習ったりもしていたけれど、子供の習い事でやめたからね。まあ私の好みではないし、彼の好みでもなかったようだから、ちょうど良いのかも」
男の子とつきあう気は無いしね。そう言い終えて話は終わった。
さりげなく言われたから気が付かなかったが、後から考えれば含蓄のある言葉であった。
とにかくだ。少なくとも優君と樹先輩が別れるまでは、顔を合わせるのをやめよう、と言った。
だがそれが終われば、偶にお茶をしましょうねと、良い笑顔で言われた。
美人さんとお茶するのは大歓迎なので構わない。だが何であんなに嬉しそうだったのやら。
状況が変わったのは予想よりも早くて、梅雨も明けた七月の頭頃である。
土曜日の放課後、その日は我が家で私1人であった。
父は仕事仲間の慰労会で二泊三日で、旅行だそうな。弟妹はそれぞれ友人と泊まりがけで出かけるそうな。
特に用事もなかった私は、家でゲームに興じるつもりでいた。
ロボットたちの夢の共演ゲームを、カウチポテトで過ごそうとまあ。
ダース単位である父のビールに心惹かれたが、まあ悪戯で飲んでもな。
ちょっと多めに食費を渡されたので、いつもよりかは豪華な食事の買い物を計画し、デザートも買うか迷いながら、月イチの部活の定例会を終えた。議事録を取っているというが、楽なものである。
皆一言二言読んだ本の感想を喋り、それで終いではある。
ただ皆が読書家な為に、ボイスレコーダーを止めてから結構盛り上がって読書の話題に興じた。表向きは歴史書や専門書に純文だが、今時の学生だからラノベや漫画だって読んでいる。議事録には載せられないが、熱が入ったのはこちらの方である。
それを含めても午後三時には終わり、解散となった。
父はさる芸能人の注文で、贅を尽くした地上7階地下2階建てのビルの設計・施工の仕事の打ち合わせも兼ねているという。
何か無茶苦茶大口な仕事だそうだ。
埼玉寄りの23区内の駅から適度に離れた場所に、駐車場も庭も贅沢に確保した「金は有る処には有る」と言いたくなる依頼である。
とにかく父はあと数年の間は忙しくなる。ビル何棟か分の予算をかけた大仕事だと。
父にお手伝いさんを頼むか聞かれたが、ちょうど弟妹と3才離れている事もあり、受験に直面するまでは頑張ってみる、と伝えた。
地元のスーパーに寄る事を考えて、帰宅の途につく。だが学校の自転車置き場に足を向けたところで佐久耶樹先輩が、私を待ち伏せていた。
「結城さん、今日暇かしら。ちょっと話たい事があるの……ちなみに、鏑木君とは“別れた”わ」
樹先輩が顰めっ面で、私にそう言い放つ。
別に人通りも疎らだから良いか。
「先輩、今日の夜は暇ですか? 両親も弟妹もいないので、一人っきりの食事なのです。出来れば愚痴吐きにつきあって下さると嬉しいのですが」
そう告げたら、頷いてくれた。
すぐさまご家族に連絡して、泊まりがけで遊びに来られるとまあ。
電車に乗って私の近所のスーパーによって、食材とデザートを買って帰る。
3駅分ぐらいの、いつもは自転車通学だったが、樹先輩が居るから電車とバスにした。
梅雨明け頃から徐々に医者の運動の許可が下りた。手始めに自転車通学に切り替えたというわけだ。電車と時間はさして変わらないから、軽いリハビリを兼ねてでもある。
樹先輩は様子が変だった。妙に気落ちしていたかと思えば、急にはしゃぎ出す。
“別れた”という事は父親は結局亡くなられたのか。
私と樹先輩の技量と予算の範疇で、豪勢な料理を作った。
樹先輩の料理スキルは高かった。なんでもお父さんは子供の頃からプロの料理人の実家で仕込まれたそうな。
だから父が結婚するまでのあいだ、料理を仕込まれて台所に立っていた。
先輩が10才になった頃に結婚してからも、両親が共働き故にそれなりに料理は作っていたそうな。
プロ級とかはともかく準プロ級、少なくとも私よりも数段上な技量である――何この娘は完璧超人なの?。
ただ言いたい事があるのだろうと、サンドイッチや唐揚げ等のつまめる食事がメインである。
「……樹先輩、鏑木君と別れたという事は……そう言う事なのでしょうか」
顔色を見ながら、そう聞き出す。
「まあ実際には、ちょっと噂を流しただけだから。ちゃんとね、つきあったなんて言ったのは貴女ぐらいよ」
苦笑というか、ちょっと微妙な表情で樹先輩はこう言った。
「聞かれたらただ微笑んだとも言うわね。適当に品行方正で、皆が勝手に夢を見ているから疑われなかったもの」
そう言うと偽悪的に笑った。
樹先輩、今日は少しネガティブである。
「……先週の週の半ばに父が亡くなって、今週の真ん中ぐらいに亡くなった父の孫だという弁護士がきてね……」
適当に腹が満ちて、クラシックのCDを聞いていた時だ。
いや樹先輩の趣味知らないから、選択が微妙になった。
先輩の父君のことはニュースにもなったというが、ちょっと分からなかった。
「……なんか妙な選択肢を迫られたわ。
このまま学生の内は世の平均より幾分多めの学費と生活費を精算して一括支給で終わりか。
向こうが選んだ婚約者を幾人の中から選んで云々か。
種銭一億を貸してくれて1年以内に300倍にしたら何%か会社の株を譲渡された上に、グループ企業でそれなりの地位が約束されると言う修羅ノ道を進むか……後継者候補、いえ幹部候補に名乗りを上げるための実績作りらしいわね」
うわぁっ。何処のラノベか少女小説の世界だよ。古典的少女漫画と言い換えても良い。
「1番目はこの先親族として名乗り出ない、それ以上の金銭援助もないが面倒もない。
2番目は花嫁修業をして、企業グループの程々のエリートの殿方用の賞品兼彼等の本家への鎖。
3番目は……まんま将来の後継者争いへの登録」
「でもまあ答えは考えるまでもないわ。殆ど迷わずに答えたの。1番目以外はないって。この進学校でそれなりの成績だから、頭が悪いとは思わないわよ? ただねえ、所詮はその程度なのよ。日本はおろか、世界にも進出した企業の中で10代の学生の身で頭角を現し中枢に、ってハッキリ言って無茶ね。身の程知らずでもいいかな」
例えば一流大学に入り、将来的に外資系やらで活躍し、係長以上、課長や部長ぐらいになって、二十代後半ぐらいに若くして年収が一千万超えも無い事もない。
まあ先輩の成績を考えれば夢見すぎだとは思わない、罵倒されない程度には有り得そうな話だけれど。
……だがそうしたエリートを束ねて、さらにそれ以上に上り詰める器量が自分にあるか……迷うまでもなく、そこまでは行けない。その前の段階すら怪しいのにだ。
いや仮にそうした地位を望める未来があるにしても、人格・教養・知識を土台にして経験を重ねて知恵へと昇華させ後ろ盾を得た壮年期以降になってからの筈だ。
私程度の社会経験もない二十歳未満の小娘が、自重の数百倍数千倍の重さ背負えると背伸びをしても、一歩も歩を進められずに潰れるだろう。
……と樹先輩は思ったそうだ。
2番目は勿論却下だ。いやそれは決してエリートに嫁げて安楽などでは無い。そうした人生を選ぶのは、それはそれで大変だ。
仮にもエリートである。アメリカ張りのホームパーティの日々に、それなりの教養も要求される。それなり以上のコミュニケーション能力も必須である。
アメリカのホワイトカラーは日本のビジネスマンより余程ストレスが溜まるという。公私共に定型があり、良き企業人に良き夫に良き父と手抜きが出来ない。
休日にはホームパーティーを始めとする奥方の内助の功も重要だから、そちらにも気を使う。表面上は優雅に幸福そうに見えるが、ビジネス街の薬局の胃薬や頭痛薬の売り上げは日本の比ではないと。
怪しげで胡散臭い蘊蓄本の1コラムであったから何処まで本当かは分からない。だが内容に納得する部分もあるのだ。
お稽古事などもね。樹先輩の両親も裕福な部類だから、それなりに習い事も頑張っているだろう。だがお嬢様必須の技能を何処まで有しているか。
ホームパーティーとか商業レベルの料理技術とか、要求は面倒なのに求められるレベルは馬鹿高い。
「お金さえあれば、っていうのは甘いわよ? 成金やら小金持ちならばともかく、一握りのエリートの配偶者ってそれなりの教養や立ち居振る舞いを要求されるしね」
だから無教養な輩がその領域に入り込もうとすれば笑われて、後ろ指さされる……らしい。そんな世界私は知らないし、興味もない。
そんな中でも例外や落ち零れもそりゃいるだろう。
だが例外でございと踏ん反り返るには特別な才能が必要だし、落ち零れに進んでなるのは人生を捨てすぎだろう。
何が何でも、落ちこぼれと呼ばれても頑張ると言い切れるのは、情なり恩なり愛なりの柵がある場合だけである。
放っておかれた妾腹の無理矢理な政略結婚でそりゃないわ。
中世の頃なら多かったろうけれども。
「私だって外見だけならそれなりにそう見えると思うわよ。でも所詮は妾腹、ですらない愛人の娘で、母方の親戚に育てられた庶民育ちだしね。そんな教育一切受けていないもの。見えている処で陰口言われるのが関の山ね。凄く運がよければ良い人に巡り会えるかも。でもそこまで運を天に任せるのもね」
ウンザリした表情で樹先輩は吐き捨てた。
いや私も全く同意である。庶民出のエリートに嫁ぐとか、相手次第では幸福になる事も出来よう。だがそこまで他人任せにしてもね。
確かに進学校で席次はトップレベルの樹先輩の頭脳は頭の良い方だろう。だが礼儀作法や知識と教養、しかも上流階級に通じるとなれば単純な頭の良し悪しとはまた違う。
「3番目の場合、ブレーンとそのコネ次第ではいけるかもね。でもそれって傀儡になるって事よ。少女漫画ならドSの美形執事とか従順なエリートの幼馴染みとか騎士気取りの同級生とか王子様っぽい威張り屋なライバル企業の御曹司とかが出てきそうだけれども、現実ではそんな飛びっ切りの存在なんて凡庸な私に御せるとも思えないもの」
むしろ甘い言葉で寄って来る、そうした胡乱な輩から逃げるために優君、というよりも鏑木家の庇護下に入った。
殆どバックアップのない無力な小娘に擦り寄る輩は、詐欺師か一発逆転を狙わざるを得ない日陰者か、さもなくば小金狙いの小人物ぐらいだろう。
そんな失敗すればだ、どんなペナルティがあるか判らない世界に足を踏み入れるのもね。樹先輩の声を聞きながら考える。確かに私だったらだ、すっ飛んで逃げるわね。
夢想するなら幾らでも都合のよい夢を見られる。だが現実にはちょっとね。億の借金でも詰んでいるだろうにね、そこから始まって300倍へ……を1年って、真面な方法じゃ無理だろう。
いや多分これは踏めばハイリスクハイリターンが待っている踏み絵なのだろう。十に九破滅するが、破滅しないならば……ってな訳だ。
「……例えば今回降りても地力で挽回できる人もいるでしょう。でも私には無理。ただでさえマイナスからスタートなのに、地力で勢力を作って一廉の者になるなんて無理。だから今回断れば、細い糸で繋がっていた絆は断ち消える……少なくとも後継者、いえ幹部候補争いに名乗りを上げられるような法律的……企業的なバックアップが得られる目は完全に消えてしまう」
ハッキリ断ったので、ほぼルートは断たれた。
断らなくても同じだった、3番目で結果を出す事が出来ればともかく、無教養な庶出の小娘がね。
自嘲という程には卑下してない、でも歪んで複雑で皮肉な笑みを浮かべる。
「全世界で数万規模の社員、いいえ関連企業や下請けまで含めれば、その数倍以上は居る国際的大企業の中枢に君臨する一族の1人と認めさせるには、私の立場では凄まじい努力と才覚と器量が要求されるでしょう。自分をそうした才人と思い込めれば楽しいけれど、そうできるだけの基盤も脳天気さもないわ。冷静になれば、あらゆる物が足りてないと思うもの」
多分だが、樹先輩に足りない最大の物は「覚悟」だろう。
普通の人間には機会すら与えられないが、樹先輩には舞台に上る機会だけは許された。
あらゆる物を武器として、僅かな凹みしかない壁面を登るにも似た道程を選ぶ。失敗すれば手にある物を全て失う、だけでなく一生掛けても返しきれない負債をも背負うだろう。
しかし成功すれば想像もつかない程の富と栄誉が手に入る。
昨日までの呑気な一般人に、そんな「覚悟」がある方がおかしい。
「……まあ心が軽くなりはしたのよ。でもまあそれは既定路線だろうしね。それで養育費とかそうしたモノを一括でもらったの。算定方法が多めでね、私立有名医大卒業から大学院数年ぐらいまで、数回浪人・留年したと想定した学費と生活費がいただけたの。ごく常識的範疇+αだけれども一括で手渡されると膨大な金額だわ」
「医者になるつもりなんて毛頭ないけれどね」そう樹先輩は呟いた。
それでも例えば医大に合格したとして月三万五千円の家賃として六年間、さらに留年したと仮定して+α、それで家賃だけで四百万円と査定されたとして、その査定法でその他の項目も一気に支給されれば、8桁を超える金額は手渡される。
これは私が適当に暗算しただけだから実際には、8桁目を二つか三つ数える程度は余裕で貰えるだろう。
学費と20代半ばまでの生活費と遊行費としては余裕だろう。とはいえ大金持ちの遺産としてはだ、仮に9桁近くても少ないようにも思える。
「お父さんに負担を掛けないで済んだのは僥倖だわ、下にあと2人も居るしね。でもこれで公式的には父の娘と名乗れなくなったの、今までと同じだけれども」
悲壮感は特にない。
実感も湧かず、成功を信じて飛び込むにはリスキーしか見えないレールから降りただけだから当然だろう。
それでも表情が微妙なのは、何処か感情にモヤモヤしたモノがあるからだろう。そういうのは理屈ではないだろうし。
「実際に来られた弁護士さんは納得して下さったわ。と言うよりも2番目はともかく3番目を選ばれたら、さぞ困ったでしょうね。遺言に書いてあったから聞いてはみたが、応じるとは思っていない、という感じで」
受けていれば、ハーレクイーン・ロマンスかアメリカのソープドラマ、今ならば韓流張りの大富豪一族の愛憎入り交じった云々が繰り広げられそうだが。
樹先輩は県下の公立では1番の進学校で、普通に10番以内5番前後のポジションにつける優等生ではある。
末は東大か京大か、あるいは海外留学か。豊かな将来が期待できる。
だがそのぐらいの優等生全てが、大企業の重役になる訳でも官公庁で次官ぐらいに出世できる訳でもない。
「私は分を弁えているの。ちょっと優等生の小娘如きが1億円を1年で300億にするゲ-ムなんて、まず間違いなく破綻するわ。失敗して巨額の借金で……なんて馬鹿らしいもの。もしくは訳知り顔の詐欺師に食い物にされるか。人生経験も知識も教養も足りない、ついでに人脈もない小娘が手を出せる領域じゃないわ……当然本家だか直系だかの妨害もあるだろうしね」
これぐらい出来れば、十代であろうが一定の立場を得る事が出来る。
そうでなくとも一定の成果を得られれば、それなりの待遇で本家入りも可能だろう。逆に言えば樹先輩の境遇で、親族と公に迎え入れて貰うには、そこまでのハンデを乗り越えなければならない、らしい。
後は為人の確認もできる。
何れにせよ喜々としてこんな話に乗るのは、凄まじい天才か、物凄く凡庸なお姫様願望の馬鹿のどちらかである。
……と樹さんは仰った。
「だから認知された事自体も忘れろって。半端に欲をかくと、世界的企業の中枢に居る人達と喧嘩する事になるからって。お父さんは不快そうだったけれど、私は弁護士さんはそれなりに気を遣ってくれたと思う。立場上甥っ子なんだけれど、もう30過ぎていたし、一応はこれから幸福になるようにって」
中枢に行く程に、過酷な椅子取りゲームなのは想像に難くない。
今まで日陰者な親戚が、そこに加わるとなれば全力で潰そうとするだろう。
情を云々するのなら、そんな場に来なければ良いのだ……ってところか。
椅子取りゲームの壇上に登らないなら、適当に情を示す事も出来るのだろう。
それはそれとして、金銭以外の遺言とかはなかったのだろうか。
いやファンタジーだとしてもさ、一応心情綴った手紙とかビデオレターとかさ。
「まあこれで一切合切終わり。落ちついたら墓参りだけは1度許して貰えるようには頼んだの。それで私も吹っ切るようにするわ。結局経緯も実際の話も、夢見がちな何かさえ分からなかった。父の心情が綴られた何かは無かったしね」
「モヤモヤはするけれど、良かったかもしれないわ。今更ねぇ、お爺さんの甘い恋愛話を知らされるのも、過去の悪行の懺悔を読まされるのも微妙だもの。実母は若くして亡くなり、実父は老いて認知症になったまま、話す事も無く逝った。知りたくない訳ではないけれど、本当に知りたいかも微妙だわ」
無邪気にロマンスがあったと思うには微妙だろう。年齢差52才、四半世紀でも埋めがたいのに半世紀だ。
そりゃ特殊な性的嗜好を有する者は居るだろう。世の中にはジェロントフィリアと言う概念もあるので、一概に否定は出来ない。ただやはりマイノリティではあり、最初から無理に持ち出す概念でもあるまい。
「世の中のどこかに居る」と「身近に居る」はイコールではないのだ。
老眼鏡萌えなんてのもあるから、絶対に存在しないとまでは思わないのだが。
特殊な性癖ではなくて、情を交わす内に心の情も通った……可能性は無くもない。
「ただそれを掘り下げて知りたいか? だわ。父の実家に行けば、母の日記があるかもしれない。でも知って変に傷付くよりは、知りたいという感情も墓場まで持っていきたいとも思うの」
それは確かに逃げかもしれないが、私だとて母の心情なんて知りたくも無い。
知り得ぬ事も、幸福なのかもしれない。知ってしまえば否が応でも、その事実に縛られてしまうだろうから。
「ふう。言うだけ言ったらスッキリしたわ。結城さん……祐子さんと呼んでも良いかしら? 先輩後輩ではなくて、お友達になって欲しいのだけれど」
先輩が潤んだ瞳で私を見上げていた。
別に迷うまでも無い。優君絡みだから忌避したが、絡まないなら自ずと答えは決まっている。
「ええ、喜んで。私がせめて1学年上なら先輩……樹さんともっと一緒に過ごせたのに。残念です」
この頭が良くて、適度にプライドが高い人と過ごす学生生活は面白かったろう。
まだあと半年以上はある。その間に色々遊ぼうと思いつつ、「受験生だわ樹さんって」と思いだした。
「樹さんは、大学は何処を狙っています? 上手くすれば一緒の大学に通えるかもだし」
特に意図があっての事でも無い。同じ学校なら良いなぁ、程度の話だ。
樹さんはこの学校でも上の上の成績である。
私はこの時点ではまだ下の中程度だ。まあ夢想である。
「赤門を通る事を狙えるのならば、と思うけれども。今の感触なら一浪してからかしらね。ちょっと忙しすぎたもの」
あかん。私はなるべく良い学校とは思うけれども、正直に言えば現役で入れるところを狙うつもりである。
幸い父は私立でも国立でも構わないと言ってくれている。
奨学金を貰わなくても良いみたいだが、色々と考えるところでもある。
一級建築士になりたい、その為の手段でもあるのだ。だが元は良くない頭の私は、怠惰に過ごせば、ズルズルと落ちてしまうだろう。だから精一杯背伸びして良い所を狙う。
だがいくら何でも私に東大を狙うような頭は無い。
「まあ追い込みきれなくても、一浪はともかく二浪まではどうかと思うわ。でも何処に行くにしても経済学部か法学部を狙うつもり。東京の大学には入れたら、一緒に遊びましょう。結婚はしないつもりだから、1人でも生きていける地力を付けたいもの。どちらにせよ東京には出ると思うわ」
そこで私は笑って誤魔化した。
県下有数の公立進学校である。トップレベルに東大を狙う人がいるとは聞いていた。
だが身近な人に居るとは思わなかった。
「……そうですね。では音楽、何か聞きますか。クラッシックは私の趣味じゃ無いのですが、樹さんもバイオリンを習っていたそうなので……」
話たがっていた内容は分かっていたので、まさかポップスでも無かろう。でもここからは雑談なので、一応音楽を欲するのなら、聞いてみようかと。
「そうね、アニソンはあるかしら? それが無いならポップスでも何でも良いけれど」
……アニソンときたか。
いや嫌いでもない。父がわりと好きだったので、DVDやBD、それにLDなんかも豊富にあって適当には見ていた。
私は広く浅く主義だから、各ジャンルは一通り見ている。そこまで濃くもないけれど。母は自分ではよく見ていたのに、私がピアノ以外に触れるのを嫌がった。
ピアノ以外だと、習い事で空手を習っていたが、中学に入る頃にピアノが伸び悩むとすぐさまやめさせられた。
私的には空手の方が良かったのだが、少年の部の黒帯もとれなかったな。年上や年下の友人とか一杯いたのに残念である。
「一応は萌え系やロボットもの、学園モノとかありますが、どれがいいので」
漫画が好きという友人の好きな漫画は、TV・映画になっているメジャータイトルだけって事もあった。
いや別にそれは批難に価しないのだが、その結果相手の眼中に全くない作品を出すと、微妙に気不味くなる。
「じゃあね、魔法少女系列はどれぐらいある? あら、一通り揃っているわね。じゃあこれでお願い」
少女漫画と少年漫画の文法を適度にあわせて、更に萌えと燃えの要素をまぶした深夜アニメのCDを聞く。
そこで色々話た。
私の将来の夢とか、学業で空回りしている事とかを。
そうして少々重たい、樹さんの過去の話を。
「私は、特に将来の夢ってないの。何か実の父母とか、今も生きているらしい母方祖父母とか、良くも悪くも小さい頃に知ってしまっていたから。幼い時、まだ父と二人で暮らしていた頃、電話で祖母と話たことがあるの……罵声を浴びせられて、御定まりの「アンタなんか生まれてこなければ良かった」を聞かされたり留守電に入っていたり」
想像以上に壮絶だ。
まあ自分の娘を老醜の権力者に売り渡し、店を守った祖母殿にも、鬱屈した事はあるのだろう。
ならば離れた時点で無視すれば良いじゃないか。弱く幼い樹さんに当たり散らす意味が分からない。まあそうして割り切れたら争いも痴情の縺れも家族の行き違いの殺人も起きないか。
「男女の愛や夢に興味が持てないの。幸い育ててくれた父と、訳有り瘤付きの伴侶になってくれた母。彼等は私に良くしてくれた。母の遺産も父からの養育費・学費も一生遊んで暮らすには程遠いもの。かなり余裕が出来るぐらいのものだけれど、それだけだしね」
樹さんは虚ろな目で、でも両親を語る時だけ、優しい顔になっていた。
多分このか細く、でも芯のある樹さんに惹かれた。
陰口という面で考えれば、優君と付き合ったことのある樹さんの側にいれば、何を言われるか分かった物じゃない。
下手すりゃストーカー扱いされているのも想像出来る。いや試験会場で見かけたから、同じ高校を受けたことは知っていた。
だけど留学か音楽科のある学校にでも行くと思っていた。滑り止めの類だと。いや何れにせよ、優君自身には歯牙にも掛けられていないだろう。
でも周りの目がね。
「……私の方もね、父はともかく、母が可笑しかった。樹さんはバイオリンをやめたのでしょう? 私もね、ピアノを習っていたけれども、子供の習い事のレベルでしかなかったの……」
そうして衝動的にぶちまけた。
母からのDVの果ての、失明寸前にまで至った経緯を。最低限ではあるが眼鏡を掛けた頃に情感篭めて眺めていた訳の1つも話そうと決めた。私の心情までは中々語れないけれども。
「小学校卒業間近、私がピアノ教室を辞めたいといった辺りから母はしょっちゅう「何で優君みたいに出来ないの」と殴ったり罵ったりしました。ピアノ教室を辞めた日、父の懇意にしている建設会社の建築現場から、薬品を盗んで私に打っ掛けてきました」
「いつも比較されて暴言・暴力に曝されていた私は、眼鏡を掛けたあとに、優君を見ると母を思い出していた、そこで何某かの情感を込めていたでしょうね、そりゃ。何も知らない人が見たら恋い焦がれていると勘違いする程度には」
あの時のやり場のない憤りは、他人に説明し辛い。
解消する方法すら知らず、ただ優君が通る度に遠くから見つめていた。決して側に寄ろうとはしなかったけれど。
「私だって優君を憎むのは違うと分かっていました。だから優君を恨まないように側に寄らず、「ただピアノを弾く男」と言う事象その物を憎んでいた……上手く憎みすぎたみたい。そうしたらね、「男」その物を恋愛対象に出来なくなったの。なんででしょうね」
二次元の美形キャラや、アイドルの格好いい男の子を見れば胸がときめく。身近ならば優君も素直に素敵と思う――でも彼等を恋愛対象にするのは無理だ、無理になってしまった、他ならない母によって。
この時の樹さんにはまだ言う気も無かった。言える日が来るかも分からなかったから暈かした。
私は優君……と言うよりも同年代の上手なピアノ奏者と比較され罵倒された、守り愛してくれる母に。
母が軍隊の新人教育係の軍曹よろしく、あえて罵倒して奮起させる手法だと言うつもりなら、私は鼻で笑う。
音楽のなんたるかを、そこらのクラシックファンの半分所か1割ほどにも分からぬ、分かろうともせぬ輩の音楽教育なぞ笑止千万だろう。
「私は運が良かった。父は在宅、というより事務所は隣ですからね。まだ殺されずに済んだ。今思うに母は子供だったんです。強く願えば……一生懸命頑張りさえすれば望みが叶うなどと思ってしまう程に。でも一生懸命努力しても草野球ですらレギュラーがとれない人がいます。私はピアノにおいては、その「懸命に努力しても草野球ですらレギュラーがとれない」人でしたし」
手加減という項目がない母だった。
か弱い少女が、心身共に何処まですれば壊れるか認識していなかった。
「悪気がない」が1番怖い――そうした生きた事例のような人であった。
若き日、父と出会った頃は天真爛漫であり、良くも悪くもそのまま来てしまったようだ。
北海道に行くとか言ってた最後の電話でも自分が何をしたか認識していなかった。今どう思っているかも、今どうしているかも興味ない。
性的虐待スレスレまでしでかしてくれた。
ピアノで褒められなければ服もいらないだろうと、下着で過ごさせられたりもした。
小学生の子供に「男の目を意識して媚を売っているから上達しない」と、着ていたお気に入りの服をビリビリに破かれた。
私的にピアノの数倍気に入っていた空手も、中学入学を機に辞めさせられた。
そんな訳で中学に入った頃から箍が外れたのか暴言・暴力も日常茶飯であった。
間の悪いことに、ちょうど私が小学校高学年から中学に入った頃父が建築士としてちょうど脂が乗りかけた頃でもあった。
事務所に籠もり、クライアントと打ち合わせに出かけて、工務店と話合い、現場に顔を出す。
ほぼ平日に家族と過ごす時間はなくなり、休日も土日ではなくて、仕事の区切りがついた日になった。それに連日の激務の疲れで昼過ぎまでベットで寝た切りである。
それをして父を一方的に責めるのは酷だろう。
中二の頃に一区切りついて現状を認識すると、すぐさま改善したのだから。
母方の祖父母は何とか母と父を取り持とうとしていた。母と顔を合わせない条件で私達姉弟3人で祖父母の家に赴いた時、騙し討ちのように母と会ってしまった。
「もう反省した? レッスンを再開しているの。その左目も貴女が我が儘を言うからいけないのよ。まったくぅ、子供みたいに駄々をこねて……早くピアニストになってちょうだい」
少しも悪気がない母は被害者意識たっぷりで、どころか悪さをした子供を窘める勢いで説教してきた。
この言葉を聞いた時、嘔吐と共にかつて無い勢いで母を罵倒した。後で弟妹に聞いた所によれば殆ど言葉の体を為してなかったそうだ。
それは拒絶と呼ぶに相応しい反応だった、と弟妹は言った。
騙し討ちを受けた私達姉弟は憤然として実家に帰った。
私に罵倒された事で母は何か変わったかは知らない。あるいは何も変わらず「自分の非を認めずに親を口汚く罵る娘」に失望したのかもしれない。この少し後に再婚してしまったのだから。
母方祖父母との縁もここで切れた。高収入で援助もふんだんにしてくれていた娘婿と縁が切れるのは惜しかったのだろう。だから母と騙し討ちのように会わせて父と復縁して欲しかったらしい。
「先輩、私は母を切り捨てました。例え母が病に倒れても見舞いに行く気はありません。母の葬式に出る気も無い。母が何を思ってあんな教育と称する虐待してきたかは分かりません。何か理由みたいなものもあるのでしょうが、そんなのどうでも良い。私はただ楽しく過ごしたいだけだったのに」
母方祖父母とは、母最後に見た日、私が拒絶反応をした日を機に疎遠になった。
そこまで孫たる実の娘に拒絶される実子の母と、実子たる母を心底拒絶し罵倒する孫に恐れを抱いたらしい。
祖父母との相互理解は多分無理だろう。自分に甘く他人に厳しい人達だからね。だが私自身そこまで劇的に母に対する拒絶反応が出るとは思いもよらなかった。
だがだ私は自他共に認める凡人である。優君を中心とした物語でも、樹さんを中心としたそれでも登場人物Aだろう。いや登場人物になりきれるかどうかも不明瞭だ。
つまり聖人君子な訳も無い。嫌われれば悲しいし、踏みにじられれば悔しい。殴られれば痛いのだ。
母には母の事情がある、歪んでいたとはいえ母の行動は愛情に端を発している……なぞと君子面で宣えるほど、大人ではない。
母に母はの事情があったと宣えるようになるのは、記憶が薄れて憎み続けるのも面倒になった随分後の話である。その時点でも許してなどいない。
「お母様は今は?」
気遣うように、労るように私を見つめる樹さん。
「母は若い男と北海道に行ったきりです。ちょっと前まで弟と妹、私にも引き取りたいと電話が来ていましたが、いい加減諦めたようです。何れにしても母の元に行く気は私はありません。弟妹も同様でしょう。何を考えているかは知りません。向こうに行って新しい弟だか妹だかを生んだようですが」
何を考えているかわかりにくい母だ。寧ろ何も考えていないのじゃないかとも思う。
悪気があまりなかったのは分かる。躾の範疇なら後年の和解も有り得たろうが……弟妹はともかく、少なくとも私はトラウマが全て解消されない限り、和解どころか顔を合わせるのさえ有り得ない。
「「悪意なき悪行ほど悍ましいものはない。反省も罪悪感もなく、寧ろ善意によって致命的な損害を与え続けるだろうから」という言葉の体現したような御仁です、我が母は。掛かってきた電話での会話から察するに私が失明しかけたことすら小さく考えていたし、「盲目の一流ピアニストがいるから大丈夫でしょ?」と言われました……」
その後罵倒しまくって電話を切りましたが――そう続けて樹さんを見る。
「大なり小なり、みんながそれぞれ何かある。分かってはいたけれど、ついこう思っちゃうのよね、「私が1番可哀想」って。そんな訳ない、寧ろ両親は揃っていて可愛い弟妹たちがいて、唸るほどの金銭はなくても不自由したことはない。習い事も学校も……高校は一応色々慮ったけれども、比較的自由に選んでいるし、これから先も選べるでしょう」
樹先輩の母は筆マメではなかったようだ。遺言の手紙も、ビデオレターの類もなかった。もしかしたら成人後に渡されるかもしれないが、その手の話は聞いていないそうだ。
「状況は知っているの。でも事実は聞かされても真実は分からない。私の生みの親は何を思って、結果私が出来たのか。父は家を出て、尚且つ長男ではなかったから、放っておかれたの。元から跡継ぎの長男最優先で、学費と家賃以外は出して貰えなかった。だから実家で何が起こったか、妹がどうして妊娠したかすら分からなかった」
事実上の絶縁である。冠婚葬祭すら付き合いを絶った。結果は親戚とは母方だけである。
この母方の親戚が出来た人達で、後に出来る弟妹と分け隔てなく接してくれたそうだ。
だから父が結婚するまでの鬱屈は、それ以降は解消されたらしい。
それだけに父母達に迷惑を掛けては、と一生懸命努力した。
樹さんは平然とそう笑った。
「お互い半端ですね。物語のヒロインになりきれない……別になりたくもないけれど。でもヒロインごっこをするために、無理に波瀾万丈な人生を選んでもね」
私もそう苦笑した。
樹さんと優君が付き合っていたと言う噂は、例の件が片づいた後に、すぐさま優君と樹さん双方に否定された。
優君が隣にいても見劣りしないレベルの美人さんの樹さんだが、優君的に好みではなかったらしい。
樹さんと私が仲良くなったことも、特に取り沙汰される事もなく、するりと流された。
樹さんは受験生、しかも東大受験を標榜していたので、早々遊ぶことも出来なかった……が、週末毎に泊まりがけで勉強会をしてくれた。
予習復習も悪くないと、私に付き合ってくれてもいた。まあ毎週必ず、という訳にもいかなかったが。
それ以外はというと、私達それぞれに付き合いもあるために、お昼に昼食を共にする事も、稀にならあったくらいである。
そうして劇的に、という程でもないが私の成績は上がり続け、1年の終わりには上の下にはなれた。そこからは中々上がらなかったが、上出来ではある。
流石に2学期の終わりともなると、週末の勉強会も飛び飛びになる。何か妖しいと噂されつつも、週に何回かは昼食を共にして、月一程度は互いの家に泊まる。
塾に通い、医者に通い、カウンセラーにも通う。元より薬を飲んでいた時期は一時だったが、今はカウンセラーに凄く安定していると言われていた。視力も回復……0.01以下から0.1ぐらいまでは回復した。これ以上短期で直るのは厳しいとも言われたが。
右目の視力も落ちて、0.9ぐらいだろうか。何れにせよ眼鏡は手放せない。
眼鏡を外すと左右の視力の違いで気持ち悪くなった。後天的で脳がまだ慣れていない且つPTSDがらみ、つまり精神的なものかも? とも言われた。
原因は複合的であり、即座の解決はない。つまりは根気よく付き合うしかないとも。
この頃には私は樹さんへの想いは自覚していた。
それまで恋愛からは逃げてきたとはいえ自覚せざるを得なかった、そこまで鈍感にはなれなかった。
私はある理由によって男性を恋愛対象……いや性的対象にする事すら罪悪感に似た物が生じる。
だからと言って安易に女性に私募の念を寄せると言うのも微妙だろう……とは思っていたのだ。
でも樹さんは素敵だった。
大和撫子を思わせる腰まである黒髪、緑髪ってこういうのを言うのかと思わせる艶やかな髪。
姫君のように上品に整っている顔に適度に豊満なバストにヒップ、キュッと締まったウエスト。
東大を狙えるほどの頭脳にスポーツも万能。何か同じ学校で同じ女というカテゴリーが嘘みたいに思える程の才色兼備な美人さんだ。
思慕の念が生じるのも無理はないだろう。
……本当は自分でも判っている。
私は年上と言うか、包容力と自立心のある存在に弱い。
樹さんが美人とか頭良いとか言うよりも、それが1番の理由だろう。男だ女だは二の次でもあるのだ。
そんな風でも俳優や二次元の美少女で樹さんの面影があると夢中で見入ってしまったし、その映像を集めていった。
私ってチョロいな。
多分だが樹さんの方も悪く思っていない……と言うよりも樹さんはガチだとおもう。
何度目かのデートの時に額にキスをされた。
「ゴメンね。昔から私って女の子の方が好きなの。無理矢理の後付けならば祖父母との関係とか実の父とか、母が妊娠して体調が悪化したとか色々理屈はつけられるけれども。多分そんな事は特に関係なく女の子が好きだと思うし、恋愛対象としては男の人は好きになれない。だから私は……」
そう悪びれるでもなく、腰に手を当てて言い放った。
それはある意味告白されたようなモノだが、私は無言をもって返事を保留した。
私は弱いが、弱いだけで居たくはない。樹さんに依存し、何も出来ないままで終わりたいとも思わない。
少なくとも今の私には建築士になるという夢がある。
だから保留はした、のだが。
それはそれとして樹さんは肉食系ではあった。
人前では流石に馬鹿な事はしない。
だがねぇ。
デートで2人で会えばハグされるし、挨拶のような額へのキスは、次第に軽く触れるだけとはいえ唇に触れるようになっていった。
だが何となく2人の共通の認識だったと思う――祐子が大学に合格したら……と。
そうしてそれは樹さんの卒業式の日潤んだ瞳で樹さんは私の唇を貪るように奪ってからハッキリと言われた。
「……ええ樹さん。私も卒業したならばね。そうしたら私も色々聞いて欲しい」
だから私も想いを込めてそう答えた。
樹さんの想いに半ば身を任せながら、私も一刻も早くその日が来ることを願った。
そうして時が流れて、樹さんはアッサリ東大に受かり(私の主観である。実際にはアッサリなどではなくて凄まじい努力をしたそうだ)一人暮らしを始めた。
樹さんと二人で卒業記念旅行なぞに出かけたりもした。
東大のシステムは知らないが、文系に入学。資格は学生のうちに取れるだけ取って、勉強にも励むそうだ。
なにせバイトはする必要もないから、勉強と資格に絞ったそうだ。英会話の勉強もやっていると、電話で聞いたが、月に一度くらいは私が遊びに行った。
何せ東京に住んでいるので、遊ぶ場所は樹さんの住まいの方が多かった。
樹さんでもトップクラスに簡単に行けないで中位の成績な事に戦慄したが、それでもそこそこ上手くいっているようだ。
「勉強自体は嫌いじゃないし、そこに集中していられるもの。友人も出来たしね」
私も紹介されたが、水上海里さんという才媛である。
住まいが近いことから仲良くなったそうだ。樹さんよりもずっと頭が良いと言うから驚きである。
2人ともサークルには入らず、様々な勉強会の類には顔を出しているという。
後に不思議な縁で、私達はこの海里さんと同じ裏街道な職場に勤める事になるが、十年近く後の話でもある。