第1話 夢のあとさき……但し母の
そこで中学2年の頃に話を戻す。
母が家を出たので私達は大変だった……訳でもない。
母は結構遊び歩いていたから、夕飯の支度は慣れたものである。
とは言え頻度が過ぎたわけではない。週に数度遊びに出たぐらいで、浮気とかそうした事ではなかったらしい。
だから離婚、いや母の家出後も積極的に家事を手伝った。。
所詮子供の作るご飯だから、特に手が込んではいない。多忙な父も暇な時は極力手伝ってくれるし、父方の祖母や叔母が偶に来て、料理を教えてもくれた。
父の事務所の事務員さんも結構手伝ってくれた。
母に工業用薬品を浴びせられた時に咄嗟に手で押さえて右目は守ったが、左目には直接薬品が掛かってしまった。
幸い処置が早く、救急車もすぐさま呼んだために失明は免れた。危ういところではあったそうだが。
庇った右手の甲も薬品で焼かれたが、傷痕も残らないで済んだ。
2学期の頭には学校に通えるようになったから、幸い学校で知られる事はなかった。
薬品は父の取引先から盗み出したものである。
父も私も不本意ではあったが色々ありすぎて警察沙汰は避けられてしまった……あっさりと親権が父になった一因ではある。
だが、その左目の事によって私は色々失った。
中二の2学期の初日、泣きそうな目を押さえながら退部届を手に顧問の先生の元に向かう。
中学から私はテニス部に所属していた。それも私の代では存在していなかったので有志達で起ち上げから始めたのだ。当然思い入れも強い。
「……そうか結城。やはり駄目か。楽しくやっていたのに残念だな。それで左目は大丈夫なのか」
テニス部顧問の先生は、まだ三十手前ではあるが何というか大人な先生であった。
プロテニスプレイヤー1歩手前ぐらいまで活躍していたが、二十歳の時に怪我で現役を断念。その後に大学に入り直して教職を選んだという苦労人且つ努力家だ。
「私も続けたいとは思います。でも無理すれば左目は……。そう言われて無理できるほど剛胆じゃありません。ああ取り敢えず左目は大丈夫です……視力が0.01以下になってしまいましたが」
冷静に言ってはいるがどれだけ泣いたか。
毎日練習する訳でもない、大会でも早々に敗退する弱小部の盆暗部員であるが、部員たちはあまり気にしていなかった。私達なりに練習して、私達なりに汗を流し引退するものだと思っていた。
私が中学に入学した時に、数年前の不祥事と共に潰れていたテニス部を、経験者と共に立ち上げて、それなりに苦労して運営したのだから思い入れはあった。
退部届を出した前の夜は我知らず涙が出た。私にとって結構重要な居場所だったらしい。
「マネージャーとは言わない……色々忙しいのは聞いているしな。だが月に一度の部内対抗戦の時のスコアブック……がその目では厳しいならスコアボード係くらいは来てくれないか。勿論だが三年になって他の部員が引退するまでで構わないから」
週毎に眼医者と神経内科に通い、視力の落ちた左目を庇いながら家庭教師によって勉強を進める。マネージャさえ厳しいと私も思う。だが月に一度のスコアボードくらいなら負担もない。
男女あわせても20人足らず、経験者が数人で、その子達も部内でならともかく一般的には強くもない。厳しい練習と言うよりもテニスを楽しむための練習である。
だから弱小部にしては皆が真面目に部活に出てきていたし、練習も楽しんでいた。
偏にこの顧問の先生の人柄だろう。
元テニスプレイヤーではあるが、均整のとれた肢体の長身以外は普通の容姿だった。だが私達は先生が大好きだった、いや無論だが先生としてね。
足を引きずり激しい運動は出来ないから、体育教師の道は選べなかったらしい。だから大学を入り直したと聞く。
「部員の皆が良いと言ってくれるのなら、お願いします。私もこのまま後悔しながら辞めたくはないです」
この時、部員の皆が快く受け容れてくれて、月一の雑用係みたいなことをした。
先生と部員達の好意で大会について行く事も許してもらえた。一応対外的にはマネージャーという事である。感謝で泣けてきた。
友人たちには、ただ病気で視力が落ちたとだけ言った。通院もしていると言えば、それ以上聞いてくる子はいなかった。
とにかくあわや失明という事なので継続して通院してもいた。そこで激しい運動は厳禁と釘を刺された。
先生はアスリートらしく、身体に負担の掛からないトレーニング・メニューを組んでくれたりもした。
高2ぐらいに主治医に解禁されるまで結構不自由したが、一応体力不足に落ちなかったのは先生のおかげだ。
いや医者が多少大袈裟にストップを掛けたであろう事は承知している。だがあえて逆らう必要も私にはなかった、それだけである。
私達が新規にテニス部を立ち上げた時に経験者の先生が顧問を引き受けてくれた。
先生の噂を聞いた私達の懇願の声を一通り聞いた後に一言聞いてきた。
「君たちの大半はテニス未経験者みたいだが、強くなりたいか、テニスの楽しさを知りたいかどちらだい?」
真剣な目で先生はそう仰った。
かなり真剣なために、これは本気で答えなければと思えた。
「強くなれるなら嬉しいですが、一定以上の努力は私達には無理です。私達は私達なりに頑張りたいとは思いますが……それだけに頑張れる程にテニスを愛してはいません……ですが、スポーツに親しみ、私達なりにテニスを頑張れるのなら、テニスを楽しみたいです」
皆が押し黙った中で私が答えはした。
物語ならばだ、先生は名コーチでここで一発名演説をかます。
そうしてテニス強豪中をすら越える質と量の指導の下で頭角を現す、ってシンデレラストーリーが繰り広げる事もあるだろう。
だが新規の部活でテニス部を作る私達にそこまでの想いなんてない。
町のテニススクールで楽しかったと話ていた友人が、本当に楽しそうだったから私も……と思ったに過ぎない。
それ以上に私達はごく普通の女子中学生だった。
さほど体育が得意な生徒などいない。私だとてピアノのレッスンに行かなければ母が発狂する。
私は学校でくらいは優秀でなくとも責められない環境が欲しかった。
ただそれだけだ。
だから強い弱いは関係ないし、どうせなら楽しくやりたかっただけである。
「……そうか、君たちはテニスに興味を持ち、テニスを楽しみたいか。ならば顧問を引き受けよう」
サラリと先生は仰られた。
次の日、部活の時間中先生は私達を注意深く見ておられた。
以降、練習に甘えは許さなかったが無理をさせる事もなかった。準備運動に基礎の練習、適宜の水分補給に練習後のクールダウン。
体力のある人にない人。運動神経抜群な人とそうではない人別に練習メニューを組み、ラケットの振り方や細かい技術を丁寧に指導してくれた。
そうして週に一度は対戦形式の試合をし、弱いなりのテニスの楽しさを教えてくれたのだ。
勿論それで格段に強くなれるほどテニスは甘くない。事実正規の大会では県大会の前の段階の大会で1回戦負けが大半だった。2回戦に行った者が毎回1人ぐらい、私の在学中の大会では3回戦にいった事が一度あったぐらいだ。
だが私以外の脱落者も出さずに3年間続ける事が出来た。まあそこら辺が私達の限界であった。
後日、私が三年になり本当に部活から離れた時に疑問い思ったことを聞いてみたのだ。 部内引退試合の総当たり戦から数日後、職員室へと挨拶に伺った。
「……先生、色々ありがとうございます。先生のおかげで色々と助かりました」
おう、っと一言呟いて、私の顔を見上げる……職員室の自分の机で仕事をしていた先生にお礼を言っていったのだ。
「先生、一つだけ質問して良いですか? 自分で言うのもなんですが、私達に才能って無かったように思います。一度はプロの世界に行きかけた先生が、私達のような……言ってしまえば才能の欠片もない有象無象を教える事に意味はあったのでしょうか?」
先生とテニス部は楽しかった。
空手を学んではいたが、道場内はともかく大会等で強かった訳じゃない。まあ楽しいというと語弊があるが、身体を動かすのが、少しずつ出来る事が増えるのが嬉しかった。
だが先生が素晴らしい実力と業績が過去にあればあるほど、ぬるま湯のような今の状況は忸怩たるものがあるのではと。
母は異常なまでにピアノを強制していた。努力しない私を責め立てた。
だからか、ある程度良い線までいった先生に聞いてみたかった。
「……結城のお母さんのことはある程度聞いている。俺の過去と今が参考になるのなら言わせてもらおう」
周りのことを気にしていなかったが、職員室には私達以外居なかった。部活の時間だしちょうど良かったのだろう。
「……いま、結城はピアノが嫌いか?」
迷いもなく頷いた。
母との確執の結果、私はピアノを弾くのが嫌いになっていた。いやそれ以前にピアノを弾く事が好きだったことがあったかは疑問である。
上達も遅く、それが原因で母のDVに曝されるとあればだ、嫌いになっても無理はあるまい。元より自分から望んで始めたわけでもピアノに夢があるわけでもないのだ。
「お前さんの場合と俺の場合も違うがな。俺は怪我で引退する前にはテニスが嫌いになっていた」
エッと思ってしまった。
仮にもプロになれる寸前までいった人が、その競技を嫌いになる事なんてあるだろうか。
先生は口元に苦笑を浮かべて驚く私を見ていた。
「一口にプロだと言っても色々いるさ。プロの中でもメジャー大会で良い線まで行ける者もいるし、地方の小さな大会でも汲々とする者もいる。俺はな、中途半端に強くて弱かった。学生のうちにそこそこ大きな大会で好成績を収める事が出来た。若さ故の無謀さの海外挑戦の中規模の大会でも初出場にしては1勝2勝は出来た……そこでな、周りが過熱したし自分も結果に騙されてその気になってしまった」
先生は穏やかな笑みを浮かべながら懐かしむように続けていた。
「日本の体育会系はね、きつい練習で有名だ。無論国内外を問わずある一定以上を目指そうとすれば、無理でも無茶でもしなければならない。だがね、中学高校だってそれなりに強い競技の学校は、篩に掛ける意味でも基礎体力の強さがレギュラーへの近道だから無茶なトレーニングを強いる。結果がそれなりに出たから俺は必死で頑張った……頑張りすぎてしまった」
アスリートの宿命とはいえ、私には想像も出来ない世界である。
所詮、私のピアノなんてキツい練習の名に値しない。週に2度のレッスン以外は時間を掛けただけの……苦行のための苦行という他に意味のない代物だ。上手くならないどころか変な癖でもついた前に進まない足踏みである。
「結果はね、引退する最後の方は無茶な練習をしてアチコチ身体がガタが来て、近所の接骨院に行ってお茶を濁しつつ安静を言い渡されても市販の痛み止めを飲みながら無茶を繰り返す。夢があって楽しかったから続けていたテニスが、意地と惰性と名誉欲で続けるようになる……それでもね段々自分でも限界が見えてくる。青息吐息の無茶の果ての海外挑戦でも1勝できるかどうか、国内の小さな大会でもベスト8に残るまでが精一杯」
「もっと安定して強ければスポンサーも出来たかもね。だが派手な業績ではないから……。アスリートもフィジカルトレーニングや医療費などの出費も多いし、テーピングテープなど消耗品の道具とか細かい出費も馬鹿にならない」
「その内ね、ちっとも楽しめないどころか苦痛しか感じていないことに気が付く。でもあと少し手を伸ばせば届きそうな位置が諦めることを許さない。これで俺の実力がもう一つか二つランクが上ならば、トレーナやコーチがオーバーワークを止めてくれたろう。だが1人でつっぱてた俺は分相応な努力だと止めてくれるような周りにも恵まれなかった。中途半端な立ち位置が無理を無理と思わずに、あと少しもう少しと突き進んだ。あのまま怪我しなくても、凄いと言えないような成績からも数年で失速しプロを名乗ってはいても食ってはいけない三流にしかなれなかった」
穏やかな顔で先生は続ける。
そして一部を訂正するとピアノを辞められなかった場合の私の未来に思えた。私のピアノは評価を得た事もないからもっと酷い事になったろう。いやだからこそ中2で破綻したのかもしれない。
「俺はね、君と違って好きでテニスを始めたし好きで続けて努力した。だがね、目的と手段が取っ散らかって客観性を失うと、おかしな事になる。だから怪我をした時にホッとしたよ、テニスを辞める口実が出来たとね。ただ背伸びしても届きそうで絶対に届かない夢を見た代償は凄かった。軽いランニングはともかく走ることさえ一苦労だし、身体のアッチコッチに後遺症を抱えている」
障害者手帳もとっている、と言われて驚いた。あまり恩恵は無いらしいが。
「ふと気が付けば遠征のために身につけた片言の英語以外出来る事がなかった。大学も特待生としてテニスばっかだから慌ててね。こんな身体だから体育教師なんて無理だ。仕方なく中退して別の大学の教育学部に入り直して教職を必死に取った――コーチなんて考えもしなかったよ」
「実際の話ね、テニスをした事を後悔したよ。大学を入り直してからは特にね。今までテニスに費やしていた分、勉強も大変だった。恋愛なんて考えもしなかった――治療とリハビリと勉強に一杯一杯で、サークルや合コンもね、経験した事もない」
両親にも随分と迷惑を掛けた――と先生は続けた。
流石に穏やかさだけでなくて苦さ交じりである先生だ。
「でもね、考えてみれば俺はまだ運が良い。身体を壊し嫌いになって途中で投げ出したのは同じでも、俺はプロの世界を垣間見るところまではいけた。そこまで行けない者の方が多いのにな」
苦さが雑じり吐き捨てるように言う先生。
「治療とリハビリと勉強に集中し、テニスからは数年遠ざかっていた。正直お前達が頼みに来るまでテニスラケットを握る事もなかった。そうすると思い出すのは、それまで内心「負け犬」と嘲笑っていた身体を壊したりしてテニスを嫌いになって辞めた者たちの目だった。鏡を見ないでも自分があの絶望と嫌悪の目なのは分かる」
ピアノを愛したことはないが嫌った心理はよく分かった。
だがならば何故先生はテニス部の顧問を引き受けてくれたのだろう。
「結城、ちょうど君が言った一言「私達なりにテニスを頑張れるのなら、テニスを楽しみたいです」がな、正直ガツンときた。そうだ、テニスって面白いし楽しめるものだったと。俺は身の丈以上を求めすぎて楽しめなくなってしまったが、楽しむ手助け、練習で怪我をしない手助けくらいは出来るんじゃないかと」
楽しむための競技……それは決して温い練習でお茶を濁すことではない。
だが望むのなら……あるいは望まないのなら血反吐を吐き痛みを堪えて痛む身体を引きずるように走るような方向ではなくて、テニスを自分たちなりに楽しめる練習を教えることなら、無理が利かなくなってしまった自分にも出来るのではないかと。
「……確かにテニスは素晴らしい。だがテニスを始める万人全てが身を削り限界まで挑戦しなければならないか? だ。だからテニスを愛し楽しめる教えもあって良いのではと、お前達のおかげで思えるようになった。だがらこそテニス……に限らず競技に全てを注ぎ込むのを安易に肯定・否定するのも如何な物かともな。多分だが合ってる間違っているではなくて、その場その時その立ち位置で千変万化してしまうものだけれども」
だからこそ楽しむためにも最低限の技術と、怪我をせず健康に過ごせてるように身体を鍛えるのも大切だ。
だがだ、一定を超える競技者を安易に否定しない、出来ないのも確かだ。要は立ち位置を見つめることが肝要という事だ。
まあそうだろう。鏑木優君に対する複雑な想いを拗らせていて、何が何でも否定と揶揄の気持ちに傾いていた自分がいたのも本当の話だ。口に出した事も出す気も無いけれど。
だがここで安易な被害者意識に楔が入ったのは僥倖だっただろう。
「俺とお前では出発点も違うし、俺は望んだ道で壊れた。だがお前は徹頭徹尾に理不尽さで奪われた。教師だからといって安易にどうこう言う資格があるとは思えない。だがだからな、お前なりに折り合がつけば良いな、その左目も……家族の事も」
我知らず涙が出た。
「折り合いなんて付くのでしょうか。憎悪が自分でどうにか出来ない……ままならない想いが大過ぎる」
どれもこれも自身で制御できない想いだけだ。悲劇ではあるがごくありふれている、とも思う。母はともかく父と弟妹とは普通に家族として情が通い合っている。
だがだからといって、母を許せるかと言えばまた別の話である。
「今日明日でつかないだろう。俺はそれでもテニスを愛していた自分を受け容れるのに数年かかった。いや本当に受け容れるのにはまだまだ掛かる、一生掛かるかもな。PTSDというかトラウマというか、自分の中に思わぬ歪みを自覚してしまう事もある。その自己嫌悪に潰れそうになる事も、今だにある」
何時もの優しい先生ではなくて、膝を抱えて蹲っていそうな弱さを抱えた瞳の青年だ。
「お前も焦らずユックリと向き合えるようになれば良い。何も許し愛せと言っているわけじゃ無い。愛せず許せず儘ならい気持ちとも折り合う時が来れば良いなと。そうすれば大概は幸福だ。教師としてはだ、その時まで自分を無理に受け容れようとして反って我が身を傷つけない事を願う」
だから相談があれば何時でも来いと、解決できるかは分からないけれども聞いてやるぐらいは出来ると。
その言葉通り高校生ぐらいまでは相談がてら顔見せにいくようになる。
後に一級建築士の資格を取った私の客にもなってくれた。節目節目では会う事もある。
恩師と言えば先生のお顔を思い出す。
結局の処で私は運が良いと思う、出会いに恵まれているから。
この後、先生の教え子の中からテニスを進路とする者が多く出たそうな。
テニスプレイヤーこそ出なかったが、トレーナーやテニスコートの経営、テニス関連の器具の会社に就職と多岐に亘る。
OB会と称し、数年に一度くらいは同窓会じみた飲み会を開くと嬉しそうに先生も来られる。先生の奥様とも親しくさせて頂いて、かなり後々まで友誼のような物は続くことになるが……まあ良い出会いではあった。
但し母的にはテニス部入部は一言あるものだったらしい。ピアノのレッスンや勉強にどうこういう程の練習量の部活でもなかった、毎日夕方過ぎまで練習という訳でもなかったし。
だが母的にはピアノより楽しそうにテニスをしているのが許しがたかったらしい。「裏切り者」と泣かれた事もある。
この辺で優君との縁は限りなく薄くなった――いや元々大層な縁があった訳でも無いけれども。
学校で顔を合わせても目礼のみだ。だってピアノ教室は辞めてしまったし、特に接点もない。無理に作ろうとも思えない。
ファンクラブは大袈裟だが、全国規模のピアノコンクールの入賞常連で、容姿端麗・成績優秀にしてスポーツも得意な優君は結構モテた。
幼馴染みでございと、馴れ馴れしく近寄れば、苛められる可能性もある。
子供の頃は親絡みでよく遊んだ、でも疎遠になっただけの知人……わざわざ側によって仲良しこよしをせねばならない仲でもない。
テニス部を事実上休部した私は、それまで以上に勉強に勤しんだ。将来を考え満足できる大学の建築科に通うという目標があり、その為にはそれなり以上の高校に入学しなければならない。
幸い学費の心配はいらないと父は言ってくれている。ならば一心不乱に行かねばおいつかない。
この頃下の上といった成績がみるみる上がりだした。2学期の中間テストではクラスで中の上に、期末テストではクラスで10番以内に入れた。
模試でもそこそこの成績であり、希望校進学はおぼろげながら笑われない程度に実現可能に思えた。
だが急激に視力は落ちた、実際には左目は母に薬品を掛けられて視力が落ちたのだが右目もそれなりに落ちていった。さらには眼鏡無しでは視力に差がありすぎて頭痛までするようになる。
だから眼鏡は手放せなくなったし、しょっちゅう検眼して調整してもらうようになる。