プロローグ 何でこうなった
正直に言って迷惑だった。
私、結城祐子と鏑木優君は異性の幼馴染み。
それも高校まで一緒の学校だった。一緒の学級であった事はないけれども。十年以上一緒の学校で同じ学級が一度も無いのもそれはそれですごい確率だ。
近所に住まい、近場のピアノ教室で一緒になって、親同士が仲良くなっていた。
優君は容姿端麗文武両道で、ピアノも優秀。音楽での海外留学も視野に入れていた。
言わば学校のアイドルって奴だ。
私と優君は地方の有名な音楽教室に通ってはいた。しかし小学校低学年時分の発表会ぐらいなら辛うじてついて行けたが、まあその辺が限界だった。
幾ら有名で厳しいとはいえ、子供の発表会でピアノを弾くぐらいは真面目にやれば問題ない。ただ次のステップに声が掛からないだけだ。
そうして私に次のステップの声が掛からず、やんわりと趣味で弾く事を勧められた、らしい。残していった母の日記などによればだが。
自然と中学に入る前に、私的にはピアノは趣味にする事にしたかった。父は納得してくれたが、母は大騒ぎをしていた。音楽家の娘を持つのが夢だったそうだ。
だが私は全精力を費やしても、何れかの音大にマグレ込みでも入れるか怪しいだろう。探せば専門学校にはあるかもしれないが、私が入れるような学校から「音楽家」への道は厳しいだろう。
無論小学生の頃の私がそこまで考えた訳ではない。
ただそれ以上続けても、特に何にも続かないと思ってしまった。
何せすぐ側に、私より遥かに上手く、尚且つ努力も尋常じゃない上に「音楽」を愛している子供がいたからだ。
見るからに優君は自分の情熱の大半をピアノにつぎ込んでいた。
その彼でさえ将来の展望は不透明である。母に言われたから教室に通った程度で、そこまで好きも嫌いもなかったので、私は辞める決意が出来た――実際に止める事が適ったのは随分後ではあるが。
何せ優君は英語に独語その他まで勉強し、将来留学までも視野に入れていた。
彼の家は裕福であり、その希望も無謀ではなかったのである。
我が家も困窮はしていない、いや客観的に見て裕福な方であったろう。平均よりもかなり高めの授業料のピアノ教室に通えていたのだから。
正直に言って迷惑だった。彼個人が、と言うよりも才能豊かなピアニストの卵が近所に居るる事そのものが。
「祐子、優君に出来るのに何でアンタは出来ないの」
そう母は私を叱ったが、無茶を言わないでもらいたい。
向こうは全国のコンクールでも入賞しまくる、期待の俊英であり一流候補だ。凡人(以下)の私と一緒にしないでもらいたい。
同じ教室に通っている幼馴染みというだけで、何故比べるのか。
これで優君の性格が良いと来ているから、彼自身に含むところはない……いや実際には彼がどんな性格かなんて知らない。
裏表があるのか、見た感じのままの優しい性格の少年なのか。
と言うよりも異性の幼馴染みなんて、成長する過程で大半が疎遠になるもんだ。
音楽教室の待ち時間で会えば一言ぐらい会話もしたし、学校でも「やあ」ぐらいの挨拶はする。正直趣味嗜好が違って、幼い時ほど会話が通じない。だから自然と挨拶以外は会話もなくなった。
挨拶だって先輩後輩って訳でもないから、用も無ければ通り過ぎ用事があった時に軽く程度になっていく。高学年になってからは年に数度会話する機会があったかどうか。
そんな歪な関係も母も私が中学に入る頃、ついに限界を来した。
下に2人、3歳下の双子の弟妹がいたが、2人ともピアノを学ぶ事を拒絶した。母がヒステリックに泣き叫ぶので、そこに怯えたようだ。
中学に入る頃に私も夢を得た。TVの家のリフォーム番組を見て、父の職業でもある建築士に憧れたのだ。
父は結構有名な建築士で、それに応じて裕福でもあった。だがそれまで父の仕事にさしたる興味を憶えた事は無かった。「お仕事頑張っているお父さん」ぐらいの物だったのだが。
どうせなら努力は興味ある事に注ぎ込もうと考えて、それになるために勉強をがんばり始めた。そこまで頭の良くない私はもう一生懸命に勉強を頑張った。
怠惰な私は、目標設定を低くしてしまえば、その設定ギリギリの準備しかしないだろう。そうしてその低さでもグダグダと足踏みして結局は何者にもなれない可能性が高い。だからなるべく高く設定する事にした。
「目指せ一流大学で建築の勉強」
その目標に向かって塾に通い、家でも机に齧り付いていた。
ピアノと違い、勉強方のノウハウは広く世に出回っている。怠惰に過ごしてきた分、牛歩の歩みとはいえ勉強すればする程に成績は上がっていった。
そんな私を見ると母が狂ったように詰り、小学校高学年頃までは怒鳴りつける程度であった母が、ついには日常的に暴力を振るうようになった。
勉強なんて必要最低限でいい、ただただピアノで一旗揚げろ、と。
ただどう一旗揚げるのかを示してくれた事はなかった。
練習しろと喚く母に、小学校高学年になった私は堪りかねて言い返した事がある。
「私にはもうこれ以上は上手くなるのは無理だよ。練習したって何も上手くなれない。どうすれば上手くなれるか、方法があるならば教えてよ」
と泣き叫んだ。子供だったから泣き叫ぶくらいしか出来なかった。
「努力もしないで泣き言を言うのは止めなさい。努力をすれば夢は必ず叶うのよ」
結局は「甘えた事を言うな」と倍怒られただけだが。
母は私の全てをピアノに捧げよ、と言った。
なまじ幼馴染みに、母の希望が叶いそうな逸材がいたから余計である。
だが楽譜すら読めない母の言いぐさは、腹立たしいを超えていた。何をどう頑張れば良いのかすら、母には指し示す事が出来なかった。ただ私の怠慢を許さず、体罰を持って私と接っするようになる。
「どうしてアンタは私の夢を叶えようとしてくれないの」
泣きながら頻繁に箒の柄などで殴るようになったので、自宅兼事務所で働いている父にすぐ止められる。必然的に父母の仲も悪くなっていく。
弟妹には暴力は振るわない、でもヒステリックにがなり立てるようになっていった。
母が何を考えて娘をピアノ奏者にと思ったのか、私には分からない。
母以外に全く惜しまれずに私がピアノ教室を辞める事が出来たのは、中二の1学期の終わり、そうして父母が離婚したのは、私が中三に進級する頃だ。
ピアノ教室を辞めた日、母は私に建築用工業薬品を顔に掛けて実家に逃げ出した。
心身共に色々と壊されたが、命の別状はなく、しかしそれが決定打になった。
心情的にも弟妹たちは皆父と共に住む事を希望し、母を1番憎んだ私は、当然父の下に付いた。
「貴女まで私を捨てるの?」
と悲しそうに言われたのには呆れた。客観的に見れば、私こそが1番彼女を「捨てる」理由があるだろう。あるいは捨てられたのは私と言い切ってもいい。
離婚して精神を病んだらしく、1年程親元で引き籠もったようだが、私が高校に進学する頃には、再婚したというから訳が分からない。
ここで音楽家の旦那でも捕まえたかというのならば、多少は納得する。ではあるがただの会社員だったようだ。しかも後で考えればデキ婚である。
結婚すると言われた時に、私達を引き取りたいと連絡が来たので断った。
そこで多少のゴタゴタがあって、母の実家で不意打ち的に顔を合わせた為に私は叫び正気をなくした。そこで私の方は完全に拒絶し母方の祖父母とも疎遠になっていった。