7伝 林檎パイは終ごり
羊の腸詰蒸し焼き。豚のタレ焼き。鴨の香草パイ包み。彩野菜のキッシュ。季節の野菜スープ。茸の壺焼き煮卵添え。煎ったクルミがたっぷり入ったパンと一緒に、それらを次から次へとたいらげる。ぽかんと見開かれた子どもの瞳には、空になった皿の上に新たな皿が仲間入りしていく光景がひっきりなしに映り続けていた。
その前でまた一つ、私はお皿を重ねた。
町の規模はどちらかというと村に近かった。でも、旅行く者にとってはよい拠点になるらしくて人の行き来はそれなりに多い。宿場も飛び入りが泊まれる余裕はあれど、閑古鳥が鳴いている寂しさはない。むしろ普通の村よりは街道という生命線がある分潤っているはずだ。
それなりに繁盛している宿場というものは、日が暮れると騒がしさがいっそう増す。旅人達は人心地つき、旅先での夜の解放感に浸り、町人達は稼ぎ時だと張り切った。酒と、たばこと、料理と、長旅で汚れた人々と獣の臭いが混ざり合い、町全体に漂い出す。それは眉を顰めるものではなく、逆に高揚感させ齎した。ここでは普段の営みである光景なのだろうけど、慣れていない者からしたらちょっとした非日常だ。旅の解放感も相まって、なんとなくそわそわしてしまう。
いつもなら。
どこからともなく聞こえてくる笛の音に浮かれた歌声。お酒が入れば気も喧噪もお金払いも大きくなる。あちこちで響く食器の音とがやがやと騒がしい声の中、それらに負けない勢いで私とアラインは夕食を取っていた。
マントの上から更に外套をかぶって、フードを目深にして食事をとるアラインは行儀が悪い。でもトロイが『師匠はこれで』とちょっと困った顔をしたので、人には人の事情があるんだろう。
「え? お尋ね者?」
「違います!」
思わずそんなことが頭を過って、ぽろりと口に出しちゃったのは悪いと思ってる。
それに、今はそれどころじゃない。とにかく何かを食べたいのだ。食べても食べても足らない。どれだけ食べても餓えはちっとも収まってくれない。
日が暮れるまでほとんど止まらず駆け抜けても、ここが最初の人里だった。
怪我の慰謝料という形で、お金の心配はいらないと言質はとったし、遠慮なく次から次へと注文してもらう。してもらうとなるのは、ここに来るまで分からなかったのだけど、私はこの世界の文字が読めないらしい。言葉が通じるから文字も読めるものだと思ったけど、そうじゃなかった。そこまで甘くはなかった。砂糖菓子みたいに甘くてよかったのにとがっかりした。
それに、よくよく気をつけてみると、アライン達が話す口の形に違和感があった。同じ単語を喋ってるのに、私とアラインは口の形が違うのだ。
そのことを聞いてみたら、スープを飲み干したアラインが顔を上げた。
「…………今頃気が付いたのか」
「アラインはいつから気づいてたの?」
「『え、そんな殺生な』からだ」
「最初の最初ですね」
骨付きの肉に齧り付く。じゅわぁと肉汁が溢れ……るかと思いきや、意外と固くがしがししていた。どうやら筋部分に当たったらしい。これは外れのようだ。それでも肉だ肉だと喜ぶお腹の為に、最後までしゃぶりつくす。身を全て削り取った骨をぽいっと空き皿に放り込み、次の攻略に取り掛かる。人間らしさ全てをかなぐり捨てた獣のように食べるほどではないが、女子力はとっくの昔に失った勢いで大口開けて肉を毟り取り、パンを詰め込む。頬をぱんぱんに膨らませたと思えばスープを飲み、次の皿の攻略に取り掛かる。
心なしか、私とアラインの勢いで充満しているタバコの煙さえ遠巻きになっているようだ。それとも煙がまったく気にならないだけなのか。
次から次へと空の皿を積み重ねていく私達の姿は、意図せずとも目立つものだ。
「兄ちゃん、姉ちゃん、よく食うなぁ!」
「いい食べっぷりだなぁ。若いもんはそうじゃなくっちゃな! 見てるこっちが気持ちいいぜ!」
口の周りに酒泡をつけた酔っ払いが豪快に笑う。
「おう、女将! この三人に林檎のパイ焼きをつけてやれ! 俺のおごりだ!」
「あいよ!」
喧噪に負けない大声で快活な返事が返ってくる。恰幅の良い女性が、調理場と店の境にある会計台の上に並べられていた林檎のパイ焼きを豪快に切り分けて持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「いいってことよ! 若いもんはたんと食え!」
気のいい酔っ払いからの施しをありがたく頂く。甘いものを貰えて満面の笑顔になった私に、酔っ払いは更に気を良くしたらしい。おじさん達はいろいろと教えてくれた。長距離移動している人間らしく、ズボンの裾が集中的に汚れている。
東の山道は山賊が出るだの、西の地道は最近まで閉鎖されていたけど最近また解放されただの、手当たり次第に知っていることを教えてくれた。ちなみに、その大半は理解できなかった。地道ってなんですか。
いちいち話の腰を折るのも気が引けて、何より食べることに忙しくて分からないまま愛想笑いで流してしまう。おじさん達は気づかないのか気にしないのか、おそらくは麦酒的な何かと思われるお酒をお代わりして一気にあおった。
「いっぱい食って体力つけとけよ! なんでも紅鬼が帝都から出てきてるって噂だからよ。見つかったら殺される前に走って逃げろよ!」
「紅鬼?」
さすが魔法の世界。鬼がいるのか。ちょっと見てみたいような、全力で御免被りたいような。
そわそわした私の様子を別の意味にとったのか、女将さんが厨房からひょいっと顔をのぞかせた。眉をきゅっと寄せて、大きなお玉でかーんと柱を打つ。
「ちょいとお客さん! 若い娘さんを脅かしてやるんじゃないよ! ああ、大丈夫だよ、娘さん。相手は曲がりなりにも騎士だからね。悪さしなきゃそうそう関わるような相手じゃないさ」
「いやいや、目が合っただけで殺されるって噂だぜ?」
「何でも、身の丈は天井まであるって話だろ?」
「え? 俺はまだガキだって聞いたぞ」
「それ、ガキだった頃にエグザム皆殺しにした時の話だろ?」
「同じ町にいるだけで殺気に当てられて気が狂うって聞いたぜ」
「産まれてこの方、一度も笑ったことがないんだっけ?」
「あれだろ? 殺した相手の血を集めて風呂に入るって」
「あれ? 殺した相手の心臓を食らって力を集めてるんじゃなかったか?」
「魂じゃないのか?」
「若い娘の血を集めて風呂に入ってるんじゃなかったか?」
「それ人間じゃなかったか? 美貌を保つためとかなんとか」
こっちそっちのけで盛り上がっていく。なんだか凄まじいことになっていく道程に興味をそそられるけど、いまはこの飢餓感を何とかする方が先決だ。話を追いかけず愛想笑いで見送る。
さっき貰った林檎のパイも三人分に切り分けよう。どっしりと重いパイ生地は、少々乱暴に取り扱ってもほろほろと崩れ落ちるような繊細さは持ち合わせていなかった。扱いやすさに感謝して、よっと勢いつけてアラインの皿に放り込み、次の皿へと狙いを定めてはたと気づく。
「トロイ、ちゃんと野菜も食べないと大きくなれないよ」
丁寧に選り分けられてこんもりと詰まれた野菜の山を見かねて注意すると、何故か頬袋をこさえていたトロイは慌てて視線を向けた。口の中は空だから、どうやら空気袋だったようだ。トロハム君かな。可愛い。
「あ、はいっ……え?」
「野菜です」
「あぅ……あ、えっと、あの、でも、これ……師匠、どうしちゃったんですか?」
話題を逸らそうと机の上を彷徨った瞳は、机の上で山となり、山脈と化した空皿を見つめて心からの困惑を師匠に向ける。
また一つ皿を積み重ねた師匠は、弟子からの困惑に嘆息で返した。
「俺が聞きたい」
「師匠がいっぱい、いっぱい返事してくれっ…………ほんとにどうしちゃったんですかぁ。僕、明日死ぬんですか? だから師匠が返事を返してくれるんですか!? …………僕もう、明日死んでもいいです」
普通の会話で死を覚悟した子どもに憐れみを隠せない。元凶は、わっと泣き出した子どもに視線が集まってきたからか深くフードをかぶり直し、黙々と林檎のパイ焼きを食べている。ざくざくと美味しそうな音がしていて、堪らず私も齧り付く。今度こそじゅわりと広がる林檎の風味と、ちょっと大人なお酒の味がおいしい。
私達があっという間にぺろりと平らげたからか、トロイもべそを掻きながら林檎パイ攻略に取り掛かった。
机の上にあるものが骨と皮だけになってようやく、今にも倒れそうな飢餓感はなくなった。唐突にぴたりと失われた飢えに戸惑う。さっきまでもう食べ物なら生でもいいやな気分だったのに、瞬き一つの間にお腹は満たされた。なんだろう、これ。私どうなっちゃったんだろう。もったいないお化けにでも憑りつかれたのかな。
アラインはどうなんだろうと横を見ると、こっちも同じでぴたりと何も食べなくなっている。そして、何かを考えるように黙していた。彼の場合は基本黙しているけど。
大量の食事を平らげてようやく飢餓感も収まった。これで一息つけるとほっとしたのも束の間、私とアラインは同じタイミングで顔を上げた。
互いに顔を向けて視線を合せる。お腹が満ちたからか、あれだけ無機質に見えた紅瞳の中でくるりと小さな光が舞った。凄く綺麗だったのに、感動する余裕はない。
「…………アライン」
「…………何だ」
「つかぬことをお伺いしますが」
「…………何だ」
私は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。それだけじゃ足らなくて太腿を抓り上げる。一体自分はどうなってしまったんだろう。
どうしても傾いていく頭を必死に支え、下を向いていたらまずいと勢いをつけてがばりと起き上がる。
「すっごい眠くないですか」
「…………」
「眠くないですか」
「今すぐお前を殺して切り離していいか」
「嫌だよ!?」
殺害予告は肯定とみなす。
どうやらアラインもこの猛烈な睡魔に襲われているようだ。ともすれば机に打ち付けそうになる額を掌で押さえる。眠い、とにかく眠い。徹夜明けの早朝にたたき起こされた時より眠い。
頭が重くて支えられない。ぐらぐら揺れる頭から耳にかけていた髪が滑り落ちて顔面を覆って、ちょっとしたホラーを演出した。いつもなら適当に耳にかけるけど、今はこのまま光を遮って寝てしまいたいくらい眠い。
とろとろと煮込まれるどころか、ぼこぼこ沸騰されているかのような睡魔に必死に抗うには理由があった。
「…………眠い。でも、こんなどろどろで寝たくない」
「…………トロイ、貸し切れる湯屋があるか聞いてこい」
アラインが胸元から出したどさりと重たい音の何かを、トロイは慌てて両手で受け取った。じゃらりと中で何かが混ざり合う音がしたので、財布だろうと当たりをつける。うわぁい、お金持ちぃ……眠いぃ……。
トロイはきちんと財布を握りしめると、ぱちりと瞬きした。
「は、はい! ……え!? 師匠も眠いんですか!? 師匠昨日寝たのに眠いんですか!?」
「毎日寝させてあげて!?」
一瞬眠気も吹っ飛ぶ勢いで驚いた。そんなに過酷な仕事なのだろうか。食べていないだけではなく、過労で痩せてしまったのだろうか。過労なのに出張で調査にも出てきて……私を散々引きずったのはたんに疲れていて注意力散漫になっていたからじゃあるまいな?
仰天して思わず隣を見る。心なしとろりとした紅瞳が目元を擦っている。え? ほんとに過労!? ちょ、寝かせてあげて!?
視線を二人の間でいったりきたりさせてると、トロイが慌てて弁明する。
「ぼ、僕が寝させないんじゃありません! でも、師匠、本当にどうしちゃったんですか? 今日は出張だから多めにって三時間は寝てきましたよね?」
「…………いいから行け」
うるさそうに会話を打ち切られて、トロイは慌てて女将さんの元に駈け出した。
それを見送った瞬間、私達は同じ体勢になる。肘をついて組んだ掌の上に額を乗せる。こうでもしないと頭が重くて支えられないのだ。いったんテーブルに額なり頬なりをつけてしまうと、もう起き上がれない自信がある。目も閉じない。目を閉じたらそのまま眠りの世界に旅立ってしまう。
足元には誰かが落としたらしい角切り人参が落ちていて、なんとなくそれをじっと見つめていると、隣の足が僅かに揺れていることに気付く。ちょっとでも動いていないと眠ってしまいそうなのだろう。普段あまり寝ないというアラインは、この猛烈な睡魔を持て余しているのかもしれない。
「……アライン、何か喋って」
「…………うるさい」
「喋ってないと、寝る」
「…………全部、お前と固着してからだ」
会話に乗ってきたと思ったら恨み言だった。けど、今は何でもいい。とにかく会話を続けて睡魔から逃れないとこの場で熟睡してしまう。
頭に分厚い靄がかかっている。その靄はひどく温かくて、さあ寝ろ、やれ寝ろそれ寝ろとやかましい。
それでも抗う。だって、こんな苔と泥だらけで眠ったらベッドが大惨事になってしまう。こんなでろでろで寝て、どろどろで目覚めたくない。最悪の目覚めすぎるし、女将さんにも迷惑がかかる。お風呂だ。何はともあれお風呂に入らないと。
眠たすぎて眼球の奥まで痛くなってきた。頭の中で鈍く広がる頭痛は、段々重さを増してただの鈍音へと変わる。ずくん、ずくんと鼓動のような音を聞いている内に眠りかけて、慌てて首を振った。
足元から順繰りに視線を上げていく。新しかったのに随分汚れてしまった靴、裾どころか全体的に大惨事なスカート、猥褻物強制陳列罪になるところだったシャツ。なんとなく眺めていて、そういえばと気づく。
「…………アライン、私、着替えがない」
「…………俺の替えを使え」
一瞬怯んだけど、それしかないかとすぐに諦める。お金を借りて買いに行く体力と気力がない。
「……ありがとうです」
お礼を言ったのに、アラインはぐったりと項垂れた。さらりと髪が滑り落ちて横顔を彩る。本当に綺麗な髪だ。真珠が溶けだしたらこんな色になるのかもしれない。
ぼんやりと眺めてる私の前で、深く長い息が吐き出された。肺の中が空っぽになるほどの溜息だ。そして、さっきの私みたいに緩慢な動作で頭を上げ、両手で目元を擦る動作がまるで幼子で、少し可愛かった。