78伝 アライン始ンモック
ぐずぐずと眠りについたからか、少し頭痛がする。重たく感じた頭を、それでも気合いで動かす。ほかほか温かいし、もうちょっと寝ていたいとむずがる気持ちがあるのに、目を覚ましてしまったのは、何か聞こえた気がしたからだ。
「うーん……」
寝ぼけた頭では自分が唸ったのかと思った。けれど、よくよく聞いてみれば私よりもっとずっと声が幼い。これは、トロイの声だ。
そこでようやく、昨日眠った状況を思い出した。
ぱちっと目を開ければ、思ったより至近距離にアラインの顔があってびくっとなる。
「お、はよう」
「おはよう」
「おはようございますぅ……すぅ……」
朝の挨拶をすれば当たり前のように返してくれるようになったなぁと思って嬉しくなる。トロイは寝ぼけているのにちゃんと挨拶を返してくれていい子だ。だが、また寝たみたいで背中の重みが動くことはない。……背中?
傾げた首をそのまま後ろへと回す。トロイは、私の背中に張り付くようにうつ伏せで、すぅすぅ寝ていた。よだれが垂れているのはご愛敬だ。
抱っこして寝ていたはずなのに、いつの間にか不思議な寝方になっている。アラインに寄りかかるように寝ていた私もうつ伏せになっていた。バスタブという慣れない場所で寝ていたから、気がつかないうちにいろいろ動いてしまったのだろうと思う。問題は、トロイの後ろに見えるのがバスタブの底だということだ。
ゆっくりと視線を戻せば、うつ伏せのトロイのベッドになっているうつ伏せの私のベッドになっているアラインが、特に何か変わった様子もなく私を見上げていた。そう、私はアラインを見下ろしているのだ。
しかも、何故か、アラインの肩越しに、遙か遠い地面が見える。背の高いたくさんの本棚が、果ての見えない広い部屋に延々と続いていた。本は棚から溢れ地面に散らばっていたり、棚の上に積まれていたりするのに、空の本棚もある。
そんな本棚の間にある通路で、豆粒ほどの何かが、がしゃがしゃ飛び跳ねている。何かも何も、よく見ればあちこちぺろんぺろんの鎧だった。しかも、よく聞けば何かを叫んでいる。
「ずるいですよ聖人様ぁ! わたしが皆様とはぐれた後、合流も出来ず、ひとり寂しく皆様を探しながら彷徨っている間にそのように充実した夜を過ごされるなんて! しかも、わたしのことを知らんぷりし続けるなんて酷いですよぉ! せっかく運良く合流できたのに、天井と床ではいつまたはぐれてしまうか分からないじゃないですか! 早く降りてきてくださいー!」
ぺろんぺろん部分が折れてしまいそうなほどぶんぶん腕を振り回している、なんだか久しぶりな気がする甲冑妖怪ペロンペロンを見て、アラインに視線を戻す。アラインは何も言わない。じっと顔を見て、バスタブの枠を掴む手を見て、バスタブの側面にかけらている足を見て、またアラインの顔へと視線を戻す。
「………………いつひっくり返ったの?」
「時計がないから正確な時間は分からない」
何の問題もなさそうに返事をしているこの人が、天井に張り付いて逆さまになったバスタブの中で、私とトロイをアラインハンモックに乗せているとは誰も思うまい。私も思わなかった。
眠る前に感じた切なさの余韻なんて何のその。何がどうしてこうなったのかさっぱり分からない現状こそが、私の心をかき乱す。
床が天井になっていることは今更驚きはしないけれど、慣れる日は一生来ないだろう。
「………………どうして、降りなかったの?」
「お前達が寝ていただろう」
「…………どうして、私達起こさなかったの?」
「お前達が寝ていただろう」
「……どうして、ペロンペロンさんは完全無視なの?」
「煩かった」
それは分かるけれど、バスタブの中でアラインハンモックになったままでいる理由にはならないと思うのだ。たとえアラインが全く危なげなくハンモックになっていたとしても、いろいろ問題があると思うのである。
私は、手を背中に回し、トロイを揺すった。
「トロイ、トロイ-? おはよう、起きて。昨日遅かったから眠いと思うけど……」
これで起きなかったら、私の身体ごと揺すって起こすしかない。だけど、いくらアラインの力が強いと言っても一応は不安定な体勢だ。あまり振動を与えない方がいいだろう。それにアラインの上で暴れ回るのは申し訳ない。お腹の上に私とトロイが乗っているのにまったく「ぐぇ」っとなっていないのは本当に凄いけれど、だからといってお腹の上で暴れ回っていい理由にはならないのだ。
背中の上でぐずったトロイの動きがぴたりと止まり、引き攣った悲鳴を上げたのを聞きながらそんなことを考えていた私は、アラインがちらりと視線を流したことに気がついた。
「アライン?」
「六花」
「あ、はい」
「これから俺は、落下しながら左手でトロイを持ち上げ、右手でひっくり返したお前の腹にトロイを乗せ、そのお前ごと抱えて床に降りる」
淡々と告げられた内容を頭の中で咀嚼する。詰まった。水が欲しいところだけれど、生命維持の主役である水は、思考の詰まりには有効ではないので諦めることにする。背中で息を詰めたままのトロイを回した手で撫でながら、辿り着いた結論に大きく瞬きしてしまった。
「説明してくれたの?」
「俺が動くたびに、あれだけ心臓の速度を速めていたら、お前は死ぬ」
「死なないし、そこまで事細かに説明してくれなくても大丈夫だよ!? でもありがとう!」
「降りる」
あ、そこはいつも通り突然なんですね。
一晩お世話になったバスタブにあっさり別れを告げたアラインは、宣言通りの動きをしながら落下していく。ひっくり返されたお腹の上に乗せられたトロイを抱きしめ、私は引き攣った笑顔を浮かべた。事細かに説明してくれても、動作が突然だとあんまり意味ないんだよといつ伝えるべきだろう。
私とトロイを抱えたまま飛び降りることは何回もあったアラインだけど、今回は今までの中で高さが群を抜いている。六階建ての建物ほどの高さがあるのだ。そんな高さから私とトロイを抱えたまま飛び降りるだなんて、いくらアラインだって痛みを覚えるのではないだろうか。
それがとても心配だったけれど、下手に口に出してしまうと舌を噛んでしまうから口を閉ざすしかない。目と口をきゅっと閉じ、アラインの首に縋りつく。
結果として、アラインはいつも通り平然と着地した。とてつもなく長い梯子がなければ上の棚にまで届かない、とてつもなく背の高い本棚の上に着地したので、地面に着地するよりは落下距離が短くなっていたにしても、凄い。そう、これは凄いことなのだ。そろそろ自分の常識が壊れそうなので、これは凄いことなのだと自分に言い聞かせ、一般常識への軌道修正を図る。常識の基準をアラインに置くべからず。これは異世界で生きていく上で一番大切な心構えである。
私とトロイを抱えたまま、今度は本棚の上から飛び降りたアラインに、ペロンペロンは跳ね飛んで場所を譲った。そんなに頑張って避けなくてもアラインは彼を踏み潰さない位置に飛び降りている。だが、自分が彼の立場だったら転がるように逃げてしまうと思うので、彼の行動を奇妙に思うことはない。
「うぅ……酷いです、聖人様。私が一人ぼっちになっても、挫けずめげず、この奇っ怪な現象を調べている間、充実した時間を過ごされていたなんて、あんまりですぅ……」
めそめそ泣くペロンペロンを、トロイは奇妙なものを見る目つきで見ている。
「あの、六花さん……この人……人? は、何……誰? ですか?」
質問が盛大に彷徨ったのは仕方があるまい。だって、ペロンペロンな甲冑妖怪だ。喋って動いているにもかかわらず、間違っても中に人がいるようには見えない。中に人がいたら、確実に死んでいる。だからこその甲冑妖怪ペロンペロンなのだから。
あちこちがべこべこのペロンペロンになっている鎧は、存在自体が奇妙そのものなのに、この鎧、喋る上に動く。
質問するに際し言葉の選択を盛大に彷徨ったとはいえ、冷静に質問できたトロイは凄い。
「甲冑妖怪ペロンペロンです」
「はあ」
「べっこべこなのは、アラインが握り潰したからです」
「はあ」
「あ、ペロンペロンさん。この子はアラインの弟子で、トロイって言います」
とりあえず必要事項から伝えていると、鎧ががしょんと動いた。
「聖人様で、そのお若さでお弟子様を持ち、女性連れ! 人生の勝ち組! 羨ましい! 恨めしい! わたしなど鎧なのに! しかもペロンペロンなのに! ちょっと人間さんをからかいすぎて泣かせただけでこんな姿にされるなんてあんまりでございますぅ!」
「ペロンペロンさん……」
がしょがしょ泣くペロンペロンに、トロイは静かに声をかけた。泣きながら顔……ぐしゃぐしゃのかろうじて鎧の上に乗っかっている元は顔だった現在林檎の芯を上げたペロンペロンに、トロイは無邪気で可愛らしい笑顔を向けた。心なしか、ペロンペロンの顔部分が輝いて見える。
「僕も師匠みたいに握り潰すことが出来るよう日々精進しておりますので、次そんなことしでかしたら僕が潰しますね! 潰せなかったら解体しますので、よろしくお願いします!」
心なしか、ペロンペロンの顔部分が青ざめて見える。ぐしゃぐしゃに潰れた鎧の顔色なんて分かるはずもないので、きっと気のせいだろう。
小刻みにがしょがしょ震えるペロンペロンはそのままに、私とトロイは全力でアラインを説得して床に下ろしてもらうという作業を終えた。水を飲んで一段落立った頃になると、ようやくペロンペロンも落ち着いたようだ。
そういえば震えでがしょがしょ鳴っていた音が止んだなと振り向けば、何故か一冊の本を両手で抱えて前に突き出していた。
「………………」
「………………反応してくださいよぉ!」
ペロンペロンと無言で見つめ合った私は、訳が分からなかったのでとりあえず視線を外したら盛大に嘆かれた。そうは言われても、一言何か説明してくれないと反応しようがない。それに、相手がアラインやトロイなら「どうしたの?」とこっちから聞いて説明を促すところだけれど、トロイの前で泣かされた事実を暴露した上に泣かしてきた張本人に対し、向ける慈悲も慈愛も気遣いも存在しないのである。
「人間さんが酷い……せっかくこの不思議屋敷の謎解明に役立つ有力な手がかりを見つけたのに…………」
がしょがしょ泣いているペロンペロンは捨て置きたいけれど、その台詞は残念ながら捨て置けない内容だった。しぶしぶ本を受け取って、題名を読む。
「世にも奇っ怪な物語。何ですか、これ」
「世界各国の怖い話や不思議な話を集めた本です。有名どころからあまり知られていない地方限定の話まで、よりどりみどりです。これをぱらぱら読んでいて、思い出したんです。そこ、シオリを挟んでいる頁を開いてください」
張り切って集められているらしく、ずっしり重い本を一旦持ち直す。適当な持ち方をして扱える重さじゃなかった。半分から若干後ろよりの位置に挟まっているシオリを目当てに本を開く。
「えっと、ジュルジージャ伯爵の迷路屋敷」
「そう! かの有名なジュルジージャ伯爵の話ですよ! …………え? どうしたんですか、皆様。あのジュルジージャ伯爵ですよ? もっと驚いてくださっていいんですよ?」
わっと大声で話していたペロンペロンの勢いが徐々に削がれていく。アラインは私の手から本を抜き取り、ざっと目を通した後トロイに渡した。トロイももくもくと読んでいくが、特に何の反応もない。
そこで初めて、ペロンペロンは一つの可能性に思い当たったらしい。そう、目の前にいるのは人間ではないという事実だ。
「え……あの、まさか、ジュルジージャ伯爵をご存じない、なんてことは、ない、ですよね?」
アラインは無表情で淡々と答えた。
「初耳だ」
「嘘ですよね!? かれこれ三百年前の実話ですけど、有名どころ過ぎて皆聞き飽きるほど数々の劇や本や歌になっている、ジュルジージャ伯爵の話ですよ!? 知らない人間はそれこそ赤ん坊くらいって言われていますよ!?」
「初耳だ」
「嘘でしょう!? 聖人の皆様、人間の歴史に興味なさすぎじゃありませんか!?」
驚愕に戦くほど、どうやら人間の国では当たり前の常識だったらしい。
しかし、そんな風に全力で驚かれても、アラインは特に何も反応しないままだし、トロイももくもくと読んでいるままだ。小さな手では持ちづらそうな厚く大きな本だが、頁を捲る際は一時的に膝で支えて器用に読み進めていくので、いつも大きな本はこうして読んでいるのかもしれない。
それにしても、このペロンペロンの鎧に全力で驚かれるのは少々遺憾である。この鎧こそ、全力で驚かれる最たるものではないのだろうか。
「あの……本当に全くこれっぽっちもご存じではないのですか? なかなか眠らない子どもに親が話す定番の戒め話でもあるのですが」
まだ諦めきれないのか、そぉっと伺ってくるペロンペロンに、私達は顔を見合わせた。
「俺は生前の母親の記憶がほとんどない。父親に至っては生まれる前に死んだ」
「僕は捨て子なので、そもそも両親の存在を知りません」
「私は……この世に血縁関係は一人もいないです」
私は、正確に言えばこの世界じゃない世界に家族がいるわけだけど、そこまで説明する必要はないだろう。それに、どっちにしてもこの世界の寝物語を聞く機会はなかったのだから同じだ。
あんまりといえばあんまりな状態の私達を前に唖然としていたペロンペロンは、林檎の芯みたいになっている自分の顔を掌でがしょんっと覆った。どうやら衝撃の事実を聞いて打ちひしがれているらしい。当人である私達は一切落ち込んでいないのに、つらい事実を語らせてしまった……みたいな雰囲気で嘆いているペロンペロンは、意外といい人なのかもしれない。
ただし、勢いがつきすぎて林檎の芯が後ろに吹っ飛び、それをおいおい嘆きながら追いかけていく後ろ姿を見て、少し上がった株はその場で停滞した。