71伝 これ始なに
転がるように走り出した私は、すぐに出来損ないの息を呑んで足を止めた。
どこまで続いているのか、先が見えないくらい倉庫の先に、鉱物のきらめきが映ったからだ。それが甲冑だと気付いた瞬間、後ろを確認する。さっき走り出すまでそこにいた甲冑がいない。私の背後には、ぽかりと口を開けた細長い暗闇だけが延々と続いている。
訳が分からなくてまた視線を前に戻すと同時に、引き攣った声が漏れた。
「ひっ」
自分が吐き出した声が跳ね返ってくるほど目の前に、甲冑が。
さっき走り出せたのが嘘みたいに、体中の力が入らない。へたりと座りこんだ私の前で、甲冑の手がゆっくりと上がっていく。がちゃり、がちゃりと、鉄が擦れ合う音が酷く響く。音が、甲冑の中で反響しているのだ。持ち上がった甲冑の両手は、自らの頭部を掴む。
ぎっと一際大きな音がして、頭部が回る。そのままゆっくりと持ち上がった頭部の下には。
何も、なかった。
がちゃりと再び嵌まった頭部が、ぎっ、ぎっ、と、具合を確かめるように傾く。この甲冑から距離を取りたい。今すぐ逃げ出したいのに、足に力が入らない。へたり込んでしまったからずっと見上げている甲冑が、立っていたときよりずっと大きく見える。
甲冑の指がぎちりと歪に動きながら、私の眼前に迫った。
「誰の許可を得て、我が屋敷に潜り込んだ、小娘」
甲冑の中でわんわんと反響する声と連動するように、甲冑の両手の指が歪にばらばらと動く。壊れたからくり人形のように動いたと思えば、突如両手足がおかしな方向にがちゃりと曲がった。下手な人形師が操った糸吊り人形が踊り出したようだ。
誰も入っていない大きな甲冑が、目の前で壊れたように動く。手足が有り得ない方向に曲がりのた打ち回り、床を這いずったかと思えば、宙から糸を引っ張られたようにぴんっと飛び上がって直立不動となる。
これは、なに?
目の前でぎっと音を立てて、歪に動き回る指を再び私に向けた甲冑から逃げ出したいのに、小刻みな呼吸を吐くだけの私の身体はろくに動きもしない。
「誰の許可を得て、我が屋敷に潜り込んだ、小娘ぇ!」
これは、なに?
誰、だったら怖くなかったのかな。分からない。人でも、きっと、怖かった。
指が、ぎちぎちと音を立てながら眼前に迫る。私は、その指を避けるために頭をほんのわずかに下げることもできず、見たくもないのに目を見開いたまま、ずっとそれを見ていた。
「ふっ」
「え?」
甲冑から間抜けな声が漏れたけれど、私は止まれなかった。
「おと、おと、さん、ひっ、おか、あさん、アライ、アライン、うぇ、アライン、ひっ、うぇ、アライン、アライ、ひっ、う」
恐怖が飽和して、何も考えられない。怖くて怖くて、それだけでいっぱいになった私は、泣いたってどうにもならないなんて考えることもできず、引き攣った呼吸より余程滑らかに涙を溢れさせた。
がちゃがちゃと両手を振り、きょろきょろと周りを見ている甲冑の動きがさっきとはまるで違うことにも考えは回らず、ただいっぱいになった恐怖に泣き続ける。
「ひっ、う、アラ、アライン、うぇ、うっ、ひ」
「わああ! ごめん! やりすぎた! 久しぶりの女の子で嬉しく、て……? ひぃいい!?」
裏返った悲鳴が、甲冑の中でわぁんと響く。さっき私がしたかったように、甲冑の頭が何かから距離を取ろうとするように仰け反る。それを、私の顔の横から伸びた何かが追った。
白い、手だ。血管が透けるほど白く、骨が浮き出るほど細い。
「……お前、何してる」
アラインの、手だ。
アラインの左手が私の肩に置かれ、その上に俯いた頭が現れる。でも、足が、見えない。ぱっと振り向いた拍子に、ほどけかけた自分の髪が見えた。その髪を止めていた髪飾り、アラインが作ってくれた髪飾りの赤い石から、するりとアラインの身体が現れる。ぱちりと瞬きしたと同時に、ぼろりと涙が落ちて視界が霞む。
「ひぃいいい、お化けぇ──!」
お化けにお化けと叫ばれたアラインの右手が、甲冑の顔面を鷲掴みにする。
「すみませんごめんなさいやりすぎて泣かせましたすみませぎゃあぁ──!」
ごきゃっ。
変な音がしたと思ったら、連続して響いていく。アラインが、甲冑の頭部を鷲掴みにして、したまま、掌を握っていったのだ。
まあ、つまり、甲冑の頭部が握り潰されていくわけで。
「いやぁああああ! 俺もう死んでるけど殺されるぅう! すみませんごめんなさい好みの子がいい反応してくれるからつい調子のってぎぃあああああああ!」
甲冑の頭部はあっという間に、食べきった林檎の芯みたいになった。頭部と身体部分は連動でもしているのか、単に気持ちの問題なのか、頭部が林檎の芯みたいになったと同時に甲冑全体が、がちょりと崩れ落ちた。
へたり込んだままの私の前に崩れ落ちた甲冑を、ずびっと鼻を啜って見下ろす。床でがちょがちょ泣いている甲冑が少し哀れに……ならない。
こっちだってまだ床でぐすぐす泣いているのだ。元凶である甲冑に割く心の余裕は皆無に等しい。
躊躇なく甲冑の頭部を握り潰したアラインは、その場で回り右したと思ったら流れるように膝をついた。私と向き合い、じっと見てくる紅瞳を、べそべそしながら見つめる。
どうしよう、止まらない。震えは止まったけど感情を全力疾走で追い越して溢れだした涙って、意思の力でどうこうならないから困るのだ。
「六花」
「ひ、っく」
「俺は」
「う、ぇ」
「何をすればいい」
「ひぅっ」
「待て」
「うぇ」
「待てっ」
「うぁああああ」
「何をすればいいか言ってからにしろっ!」
再度大決壊した私の涙腺に、アラインが真顔で叫んだ。アラインに問われたら全部答えてあげたいのに、私はろくに言葉を返すことなく、力の入らない両腕を持ち上げた。ふよふよ持ち上げた手をいっぱいに広げた小さな子どもみたいな私を前に、アラインは微動だにしない。
それに構わず、ふわりと抱きつく。体当たりするほどの力が入らないのだ。全身の力が抜けて、悲しいわけでも悔しいわけでもなく、ただ恐怖の残滓で泣きじゃくる私に首根っこに抱きつかれたアラインは、やっぱり微動だにしない。
でも、抱きついたアラインが温かいからという理由で更に泣く私に、このままいても埒が明かないと判断したのか、ゆっくりと腕が上がっていく。
そして、私の後頭部を鷲掴みにした。
さっき甲冑の頭部を林檎の芯にした手が私の頭を鷲掴みにしている。ちなみに左手は浮いたままだ。
違う、そうじゃない。
多分いつもならそう思っただろうけれど、引き剥がされないのならもうなんでもよかった私は、アラインにしがみついたままわんわん泣いたし、アラインは私の後頭部を鷲掴みにした後は左手を浮かせたまま、微動だにせず再び状態だった。
ただし、床に這いずったままがちょがちょ泣いていた甲冑が、そろりと距離を取ろうとするや否や私を抱え込み、甲冑に向けて派手な踵落としを喰らわせた。
甲冑の腹部には穴が開いたし、床は無傷で不思議だったし、びっくりした私はまた泣いた。
そしてアラインは微動だにせず三度に移行したので、事態の収拾がついたのはもう少し先のことである。