70伝 聖騎士様ご一行→終一人様
「どうしましょう、師匠。一旦町まで戻るにもこの霧じゃ……」
いよいよ自分の手すら見えなくなってきて、私もトロイもマントを引っ張るのを止めた。だが、マントを掴むのを止めた訳ではない。マントをしかと掴んだまま、アラインに引っ付いているだけだ。
霧はますます濃くなり、見上げたアラインの顔すら見えづらい。私でさえそうなのだから、一番背の低いトロイからすれば、一番背の高いアラインの顔はもう見えていないのではないだろうか。それとも、聖人の優れた視力はこんな霧をものともせずに大好きな師匠の顔をしかと捉えていたりするのだろうか。
……あれ? その場合、視界が遮られて困っているのは私だけ!?
「来た時と同じ角度を、同じ歩幅で進めば戻れる」
「そんなの誰も覚えてないと思……アライン、もしかして覚えてるの?」
「特に面倒な道順じゃなかっただろう?」
「そういう問題じゃない気がね、するんですよね!」
「どういう問題なんだ?」
きょとんと首を傾げたアラインに、私はどう答えたら正解なのだろう。アラインも見えていなかったことが分かって、見えていないのは私だけかもという一人ぼっち感から解放された安心感? それとも、見えていなくとも全く問題に感じていないアラインが頼りになる安心感? これから歩くときは歩幅と角度を意識して覚え続けなければならない絶望感?
下手なことを答えて、それが世間一般の正解だとアラインが覚えてしまったら、私はその罪をどう償えばいいと言うのか。
「……トロイ、助けて」
「え!?」
情けない私から助けを求められた哀れな子どもは、慌てて周囲を見回した。咄嗟に話題を逸らそうとしている彼を咎められる者はここにはいない。
トロイの必死の努力は、思いもよらぬ形で実を結んだ。
「あれ?」
ぴたりと動きを止めたトロイは、目をすぼめて一か所を凝視した。
「師匠、あっちに屋敷が見えます」
「屋敷?」
「はい……あ、師匠からだと見えないかもしれません。下の方、ちょっと霧が薄いんです」
そう言われて、私はトロイより背が高い同士であるアラインと顔を見合わせ、ようとしたけど、アラインはさっさとしゃがんでいて見合わせられなかった。私の視界には、真っ白な霧しか映っていない。孤独をしみじみ噛み締めつつ、私もしゃがむ。トロイから憐れみに近い視線が送られてくる。きっと間にアラインを挟んでいなかったら、背中をぽんぽんくらいしてくれただろう。
そんな私とトロイの悲しみの同調を知ってか知らずか、絶対知らずに、アラインはトロイと同じ高さまで落とした紅瞳を細めた。
「確かに屋敷があるな。地図にはなかった」
「ほんとだー。でも、地図も何も、町の人この辺りなんにもないって言ってたのにね」
確かにトロイの身長までしゃがめば霧が薄くなっている。その先にぼんやり見える屋敷は結構な大きさがありそうだ。これだけ大きなお屋敷が「何もない」と言われる場所にあれば、標識代わりに使われるだろうに。
「さっきまでこんなに薄くなかったんですけど、急に晴れてきて。そしたらあの屋敷が見えたんです」
トロイも首を傾げている。
「来た時はなかった」
「え」
私とトロイの声が揃った。
「行くぞ」
「え」
私の声が引き攣った。
トロイは大変素直に「はい、師匠」と返事をした。こんなに可愛く素直な弟子を持てたアラインは幸せ者である。
アラインのマントをしっかと掴んだまま、屋敷に向けて歩く。思ったよりもすぐ傍にあった屋敷に、私の頬は引き攣った。
だって、こんなに近くにあったのに、霧が出るまでまったく気がつかなかったのだ。本当にすぐ辿りついてしまった屋敷を見上げると、嫌な予感しかしなかった。
少し古ぼけた屋敷を、大きな門の外から眺める。屋敷は、窓を数えると五階建てだった。しかも横にも広い。つまり、とても大きいのだ。霧が出た後ならともかく、霧が出る前なら遠くからでも、それこそ町からでも見えたと思う。
それなのに、今の今まで気がつかなかった。
それはつまり、すっごい怪しいということだ。
私の背の三倍はありそうな大きな門は、左側が少し傾いている。絡まっている蔦さえ枯れかけ、玄関との間に広がる石畳の道もでこぼこしていた。欠けた石畳の間からは雑草がぴんぴん飛び出し、恐らく噴水であろう場所は水どころか土が積もっている有様だ。
「……ほんとに入るの?」
傾いた門を何の躊躇いもなくあっさり押して隙間を作ったアラインは、私の小さな声に首を傾げた。
「俺達はこの霧の調査に来たんだ。原因かどうかはまだ分からないが、霧の直後に現れたんだ。関係はあるだろう」
「はぁい……」
「六花?」
「はぁい……」
心持ちいつもよりもっとアラインに引っ付く。アラインは怪訝そうにちらりと視線を向けてきたけれど、私を引き剥がしたりはしなかった。ありがたい。
トロイはきょろきょろと周囲を見回している。門を越えれば、霧は一気に薄くなった。けれど、その手は私と同じようにアラインのマントをしっかり握りしめたままだ。
「門の外はまた霧が濃くなってきましたね。何だか、霧に意思があるみたいで嫌な気分です」
「意思がある方が対処できる」
「それを言えるのは、自然相手にもごり押しで勝った師匠だけだと思います……」
どうやら、意思があろうがなかろうが対処してしまうらしい。流石アライン、凄い。凄すぎるから、ちょっと待ってほしい。
私は、この世界での常識の基準をどこに定めればいいのか、未だ迷っている途中である。
アラインを基準にしてしまうと、恐らく私はとんでもないことになる。かといって、アラインを指針にしているトロイを基準にするわけにもいかない。かといって、にこやかな笑顔でシャムスさんをぶん投げるエーデルさんも、豪快な笑顔でぶん投げられるシャムスさんという訳にもいかないだろう。
なかなか悩ましい問題を抱えたまま、私は玄関に向かって歩き出したアラインに慌てて引っ付いた。
玄関の扉は、門ほど大きくはなかったけれど立派なことには変わりない。埃り、蔦が絡み、どこか煤けていなかったら、さぞかし重厚な佇まいで鎮座していた事だろう。けれど今は、それらの要素が加わったことにより、おどろおどろしい雰囲気しか醸し出していない。
アラインはおもむろに拳を持ち上げて、ごんごんと扉を叩いた。
一秒、にびょ。
「入る」
「せめて三秒待ってー!」
確かに、どこからどう見ても人が住んでいる様子ではないけれど、万が一ということもあるし、何よりここは他人の屋敷だ。お願いだから三秒、せめて二秒に余裕を持たせてほしい。
私がめそめそしている間に、トロイが取っ手に手をかけて開けてしまった。汚れた取っ手を師匠に触らせないようにする健気さ。そこはほろりとする。するけれど、調査のためとはいえ現在侵入者に当たる私達はもうちょっと慎重に行くべきだと思うのだ。
霧が出るという情報しかなく、尚且つ突如として現れたお屋敷の侵入許可なんてどこにも取っていないのに、二人は特に気にした様子もなくあっさり扉を開けてしまった。鍵は!?
「六花、お前さっきからおかしくないか」
「…………」
「六花」
もじもじとしている私に、アラインは立ち止まって振り返る。ちなみに、この時もじもじされているのはアラインのマントだから、私が握っている部分だけぐしゃぐしゃになってしまった。帰ったらアイロンかけるから許して。でも、なんか不思議な術で焼き石用意しなくても使えるあの不思議アイロンの用意はお願いします。
「あの、ですね……」
「何だ」
「私、怪談はちょっと……」
「何が」
「怖いのは、ちょっとっ!」
「何が」
「何がって何が!?」
どうしよう。思い切って告白したのに、全く通じていない。
「怖いのが何なんだ」
「怖いのが苦手なの! 怖いから!」
「怖いから怖いんだろう?」
「だから、怖いから苦手なの!」
「だから、何が怖いんだ」
「お化け怖い!」
これがふざけているのならともかく、アラインは真面目だ。至極真面目に、全く分かっていない。
だが、これを分かってもらわないと私が困る。お化け怖い。怪談は苦手。これはかなり重要な要素だ。よく考えてみてほしい。泣き虫が怪談に強いわけがないのである。だけど、アラインには今一どころか全く分からないらしい。
「実体がない上に、そんなものいない……いや、欠片がある場合はどんな事態が現れてもおかしくはない。化け物が出る可能性も否定できない」
「余計怖くするのやめてください! あと、化け物とお化けはなんかこう、違うっ!」
「現時点で生物として成り立っているかいないかか?」
「なんか違う!」
「……実体があるか、ないか?」
「なんか違うけど、凄く真剣に考えてくれるアラインは好き!」
「怖いからどうして好きの話になったんだ。あと、好きの反対語は嫌いであって、怖いじゃない」
「もう行こう」
思わず告白してしまったけれど、全く通じてない上に、アラインは更なる思考の迷路に落ちてしまった。私も真顔になってしまったので、これもうさっさと行って、さっさと帰った方がいい。それと確かに、怖いの反対は好きじゃない。怖いの反対って何だろう。
そんなことを考えつつ、トロイが開けたまま待っていた扉を進む。
中は真正面に大きな階段があり、二階に続いていた。階段下の広間は、本来玄関にあるはずのない箪笥や、何故かバスタブまで転がり、埃をかぶっている。ひっくり返った本に、手の折れた人形、割れた花瓶、落ちたシャンデリア。屋敷の中を嵐が通り過ぎたような惨状だ。
案の定というべきか、誰かが住んでいるようには見えない。ほっとすべきか、逆に不安になるべきか。
「賊にでも入られたんでしょうか」
「物取りにしては貴金属がそのままだ」
アラインが指さした先では、床に倒れて蓋が開いてしまった宝石箱から、無造作に装飾品が転がり落ちている。確かに、物取りなら真っ先に持っていくだろう。
窓には厚いカーテンが律儀に全部かかっているみたいで、屋敷の中は薄暗い。開きっ放しにしている玄関からの明かりが届かない場所は詳細が全く分からない。
足の踏み場もないくらい様々な破片が散乱していて、歩くたびにじゃりっ、ぱりっ、と何かしらの音が響く。
「どうするの? 全部の部屋見て回るの?」
「一応そのつもりだ」
これだけ広い屋敷だから全部見て回るだけでも一苦労だけれど、アラインもトロイも最初からそのつもりだったようだ。
私もそのつもりで気合を入れよう。幸い、さっきの間が抜けた会話でお化け屋敷への恐怖心は多少なりを潜めている。この勢いでさっさと終わったほうが怖くない。
よしっと気合いを入れた私を、何か不思議なものでも見る目で見つめるアラインにへらりと笑った瞬間、大きな音と共に目の前が真っ暗になった。
「え!?」
背後から一際大きな風が吹き込み、辺りは闇に包まれる。
「あ、扉が!」
トロイが慌てて扉に取りすがったけれど、がちゃがちゃ取っ手が引っ張られる音だけが響き、一向に明かりが訪れない。
「トロイ、どけ」
全身でぶら下がる勢いで取っ手を揺すっているトロイから場所を変わったアラインは、何度か取っ手を引き、おもむろに片足を上げた。
そのまま凄まじい音をさせて蹴りつける。けれど、扉はびくともしない。
え、やだ。これって怪談定番の……。
何度か繰り返し、扉が開かないことを確認したアラインは、蹴りつけていた方の足を軽く振った。
「鉄くらいなら曲がるんだけどな。これは何でできているんだ」
「私、お父さんの基準ぶっ飛んでるってずっと思ってたけど、もう何が普通の基準なのか、よく分からなくなってきた。鉄って頻繁に曲がるんだねぇ」
「六花さん、錯乱しないでください! 師匠と六花さんのお父さんがおかしいんであって、普通は聖人も人間も鉄はそう簡単に曲げられません! 曲げられないために鉄を使うんです! 更に言うなら、この扉、別に鉄じゃありません!」
トロイがさっき扉にしていたみたいに私をがくがく揺さぶる。視界ががくがくするからなのかな。ねえ、トロイ。視界ががくがくするからだよね。
「ねえ、トロイ」
「はい?」
「さっき、そこにあった女の子の人形が、ない」
「はい?」
くるりと振り向いたトロイの頭の上に、さっきまで床に転がっていたはずの女の子の人形の首が落ちてきた。
「うわっ!?」
「きゃああああ!?」
二人同時に悲鳴を上げてアラインに抱きつく。
細くて骨の浮き出た身体を思いっきり抱きしめたはずが、返ってきたのは厚い胸板と、凍りつきそうな冷たさだった。
「……え?」
そろりと顔を上げると、そこには甲冑がいた。頭部まで完備されている甲冑が、かたりと音を立てた。
私、甲冑に抱きついている。甲冑に……凄い、この甲冑背が高いし、筋肉あるし、飛び上がるほど冷たくて夏におすすめアラインどこ!? ついさっきまでこんな所に甲冑なんてなかったよねアラインどこ!? アラインどこ!?
氷のように冷たい甲冑に抱きついてしまい、身体と心がびっくりしてうまくて足を動かせない。その間に、横で悲鳴が上がった。
「え、うわっ、気持ち悪い!」
「トロイ!?」
慌てて隣りを見たら、そこには壁しか存在しなかった私の気持ちを、十五文字以内で説明せよ。
「…………え?」
薄汚れ、剥げかけた壁紙と至近距離で向き合う。
べたりと掌をつけても、それは幻でもなんでもなく、ざらりと埃っぽい硬さが押し返してくる。今度はべんべんと殴りつけてみた。けれど、やっぱりびくともしない。
「え?」
吐息のような自分の声がやけに響き渡った。それ以外は物音一つしない。耳を澄ませてもしんっと静まり返っている。幸い目は薄暗さに慣れてきたけれど、真夜中を彷彿とさせる静まり返った建物の中というものは、怪談を苦手とする者にとって、もっともまずい代物だ。
「……アラ、イン?」
何だ。
淡々とした、いつもの返事を期待して呼びかけてみたのに、薄暗い室内には私の声がぽつりと落ちただけだった。
え、私、一人?
心臓がばくばくと鳴り、脳を圧迫するほどの恐怖がぞっと背中を駆け抜けた。
一縷の望みをかけ、そぉっと振り向く。もしかしたら、アラインかトロイが気絶して倒れているかもしれない。そうだ。もしそうだったら急いで手当をしないと。もし頭を打ったり、床の破片で怪我をしていてはいけない。
振り向きながら二人の怪我の可能性に思い至り、慌ててがばりと顔を上げる。
しかし、良くも悪くも、振り向いた先に二人はいなかった。
代わりに、両手を広げた甲冑がいる。
「え」
さっき私が抱きついたとき、甲冑の両手は大人しく身体の両脇に……。
私の方がさび付いた甲冑みたいな音を立てて、視線を落とす。何故か甲冑の全身を確認しようとした私の視線の先で、甲冑の足が、がちゃりと一歩踏み出した。
ひゅっと鳴ったのは、私の呼吸の成り損ないか、心の悲鳴か。
私、怪談駄目って言った──!
渾身の自己主張を心の中で絶叫したのを最後に、私の身体は勝手に全力で走り出していた。