68伝 始まりの子ども
どうしよう。泣きやまない。
ついさっき自覚した好きな人を前に、私は途方に暮れた。
アラインの持つ真珠色と同じほど輝く透明な雫がぼろぼろと零れ落ちていく。助けてお母さん。ついさっき自覚したばかりの私の好きな人が泣いています。
どうすればいいですか?
アラインが私の中に帰してくれた大切な人達に問いかける。母は親指をぐっと立て「分からぬよ!」といい笑顔で答えてくれた。私が分からぬよ! 助けてお父さん! 今度は父に助けを求めてみる。父は一度頷き「決闘だ」と静かに答えてくれた。
相談する相手を間違えた気がしてならない。
自分でどうにかするしかないと、視線を彷徨わせる。上げた視線の先から、ほろほろと黒白が降り注ぐ。私達がいる位置を中心として、離れていくにつれて濃淡がはっきりしていく。黒白なのに濃淡があるなんてと不思議だったけれど、濃い白も、薄い黒も、どれもが美しく絡み合う。子狸のように無邪気に絡み合うのに、決して混じらない黒白が天と地で絡み合っていた。その中心であり狭間である私達がいる場所では、天と地から降り注ぐ黒白が淡い中立地点を作り上げている。降り注ぐ淡さがこの場を作り、上下に散って濃くなっていく。
「えっと……ここ、どこ?」
「……知るか」
「ええー……」
ばっさり切られた会話が悲しい……わけではない。泣き止み方を知らないアラインに、なんだか肩の力が抜ける。この人が好きだなと、すとんと腑に落ちてしまった私は、腑に落ち過ぎてしまって今更態度なんて代えられない。好きだよと、伝えたいわけではないのだ。
何度だって彼に伝えた「好きだよ」と、いま自覚してしまった「好きだよ」は全く違う。愛されていると知ってほしい。そんな自分を知ってほしい。そんな自分を否定しないでほしい。その願いの形である「好きだよ」と、私を好きになってほしい「好きだよ」は、全然違うものだから伝わらなくていいのだ。いいのだけど、泣きやんでほしいという私の気持ちは伝わってほしい。
「……お前が、悪い」
伝わった上で叶うかどうかは全然別の話のようだ。
「えっと……なんかごめん」
「許さない」
「え!?」
いろんなことはどうでもいいと返してきたのに、やけにきっぱり許さない宣言をしてきたアラインは、どうやら本当に怒っているようだ。最後に取っておいたとっておきのおやつをひょいっとつまみ食いされた弟妹のような顔をしている。つまり、自分の持ち得る最大限の怒りと絶望をない交ぜにしたような、そんな顔。
「ごめんってばぁ」
「……簡単に死んでおいて軽いだろう」
「好きで死んだわけじゃ……ごめんってばぁ!」
すみません申し訳ありませんごめんなさい!
確かに思うがまま生きてほしいと思ったけれど、思うがまま素直にぼろぼろ泣いてほしいと思ったわけでは決してないのだ。
「というか、あの」
「……何だ」
「私あれ死んだの? 何があったか分からなくて、ほんと、それで……あの……」
泣かないでください……。
聞きたいことはいっぱいあるけれど、願いはそれ一択だ。尻すぼみになっていく私にアラインは深いため息をついて、袖で乱暴に自分のまなじりを拭いとった。……止まってませんよ?
既に流された分は拭われたけれど、追加分が流れ落ちていく様に焦る。けれど、なんの役にも立たず目の前でわたわたしていると睨まれたので引っ込むしかない。今はとりあえずこの話題には触れずにおこう。
すごすご手を引っ込める。
「状態を言葉にするなら死んだというのが一番近い」
「もうちょっとこう……易しくお願いします。いや、詳しく?」
「クレアシオンもエンデも、力の塊であり象徴だ。帝でなければ扱い切れない代物をただの人間の身に叩きこまれたら、当然もつはずがない。案の定、お前はクレアシオンに弾きだされて砕けた。個としての器をクレアシオンに明け渡した状態になったが、存在的には全く同等の力であるエンデが叩きこまれたことでクレアシオンとエンデに平衡が生み出された結果」
「私には全く理解できない事態となったことは分かりました」
易しくって言ったじゃないか、易しくって!
どんどん半眼になり、終いにはふよふよ飛び交う黒白の残滓を追い始めた私の視線にようやく私の限界を感じ取ったらしいアラインは、ちょっと考えた。
「お前の中に、クレアシオンとエンデが半分ずつ入っている」
「分かった怖い」
「残りは砕けた」
「分かった大事」
「お前も砕けた」
「分かった怖い」
「クレアシオンとエンデが完全に平衡状態となった現状が保たれているから、その隙に砕けたお前を掻き集めて元に戻した」
「分からなくなりかけたけど、なんとか分かった」
何をどうやってそうしたのかはさっぱりだけど、私が私に戻れたことは分かった。
あ、忘れてた。忘れちゃ駄目なこと忘れてた。
慌ててアラインの両手を掴んで見上げる。雨量が少し収まっていてほっとした。
「アライン、助けてくれてありがとう」
「………………」
「ごめんなさいごめんなさいごめんってばぁ!」
雨が降りやみ始めたなんて気のせいだった。ばたばたと顔面に降り注ぐ豪雨に、私も泣きそうなんだけどどうしよう。
今のアラインはどうやら色々振り切れてしまっているようだ。本当に小さな子どもみたいになっている。でも、初めて陥った豪雨を自分でも持て余しているかと思いきや、私が悪いので私がなんとかするのが筋みたいな態度だ。幼子でさえ堪えようとする涙を躊躇なく流すのはそれこそ乳児くらいなのに、お前のせいだからお前がなんとかしろと言わんばかりのこの態度。こんなの子どもじゃない……いや、逆にこれこそ子どもというべきなのだろうか。
そして、そんなアラインに怒りも呆れもできないのは惚れた弱みか。いや、惚れる前から好きだったからもうこれは降参するしかない。
いつもの無表情にぼろぼろと弾ける真珠だけを追加したアラインを宥めすかしてよいしょして。嘘は一切交えてないからよいしょじゃないかもしれないけど、とにかくなんとか涙を止めてからがようやく本番である。
はらはらと零れ落ちるのは、何もアラインから生み出される真珠色だけじゃない。
天から降り注ぐ黒白に、地から立ち昇る黒白。左から流れる黒白に、右から流れ去る黒白。どこを向いても不思議な光景しか見えない。
「結局ここどこなんだろう」
「クレアシオンとエンデの均衡の中だ」
「さっき知らないって言わなかった!?」
「……知るか」
「……こんにゃろう」
私のじとっとした目からしれっと逃れるかと思った視線は、同じじと目で返してきた。どうやら私への意趣返しだったようだ。私だって意図して死んだわけでも望んで砕けたわけでもないのに理不尽だと思わなくもないけれど、ぼろぼろ泣かせてしまった負い目と惚れた弱みがある。ここは私が大人になるべきだろう。だって私は、一応子どもであった自覚と、子どもを終え始めた自覚がある。いま子ども入学一年生みたいなアラインよりよっぽど先輩なのだ。
こんなとき、お姉ちゃんでよかったなとしみじみ思う。慣れとは得難い偉大な経験だ。
「なんちゃらかんちゃらの中って、よく分かったね」
「均衡。当人達に聞けば誰だって分かる」
「当人?」
鱗粉のような残滓を残して流れていく黒白をつっつくと、なんの感触もなくふわふわ散る。散るけれど、空気に溶け込むこともなくはっきりと色を保ったままだ。空気に色がついているのだろうか。かといって指につくわけでもない。これは一体なんなんだろう。
今度は丸い形になっている黒白のしゃぼん玉が流れてきて、それもつっついてみる。弾けるかなと思ったけれど、意外としっかりとした感触が返ってくる。つつかれた弾みで少し軌道が逸れた半分白、半分黒のしゃぼん玉を追った指が、さっきとは違う物に触れた。
「ん?」
人差し指の指紋をぴったり合わせているのは、同じ人差し指だ。白く細い指の先で、私のものより細くて長い綺麗な爪が光っている。
「……ん?」
「当人1。久しぶりだな、六花」
びっくりして動きを止めたもう片方の人差し指に、下から同じ感触が重なった。
「当人2。二人合わせて当人達。久しぶり、六花」
「んん──!?」
前から真珠、左から黒曜。説明と助けを求め、身体を捻っているから正面といえば正面だけど、今は右に当たる場所にいるアラインに慌てて視線を戻す。視線を戻しても視界の端に映りこむ美しい長髪。どうしてこの二人がここにいるのか、アラインは知っていたのかと聞くために向けた私の頬が、ひくりと引き攣る。
伸びている。どこからどう見てもアラインの人差し指が私に向けて伸びている!
「あ、ちょ、その人差し指どこに、無理、私の人差し指はもういっぱ、あ──!」
慣れとは得難い偉大な武器である。だからこそ、その慣れを持っていない事柄に関して、人は全くの無力なのである。
「エンデもクレアシオンも、私達を最後に持ち手がいない。これらはまだ私達の武器だから、欠片に混ざっている意思も私達のものが一番多いの」
「流石に何の足がかりもなく世界に存在は出来ないが、今は二本が中に収まっているから他の干渉なく繋がりやすいと、アラインには説明済みだ」
人を豚鼻にした張本人は、長い髪を流すままにしている二人の言葉に静かに頷いた。二人の言葉を肯定するより先に、私を豚鼻にしたことを謝るべきだと思う。正確には、私を豚鼻にしたままなのを謝るべきだ。
「なんで全員このまま説明始めたの!? 何か重要な意味があるの!?」
右手と左手の人差し指は二人と合わさったまま豚鼻にされて、美しい三人と向かい合っている私の気持ちを誰か分かってほしい。馬鹿にされているのならまだしも、まるで普通に手を繋いだり肩を抱いているような感覚で話し始められた豚鼻の気持ちを、世界中の人なんて贅沢は言わないからせめてこの三人にだけは分かってほしい。
振りほどこうと思えば振りほどけるけれど、事態が異常すぎて正常な思考が追いつかない。この体勢に何かしらの意味があるのかと自分を納得させる。だってここは異世界。目の前には、大事な友達と何故か三百年前に死んだはずの帝二人。なんの意味もなくこんなことをするはずが。
「意味? ないぞ? 桜良は?」
「私も特にない。アラインは?」
「勝手に死んで腹立たしかった」
「全くなんの意味もなかった!」
特に意味もなく変な姿勢と豚鼻にされたこの腹立たしさ。全部の手をべしりと振り払った私を怒る人はいなかったし、怒っていたら怒り返す気満々だ。
無性に疲れてしゃがみ込んだ私に、何故か全員付き合った。しかし、何故私を囲んで座るのか。綺麗な三人全員が私を向いて座っているこのしゅーる感。かおす感も、きっと満載だ。お母さん、素敵な言葉を教えてくれてどうもありがとう。使い勝手がよすぎて泣けてきます。
三角形の中心に配置された居心地の悪さにお尻をもぞもぞさせる。近い。前にいるアラインの爪先と私の爪先が当たっている。そういえばこの地面、寒くも温かくも、固くも柔らかくもない。……え? これ何で出来てるの?
踵でとんとんと地面を叩いていると、左と、半周回った位置に収まり私の右側にいる人が足の裏に爪先を捻じ込んできて持ち上げてくる。……なんで?
「……何してるんですかね?」
「こんな穏やかな時間久しぶりだから、楽しいなって。舞踏会より押し入れにお菓子持ち込んで話すほうが好きなのよ、私。やっぱり王帝なんて向いていないったらないの。ねー、晃嘉」
「なー、桜良。友達なんてずっと増やせなかったしな。俺も会食より屋台回るほうが好きだ。統一性のない食事の楽しさは癖になる。アラインは何が好きだ?」
それと私の足裏持ち上げて体勢を崩させてくるのにどんな繋がりがあるのだろう。でも、ぺたりと坐りこんだ地面に長い髪を惜しげもなく流し、小さな子どもみたいに無邪気な笑顔を浮かべていたら文句も言えない。簡単に、小さな苦労みたいに話している内容が、どんな嘆きの中にあったかを知っているから余計に。
足裏を持ち上げられて揺れる身体を、地面についたお尻だけで保つ。後ろに転びそうだ。母直伝の「足ずもう」熟練者の私でも、流石に二人一遍にかかってこられるとつらいものがある。
そもそもこれはどういう状況なんだろう。私を貫いた二本を通したから桜良と晃嘉がここにいられるということは、なんとなく分かった。分かったけど、なんで三角形で囲まれているかはさっぱり分からないし、二人が何をしたいのかもちっとも分からない。
そして、アラインは何が好きかはもっと分からないのである。誰だって好きな人の好きな物を知りたい。私だって知りたい。思わず他の疑問を置き去りに、目の前のアラインに視線も意識も集中する。
アラインは、感情が浮かばない顔で動きを止めた。考えている。彼は今、考えている。自分の好きな物を聞かれて、めちゃくちゃ考えている。そして私は焦らされている。好きな人の好きな物の答えを、当人によって意図せずめちゃくちゃ焦らされている!
落ちてしまった沈黙に前のめりになっているのは私だけで、桜良と晃嘉はまあゆっくり考えてと気楽なものだ。
「六花は何が好きなんだ?」
「アラ、アマイモノデスネ」
「いま絶対何か言いかけた」
この黒白を何とかしてほしい。
肩を組んでくる美人二人に眩暈がする。美人に肩を組まれてほっぺをつけられても、どきどきどころかぐったりしてくるのは何故だろう。はしゃいでいる二人は大変可愛い。可愛いのだけど。
「森では何故か誰も私達を混ぜてくれなかった恋バナの匂いがする」
「何故か女性から恋の好敵手宣言されまくった恋バナの匂いがする」
「大変おモテになっていたようなのに全然羨ましくない匂いがする」
私も俺もと首を傾げあっている王帝と皇帝の雑談からは、いろいろと危険な匂いがぷんぷんする。
匂いといえばと、私は左右の二人に気づかれないよう鼻をすんっと鳴らした。これだけ密着されているのに、二人からは何の匂いもしない。触れられているはずなのに、温かさどころか冷たさも感じないのだ。
それが少し、寂しかった。
夢でだって見たこともない不思議な場所で、ちゃんと話すのは二度目の人達に肩を組まれているのに、緊張も動揺もしない。不思議な気持ちがないわけじゃないけれど、どっちかというと長年の付き合いの友達といるみたいにゆったりした気分だ。既に色んなことがいっぱいいっぱいだからだろうなぁと、ちょっと他人事みたいに考えていたら、生真面目にもずっと答えを考えていたアラインと目が合った。
「お前と寝るのは好きだ」
「んっ!」
「温かい」
「んんっ!」
吹いた上に咽たのに詰まった。聞かれたから考えて答えた。ただそれだけのアラインを前に、私は一人で大惨事だ。いや、別にアラインは悪くない。しかし私だって悪くないはずだ。好きな相手からのとんでも発言に全く他意がないと分かっているだけでも褒めてほしいくらいだ。
一人で大惨事を引き起こしている私を、肩を組んだままの黒白がその手で背を擦ってくれる。美人でモテモテな二人はきっと、とっても有効な慰め方を知っているはずだ。遣る瀬無いような飛び上がって喜びたいような、なんとも言葉にできない気持ちを持て余す私は、期待を込めて二人を見つめた。
二人は、神妙に頷く。
「六花、くしゃみは我慢しないで出しちゃったほうがいいわ」
「六花、しゃっくりは鼻を摘まんで唾液を飲みこめばいいぞ」
私は、咽て熱を持ってしまった肺と気管を自分の手で擦りながら、にこりと微笑んだ。
恋愛経験に乏しい私でも断言できる。
駄目だこの二人。
さてはこの二人、規格外すぎて恋バナに入れてもらえなかったんじゃなくて、恋バナに適してないから混ぜてもらえなかっただけなんじゃないだろうか。
トロイのほうが私の気持ちを分かってくれる。絶対だ。がっくりと項垂れ両手で覆った視界の中では、アラインの心の中で見たような新緑色の光がふわりと揺れる。ああ、トロイに会いたい。トロイ、私頑張って帰るから、戻ったら一緒に夕食食べようね。
きっと驚かせた。きっと怖がらせた。きっと、傷つけた。恐怖は勿論、驚愕だって傷になる。酷く傷つけてしまった小さな子どもに謝りたい。謝って、思いっきり抱きしめたい。言葉は凄く大事なものだけど、体温のほうが何百倍も雄弁なことだってある。これも、その類のことだ。
「六花、アライン」
桜良の柔らかな声に顔を上げる。紫色の瞳は、声音と同じくらい柔らかかった。
「ここは私達の意思が根付いた二本が生み出した狭間だから、時も命も廻り放題で私達もこうしていられるけど、そろそろ限界。私達がちゃんと送り出すから、きちんと時を巡っていってね」
突然のお別れに、息と一緒に「え」と縋るような声が漏れる。別れを引き延ばせないかと、言葉と同じくらいつっかえた無様な思考が空回りしていく。
「待って……待って、待って。えっと、そうだ、あの、伝言。シャムスさんとエーデルさんに。あと、あと、あの人、えっと」
「ヴァルト。ヴァルトだ、六花。俺達の可愛い弟は、ヴァルトというんだ」
桜良と同じくらい柔らかな緑と声音が、穏やかな笑顔を浮かべた。二人の表情も声音もとても柔らかいのに、私の心には焦燥ばかりが募っていく。なんだかもうずっと一緒にいるような気がしていた。両親やその友達のように、ずっと、幼い頃から傍にいてくれた大人のように。小さな頃から横で転がり回った兄弟のように、秘密を共有し合った友達のように、思っていた。思えてしまっていたのは、二人の瞳がどこまでも優しいからだろうか。
これが異常なことだと自分でも分かっている。分かっているけれど、まるで親元から離されたみたいに心許なくなるのだ。とっくに親元から強制的に離されて帰り方も分からないのに、今更だといわれても仕方がない心許なさが湧き上がる。
もっと話がしたいのだ。もっと知りたい。だって私は、二人のことを何も知らないのだ。それなのにさっきまではそんな焦燥欠片も思い出せなかった。離されると気づいて初めて思い出す焦燥。好きな色は? 好きな食べ物は? 話題はいつまでだって尽きないはずなのに、きゃあきゃあと笑い合う昼下がりのような会話だけが広がっていて。
「ありがとう、六花。でも、伝言は、したいけれどやめておく。俺達は世界に対して影響力がありすぎる。人伝の言葉一つでも均衡を崩しかねない。またあの頃と同じ程不安定な状態に戻っているから、一音発するにも無造作には出来ない」
「そう、なの?」
「ああ、下手に喋ると新しい崖か山が出来るかもしれない」
「崩れる均衡ってそんな物理的な形で現れるの!?」
心許なさから莫大な不安になった。晃嘉は、だから困ってるんだと長い真珠色を揺らして言うけれど、それ困ってるんだで済む問題じゃないと思うんだ。寧ろさらっと言われた私が困りまくってるんだ状態である。
眉根を下げた情けない顔になった私の胸に、もう一人の美しい人が触れた。
「だから私達は噤むのよ。だけど、外へは出さずこの中でなら比較的自由だから、困ったら呼んでみて。出られないほうが多いと思うけれど……アライーン? 自分には関係ないみたいな顔をしているけれど、貴方にも言っているから気づいて。お願いだから」
去りもしないけれど自分から混ざりもしないアラインは、突然呼ばれた自分の名前に首を傾げた。可愛いと思うのは惚れた欲目か世界の真実か。
「アラインは六花と繋がっているから、貴方の中もその範疇よ。忘れないでアライン、世界の子。私達は貴方を愛している。確かに、愛しているの。だから、呼んで。困ったら、私達を呼んで」
桜良は、まるで知らない言語を喋っている相手を見ているようなアラインに苦笑して、徐に両手を広げた。黒い艶やかな川が光を放って宙に揺れる。ふわりと優しい光の残滓を残してアラインに抱きついた桜良に、アラインがびっくりしていた。私だってびっくりしている。桜良に驚いたアラインと、同じ時に抱きしめてきた晃嘉に驚いた私の視線が、二人の背中越しにかち合う。
「愛しているよ、自由の子」
「愛しているわ、愛しの子」
私を抱きしめる人の体温は分からない。確かに触れ合っているのに、匂いだってしないのだ。温度も匂いも分からないけれど、ただ優しいということだけは分かる。優しく柔らかな、愛の塊のような抱擁。アラインに触れる桜良の腕も、きっと同じだ。だってアラインは驚いているだけで閉ざされていない。紅瞳は色を失わず、呆然と私を見ている。私を見たって答えなんてない。私だってびっくりしているのに、アラインは私を指針にしようとしているみたいだ。どうしたらいいか分からないとき、助けを求める術どころか、助けを求めることすら知らない人が、どうしようと私を見ている。じわりと胸に広がる温度は、気恥ずかしさと戸惑いと喜びだった。
「俺を探せ、アライン」
「私を探してね、六花」
温度のない柔らかさに抱きしめられて固まった私達に、美しい人はどこまでも優しい声音で言葉を紡ぐ。子どもを寝かしつける子守唄に似た静けさだ。
「困ったら呼べ。小腹が空いた時に最高のおやつの作り方教えてやる」
「眠れなかったら呼んでね。とっておきの飲み物を教えてあげるから」
牛乳にこれでもかと砂糖と蜂蜜を加えた甘いとろとろとした声音で、食いしん坊なことしか言ってない二人に、私は納得した。この二人、一生恋バナには参加できない気がする。
それなのに酷い安心感が襲ってくる。柔らかい声音は、彼らの全てで温かさを伝えてくれた。この人達を手放したら、置いてけぼりになったような心許なさを感じてしまうと分かっていた。
見惚れることすらおこがましく感じる綺麗な緑色が近づいてきて、額に柔らかな感触が触れる。
「君に幸いの始まりを」
「君に悪夢の終わりを」
とんっと、最早感触も分からぬ指に胸を押され、身体が傾いでいく。あっという暇もない。温もりは元から感じられていなかったのに、ぞっとする。身体が芯から冷えて、足元がばらばらになっていく気さえした。
寒い。寂しい。怖い。
必死に指を伸ばすのに届かない。倒れていく背面にあったはずなの地面なんてとっくの昔に通りこし、底のない世界に落ちていく。私を抱きしめていた真珠色の人の肩越し、黒い背中が見える。その向こうでは、見開かれた紅瞳が同じように落ちていく。
長い長い黒白が、穏やかな風に揺られて絡み合う。しかし、どんなにさらさらと絡み合っても混じり合うことは決して無く、はっきりと別たれた黒白が光を放つ。地面に沈み込んだはずなのに、視界は水面のように揺れていた。私は水底から美しい黒白の光を見上げて沈んでいく。もがく手は、横から伸びてきた白い手に掴まれた。ああ、そうだ。ごめん、私は一人じゃなかった。
「かならずまた」
「あいましょう」
いつの間にか酷くぼやけてしまっていた姿と声は、やっぱりびっくりするくらい柔らかかった。
ぐるぐる回っているのは周囲なのか私達なのか。どっちが上で下で、何が右で左で、どこが前か後ろかも分からない。分かるのは、はっきり分かれた黒と白と、私とアラインだけだ。
黒白の星が、黒白の川が、黒白の風が、黒白の光が、黒白の闇が、どこまでも続いている。流れていく中には植物や虫、動物や人間の形をしたものや、山や森、建物が紛れているようにも見えたけれど、どれも黒白の向こうを通り過ぎていってうまく形を掴めない。影が重なり光に隠れ、命の形は少しだけ遠かった。
落ちているのか上っているのか分からない、壁も天井も足場もない場所に放り出された身体は、狂ってしまいそうなほど不安定だ。それなのに、頭の片隅でそう思うだけで済んでいるのは、不安定なのに恐怖を感じないからだ。
だってアラインがいる。一緒に引っ付いているから、孤独ではないし、一人で漂う不安も実はない。
私の腰に回った腕の感触と温度は、はっきりしている。頬をつけた胸から聞こえる心音も、ベッドの中でずっと聞いていた音だ。でも、少し早い。
「アライン、怖い?」
抱き返している身体も少し震えている。どうしよう。私はアラインがいてくれるから怖くないけど、確かに私がいたところでアラインは安心なんてできないだろう。アラインが怖くなくなるような現状の打開策を見つけられるだろうか。
桜良はきちんと時を巡ってねと教えてくれたけれど、あっちに向かって進めと指さしてくれたほうが嬉しかった。いやでも、目印となる周りの風景がこれだけぐんるぐんる回っていたら方向を教えてもらっても無駄だったかもしれない。
……よし、ここからの脱出は一先ず置いておこう。
出来ること、出来ること。心の中でぶつぶつ呟いて思考を纏めようとしていると、ぽつりと言葉が降ってきた。
「王帝が」
「桜良がどうしたの?」
「お前と同じくらい柔らかかった」
その柔らかさが何を指しているのか。弱り切った子どものような紅瞳に思わず噴き出してしまう。抱きしめていた腕に力を篭めて、思いっきり密着する。馬鹿だなぁ、アラインは。
「晃嘉もおんなじくらい優しかったよ。だって私達は、アラインが大好きだもん」
「皇帝と王帝とは、初対面だ」
「でも、震えちゃうくらい優しかった。だからアラインは、そんなこと怖がらなくていいんだよ。大好きだって抱きしめられて、怖がらなくていいんだよ」
これからはそんなこと怖がる暇なんてあげない。ねえねえアライン攻撃で猛攻した私を嘗めないでほしい。これからはアライン大好き攻撃が待っているので、気を確かに頑張ってくださいと応援する。心の中で。
別に言ってもよかったのだけど、アラインがまた考え込んでいるので邪魔できなかった。考えることがいっぱいで大変だね、頑張ってー。頭も記憶力もずば抜けているから、考えたこと忘れずに着々と慣れていってほしい。無理しなくていいよとは思わない。こればっかりは、めちゃくちゃ無理してでも慣れてほしい。せめて、柔らかく愛をこめて抱きしめられて震えないくらいには。
「六花」
「ん?」
「俺は、お前に、同じくらい柔らかく触れられているか?」
いっぱい考え込んでいるなと思ったら、何を。何を、真面目に、いっぱいいっぱい考えていたのだろう。私は、勝手に力が入っていく目元と口角を窘められない。顔がぐしゃぐしゃになっていく。
「もぉおおおおお!」
「……俺はいつお前をベッドから引きずり落とした?」
「ちがぅぅううう!」
どうしよう。この人可愛い。私の好きな人、本当に可愛い!
普通なら顔見ただけで分かってくれそうなほど、私の顔面はぐしゃぐしゃの満面の笑みである自信がある。これは言葉じゃない方法で伝えたほうが良そうな案件だけど、相手はアラインだ。両方いるに決まってる!
思いっきり抱きついて、思いっきり気持ちを伝えた。
「アラインはいつでも優しいよ!」
「……そうなのか」
私の言葉を疑ってはいないけれど信じてもいない。それでもいい。ただ、知っていてくれたらそれでいい。
不思議そうな顔はしても、震えは止まっていて嬉しくなった。
流れるたくさんの景色にかぶさっていた黒白が薄れ始める。重なっていた形がずれて、後ろにあった景色がはっきり分かり始めたのだ。私より何倍も素早く周囲に視線を向けていたアラインを見ていたけれど、視界の端に真珠色が映って慌てて振り向く。
目が痛いほどに開いたのが分かる。思わず手を伸ばす。
「あ、え? あ、待って、待って!」
「六花、離れるのは、……」
必死に手を伸ばして離れかけた隙間を、抱えた腕に力を篭めることで阻止したアラインの声が途切れる。二人でそれを認識したからだろうか。流れていた景色が急速に近づいて、無音だった世界に音が広がった。
そこには美しい女性がいた。星のように輝く長い真珠色の髪を振り乱し、地面にうずくまって泣き叫んでいる。
『生まれてこなければよかったの』
白く細い、骨の浮き出た手は、地面に押し付けた子どもの首を締め上げていた。
幼子は、硝子玉のような真っ赤な瞳で女を見上げている。
『あなたは、生まれてくるべきじゃなかった』
何度も女性は同じ言葉を紡いだ。何度も何度も、まるで言い聞かせるように。
私を抱えてくれていたアラインの手から、ふっと何かが抜けた。力は変わっていない。変わらず私を支えてくれているのに、熱が散っていく。熱が去り、表情と一緒に冷えていく手を握り締める。落ちてきた視線にいっと歯を見せて、視線を前に戻す。笑いたかったけど、ごめん、うまく笑えなかったんだ。
私に向けられた言葉じゃない。いま生まれた言葉でもない。これはもう、ずっと昔に紡がれてしまった言葉だ。でも、聞いてしまえば、見てしまえば、いつ紡がれたかなんて関係ないくらい、生々しい痛みを齎した。
「あの、アラインのお母さん」
「六花、これは」
「過去だ、だよね。知ってる」
思ったより声が出なくて、もう一度息を吸う。張り付いた喉を拡張しながら通り過ぎた息に、声と気合を入れて吐き出す。
「私、アラインと会えて嬉しいです! ありがとうございました!」
女性は、当たり前だけど何も聞こえていない。聞こえていないも何も、このときこんな声はしていなかったのだから当たり前だ。でも、言いたかったのだ。誰のためでもないし、何の役にも立たないと分かっている。無駄でも、私は言いたかった。私が言いたかった。だから別に意味なんてないけど、私は満足だ。でも、勢いで願いを叶えてしまったから、アラインは見たくなかっただろうに無理やり付き合わせてしまったことは本当に申し訳ない。
謝ろうと見上げたアラインは、じっとお母さんを見ている。手が、温かく戻ってきた。
『生まれてこなければよかったの』
アラインのお母さんは、はらはらと泣きながら繰り返す。
『あなたを、産むべきではなかった』
この言葉は、知らない。
首を絞めていたアラインの胸に額をつけ、アラインのお母さんは縋るように蹲る。露わになった首元は、骨の形が浮き出て、悲しいほどに細かった。
『こんな世界に、あなたを産むべきではなかった』
覆いかぶさった真珠色は、小さな子どもを隠す。世界から見えないよう、世界を見せないよう、真珠色のヴェールで覆ってしまった。
『あなたはもっと、あなたを当たり前に愛してくれる世界に生まれてくるべきだった』
何度も何度も言い含められる言葉の続きを、初めて聞いた。呆然と見上げた紅瞳は、私なんかより何倍も見開かれていた。私を抱える腕が少し痛い。あれだけ確実に制御していた力が漏れ出している。
でも、止めるわけにはいかない。ねえ、アライン。聞いて。全部、これ、聞かなきゃ駄目だ。
『ごめんなさい、アライン……お母さん、弱くてごめんなさい……ごめんね、ごめんね、連れていってあげたほうがあなたの為なのに、分かっているのに、出来ないっ……』
身も心も切り裂かんばかりの悲痛な慟哭が、痩せ細った身体から絞り出される。震える身体に沿って揺れる髪が、きらきら光っていた。散る光はとても綺麗だったのに、涙にしか見えなくて苦しい。
アラインのお母さんは、ずっと泣いていた。
『守れなくてごめんなさい、ごめんなさい、あなた。約束したのに、私、あなたと約束したのに……ごめんなさい、私、ごめんなさい。アライン、私がお母さんでごめんなさい。こんな時代に産んでしまってごめんなさい。こんな時代でごめんなさい。こんな世界にしてしまってごめんなさい』
悲痛な声は、やがて誰に向けているのか分からない虚ろな譫言へと変化し始める。伝い落ちる涙は一向に止まらないまま、瞳が濁っていった。壊れていく。愛が、愛のまま、愛であるが故に、壊れていくものがある。
『……駄目よ、子どもを、殺すほうがいいだなんて思う母親なんて、駄目よ。そんなのはもう母親ではないわ。私は、傍にいる資格も、母親である資格もない。駄目よ……守れないのに、殺すだけなんて、駄目よ。私、アラインのお母さんなのに、駄目よ……アライン、待ってて。お母さんが守ってあげる。お母さんが、守るから。あなた、ごめんなさい。私、アラインを守るから。アライン、待っていて。すぐに、大丈夫になるわ。お母さん、お母さんからアラインを守るから、だから、安心して待っていてね。ああ、そうよ。それならきっと、やっと、きっと、きっと』
お母さん、坊やを幸せにできるのね。
美しい人は宝物を見つけた少女のように嬉しそうに笑って、ほろりと散った。
ぱしゃりと水が跳ねる。体温よりも少しだけ温かなお湯が頬にかかり、いつの間にか黒白が散っていたことに気が付いた。
視界いっぱいに広がるのは、色とりどりの花びらだ。この場に存在しない色なんてないんじゃないかと思う程、色がぎっしり詰まった花びらがお湯の中で浮いている。お湯はどこかとろみを帯びていて柔らかい。湯気の先には綺麗なタイルが敷き詰められた壁があるけれど、手を伸ばしたって届かないくらい遠かった。この湯船と浴室、凄く広い。
湯気で視界が少し霞んで、寝起きの視界みたいだ。みたいも何も寝起きだけど、いくら瞬きしても視界がすっきりしないのは絶えず発生する湯気のせいだ。甘い匂いの湯気は花の匂いが強いけれど、どこかお酒みたいな香りもした。
お城の浴室みたい。綺麗だなぁなんてぼんやり思いながら身動ぎした足を、何かが霞めていった感触がする。何故か指を動かすことすら億劫な身体を励まし、お湯の中から花びらを掻き分けて中を覗き込む。
「服……」
私は服を着たままだった。ほんの少し手足を動かしただけで揺れた湯の中で布が絡む。産毛を撫で上げていく感触がくすぐったい。くすぐったいのだけど、問題はそこではなかった。
ここはどこか分からないのは、まあ置いておこう。なんか最近こんなのばっかりだし、服を着たままお風呂に入っているのもその延長戦でいい気がする。優先すべきは、私のお腹に回っている私の物じゃない腕だ。
これは誰だ!? と背筋を冷たい汗が流れていくことはない。私は成長した。していい成長だったのかは分からないけれど、見慣れた騎士服に細い腕。これだけで誰だか簡単に分かる。
まあ、何がどうなってこんなことになっているのかはさっぱり分からないのだけど。
ちゃんと意識すれば、私が凭れている物はお尻の下の浴槽とは感触が違っていたし、私の足より断然長い足が身体を挟みこんでいる。花びらで見えなかった湯船の中のことが分かるくらいには、意識も身体の感覚もはっきりしてきた。
背中を放して、上半身ごと後ろを向く。けっこう大きな動きをしたのに、花びらはもさっと動くだけで湯船の中を見せてくれない。さっき掻き分けたときも思ったけれど、いったいどれだけの量を入れたらこうなるんだろう。
首まで浸かる湯量の中で、たえず身体をかすめていく花びらがくすぐったいけれど、服を着ているから身悶えるほどじゃない。
「アライン」
紅瞳が呆けている。どこかお酒の香りがする湯気に酔ったのだろうか。それとも湯あたりだろうか。私達はいったいどのくらいの時間このお湯に浸かっているのだろう。決して熱くはないとはいえ、長時間は入ればのぼせもする。
慌てて上半身だけじゃなく、全身の向きを変えてアラインと向き合う。
「どうしたの? 大丈夫? のぼせた? 動けそうにないなら私引っ張り上げるから……あれ?」
お湯から出ようとした身体がろくに動けないことに気づいた。酷く、重い。お湯から出た部分にずしっと重石が乗っかったみたいだ。ずっと走り続けた後みたいに身体が重くて、疲労とはどうも違う。けれどそれに似た鈍いだるさが全身を覆ってしまっている。なんだろうこれとがくがく震える手で浴槽の端を探すけど遠い。これ、個人宅の浴槽じゃなくて大衆浴場だろうか。
それはともかく、アラインの様子がおかしいのに、私がだるさに負けるわけにはいかない。足腰に気合を入れ、全力で上半身をお湯から出した。
「いっ……!」
目の中で雷が落ちた。
全身を走った激痛に思わず悲鳴が漏れる。頭の中では未だ落雷が激しく、目の奥でちかちかと光を放つ。痛い。体中が軋む。筋肉痛どころの話じゃない。身体をばらばらにして繋ぎ合わせたみたいに、全身が、あますところなく痛い!
呼吸すら激痛を齎す痛みに蹲ることも出来なくなった手首が引っ張られ、お湯の中に引きずり戻された。花びらの中に埋もれた瞬間、さっきまでの激痛が嘘のように消えた。変わりに、鼻の中に入ったお湯が痛かったけど。ついでにいうと、抱きしめられたわけじゃなくて手首を掴んで真下に引きずり降ろされただけなので、腕もすっぽ抜けそうだった。
「砕けた存在が定着しきっていないのに、湯から出てどうするんだ」
「……何分初心者なもので」
「……腕、抜けたか?」
「抜けてません」
そして、どうやら慌てたらしいアラインの力加減も初心者だった。
ひと騒動を終えたら、やっぱりどっと疲れてしまった。いろいろ考えるのが面倒で、嫌な顔されたら止めようと決めて甘えることにする。
そぉっと伺いながらアラインの肩に顎を乗せて、体重を預ける。アラインはさっきまでお腹に回していた腕を背中に変えただけで何も言わない。すぐに離れられるよう入れていた最後の力をほっと抜く。
さっきの動きで激しく揺れ動いたお湯が浴槽に当たって跳ね返る音だけが広い浴室に響いている。他に聞こえる音は、アラインの髪から落ちる水滴と、ぽつぽつと、聞かなくても教えてくれた現状説明だった。
ここはお城のお風呂で普段はエーデルさん達が使ってるとか、浮かんでいる花びらは町で売られていた綺麗な色をしたお酒の材料だとか、このお湯はそれだけじゃなくて他にもいろんなものが混ざっていて、魔術……じゃなかった術的ななんかそんな物が役に立って私を助けてくれているのだとか、アラインが一緒なのはアラインを通してそれらが私に届いているのだとか、いろいろ、本当にいろいろ教えてくれた。
正直、驚いた。教えてくれた内容だけじゃなくて、アラインが自分から私に説明してくれたことに驚いたのだ。
でも、余計なことは言わない。アラインはどこか上の空だった。独り言みたいにいろんなことを説明してくれる。事細かに、隅の隅まで。ずっと、これだけの情報を頭に入れていたのだろうか。誰にも話さず、聞かれることなく、ずっと音にしないまま仕舞いこんでいたのだろうか。
それは彼の気持ちも同じなのだろうか。ずっと、ちゃんとここにあったのに、音にされないまま仕舞いこまれてきたものが詰まっている。だって彼は頭がいいし、記憶力だってとんでもない。今まで口に出してこなかったたくさんのことが全部この胸に詰まっているのなら、それはとんでもない量になっているはずだ。詰めた分は吐き出さないと、きっといつか弾けてしまう。それはそれでいいと思うけど、一人で弾けるんじゃなくて、誰かに向かって吐き出してくれたらもっといいなと思うのだ。 ほんのり温かい甘い香りのするお湯に全部溶けてしまえばいいのにと思うし、口にして全部吐き出してくれたらいいのにとも思う。
そして、それが私だったらもっともっといいのになと、思う。
「……六花」
「うん?」
せっかくアラインが話してくれているのに、不届き者の私は自分の考えに夢中になっていて途中から聞いていなかった。慌てて返事をする。独り言みたいに話していたアラインは最初から私の返事を求めていなかったけれど、いまは私が返事を返すまで待ってくれていた。
「俺は」
「うん」
「あの人を」
あの人が誰を指すのか気づいて、返事が一拍遅れる。遅れた返事を、アラインは待たなかった。
「母さんと呼んで、よかったのか?」
「お、母さんでも、いいと、思うよ」
律儀に相手の返事を待って途切れなかった会話を、私が途切れさせてなるものかと、つっかえながら必死に返す。でも、それ以上言葉が出てこない。綺麗な人だったね、優しそうな人だったねと、思ったことはいっぱいあるのに、信じられないくらい胸が詰まって目の奥が痛いのだ。どうしようアライン。凄く痛い。やっぱり顔もお湯の中につけなきゃ駄目かな。でも、そうしたら息ができなくなるんだけど、今でも既にできなくなってきた私はどうしたらいいかな。
ゆっくりとアラインの身体が傾ぐ。背中に回っていた腕が二本になって力が篭る。丸い重みが肩にかかり、深い息を吐いた。
「そう、か」
「うん」
「そういう、ものなのか」
「うん」
私よりは大きいけれど、とても薄い背中に手を回す。私にかかる痛いくらいの力じゃなくて、お母さん達に教えてもらった力加減を心がける。覆って、引き寄せて、包み込んで。隙間を無くして体温を分け合う抱擁の仕方を、アラインもきっと知っていた。
「あまり、覚えていないんだ」
「うん」
「他の大人が俺を罵る言葉は全部覚えているのに」
「うん」
「あの人のことは、あまり、覚えていないんだ」
「うん」
「でも……そうか」
「うん」
「呼んでも、よかったのか」
「うん」
私は、この人のために何ができるんだろう。
頭もあまりよくないし、運動神経だってよくない。人生経験はまだ十五年。せめてアラインより年上だったらと思うけれど、思ったってどうにもならない。いくら悩んだって私は十五歳だし、いろんなことを上手に立ち回れるような賢しさもない。あっても小賢しさくらいだろう。
私はきっと、この先ずっと同じことを考え続けるんだろうなという予感がする。同じことを考えて、願って、祈って、悩んで。私の十五年と、もっともっとこれからの集大成をかけて、思い続けるんだろうな。
これが恋だというのなら、私が今まで恋だと思っていたものはどうやら違うようだ。こっち見てくれたら嬉しくて、ちょっと話せたらご機嫌で、引っ越す前にはちょっとだけ泣いちゃって。会えなくなったのは寂しいななんて呑気に思えたあの頃の自分に教えてあげたい。
別れが痛いこの想いこそが、恋だったのだ。そして、あなたのために何ができるだろうと、いくら抱きしめても足りないくらい愛おしいと思う気持ちを永遠と呼ぶ。恋と愛の違いはそういうところなのかな、なんて、知ったかぶってみる。
「ねえねえアライン」
返事は、耳元でくぐもって聞こえた。音になっていない震えだったけれど、抱きしめあっていたらちゃんと届く。私の言葉も世界になんて放たれなくていい。他の誰にも聞こえなくていい。紡いだ思いも言葉も、アラインにだけ届けばいい。
「好きだよ」
何度も何度も同じ言葉を繰り返すしか能のない私に、アラインは小さく笑ってくれた。