67伝 終わりの恋と始まりの恋
それは、闇でもなく、光でもなく。
まして透明でもなく。
私は、何か分からないものの中で漂っている。水で浮かぶようにたゆたうのに、水ではないとはっきり分かった。それがなんなのか分からないけれど、水ではないことは分かる。だって私は、それを知らないことを知っていた。それが、私の知っている何物でもないことを、私の何かが知っていた。
だが、その奇妙な世界は直接私に届くことは無い。柔らかで、温かな何かが私を包んでいたからだ。まるで母のようなその優しさに、私は安堵した。
だって、それが無ければ、きっと悲しすぎて死んでしまうから。
響くのは、二本の武器が見てきた記憶。二本が、主と共に過ごした軌跡の記録。
『じゃあヴァルト。森の見回り終わったら遊びにいこうね』
服を引っ張ったら足を止めてくれた姉に頭を撫でられて、少年は嬉しそうに笑った。
『あ、これ苦い。ねぇ晃嘉、これあげるから辛いの頂戴』
大人の目から隠れ、互いの苦手な物をひょいっと交し合った頭に拳骨が落ちた。
『晃嘉、いこう。一緒に、どこまでだって』
手を繋ぎ合わせ草原に立ち、黒白は世界を見据えた。
『どこでもいいよ。晃嘉がいるなら、晃嘉といれるなら……もう、どこだっていいから』
雨降る世界で身体を抱きしめ合い、黒白は灰色の世界で震えていた。
『キルシェは世界のものでも、桜良は晃嘉のものだから』
そうして手は離された。
『生きよう。生きて生きて生きて。私は貴方を想い続けるから』
これは、桜良。
『桜良? 眠ったのか。いい天気だし、俺も昼寝するか』
光溢れる丘で、黒白は夢を見た。もう終わっている夢を見た。
『ヴァルト、ヴェーウの大福食うか? え? いいのか? ネーベルがくれたからいいよ』
くしゃりと頭を撫でられて、兄に抱きついた少年は嬉しそうに笑った。
『非常事態だからこそ甘いものを摂取して疲れを癒すんだ』
二人だけの逃亡生活で、けれど二人は幸せだった。
『誰がそれを信じなくても、俺達だけは信じていよう』
いつか、きっとと。叶わないと知っていながら諦められなかった夢が、そこにあった。
『なぁ、桜良。世界は今日も美しいな』
手を繋ぎ、寄り添い、灰色の世界を見つめて。二人は別離を受け入れた。
『エリシュオンは世界にくれてやる。但し、晃嘉は桜良のものだ』
これは、晃嘉。
『私に触れるな。私に触れていいのは、私を抱いていいのは、貴様ではない』
少女は誰の手も振り払い、一人地界で立っていた。
『ラーヒ……ごめんね、ごめんね…………ごめんなさ、い……』
縋り、謝り続ける主を、守護獣である巨大狼は悲しそうに見つめて絶命した。
『貴方がいれば、それで良かったのに』
ぽつりと呟かれたそれは、許されない言葉だったが、少女の弟は何も言わなかった。
『あの日見たものと同じはずなのに、ね』
空を覆う美しい虹を、けれど少女は何の感銘も浮かべずに、視線から外した。
『もう、終わりたいのにっ……!』
これは、キルシェ。
『心を向けると本気で思っているのか? あいつじゃない者に、俺が?』
淡々と、無表情に、少年は臣下を見下ろしていた。
『愛してるよ、桜良。……愛して、いたよ』
少年は片方の瞳から涙を零した。それを悲しげに二人の大人が見ていた。
『なぁエーデル。俺達の罪は、いったいどこから始まった?』
腕に縋り、震え続ける壊された少年を抱きしめ、青い髪の青年は泣いた。
『ああ……狂えたら、どれほど…………』
誰の温もりも届かなくなった少年は、一人空を見上げた。
『俺達は、そうしなければならない二人なんだ。殺し合わなければならないんだ!』
これは、エリシュオン。
武器の記憶。
二人の想い。
二人が生きた、欠片達。
許されなかった、恋の慟哭。
それらは細かな映像となり、私の中を流れて過ぎた。次から次へと様々な情景が、閉じては咲いて、瞳の裏にまで流れ込んで去っていく。
誰もが幸せそうに笑い合う姿から、黒白が殺し合う姿まで。誰もが楽しそうに笑う食卓から、誰もが絶叫して涙している姿まで。
音が溢れ、声が溢れ、痛みが零れた。
喜びが溢れ、幸せが溢れ、絶望が満ちた。
何が今で過去なのか、分からない。己の瞳から一筋零れた涙だけが私に現実を教えた。震える身体を抱きしめて、溢れる涙を堪える術が分からなかった。
残された人々の手に落ちた二本の武器は、彼らの慟哭をも記録した。
けれど、もう聞きたくなかった。零れた涙をそのままに、顔を覆い身体を丸めた。息をするのも苦しいくらいの痛みが満ちていた。声も出ずに、涙だけが溢れ落ちていく。
温もりがほしかった。背中を包んでくれた、半身の温もりが。
こんな悲しい世界、一人では耐え切れない。
『嘘だ。こんなの嘘だっ……!』
だって、あの人達が。そんなこと。ある訳無い。
少年は、目の前の情景を信じないというように頭を振り続けた。
とても強い人達なんだ。とても優しい人達なんだ。いらないと言いながら、それでもきっと誰よりも。
世界を愛したあの人達が、世界に裏切られるなんて。
『兄、上……』
膝の力が抜け、地についた。身体が震えて、視界が真っ赤になって。
そして少年は、全ての終わりを見た。
『姉上――――――!』
少年の絶叫に答える声は、もう、無かった。
世界が救われたその日。
そこは正しく地獄だったのだ。
痛い? つらい? 苦しい? 寂しい?
違う。全部正しくて、全部違う。
悲しい。悲しい、悲しい、悲しい。
誰もが泣いている。胸を掻き毟り、泣き叫んだ慟哭が世界に満ちて、私を砕く。私の中にあったはずの何もかもが散っていく。世界の記憶が大きすぎて、ちっぽけな私があっという間に流されて……私とは、なんだろう。
私がいた。私はいた。それは分かるけれど、私がなんだったのか思い出せない。私はどんな声だっただろうか。そもそも声を発する生き物だっただろうか。私はどんな手足をしていただろう。そもそも手足のある命だっただろうか。顔は? 髪は? 色は? そんなものがある命だっただろうか。風のような、雲のような、水のような、そんな明確な形のない何かだったかもしれないのに、声を身体を探すなんて無意味かもしれない。
ああ、そうだ。私はそんなゆらゆらと揺れて風に溶けてしまうような……風とは、なんだっただろうか。風とは、雲とは、水とは。名前とは、言葉とは、命とは。なんだっただろうか。私とはなんだったのだろうか。
そもそも、わたしなんて、いたのだろうか。
思考が流れて、慌てて首を振る。首を、くびを、ふった? わたしはくびをふったようなつもりになっていたけれど、わたしはそもそもしこうをするようないのちだっただろうか。そもそもわたしはわたしとじぶんをよぶようなこたいだっただろうか。せかいのいちぶでせかいのひとつで、ああ、それすらもあいまいだ。
わたしはせかいのひとつだったはずなのに、せかいはわたしをはじくのだ。だってわたしのせかいはここではなくて、ここにはなくて。
だから、わたしはせかいになじめない。なじんでとけてしまえない。だからこのままはじかれて、ながれてきえていくのはあたりまえの。
「──」
なにかが、よんだ?
なにかが。
「りっか」
私を、呼んだ。
顔を上げるように、沈んでなんていなかったはずの意識が浮上する。明確な形を持たないはずなのに、それは確かに私の意識だった。私の形をしたものは、酷く温かくて首を傾げる。私が温かいはずはない。だって私は私の形を成していなかった。
だから、私が温かいのは私を包む何かが、誰かがいるからだ。
そうと気づいたら、曖昧だったものが寄り集まっていく。誰かがいる。誰かがいるから、自分の区別がついた。私には手がある。誰かとは違う手がある。私には足がある。誰かより小さな足がある。私にはお腹がある。誰かより柔らかいお腹がある。私には目がある。誰かとは違う色した瞳がある。私には口がある。誰かよりうるさい口がある。私には髪がある。誰かの色を持っていた髪がある。
誰かは、散った私を一つずつ寄り集めた。たくさんの違うものを除き、正確に私だけを掻き集め、一つずつ形にしていく。それ私の物だったの? と、不思議な気持ちになる私が知らなかった私まで、違えずに拾って撚っていく。
誰かが、私を戻していく。私に私であれと願ってくれている。その確かな事実が叫びだしたいほどの感情を呼び起す。喜びのような、泣き叫びたいような、衝動に近い感情に蹲る私を、誰かの温もりが覆った。何も繫がれていない手を握り締め、それだけに縋り、隙あらば崩れていく自分を堪える。
自分以外の何かが温かい。自分以外の誰かが温かい。何かを呼びたい。誰かを呼びたい。
けれど私は、私の口を取り戻してくれた誰かの名を思い出せない。思い出せない自分の名よりも焦燥が募る。自分の名を思い出せない事より何倍も大きな腹立たしさにも似た切望が湧き上がって止まらない。
呼びたい。誰かの名前を叫びたい。
そう願うのに、誰かは丁寧に丁寧に、まるで砂糖細工に触れるよう私だけを戻していく。
『りっか!』
お母さん、だ。そうだ、私はりっかだ。
『六花』
これはお父さんだ。そうだ、私は六花だ。
『六花』
これはお兄ちゃん。そうだよ、六花だよ。
『おねえちゃん!』
それで、これが弟妹達。そうだ、私はお姉ちゃんだ。
娘で、お姉ちゃんで、孫で、誰かの友達で、学友で、ご近所さんで、販売員で。
六花で、六花ちゃんで六花さんで。
甘いものが好きだよ。ちょっとなら辛いものも好きだよ。お風呂も好きだし、歌うのも好きだし、お喋りするのも好きだし、寝るのだって大好き。
すぐ泣く、もろい、細い、軽い、柔い。次から次へとつぎ込まれていく情報に頬を膨らませる。それは本当に私ですかね、あ、ちょっ、まっ。
停止も聞かず、彼の知っている私がぎゅうぎゅう押し込まれる。
そうだ、彼だ。誰かじゃなくて、彼だ。
どうでもいいものまでぎゅうぎゅうと詰め込んでくるのに、私が呼びたい彼の名前を渡してくれないこの人は、男の子……人……どっちだ。私よりちょっと年上の、彼。
大事な人達が私を呼ぶ声は返してくれるのに、彼が呼ぶ私の響きを返してくれない人。それが大事だと、思ってくれない人。
ふつふつと怒りが湧いてくる。そう、これが怒りだ。そして、痛みで悲しみで切なさで、喜びで好意で、感情だった。
彼が渡してくれない彼。渡してくれないだろうなと私は知っているから、死に物狂いになって自分で掻き集める。
自分に頓着しない彼。自分の評価や持ち物どころか、自分自身に頓着しない彼。頓着しないくせに、周りから押し付けられた理不尽な評価はすんなり受け入れて頑なにそうであると信じている所は直せばいいと思う彼。人を散々引きずり回してぼろ雑巾にしてくれたのに、今では普通に歩いているだけで骨が折れないかなんて馬鹿げた心配を本気でしている彼。力持ちのくせに、普通の抱き方を知らなかった彼。弟子に凄く慕われてることが心底不思議だと幼い顔をする彼。頭がいいのに無知で、無力じゃないのに自分が誰かに影響を与えるなんて思っても見ない彼。待つことを、合わせることを知らないだけで、本当はとても、そんなに優しくなくていいんだよと叫びだしたくなるほど優しい人。
髪の色は、銀に包まれた真珠色。そして、命の色した瞳がとても綺麗な。
私の好きな人。
「アライン」
私の中から溢れだした名前が音になるのと同時に開いた視界には、小さな子どもみたいに丸くなった紅瞳があった。
心の底からびっくりしたと書いてある顔に、肩の力が抜けていく。
視界の端々を流れていく黒白が気にならないといったら嘘になる。ここはどこ? 今はいつ? 私何があったの? いろいろ聞きたいことは私の中に収まっている。
だけど。
「アライン」
目を見開いたまま、音もなく泣いているこの人より大事なことなんて、この場所にはなかった。
散っていく花びらよりも静かに滴が落ちていく。花びらよりはらはらと、雪よりも深々と、宝石のような雫が次から次へと溢れ落ちる。泣かないでと言いたいのに、言いたくない。
アラインが感情を流す姿が、泣き叫びたいほど嬉しかった。人が泣いている姿が嬉しいなんて酷いにも程がある。しかも泣かせているのは私なのに、胸が張り裂けそうなほど嬉しくて堪らない。
両手を伸ばして、私より高い位置にある頭を胸に抱え込む。私の背中にも腰にも回る温もりはないけれど、されるがまま身を屈める姿が子どものようで子どもらしくない。
とろりとした真珠色の柔らかい髪ごとぐしゃぐしゃに抱え込み、その旋毛に頬をつける。胸が熱い。身の内も、外も、全てが熱くて苦しい。
好きな人が私の所為で泣いている。私のために泣いてくれている。
「好きだよ、アライン」
たぶん、彼には分からない。アラインは丁寧に撚り集めてくれた私の中に、アラインを返してはくれなかった。分かっているから自分で掻き集める。全部全部、一つも零さずに取り戻す。
死に物狂いになったって手放さないこれは恋なのだと、アラインは知らなくていい。
幼子のように止めどなく涙を流すのに、幼子でさえいつの間にか覚えていく泣くことへの気恥ずかしさを全く持たないアラインは、泣き方を知らないのだ。泣き方を知らず、止め方を知らず、助けを呼ぶことも知らず、縋ることも知らない。そんな人に向かって、自分に恋をしてくれなんて言える人はいないだろう。アラインはたぶん、恋より先に愛を知るべきだ。
理解しなくていい。ただ知ってほしい。理解の範疇を飛び越えて、空気よりも当たり前に感じてほしい。自分に向かう愛を信じてほしい。
私だって恋が何たるかを知っているほど大人じゃない。愛だけは溢れんばかりに貰ったから少しは知っているつもりだけれど、上手にあげられるかは分からない。
だけどきっと、アラインのために大事なものを捨てられるこの気持ちは恋なのだと、彼が世界中の皆に愛されますようにと願うこの気持ちは愛なのだと断じられるくらいは、分かっているはずだ。
抱えた旋毛に唇を落とす。口づけと呼ぶには長く、温もりを分け合うには短く。
「アラインが、好き」
全部なんて知らないし、知らなくていい。
今はただ、好きな人の涙を止められる分の愛だけ知っていればそれでいいと思うのだ。