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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章 始まりの絆 終わりの恋
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66伝 はじめての熱







 一度遮られた視界が再度開けたとき、空は高かった。遮るものがなく風が抜けていく空に閉塞感はなく、凍えるような寒さもない。けれど、既に暮れた陽のない地上は、先程までいた地界と大きな差がないようにトロイは思えた。


 アラインは、ここが地界ではないことも、自分達が現れたと同時に異物が滲み出てきたかの如く開いた人の輪も、どうでもよかった。どうでもいいとすら思うことすらなかった。

 熱いのか寒いのか。自分が感じる温度の判別がつけられない。己を流れる血液が燃えるように凍りつく。頭の中で何かが轟々と音を立てて流れ、外の音が何も聞こえない。自分は何か音を発しているように思えたのに、その声すら捕えられなかった。

 ただ、自分達の周りから他者の気配が消えたことで、攻撃的な感情は鎮まる。残ったのは、ぽっかりと広がる恐怖だった。




「六花」


 アラインの腕の中からずるりと一本の腕が落ちる。


「六花」


 腕に引きずられ、バランスの崩れた身体はがくりと揺れた。長い髪を滑り落とし、首が折れる。黒髪の下から現れた頬は死者の色をしているわけではなかったのに、どう探しても生き物の温度を見つけられない。


「六花」


 感情が溶け込まない水のような声で、アラインは繰り返す。地面に広がった夜空よりも深い黒は、星を持たず夜の闇に飲まれる。六花が紛れていく。生者の色も温度も持たない身体が、夜に、闇に、飲みこまれていく。

 いつもの少女なら、その瞳に持った晴れで夜の闇に紛れはしないのに、固く閉ざされた目蓋は開かない。晴れが閉ざされ、命までもが閉ざされた。


 駆け寄ってきた双龍に、トロイが泣きじゃくりながら何かを訴えている。何度もアラインと六花の名前を叫びながら、ひきつけを起こしそうな声で必死に救いを求めている。

 アラインは腕の中から滑り落ちた身体をじっと見つめ、もう一度その名を呼んだ。


「六花」


 応えはない。

 泣いても笑っても怒っても、いつだって光を放った瞳は閉ざされた。いつだってアラインを呼んだ唇は閉ざされた。機嫌よく小さく流れる歌声でさえも、血の気が失せた肌の下に消えていく。

 命が足りない。そう、アラインは気づいた。

 死んだわけではない。だが、生きてもいない。



 火綾は、六花の中にクレアシオンを沈めた。その名を持って、封印したのだ。その入れ物に一番良かったのが六花だっただけのことだ。その結果六花が死んだとしても構わなかったのだろう。

 奪われなければ、それでよかったのだ。誓約の品を奪われさえしなければ、闇人はエンデを受け取ることができるのだから。

 一度封印してしまえば、それを取り出すのは封印を施した本人ではなければ不可能だ。だから六花の中に封印してしまえば、たとえその宿主が命を落としても何の問題もない。中に入っているクレアシオンによってかろうじて形を保っている宿主が、取り出すことで壊れていたとしても、火綾にとって何も問題ではなかった。


 ただ彼の予想外だったのは、リヴェルジアがエンデを手放してでも六花を救い逃がした事と、二本の錫杖が砕けた事だ。封地は完全には成立せず、六花の形はかろうじて保たれた。

 そもそも、クレアシオンほどの存在を身の内に沈められては、人間よりも神に近いとされる聖人でも意識は保てない。闇人では魂から壊され、よくて狂人になるだろう。人間なら尚の事。その場で死亡してもおかしくはなかった。

 だが、六花は異世界の民だ。この世界で作られたものに何よりも影響を受けない存在だ。そして、彼女を守護するのは、この世界の神ではなく異世界の神だ。神々の力の差など知りようがないが、かろうじててあろうが六花が存在しているということは、六花の神の力は、この世界の神に劣ることはないはずだ。

 だから、足りないのは命なのだ。六花を保つ、命が足りない。


 アラインは、何の躊躇いもなく自らの腕を噛みちぎった。


 凍りついた悲鳴が上がった。空気が凍りつくような地界の夜で上げようとした絶叫が、喉が張り付いたかのような引き攣った悲鳴が、あちこちで上がる。

 それら全てが意識に潜り込まないアラインは、栓のない瓶を傾けたように赤がぼたぼた零れ落ちる傷口を六花の口に捻じ込んだ。


「飲め」


 魂を欠けさせる方法を、アラインは知らない。欠けさせて渡す術を一つも知らないのだ。いま、彼の持ち得る全ての中で、渡す術を知っている命はこれしかないのだ。


「飲め」


 生命の動きを止めた唇からは、飲み下されることのない血液が溢れ出る。

 酷い量の血液が溢れだし、元よりいいとは言えなかったアラインの顔色が夜闇の中でも分かるほど悪くなる。だがアラインは、薄開きだった六花の口をこじ開け、もう一度腕を噛ます。


「六花」


 六花を繋ぎ止める術を、アラインはもうこれしか思い浮かべられなかった。



 必要なら全部飲めばいい。血で足りないなら肉と骨も持っていけばいい。魂を割る術を知っていれば、アラインは躊躇いなく割った。割る術がないのなら、全部だって。

 目の前で六花が散ったのだ。呆然と、幼子のようにきょとんとして、六花は壊れていった。いつだって理解できないほどあっさりと抱きこんだアラインが、あっけなく散らされて追いだされた。そして、六花は砕かれたのだ。

 アラインの目の前で、六花が死んでいく。この腕の中にいたのに。ちゃんと抱えていたのに。


「アライン」


 大きな手に肩を引かれるまま身体を起こす。腕が外れた口からは赤い血が溢れだし、傾くと同時に流れ出ていく。命が染み込まない。六花の中に命を送り込む術を見つけられない。


「今ならまだ間に合う。エーデルについて……アライン、大丈夫だ。大丈夫だから」


 肩にあったシャムスの手が頭に回り、張った胸に顔を押し付けられる。大きな手はアラインの顔を覆ってしまったが、アラインは抵抗しない。シャムスは黒の消えた頭にごつりと顎を乗せ、困ったように笑った。


「まだ死んでねぇぞ。だから、泣く理由はどこにもねぇんだ、アライン」


 他人だけが上げる動揺のざわめきを聞きながら、アラインは知らない熱が頬を滑り落ちていくことにようやく気が付いた。





 守りたかったのだ。アラインは、六花を持っていたかった。だから、ちゃんと守りたかったのに、アラインは守り方を知らないのだ。歩くだけで転びそうで、転ぶだけで折れてしまいそうで。眠るだけで泣きだしそうで、走るだけで泣きだしそうで、離れるだけで寂しいと泣きじゃくるこの存在を、守る術が分からない。

 それでも、アラインはこの温かいものを守りたかった。金を服を寝台を、色を血を命を二人で割っても、全て渡してもよかったのに、守る術を見つけられない。


『ねえねえアライン!』


 守り方を知らないアラインは、自分の守り方も知らなかった。六花が聞けば怒り狂いそうなことでしか守る方法が思いつかない。アラインは何も知らないのだ。得ることも失うことも、喜びも恐怖も、孤独も怒りも愛しさも。それでも。


『私、アラインが大好き!』


 それを実行すれば六花が怒るかもしれないと、泣くかもしれないと。思考の中をほんの少しでも過ったほどには、六花はちゃんとアラインに伝えられていたのだ。






「アライン、六花に触りますよ……自分で運びます? 分かりました。では、ついてきなさい。手当をしたいところですが、もういっそその血も混ぜ込みましょう」


 六花を抱えようとした途端、何も言わない視線が追い続けてくる様子にエーデルは苦笑した。

 アラインは、肉を抉り取った腕も当たり前のように使い、二本の腕で六花に触れた。抱きかかえる際に地面と生じるほんの少しの摩擦でも怪我をするのではと恐れているのか、砂糖細工に触れるときでさえもう少し思い切ると呆れるほどに細心の注意を払っている。

 ただの入れ物になってしまった少女の身体は、溶けかけた砂糖細工よりも大事に抱え込まれた。


「シャムス、後はお願いします」

「おう、任せろ! だが、一人は寂しいからトロイは俺が頂いた!」


 既に一人では立てなくなっているトロイは、ライテンに支えられても座り込んでいた。それでも、シャムスの言葉にぎょっと目を向く。立ち上がろうと必死にもがくが、震える身体は支えを得てもすぐに、子どもの身体をぺたりと地面に落とした。


「ま、待ってください、ぼく、僕も、師匠、待って、六花さん、が、待って」


 溺れるように喘いだトロイを、シャムスは片手で簡単につまみ上げた。そして彼の師の顔すら覆った大きな掌で小さく丸い頭を抱え、自分の額にそっと、彼なりにそっと、ごつりとぶつける。


「おう、六花もアラインも大丈夫だ! 大丈夫になるためにも今は留守番だな!」

「そ、それ、今は大丈夫じゃ、ないですっ!」


 泣きじゃくりながらも、トロイはきっぱり言った。

 当人である師匠には発揮できないものの、本来トロイは口数少ない師匠に鍛えられて、大人相手に怯まぬ物言いが出来る子どもなのだ。


「シャムス様、シャムス様! トロイを、トロイを返してほしいざます! トロイはジャスティン家が預かるざますでございます!」

「お、いいのか?」

「当たり前ざます! むしろ、他の家に預けるなど言語道断ざまっす!?」


 シャムスの周りをうろちょろして必死に言い募っていた、生まれの関係上慣れざるを得なかったもう一人の子どもは、突然降ってきたトロイに潰された。

 要求通りあっさりトロイを手放したシャムスは、潰されて尚必死に受け止めようとしているライテンに満足げな息を吐いて、思いっきり吸った。


「よし、とりあえず日も落ちたし、十二歳以下のガキ共は飯食って風呂入って寝ろ! 十三以上は今日はもうちょっとだけ頑張れな! 騎士見習いは明日から全員休みだ、実家帰って遊べ! 事態が事態だ、式典は中止! 人間も闇人も教会も、てめぇら皆帰れ! 邪魔だ! 団長共はちょっと来い、地界との連絡要員選ぶぞ! 以上、全員動け!」


 一人の男から発せられたとは思えぬ声量で一気に言い切られた指示に、さっきまでの動揺をくるりと仕舞い込んだ騎士と聖騎士達が一糸乱れぬ礼を残して散り始める。

 力の抜けた身体でも反射的に礼を取ったトロイは、それでも師を追う視線を止められなかった。師は振り向かず、血を流しながら半身を大事に抱えていく。足早に進むエーデルに遅れぬよう大股で、けれど抱えた半身を最低限揺らさないようにしていると見るだけで分かった。

 自分は邪魔だ。トロイは伸ばしかけた手と言葉を飲みこんだ。


「トロイ」

「はいっ」


 聞こえるはずのない声が自分を呼んで、考えるより早く返事を返す。

 師は振り向かない。ずっと、この人は振り向いたりしなかったし、トロイは声をかけられなかった。


「待っていろ」

「っ、は、い!」


 その一言があれば、視界が滲んでも、息ができなくても、トロイは待っていられる。視線がなくとも、繋ぐ手がなくとも、たった一言、師がトロイにくれた言葉があれば、いつまでだって、ちゃんと待っていられる。

 トロイは必死に涙を拭い、自分の力だけで立ち上がった。服についた泥や汚れを簡単にはたいて身なりを整えると、心配そうな顔をしているライテンに向き直って頭を下げる。


「お世話になっていいの?」

「勿論ざます!」

「僕、満足なお礼はできないけど」


 ライテンはむっと頬を膨らませて、トロイの頬を抓った。


「トロイはジャスティン家が、次期当主が招き入れた客人から金をとるような家だと思っているざますか。それこそ無礼ざます。でも、どうしても言うならば我と遊ぶことが対価ざます。楽しみざます!」

「……課題もしようよ。でも、分かった。それじゃあ」


 トロイは綺麗に背を折って頭を下げた。


「お世話になります」

「お世話するざます」


 師についていくことも、この場で聖人としての手伝いができないことも、自分では力も知識も技術も足らないからだ。これ以上言い募って邪魔をすることも、帰省指示が出た騎士見習いの自分の帰省場所がないと余計な手間を取らせることもできない。

 トロイはもう一度ぐしっと鼻を啜って、師匠達が消えていった入口を見つめる。

 待っていろと言ってくれた。師は、待っていろとちゃんと言ってくれた。

 だからトロイは信じて待っている。変わった師匠と、師を変えてくれた人が、二人で「いつものように」楽しそうにトロイを迎えに来てくれるのを、早く早くと焦がれながら、ちゃんと待っている。

 だから。


「……頑張ってください、六花さん」


 あなたが変えた師匠の責任を取って、ちゃんと抱きしめに戻ってきてください。

 トロイは、師匠泣いちゃったんですからと六花に告げ口できるまで、もう泣かないでいようと決めた。ぐいっと目元を擦り、大きく息を吐く。

 待つのに夜ほど向かない時間はない。けれど、ちゃんと待っている。また、いつの間にか自分にとって「いつも」になった日常が戻ってくるまで、もう泣かないのだ。

 戻ってきても泣かないと言えない自分がちょっと情けないけれど、優しい六花はきっと許してくれるはずだ。六花が目覚めた時はちゃんと並んで順番を待ち、師の次に抱きしめてもらうのだと、トロイは小さく鼻を啜った。






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