65伝 終わらされたもの
「火綾の名に置いて、この地を封地となす!」
赤霧を吐き出しながら言葉を叩きつけた火綾を殴りつけたリヴェルジアは、倒れ込んだ長身を確認せず、エンデを持った腕を振り被った。
「…………あれ?」
がくんと足の力が抜ける。足だけじゃない。手も、首も、身体の力が入らない。私を抱えていたアラインの手がなかったら倒れ込んでいた。そのアラインの手にも力が入っていなくて、後ろ向きに倒れる私を支えられていない。でも、手も、回した腕も外す気はないらしく、一緒に地面に膝をつく。私みたいに力が入らないのかなと心配になったけれど、私を抱える腕が小刻みに震えていて、ああ、違うんだと安心した。怖がらせたのは本当にごめん。でも、違ってよかったって何故だか思った。
私の胸から錫杖が生えている。でも、おかしい。痛くない。それに、アラインの胸を通り抜けているはずなのに、アラインも私も服が破れていないし、血も流れていなかった。
トロイが、アラインが、錫杖を掴むのに、二人の手は錫杖をすり抜けてしまう。どんどんどんどん、錫杖が私に入ってくる。そう、入ってくるのだ。貫いたはずなのに、もうとっくに私の身体を通り越して先が出てくるはずなのに、私の背中には錫杖の先っぽすら出てこない。後ろなんて見えないはずなのに、自分の背中が見える。私が見える。見えてしまう。
ぱんっと小さく何かが弾けた。アラインの髪飾りが砕け散ったのだ。広がった私の髪から、真珠色が散っていく。蝶が飛び立つみたいに、鱗粉を振り撒くみたいに、黒い世界に綺麗な真珠色が飛んで行ってしまう。私の中からアラインが消える。錫杖が入ってくるにつれて、アラインが追いやられていく。
私を見ているはずの私は、真正面のアラインも見ている。私はどこにいるんだろう。私はどこに行くんだろう。
アラインの髪から黒が散っていく。アラインの中から私が消えていく。待って、いかないで。必死に手を伸ばすのに、身体はちっとも動かない。
私の中のアラインも、アラインの中の私も、錫杖が入ってくるにつれて散っていく。断たないで。お願いだから、私達を断ってしまわないで。嫌だ、こんなの嫌だ。断たれるのは寂しい。だって、だって私。
アラインが大好きなのに。
私が散っていく。私の中が裏返って、別物になっていく。私の中身が追いやられて私が消える。砕けた私が散って、入れ物だけになっていく。
寒さも熱さも分からない。音も、もう何も聞こえない。私が私から遠ざかる。私はもう私の物ではなくなった。だって私はもう砕けてしまった。
ああ、それなのに。それなのにどうしてだろう。
「りっか」
舌足らずの幼子のような声が聞こえる。光を失っていく水色を真ん中に映した紅瞳が見える。もう、その手の温かさも、胸の薄さも感じられないのに、傍にいてくれるのが分かって、泣きたくなるほどほっとする。
白銀が半分収まった私の身体に、アラインを貫き、トロイの手に一線の赤を描いた黒金が突き刺さったのを最後に、私は途絶えた。
エンデは、寸分の狂いなくクレアシオンの上に重なったはずだった。だが、相反する種族そのものである二本の錫杖が重なることは決してなく、反発しあう磁石のように別たれる。薄い少女の身体を貫いた二本の錫杖は、ちょうど半分の長さを残し、少女の背から生えていた。
高い位置から薄硝子の塊を落としたような、澄み切った音が響き渡る。音は尾を引いて響き渡るのに、時は確かに止まっていた。
薄い身体を貫き、まるで一対の翼のように生えた錫杖が砕け散る。止まった時の中で、破片は宙に留まっていた。薄い花びらが、羽が、停滞する風の中で漂うように、無数に散った黒白は決して触れ合わず、宙に留まっている。ふわりふわりと黒白が揺れた。世界の色は二色に染まる。既に砕けた黒白の音だけが世界に満ち、澄んだ硝子音が尾を引いていた。
それでも、アラインは光を失った水色を求めて音を発した。自分の声とは思えないほど頼りない舌足らずな音で、少女を呼ぶ。
「りっか」
いつもうるさいくらいにアラインを呼んだ少女を。アラインが呼べば必ず応えた少女を。
当たり前のように目線を向けて、当たり前のようにその水色にアラインを映し、当たり前のように笑った少女に、もう一度その当たり前を望んで。
「六花」
応えない六花の頬を、さっきまで真珠色だった一房の黒が滑り落ちると同時に、時が散る。停滞していた黒白が世界に散っていく。地界の天をも貫いて、地上の空に昇った。
地から降る光の雨は、さあさあと霧雨のように淡い光を放ち、ふわりふわりと立ち昇る。そして、風もないのに流れ星のように散っていく。世界に散りばめられた欠片達を、地界でも地上でも、その瞳に収めない命は一つしか存在しなかった。誰もが手を伸ばす。何物もが黒白を追う。手足を持たない植物でさえ、枝葉を目一杯伸ばし、季節外れの花を咲かせる。花を散らせ、葉を散らせ、同じ風に乗ろうとする。それは命の本能だ。魂に刻まれた責務であり、義務であり、恋慕にも似た懇願だった。
黒白の光の中を、黒い裾を翻し、リヴェルジアは足早に駆け寄った。世界中で唯一、ただ一つだけ、光を追わなかった紅瞳の横に膝をつく。そして、アラインの腕に抱え込まれた六花に手を伸ばす。命という芯を失った身体はくてりと投げ出され、散った命の影のように髪飾りを失った黒髪を広げていた。しかし、リヴェルジアの手は六花に届く前に凄まじい力で叩き落とされた。
人の肌が打ち付けられた音とは思えない酷い音に、トロイは抗えない力で引き寄せられていた視界と意識をはっと下ろした。
言葉ではなく全てを切り裂かんばかりの唸りを上げ、太陽より凶悪な光を放つアラインに、リヴェルジアはすぐに両手を胸の前に上げ、更に掌を広げて見せた。
「分かった。触らない。約束するよ。君の大事な女の子に触ったりしない。だから落ち着くんだ。片翼を失えば気が狂う。当たり前だ。それは君の半身だ。けれど、大事な、大切な子なんだろう? 半身だけの、それだけの関係じゃないんだろう? だったら、耐えろ。ただ神が定めただけの関係なら、捥ぎ取られた瞬間に死んでる。でも、違うんだろう? だから、失いたくないなら僕の話を聞くんだ。その子を助けたいなら、僕の話を、声を聞け」
抑えられないのか、抑える気がないのか。アラインの周りは陽炎で揺らめいている。熱が触れてもいない肌を焼く。トロイは師の瞳に確かにあったはずの光が、影となっていく様に息を飲んだ。熱に乾いていくはずの瞳がじわりと潤む。嫌だ。どんな師匠でも最後までお供する気持ちは、どんなことがあっても変わりはしない。けれど、嫌だ。師匠が楽しいほうがいい。師匠が嬉しいほうがいい。トロイは、何も持とうとしてくれないこの人に、何も失ってほしくなかった。
「死んでない。いいか、その子はまだ死んでない。だから、君は砕けるな。絶対に、何があろうと。いま、君だけがこの子の芯だ。この子を構成する核の断片が、世界中で君の中にだけ存在する。だから、君が砕ければこの子はもう戻れない。……狂うんじゃない! いいか、狂うな。狂うなよ。片翼としても、それ以外の何かとしても、失いたくないなら絶対に折れるな」
慎重に言い聞かせるリヴェルジアの顔面から、ぼたりと赤黒い血液が滴り落ちる。ついさっき刻まれたかのような刻印に、トロイは湧き上がる悲鳴を飲みこんだ。
痛みに顔を歪めたリヴェルジアは舌打ちする。
「アライン・ザーム、君の中にいるその子が最後のその子だ。君の中に抱え込んだその子しか残っていない。だから、送り返してやるんだ。そして、君をくれてやれ。君の力を、心を、この世界で生きてきた君を、その子が再構築する糧にするんだ。あいつはその子を封地にしいた。封地は、それを定めた奴にしか解けない。まして封じた物が物だ。聖人でも闇人でも耐え切れないものが人間の中に収まるはずがない。その子は今、ただの器だ。封地であるから原形を保っているだけで、封地を解いた瞬間砕け散る。だけど、クレアシオンが全て収まる前に、エンデで相殺した。クレアシオンとエンデで、ちょうど一本分。真逆の存在を同量にして発生したのは無だ」
リヴェルジアは顔面を押さえたまま立ち上がった。指の隙間から溢れだした血液が腕を伝い落ちていく。その血を踏みにじるように、だんっと強く振り下ろされた場所に丸い陣が現れる。淡い光を放つ陣は、見たこともない文字で描かれていた。
「地上に送ってあげる。後は、エーデルに聞くんだ」
自分は二歩下がって陣から降りたリヴェルジアは、指先を跳ねた。触れていないはずの陣は弾かれたようにアライン達の足元に滑り込んだ。羽虫が耳元で飛び回るような音が湾曲して聞こえて、トロイは思わず片耳を塞ぐ。音が大きくたわむ瞬間、足元の陣から溢れる光も強くなった。
怖くなって、師が抱きかかえる人の裾を握り締めようとした手を慌てて止める。さっき師は、六花に触れようとするリヴェルジアに牙を剥いた。自分が敵ではないとはいえ、許されるとは限らない。触ろうとした行為を咎められることを恐れ、半歩離れる。さっきエンデが掠った手が痛み、泣きだしそうになってぐっと堪えた弟子の胸倉が無造作に掴まれた。師の小指が顎に触れていて、トロイは追いつかない理解を一度の瞬きに篭めた。
一歩も動かないどころか体勢すら変えていないアラインは、掴んだ弟子を引きもどし、そのまま抱え込んだ。
ぐつぐつと煮えたぎるのに、底なしの穴に延々と落ちていく喪失感。皮を剥ぎ取られ、肉を捥ぎ取られ、骨を削り取られる感触が身の内に渦巻く。あるべきはずの激痛は存在せず、代わりに不快な感触が蠢く。激痛で紛れない分、身の内を掻き回す異様な感触が鮮明に感じ取れた。
不快感の中で煮えたぎる激情と熱に溶けだしそうな思考を必死に繋ぎ止める。このまま身を委ねれば、この不快な感触から逃れられると、知らないはずの事実をアラインは知っていた。手放せばいいのだ。何も持っていない自分にあるのは、この意識だけだ。自分という意識を、そうあろうとする意思を手放してしまえば、苦痛も不快も全て自分のものではなくなる。この不快感から逃れられるならそれでもいいと、それがいいと何かが囁く。
だが、アラインは頭を振って囁き声を振り払う。腕の中の『何か』を更に深く抱きこみ、無意識に伸ばした腕に『何か』を掴み直す。
何かを、持っていた。何もなかった腕の中に、アラインは確かに何かを抱えていた。
臓器が捩じり上げられ、血液が逆流していく様が克明に神経に伝えられて思考を刻む。本来ならばどこかで遮られるはずの部分が丸出しになり、堪えるための何かが丸々消え失せている。全てを薙ぎ払って燃やし尽くしたい。
狂うなと、そう言ったのは誰だったか。これが狂うということなのか。こんな凄まじい感触を、おぞましい不快をアラインは知らなかった。分からない。分からないけれど、アラインは何かを抱えている。何かを、何も持とうとしなかったアラインから離れなかった何かを、腕の中に抱えていた。
不快を薙ぎ払えば、この何かも一緒に振り払うだろう。
それは、駄目だ。してはいけないのだ。してはならない。
したくは、ない。
何故。何故? 何故。何故?
まだ、持っていたいからだ。
渦巻く不快の中に、それまでは存在しなかったものが湧きだした。否、きっと存在していたのに、自分が気づけなかったのだ。降って湧いた強制的に与えられた不快感とは違い、同じ強制的でも身の内から湧き出すそれは、アラインが作りだしたものだった。
その感情の名を、人は恐怖と呼んだ。
うわんっと一際大きくなった羽音の中に、腕の中の二人が自分を呼んだ声が聞こえた気がした。
闇人の気配が集まってくる。さっき散々騒ぎまわったので、居場所が知れたのだろう。
リヴェルジアは三人の気配が消えたのを確認して、もう一度足を打ち付ける。先程とは文字が違う陣が現れた。下から溢れる光に照らされ、リヴェルジアの黒い着物に白い影が這い上がる。
「……お前、正気か?」
頭蓋骨を陥没させるどころか砕くほどの力で叩きこんだにも拘らず、頭をぐらつかせただけで意識を復活させた男に、リヴェルジアは隠す気もなく舌打ちした。
「死ねばよかったのに」
「首の骨を折ったところで死なんさ……自分が何をしたか分かっているのか? たかだか人間の小娘が一人死んで、忌み子が一人狂うだけだ。それなのにエンデを砕くなど気でも違えたかっ、ヴァルト・ケラソス!」
突如地面を突き破り首に向かってきた根を、火綾は頭を傾けることで避けた。死にはしないが、痛みはあるのだ。動いたことで喉の奥に引っかかっていた血の塊が転がり出てきて吐き捨てる。
「それとも、聖人の子に自分を重ねでもしたか。だが、あれの師が忌み子である以上、喪失は既に決まっているぞ」
「ああ、そう。だから?」
二本の錫杖は、世界そのものだ。神の意志であり、聖人であり、闇人である。けれど、聖人と闇人の象徴である、兄と姉の心そのものでもある。火綾はそれを封じようとした。自分だけが解ける封地にクレアシオンを閉じ込め、エンデを手に入れようとした。
どうして許せるだろう。エンデを地界に閉じ込めることを、クレアシオンを火綾の支配下に置くことを。両者を教会の手に委ねることを。火綾が、教会が、地上が、地界が、不条理を常識として理不尽な虐げを正義だと胸を誇ることを、どうして、この自分に許せると思ったのか。
握りしめていた掌を開いたリヴェルジアに、火綾の目が見開かれる。掌の中で淡い光を放つのは、二色の欠片。世界の欠片。
「少なくとも、どちらの欠片も残らなかったお前の手には、エンデを持つ資格はないんだよ」
再び握りしめた欠片は、熱も冷気も感じられない。宝石の欠片より怜悧で鮮やかに光るのに、花弁よりも軽く柔らかいとさえ思ってしまう。
「ヴァルト・ケラソス」
名乗らなくなった名前で呼ばれても、リヴェルジアは答えない。視線すら向けず、二色の欠片を握り締めた己の掌を見つめている。
「咎人となっても進むか。ケラソスの名を捨ててまで、堕ちるか」
ようやく視線を上げた青年の表情が徐々に変わっていく。瞳孔は開くのに瞳は細まり、片方の口角だけが吊り上っていく。
「命が尽きるまで」
凄絶な表情の何倍も憎悪が篭った声音を最後に、男の姿は掻き消えた。
陣と共に消えた男がいた場所を見つめていた火綾は、緩く頭を振り、穴の開いた腹を押さえて立ち上がる。
ふと血塗れの掌を見遣れば、そこには何もない。白銀はもとより求めてはいないが、焦がれ、望み続けた黒金も。乾いた笑いが漏れる。
そうまでして厭われるか。欠片となってもこの手に残らぬほど、この身を拒まれるか。
「キルシェ様……」
誰より、何より美しい王は、どれだけ記憶を遡ろうと、どれだけ己の妄想で取り繕おうと、薄い笑みすら浮かべない。夢の中ですら、冷たく静かな瞳で唇を閉ざす。
火綾の王がこの地界で感情を浮かべたのは、彼女の片翼であった巨大な狼と、食事をとらなくなった彼女のために連れ去ってきた森人の前だけだった。
『命が尽きるまで』
かつては小さな子どもだった男はそう言った。その命は、何を指しているのか。
彼の命か。
それとも、この世全ての命か。
ようやく集まってきた闇人達の鎧の音を聞きながら、火綾は深い息を吐いて閉ざされた点を見上げた。光を放つ植物によって作り上げられた低い夜空は、根が貫いた場所が崩れ、所々欠けている。
どの命を指していても、変わるものか。火綾が為すべきことは決まっている。この世に生まれた命は咎人を許してはならないのだ。男が何を憎もうと、何を目指そうと、何を許さず、何を愛そうと、殺されるべき大罪人だ。
咎人は、忌み子と同様、この世に存在してはならぬのだから。
そして、恋慕の先としても、仕えるべき主としてもただ一人と。この世全ての頂点と定めた彼の人に愛された恨み妬みを重ねると、どうしたって殺さない理由など見出せなかった。