63伝 終終荷物
冷え切った鼻先をぐいっと手の甲で擦る。ぴりぴりと痛いのは、冷え切ったからか、さっき泣いたからか。
頑張ろう。そしていつかアラインの泣ける場所になれたら、私はたぶん、大事な物を捨てられる。
その理由も意味も考えられないのに、不意にそう思った。
「鼻、痛みますか? 六花さ、っ!?」
心配してくれたトロイの語尾が跳ねあがった。声が引っ張られると同時に、私の首筋に酷い負荷がかかる。ぶちぶちと千切れたのは、後ろに回していたマントの合わせ目だ。
中にため込んでいた温かい空気がマントと一緒に引き千切れ、霧散する。凄まじい力で引きずり出されて地面に投げ出された。何が起こったか分からない。擦りむいたのか打ち付けたのか分からない痛みに前面が支配される。必死に両手で地面を探るけれど、腕の中から奪い取られた小さな身体が見つからない。冷たくざくざくとした苔が凍りついた霜柱を掻き分ける。
「トロイ!」
叫んだ拍子に冷たい空気が肺の中に潜り込み、貼りついてしまう。引き攣って咽こんだ呼吸を無理やり飲みこんだ唾で流し、もう一度叫ぶ。
「トロイ!?」
必死に呼んだ私に応えたのは、小さな子どもの声ではなかった。
「奇妙な気配がしていると思ったが、色合いまで奇妙な上に……女、貴様は盲目か?」
低い声。知らない男の声だ。
声のした方を向いたって当然何も見えない。嗅覚で状況を判断できる能力が鍛えられていない以上、残るのは手の感覚と聴覚だ。視界が塞がれ、残った感覚が研ぎ澄まされる。自分の心臓の音が邪魔で舌打ちしそうになる。止まったら困るけど、止まってほしい。聞こえない。トロイの声が、聞こえない。
耳に届くのは、りんりんと鳴る涼やかな音と、衣擦れと。掠れて途切れ途切れの、呻き声。目を見開いて、音のする方に駆けだす。目の前に壁があるかのような錯覚に勝手に竦む身体を叱咤する。ぶつかったって構わない。トロイに届けばそれでいい。
「成程……盲目は後天的のようだ」
「誰っ、やめて、トロイに何してるの!?」
トロイの声は、男と同じ場所から聞こえていた。後先考えられず、反射的に飛び掛かった私の両手は当然のように宙を切る。そのまま足を引っかけられて、自分の勢いで倒れ込む。じゃくじゃくと霜柱が砕け散る。いつもは、固くもろいそれらの感触を楽しんでいたけれど、今は意識の端にすら上らず、撒き散らして起き上がる。
「トロイを離してっ、トロイを返して!」
寒さと痛みでじんじんかじかむ手を伸ばす。けれど、どれだけ宙を彷徨わせても裾一枚触れられない。
「王帝陛下より託されたこの地界に入りこんだ異物が、闇人頭であるこの俺に命ずるか。俺には貴様らを排除する義務と権利があるのだぞ。まして、聖人の子など、真っ先に縊り殺すに値する」
耳が本能的に拒絶する、肉が、骨が、軋む音が強くなる。そして、トロイの掠れた呻き声が。寒さとは別のもので歯が鳴り、身体が震える。これは、殺気だろうか。男から溢れだす殺気が、何も見えないのに痛いほど身体を撫でていく。
この男は、暴漢じゃない? 闇人頭といった。それが本当なら、確か地界での双龍みたいな役割の人だ。偉い人。力と権力を持った人。この場所の、規則だ。たぶん、規則を破ったのは私達だ。私達の意思ではないし、好きで来たわけじゃない。でも、許可なく地界に踏み入ったのは事実だ。
冷たい地面の上で両膝を揃え、両手と額を地面に打ちつける。この世界での最上級の礼など知らない。そして、私が知っている礼の中で、これ以上に頭を下げる方法も知らないのだ。
「勝手に踏み入り、申し訳ありません! ですが、お願いします。その子は放して頂けないでしょうか。その子は、私の傍にいたという理由だけで、私のとばっちりでここに来てしまったんです。教会の、ファナティカーという人の術です。私の目もその人によるものです。私達の意思ではありません。貴方々の何かを害すつもりは、毛頭ありません。お願いします、その子は帰してください。お願いします、お願いします。申し訳ありません。お願いしますっ」
「この俺が、貴様らの事情に配慮する理由がどこにある? ここは地界だ。聖人だろうが地上の命だろうが、地界の掟で裁かれる。そして現在、この地を統括しているのは俺だ。俺は俺の掟で、貴様らを処分する権限がある」
一際大きく響いた呻き声が、徐々に散っていく。ぎちぎちと肉体が締め上げられている音が止まない。それどころかどんどん強くなり、トロイの声が、朽ちていく。
「何か罰をと仰るなら、全部私が受けます。なんでもします。仰る通りに致します。ですから、お願いします。その子は地上に帰してください。お願いします、お願いします、お願いします!」
額を擦りつけて叫ぶ私に、男はうるさそうな息を吐いた。
「名乗れ」
「六花・須山・ホーネルトと申します」
どさりと何かが落とされる。掠れた声で激しく咽る相手を確認しようと、咄嗟に上げかけた頭を踏まれた。がつんと地面に額を打ちつける。
「女、貴様の気配も髪色も目障りだ。聖人の子、名乗れ」
整わない呼吸のまま、トロイが体勢を整えた音が聞こえた。
「聖騎士アライン・ザームが弟子、トロイ・ラーセンにございます」
いがらを吸いこんだみたいな掠れ声になったトロイの言葉に、男がほぉと声を上げる。少し浮いた足につられて、額を僅かに浮かせてしまう。再びがつんと踏まれて後悔する。最初から地面に貼りつかせていたら、二発目はくらわなくて済んだのだ。
「この女は?」
「その方は、我が師の片翼にございます。教会の手違いとはいえ、この地に許可なく踏み入ってしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。現在、双龍様の命により、我が師がこちらに向かっております。火綾殿に置かれましては、地上へ御出まし頂きました際、教会より謝罪が行われるものと愚考致します」
「ふ……聖人の子、貴様は可愛げがないと言われないか? 双龍と教会の名を盾にするとは底意地が悪い」
「恐れ入ります」
淡々とした、どこか彼の師を彷彿とさせるトロイの言葉に、火綾と呼ばれた男は、私の頭に乗せた足をぐりっと動かした。呻きそうになって、咄嗟に堪える。駄目だ、動くな。逃げることも身を捩ることでさえ、今は許されていない。トロイがまるで別人のような声音で頑張っているのに、私が邪魔するわけにはいかないのだ。
ぐりぐりと私の頭を踏みにじる男が、私達を許さない理由を作ってはならない。屈辱より痛みのほうが勝るのは、たぶんよかったのだ。屈辱は痛みより制御できない激情を巻き起こすから、耐えなければならないのが痛みでよかった。決して被虐趣味ではない。
でも、この男の人は加虐趣味があるのかもしれないと、反応を見せない私につまらなそうな息を吐き、ようやく放したと思った足で蹴り飛ばされて思った。
爪先が脇腹にめり込む。痛みより熱さが勝る。焼き鏝を押し付けられたみたいだった。焼き鏝を押し付けられたことなんてないけれど、他に例えが思い浮かばない。
皮膚を食い破らないまでも、体内にめり込んだ爪先は熱さと衝撃で息を圧迫する。悲鳴とも呼べない無様な息が飛び散って、身体が浮いた。
遅れて走り抜けた痛みでうまく動かず、蹴り飛ばされた身体を丸めることすらできない。
「六花さんっ!」
泣き出しそうなトロイの声に見送られて吹き飛んだ私の身体は、岩肌に叩きつけられるはずだった。
覚悟していた衝撃よりは何倍も柔く、温かいものにぶつかった。柔らかいといってもぶつかって痛みを感じる硬さはある。でも何故か衝突の衝撃が散り、思ったより堪えなかった。
「う……」
げほっと咽た息でも痛みが走る。身体が震えてうまく動かせない。熱さに追い越されて遅れてやってきた痛みは、今度は自分の番だと主張して憚らず、脇腹だけじゃなくて背中も胸も全部が痛い。
「ほぉ……紅鬼の弟子と片翼など、その場凌ぎの口から出まかせとも思ったが、真であったか。ということは、教会はまたもやこの地をごみ捨て場にしおったか。全く、処刑場扱いならともかく掃き溜め扱いは許せんな」
無意識に丸めようとした身体に違和感を感じる。手足が宙を掻いていたのだ。
寒さと痛みと恐怖と、その全部で閉ざしてしまっていた瞳を開けても何も見えない。見えないのに、分かってしまった。
膝下と、背中を通った手。今日習ったばかりの模範的な横抱きをしているこの人を知っている。見えなくても分かる。頬についた薄い胸を、私を支える骨ばったというより骨みたいな手を、私を呼ぶ前の息継ぎを、知っていた。一つだけ知らなかったのは、いつも薄い胸の下でとくとくと静かに鳴っていた心臓が、まるでいつもの私みたいに忙しなく鳴り響いていることだけだ。
「アラ、イン」
「飲め」
「何、を!?」
膝裏を支えていた手が引き抜かれる。その手に支えられて背中に回っていた腕を滑り上げられる。片手一本で抱えられた体勢と、謎の指示に首を傾げていた口に何かが突っ込まれた。冷たく固い何かが上唇を、それよりは柔らかいけれど私よりは硬い何かが下唇を強引に通過していく。
爪と皮膚だと理解する間もなく、親指の腹が舌をなぞる。独特のしょっぱさと鉄の味に思わず眉を顰めた私の舌に熱が走った。熱い。熱さが走り抜け、喉奥から肺に、心臓に、手足に。上顎から、頬下に、こめかみに、後頭部を回って目の奥に。熱が走る。沸騰するような熱さが私の中でぐつぐつと煮えたぎるのに、火傷の恐怖を感じない。痛みはない。ただ熱い。耐えられないようにも、もっと巡ってほしいと願うほど安堵するようにも思う。
熱い。私の中が熱い。私の中を巡っている。私の中を、アラインの血が巡る。この世界で誰より近しい人が、私の半分が、私の中を撫でて廻った。
巡り廻った熱がせり上がり、堪らず吐き出した吐息に全ての熱が篭り、霧散する。赤黒色が蜘蛛の子を散らすように脇に追いやられ、吐息の中に散っていく。
熱い熱い吐息の向こうに、大好きな紅瞳があった。じっと私を見下ろす紅瞳の後ろには、色とりどりの光が宙に浮かびあがり、二、三人が入れる傘になりそうなほど大きなシダが淡い光を放ちながら揺れている。
無意識に首だけで振り返った先では、片膝をついていたトロイがふらりと立ち上がった。呆然としたまま駆け出したのを見て、もう一度視線を戻す。
こんなに明るい夜を見たことがない。こんなにも色が溢れ、騒がしくも静かな光を放つ夜を、初めて見た。まるでお伽噺だ。絵本の表紙だ。夢の中だってこんなにも幻想的じゃないだろう。
なんて明るい夜なんだろう。なんて遠い世界なんだろう。生まれた世界が、なんて遠いのだろう。なんて寒い夜なんだろう。ああ、なんて、なんて綺麗な紅瞳なんだろう。
美しい夜がぼやける。寒さで澄み切った空気の中、星よりも控えめで柔らかな光を放つ植物達をもっともっと見ていたいのに、せっかく見えるようにしてくれたのに。
「あらいん」
「見えるな?」
「みえる」
「他は後で治す」
「うん」
ちゃんと返事をして、それが肯定の返事だったのに、アラインは困ったように少し眉尻を下げる。
「……お前は、いつも泣いてるな」
「…………わら、って、るよ」
アラインはちょっと考えた。
「比重は同じくらいじゃないか?」
「ちがうよぉっ……」
ぐしゃりと、べしゃりと、顔が感情が声が、濡れて弾けて零れ落ちる。
痛みも震えも無視して細い首に縋りつく。見える、見えるよ。アラインが見える。アラインがいる。来てくれた。
引っ付いた場所から伝わる振動で、どれだけ急いでくれたのかが分かる。アラインが来てくれた。急いで、来てくれたのだ。
ああ、強くなりたい。強くなりたいよ。なりたいのに、私はやっぱり泣き虫のまんまで、悲しくもないのに涙が止まらない。泣き虫のままでも強くなれるかな。泣く場所をアラインがくれたから、泣き虫のまんま、強くなるのはありかな。
縋りついた首筋は少し汗ばんでいて、首を通る脈からもその速さが分かった。どくどくと早鐘を打つ心音を、耳で、肌で、感じる。あったかい。アラインがあったかい。あったかい手が触れた背中が、足が、引っ付いた身体全部があったかい。
私がしがみついているから、アラインの顔も私の首筋に埋もれている。耳元でしゃくり上げているからうるさいだろうに、アラインは何も言わない。私を抱えている肩や背の力がふっと抜ける。冷え切っていた私の首に、ふぅと小さく温かな吐息がかかった。
しかし、それは一瞬で、アラインはすぐにいつもの通りぴんと背を張った。
ここにいるのは私達だけじゃないのだ。だから、私も鼻を啜って身体を起こす。脇腹がずきりと痛んで思わず呻く。アラインの右手が上がって、私の脇腹を押さえた。後で治すと言っていたのに、触れた場所から体温以外の温かさが染み渡って痛みが霧散していく。
抱え上げられた私のズボンの裾を、傍に駆け寄ってきたトロイが握っていた。ぐしゃりと乱れた白い首筋には、くっきりとどす黒い指の跡が残っている。首を絞められていたのだと分かりすぎるその痕をつけた人を、私はようやく目にすることできた。
まず目に入ったのは、流れるような黒髪だ。男の人にしては長い、なんて言葉が当てはまらないほど長い流れるような黒髪を、赤い紐で一つに結んでいる。ボタンのない前開きの服を幾重にも重ねているのに、そこには二色しか色がない。濃淡の差こそあれど、黒と赤だけが男の人を彩っている。切れ長の目尻に引かれた色も赤で、徹底して他の色が存在しない。
この人が、闇人頭?
一瞬、アラインが退けてくれた赤黒が戻ってきてきたような錯覚に陥った。けれど、すぐに違うと気づく。男が一番上に重ねている黒い上着は、幾度も染め抜いた極上の黒で、黒なのに濁りを感じずいっそ透明感すら感じる。
男は赤い紐でぐるぐる巻きにした細長い木箱を持っていた。アラインより背が高い人の肩まである長い箱だ。男は、太く長い裾を器用に払い、箱を岩の隙間に突き刺した。
「いつの間にか大荷物だな、紅鬼」
腕を組み、男は向かって右の口角だけを吊り上げる。
「忌み子の分際で、何かを得られるなどと勘違いしてくれるなよ? 分を弁え、生が尽きる瞬間に感謝して生きているのだと忘れるな」
「エーデル様より、」
伝言がと続いたアラインの言葉を待たず、火綾は言葉を重ねて掻き消した。
「誰の許可を得て言葉を発する、忌み子。この世に生あることすら許されていない分際で、この俺の許可なく地界に音を放つとは、えらくなったものだな。人並の荷物を得たことで、自分がまるで命だなどと思い違いでもしたか? ん?」
アラインは表情一つ動かさないで口を閉ざした。当たり前のように、怒りも悲しみも屈辱も浮かべず、黙った。異様な世界だ。そう、思う。シダが光ろうが苔が光ろうが、フウリン音を発する実が一口必殺の毒を放ってこようが、髪飾りを指につけたら婚約の証になろうが、世界の違い、文化の違いで済ませられる。だけど、いきなり放たれる人格を疑う台詞が、戯曲でも、へたくそな冗談でもなく、当たり前の常識として受け入れられる光景を、文化の違いって面白いねで済ませられるわけがない。
悔しくて歯を食いしばった私に、ほんの少し傾いたアラインの頭がとんっとぶつかる。
『他に怪我は』
喋らずに喋ってきた。確かに喋るなと言われた。アラインは真面目に素直に、火綾の言葉に従ったに過ぎない。口を閉ざすしかなかった憤りも、火綾を出しぬいたぞとのご満悦感すらない。喋るなと言われたから喋らずに喋る選択をしただけのアラインに、思わず苦笑する。
どうしよう。やっぱり可愛い。子どもみたいなのに全然子どもみたいじゃない所が、堪らなく可愛い。
『私はないけど、トロイの首が』
悔しそうに唇を噛み締め、裾を握る手を真っ白にしているトロイに視線を向ける。この位置からでは見えないけれど、暗くても分かるほどくっきりと指の痕がついていたはず、だ……私よりトロイを抱えたほうがいいんじゃないだろうか。目も見えるようになったし、下ろしてもらおう。
そう思って上げた視界に剣呑な紅瞳があって思わずのけぞった。
『な、なに?』
『お前は』
『私?』
『平然と嘘をつく』
『え!?』
嘘をついたことのない清廉潔白な人間ですなんて名乗れないけど、嘘つきの称号をもらうほど大嘘つきなつもりもない。そんな大悪党なんて恐れ多い。せいぜい小悪党かちんぴらでお願いします。
訳が分からなくて大混乱した私の思考を、心なしか冷たい声が貫く。
『額』
『額?』
『血が出てる』
『うそ!?』
『嘘をつく意味がない』
慌てて手をやれば、ぴりりと痛みが滲む。そろりと撫でた指先に皮膚が引っかかり、動くたびに痛みが滲むから、どうやら擦りむいているようだ。
がんがん踏まれたから、そりゃ擦りむくか。
『気づいてなかった。ねえねえ、アライン。アラインはどうやってここに来たの?』
『焼いて辿った』
『アラインのその簡潔すぎる所、嫌いじゃないけどもうちょっとどうにかしたほうがいいと思う』
なんにも分からない。
どうしたものかと悩んでいると、突如素早い動作でアラインが顔の向きを変えた。なんだろうと思う間もなく、アラインの手はトロイの首根っこを掴んでその場を飛びのく。視界の端に赤と黒が閃いて、火綾が攻撃してきたのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。火綾もアラインと同じ方向を向いていた。その視線の先にうねる根を見つけて、私とトロイの喉はひゅっと掠れた悲鳴をあげる。
豪雨の後の川のように唸りを上げて荒れ狂う根は、視認したと思った時には既に私達の元にまで流れ着いていた。根は、地面を、天というよりは天井の暗闇を、縦横無尽に囲い切り、一つの巨大な巣を作り上げた。軋みを上げて編み上げられた壁が天をも覆う。
私達を抱えたアラインと、細長い箱を掴んだ火綾は、近い位置に飛び降りた。別に二人が仲良しでも、息が合っているわけでもない。巨大な巣となった根は、内側に向けてずらりと根の先を突き出していた。その為、檻となった根から距離を取りつつ、地形的に安定した場所を選べば自然と近い位置に降り立ったのだ。
「今日はえらくしつこくないか、リヴェルジア」
火綾の声は、呆れているようでいてどこか楽しんでいるようにも聞こえる。どっちなのか判断がつかない。しかし、視線を向けている先には、今尚固まりきらずぎちぎちと音を立ててひしめき合う根しか存在しない。それなのに、アラインもそこをじっと見ている。首根っこを掴んでいたトロイを下ろし、剣を引き抜く。あの、私も下ろして頂けると非常に嬉しいです。
「……ここにいるはずのない面子が揃っているな」
根が、喋った。異世界では根も喋るのか凄いなと思っていたら違った。根の中から仮面が現れる。目がおかしくなったのかと思った。
根はそのままそこにある。横に逸れも場を譲りもしていない。相変わらず一寸の隙間も許さんといわんばかりにぎちぎちとひしめき合っているのに、リヴェルジアは何にも遮られず中に入ってきた。根が透けたのか、リヴェルジアが透けたのか。分からないけれど、リヴェルジアは何もない場所に歩みを進めただけの動作で、いつの間にかそこにいた。
「教会がこの地をごみ捨て場にしてくれたようでな」
「へえ……そして尻尾巻いて逃げ出したお前と会ってしまったのか。その子達も不運だな」
「今日はいつになく会話に応じてくれるんだな。それに、逃げ出したわけではないさ。駄犬のしつけを先決にしたのだよ」
がたがたと細長い箱が揺れて、びくっとする。生き物が入っているように見えなかったし、そう扱っているようにも見えなかった。だけど箱はがたがたと揺れ、火綾は立てた箱を爪先で蹴り上げる。長さと形状を考えると蛇だろうか……毒がないといいな。さっきから結構ぞんざいな扱いをしている蓋が開かないことを祈るしかない。
様子を窺いつつ、そろそろ足を下ろそうとしたら跳ねあげるように担ぎ直された。違うんですアラインさん。私は落ちかけたんじゃなくて下りようとしたんです。
困ってなんとなくトロイを見れば、剣を抜いたアラインの邪魔にならないよう反対側、私が担がれている方に回ってきた。そのトロイの首根っこを、私を抱いたままのアラインがつまみ上げる。
アラインさん、守ってくれるのはありがたいんですが、全部抱えるのは如何なものでしょうか。お爺ちゃん家行くのにお気に入りの玩具を全部抱えて、これもってくのーと駄々をこねた弟妹達を思い出す。一応自立歩行はできる類なので、せめて自立くらいはさせてもらえると嬉しい。あと、トロイの首締まってる。
ごそごそしている間も、細長い箱の揺れは止まらない。蹴ったりするからだ。中の蛇さんはご立腹のようである。
「蹴るな」
私の気持ちを代弁してくれたのは、まさかのリヴェルジアだった。
かたりと、仮面が鳴る。
「お前が、クレアシオンを足蹴にするな」
地獄の底から這い出るような、唸り声にも似た声音に、火綾はにぃっと口角を吊り上げた。無造作に箱から手を離し、倒れ込んだ箱を踏みつける。
「こんなもの、エンデを取り戻せば用済みのごみも同じよ」
「蹴るな」
「随分ご執心のようだな、リヴェルジア」
「触るな」
「ふむ……この辺りがお前の出自を探る鍵か?」
さっきの私の頭と同じ状況に陥った箱に、体勢を整えたトロイは何度も箱とアラインを見た。
クレアシオンは確か、最後の皇帝エリシュオン……晃嘉の、錫杖だ。聖人の大切な物を、火綾は私の頭みたいに踏みつけている。……錫杖って、動くのだろうか。
がたがたと揺れる箱に不愉快気な視線を落し、火綾は舌打ちした。
「封地より出せば途端にこの有様か。それにしても、今日はやけにうるさい。地上に帰りたいか、クレアシオン。我らとて待ち続けた。この地に再びエンデが帰る日を。だから、リヴェルジア、今日は貴様に構ってはやる時間も余裕もない」
火綾が闇を纏う、だけど、熱をはらんだ風が違うと主張している。あれは闇じゃない。黒い、吸い込まれそうな、炎。
「黒、炎」
あえぐようなトロイの声は、恐怖に濡れていた。
聞いたことのない単語、そして見たことのない炎に、咄嗟にアラインを見る。分からないことはとりあえずアラインに聞く。
「水や風では決して消えない、闇人だけが扱える純度の高い炎だ。これだ」
「え!?」
剣を持ったまま器用に開かれた掌に黒い炎が揺らめく、トロイが目を丸くする。何度も黒炎とアラインを見比べて、え、え、と混乱しきった瞳が可哀相でならない。だから、彼の言葉を私が替わろうと思う。
「使ってるよ!?」
「俺は、闇人の血もある」
「し、知りませんでした」
なんとかそれだけを絞り出した弟子に、アラインは首を傾げた。
「俺は両者の血が混ざった忌み子だ」
「アライン。たぶん、トロイが知らなかったのはそれじゃない」
「師匠は忌み子じゃありません!」
ぼそぼそと関係ないことで忙しい私達を見もせず、火綾が纏う黒い炎はどんどん勢いを増していく。肌がちりちりと熱さに泡立ち、目が乾いてちかちかしてくる。アラインは私達を抱えたまま、火綾から数歩距離を取った。
だけど、それだけじゃ足りなかった。周りへの配慮なんて関係ない嵐のような黒炎は、火綾の動きに合わせてどんどん範囲を増していく。苔や植物は勿論、地面、岩、ふわふわと飛び交う胞子まで、全てが黒に塗り潰されていった。
それなのに、リヴェルジアは動かない。止める素振りすら見せない。
「お前は生半可な炎では傷一つつかんと聞くからな。最初からこれで行くとしよう。ではな、リヴェルジア。生きていればまた会おう」
黒が膨れ上がる。一気に規模を増した黒炎は、種が弾けるように周囲に黒を撒き散らした。
アラインは吹き出した黒炎に背を向け、私達の視界も黒が覆った。
全ての明かりが黒に飲みこまれ、音すら遮られる。そんな中で私が目を開けられたのは、たぶん、黒炎への知識が薄かったからだろう。さっき知ったばかりの珍しい炎という認識しかない私は、不思議と熱くもない温かな風と、自分を抱える温かな身体にあっという間に恐怖が溶けてしまった。
そろりと目を開ければ、真っ黒な闇の中に浮かぶ対の紅瞳を見つける。思ったよりずっとずっと近い位置にある瞳を見上げると、紅瞳はぱちりと瞬きした。睫毛が触れそうなほど近い瞳の中に、私の水色が映っている。私の水色の中には紅が映り、その中には水色が。
さっきまでの鼻先がつんと痛む寒さは遠のき、ただ温かい。音も色もない静けさは怖いくらいだったのに、アラインが温かくてちっとも怖くなかった。
猫のように擦り合わさった額がちりりと痛み、思わず目をつむる。額が離れ、温かな吐息が撫でていった後に、痛みは残っていなかった。
静寂は、弾けるように散った。
突如巻き起こった風に髪の毛が引っこ抜けそうなほど舞い上がる。真夏のうだる暑さよりも熱を纏った風に翻ってしまった髪を必死に抑え込む。髪はどうでもいいけど、アラインが作り直してくれた髪飾りを無くしたくない。
目も開けていられない熱風が収まり、ようやく息をしていなかったことを思い出した。止まっていた息を吐き出した視界には、黒く揺らめく膜があった。
「悪い。一度吹き飛ばされた」
アラインがぼそりと呟く。揺れる膜は、アラインが作り出した物らしい。もしかしたらさっき言っていた黒炎に関係があるのかもしれないけれど、その辺りは私には分からなかった。
周囲の様子は一変していた。全てが黒い。一切合財が黒に飲まれ、ぼろりと崩れ落ちる壁は、周囲を覆っていた根だろうか。光を発していたものまで焼き払われてしまったここで、唯一光っているのはクレアシオンが入っていた箱だけだ。痛いほどの白銀の光が煌々と輝いている。
全てを平等に照らす光の中に立つ人影に、火綾は楽しげな口笛を吹いた。
「傷一つつかんか! 黒炎を扱えるならともかく、生身でそれならば天の御使いとて難しいのだがな」
地獄の業火さえ焼き切りそうな炎が周囲を囲んでくすぶっているのに、現れた時と全く変わらぬ姿で、かたりと仮面が鳴く。傾いた頭と一緒に、かたり、かたりと鳴く黒い狐が、白く変わる。リヴェルジアはゆっくりと腕を上げ、仮面に触れる。
「お前如きが、傷をつけられるはずもないだろう」
かたりとひときわ高く鳴いた仮面が、何の予告もなく外された。