62伝 はじめての師弟
りーん、りーんと、涼やかな音が響き渡る。母の故郷には涼を齎すために飾り付けるフウリンという物があるらしく、それを模して作られた丸みを帯びた硝子細工が夏の風物詩になったのは私達が生まれた頃だと聞く。
夏場は気持ちが涼しくなる美しい音に聞き惚れるけれど、今はその音が恨めしい。りんりんいってくれなくても十分涼しいし、涼しすぎる。どっちかというとめらめらが聞きたいと思いつつ、手を擦り合わせた。
「ねえ、トロイ」
「はい」
「この音、どっから聞こえるの?」
「えっとですね、木の実からです」
「実なの!?」
「実です」
がちがち震えていたことも忘れて、抱きこんでいる小さな身体を見る。見たって見えないけど、反射はそう簡単になくならない。
「地上でも日照の少ない地域や場所に生息していますけど、こんなに密集して生えてるのは初めて見ました。それに、地上のは光りません」
「へえー、どんな実なの? 食べられる?」
「えっと、薄硝子みたいな膜の中に光を放つ種が入ってます。毒があるから食べちゃ駄目です」
見たことも聞いたこともない植物を必死に想像していた所に、最後の言葉でがっかりした。トロイの頭に顎を乗せて、あーと情けない声を上げる。
「食べれないんだ」
「音が出て目立ってるのに、毒がなかったら虫や獣に全部食べられちゃうじゃないですか」
「それもそっか」
納得納得。自然の掟は厳しいのだ。生き残るにはいろんな知恵が必要となる。
「一口でも含んだら、大抵の生き物は絶命です」
「ちょっと強力すぎない!?」
そこはこう、舌が痺れるくらいの威力でよかったのではないだろうか。
私達は、出発地点から少し離れた、風上の岩陰に座り込んでいる。私の中ではかなり長距離歩いた気がしたけれど、まだ最初の場所が見える範囲だそうだ。少し小高い場所は風の通りがいいからか、湿気が少なく、下よりは派手に胞子を飛ばしてくる植物がなかったのだそうだ。
しかし、ここで問題となったのは気温だった。地界は一日中太陽が出ないけれど、地熱の関係でそれなりに温かいらしい。だけど夜だけはがくんと気温が下がるのだそうだ。太陽は関係ないのになんでとがちがち歯を震わせたら、夜は地界よりも更なる奥の瘴気を噴き出す魔物の動きが活発化してきて、地熱を奪ってしまうのだとかなんとか。その辺りは全く想像がつかなかったので、今一理解できなかった。
でもあっという間に、吸い込む空気で鼻が痛くなって、さっきまでふかふかしていた足元から、じゃくじゃくと霜柱を踏む音がし始めたら嫌でも理解する。めちゃくちゃな勢いで気温が下がっていると。
とにかく今は、真冬のように冷え切った場所で凍えないよう、トロイを抱え込み、トロイから借りたマントでお互いを包んでいる。残念ながら私の全部を包めるほど大きくなかったから、いろいろはみ出しちゃっているけれど、何もしていないよりましだ。
かたかた震える私のせいで一緒に揺れてしまっているトロイは、胡坐を組んだ私の足の上にいる。膝を立てて挟み込んでもよかったけれど、それだとお尻から冷えていくだろうから私の足をクッション代わりにした。
「いま、どんな景色? 寒くなる前とは違う?」
「胞子がいっぱい飛んで、雪みたいです」
「雪かぁ。光ってる?」
「はい」
「何色?」
「えっと、いっぱいです。白とか、黄色とか、青とか、赤とか、青とか。いっぱいふわふわして、綺麗です」
「へぇー」
一所懸命私の貧相な頭で想像してみるけれど、ぼやけた絵の具で塗りたくった風景しか出てこない。
「見てみたいなぁ」
「師匠が来てくださったら、きっとすぐに見れます」
「そうだね。アライン、早く来ないかなぁ」
私より温度が高いのに、私よりあっという間に冷え切ってしまう小さな身体をもっと深く抱きしめて、頭に顎を乗せる。そのままぐりぐり動かすと、あいたたたと可愛らしい悲鳴が上がった。
じっとしていたら、私のお尻と足からじわじわどころかがんがん体温が奪われていく。許せないのは、私の了承なし、更に遠慮なくがんがん体温を奪っていく癖に、ちっとも温かくならない地面だ。硬い、冷たい、温かくならない。許すまじ。
開いた膝を上下に動かして摩擦で熱を得ようと頑張ってみる。小刻みに揺れる土台に、トロイは文句一つ言わなかった。
「酔いそうになったら言ってね」
「師匠の馬に乗せて頂いた時を思い出せば、僕は何でも大丈夫です」
「…………初めて会った日、そんなにひどかったっけ?」
記憶を辿ってみたけれど、お腹が空きすぎてそれどころじゃなかったことしか思い出せなかった。トロイは、ふっと、小さく憂いを帯びた息を吐いた。見えないけれど、たぶん白くほわっとした息だろう。
「…………師匠が師匠になってくださってから、初めて乗せて頂いた日の事です。僕でも乗れる馬が全部いなくって、師匠が乗せてくださったんですけど…………」
「けど」
嫌な予感しかしない。師匠を語るときにはいつだって……基本的には、大きな目をきらきらさせていた弟子のこの口籠りを見よ! 見れないけども!
「六花さん」
「はい」
どこか薄暗いような、疲れ切ったような、諦めのような、どう聞いても子どもが発する声音ではない音が私を呼ぶもんだから、物凄く畏まって返事を返してしまった。
「師匠のできるできないの基準って、基本的にご自身なんです」
「……まあ、そうだね」
「つまり」
「つまり」
ごくりとつばを飲み込む。なんとなく言いたいことは分かるのに、彼の身に降りかかった災難は想像もつかない。だって、アラインだ。アラインなのだ。何をしでかしたとしてもおかしくないし、何をしでかしていたとしても納得できる。
「……最終的に僕はずっと馬の尻尾を掴んでいました」
「…………悪気はないのにね」
「…………はい」
トロイは子細を語らなかった。けれど分かる。アラインは、悪気も悪意も悪戯心すらなかったはずだ。ある意味、だからこそ質が悪いのである。知れば、分かれば、気をつけてくれるのに、知らないから、分からないから、全く何にも気づかない。
無知でまっさらで、子どもより子どもなのだ。それは無垢なのか、それともそうでなければ生きられなかったのか。感受性豊かで愛に溢れた子どもが耐えられる人生ではなかったのだろうと、想像に難くない。
はぁと思わず漏れた息は、疲れや呆れではなかった。何かが耐えられなかったのだ。胸の内に湧き出た感情を持て余し、吐き出さなければ泣きだしてしまいそうだった。
「…………六花さん」
「うん?」
小さな声に、慌てて表情を取り繕う。しまった。トロイを不安にさせるような顔をしていただろうか。見えないから、トロイがどこを見ているか分からない。へらっと笑っても反応が返らず、焦る。トロイの表情が分からない。どうしよう。見えないと、大事な人の心まで分からなくなる。見えていたって見失うのに、大事にしたい人の様子が分からないことが歯がゆくてならない。
「あの、ですね」
「うん」
どうしようもなくて、とにかくトロイの声を聞き逃すまいと意識を集中させる。小さいのに……小さいから? 私より少し体温の高い身体が身動ぎして、ぐっと強張った。
「僕、師匠を持つの、師匠が初めてじゃないんです」
「うん」
そう言っていたのを聞いた。アラインの部屋でロイセガンさんから申し出を断ったとき、一度師弟関係が破綻していると。
「でも、師匠になってくださったのは、師匠が初めてだったんです」
トロイは俯いているのか、声が少しくぐもって聞こえる。
「弟子にかかる費用は、師匠が、出してくださるのが慣例ではありますが、基本的には、弟子の家からの援助が、あるものなんです。つまり、弟子の家が師の後ろ盾の一つになるんです。でも、僕は孤児で、本当に何一つとして師に差し出せるものがないんです。何も見返りを返すことのできない僕より、親族または家同士の繋がりのある弟子を選択するのは当然の帰結です。だから僕は当たり前にあぶれて、結果最後の最後に一人の騎士が僕を押し付けられました」
最初はぽつりぽつりと。次第に、ずっと用意していた文言のように、教科書でも読み上げるみたいにつらつらと喋りはじめた声は、酷く固かった。
「その方は、素行があまりよくなかったらしく、騎士剣を剥奪されるかどうかの状態だったそうです。最初から乗り気には見えなかったのに最終的に引き受けたのは、弟子をとって点数を稼ごうとしたのかもしれません。その辺りは、僕には分かりません。僕は孤児院を出たてで、本当になんにも分からなかった頃でしたから」
「うん」
「今思えば、相当酷い扱いを受けていたんでしょう。でも僕は、そうと気づけなかったんです。孤児はいじめられることも、いびられることも、それは当たり前の範疇なんです。実の親にさえ捨てられた子どもが、他の誰かに必要とされるはずがないって……だから、殴られても、蹴られても、罵倒されても、それが酷いことだって、分からなかったんです」
強張った身体は、喋っている間だけ僅かに揺れる。深々と降り積る雪みたいな声音の振動で揺れる身体は、まるで震えのようだ。
少し油断するとかちかちと鳴ってしまいそうな寒さの中、りーんりーんと涼やかな音が鳴り響く。暑さの中では涼を齎すとっても素敵な音なのに、今は耳から身体を凍りつかそうとしているように聞こえてしまう。
ここは、とても寒い。でも、抱きかかえる身体はとても温かい。
「ある日、見かねたライテンがロイセガン殿に申し立て、急遽僕の師は交代することになりました。でも、ただでさえ僕を引き受けてくださる方がいらっしゃらなかった所に、一度師弟関係が破綻した騎士見習いです。最初の時以上に誰も引き取り手がいなくて、僕はもう全部諦めたんです」
「諦めた?」
「はい。孤児である以上、自分で確固たる物を得なければ、一生馬鹿にされ続ける。一生見下され続けない為に、僕は聖騎士を目指したんです。でも、聖騎士どころか騎士にすらなれないって思いました。だって、まず騎士になるのだって、誰かの弟子にして頂かないといけないんです。だから僕は、ああ、世界ってこんなものなんだなって。生まれた時から全部決まってて、最初から決まったそれは、どうにかしようとしたってどうにもならなくて、僕は一生両親に捨てられた要らない子どものままで、だから他の人からもそういう扱いをされるのが当たり前で、そのまんま生きていくんだって、思ったんです」
淡々と続いていた言葉に、段々感情が篭っていく。それは、疲れ切った声でも、諦めきった声でもない。どこか困ったような寂しい声で、いまトロイがどんな顔をしているのか見えないことが酷くもどかしかった。
「弟子をとっていない方々が僕の前で押し付け合っている時、僕は、もう死んでしまおうかなって思いました。孤児院にいるのが嫌で頑張って勉強して、試験を受けて、皇都に出てきたから、孤児院に戻るのも嫌で。でも、他に行く当てなんてなかったから、もういっそ終わってしまいたいなって」
「トロイ」
何かを言いたくて、でも何を言えばいいのか、何を言っていいのか、何を言わなくちゃいけないのか。全部が分からなくて、結局名前を呼ぶしかできない。自分の浅さが、ぶん殴りたくなるくらい情けなくて堪らなくなる。トロイがどんな顔をしてこんなことを言ってしまっているのか、幾ら考えても分からない。ここには私しかいなくて、トロイは私に話してくれているのに、お母さんなら、お父さんなら、アラインならどう答えるんだろうと考えてしまう。馬鹿で浅くて無力で愚かな私に気づかないトロイは、静かに続けた。
「それで、廊下をぼんやり見てたら、師匠がいたんです」
ぽつりとトロイが言った言葉に、ぱちりと瞬きする。眼球を凍りつかせようとする冷気を弾いても視界は変わらなかったけれど、小さな身動ぎと吐息でトロイが笑ったのが分かった。
「師匠は遠くに出張に行った帰りだったそうで、弟子を持たない騎士の方々の集まりに遅れて参加したんです。僕、師匠を見たのは初めてだったから、最初は誰かの弟子の方だと思ったんです。だって、あの時の師匠はグランディール殿と同じくらいだったから、まさか聖騎士の方だなんて思わなかったんです。師匠はぐるりと部屋の中を見回して、師匠に気づいた方々からぴたりと口を閉ざしていきました。僕はそれが何でだかさっぱり分からなくて不思議でした。でも、部屋中の視線が向いたのにまったくたじろがなかった師匠が部屋の中に入ってきて初めて、紅瞳に気づいたんです。……あの時の僕は、凄く、馬鹿だったから、静かな師匠の瞳が凄く怖くて、堪りませんでした…………紅鬼だ、って……そう、思ったんです」
強張った身体があっという間に冷えていき、慌てて背を屈めて包み込む。短いマントを回して合わせ目を私の後ろに持ってくる。少しでも風の入らないように、最初からこうしておけばよかった。
抱え込んだ身体をこれ以上冷やさないよう、少しでも熱を作りだそうと必死に擦る私の手に、冷え切ったトロイの手が触れた。
「師匠は、勝手に身を竦ませて脅えた僕の首根っこを掴んで、自分の弟子にするって言ってそのままご自分の部屋に連れ帰ってくださいました。それなのに僕は、死刑宣告みたいに聞こえたんです。さっきは死んじゃおうかなって自分で思ったのに、弟子にしてくださるって言った師匠の言葉が、そう聞こえて……僕、師匠に嫌われたって仕方がないんです。孤児だからって色眼鏡にかけられてきたのが凄く嫌だったのに、僕は師匠を知らないのに、他の人の言葉で師匠を勝手に判断してたんです……それなのに、師匠は僕を弟子にすると言ってくださったんです。僕が断ると思って、それを前提として、弟子にしてくださったんです」
冷え切った手を握り締めても、ちっとも温かくならない。それどころかかたかたと震えている。
「弟子から縁を切るなんて、滅多なことではありえないんです。ロイセガン殿も仰っていましたが、昔からの言葉で『師に見捨てられた弟子ほど虚しいものはないが、弟子に見限られた師ほど惨めなものはない』といわれるほどなんです。弟子から縁を切られた師は、一生後ろ指刺されるくらいの笑いものだといわれています。それなのに師匠は、最初からそうなること前提で、僕を弟子にしてくださった。他者の妄言を真に受けて、勝手に脅えた僕に、そうしてくださったんです……」
この世界では、師弟関係の終わりが身の破滅になるほどの大事なのだ。騎士は清く正しくあるのが正しいのだろうけど、どこの世界にだって、どこの場所にだって例外はある。そんなのは当たり前のことなので、そこは驚いたりしないけど、師弟関係の終了が齎すものにはあの時だって驚いた。でも、あの時はそんなこと聞ける雰囲気じゃなかったし、もっと大事なことが目の前にあったから流してしまったのだ。
「あの、トロイ」
「……はい」
「あの時ロイさん、アラインもお師匠さんがいたって、言ってた」
確かにそう言っていたはずだ。アラインにもお師匠さんがいて、その転落っぷりを見ていたアラインがそれを知らないはずがないと。
トロイは、こわばっていた身体の力を抜くのと一緒に吐息も吐き出した。
「僕も、又聞きになりますが……双龍様からお聞きしたので、確かな情報だと思います。師匠にも師と呼ばれる人がいらっしゃったそうです。そうでなければ、騎士にも聖騎士にもなれませんし。……師匠の師だった人は、酷くずるい人だったそうです」
「ずるい?」
「はい。師匠に自分の仕事全部やらせて、自分の手柄にしていたそうです」
「うわ、ずるい……」
それは確かにずるい。酷いとか卑怯とかも思うけれど、何より先にまず飛び出てくる感想はずるい一択だ。しかも、相手がアラインである。まさかとは思うけれど、そんな状況で黙々と手柄を渡し続けたという可能性すらあり得るのではないだろうか。
嫌な予感でどきどきし始めた私に、トロイはため息を吐いた。
「師匠もああいう方ですから、そのことに特に怒りも感じず黙々と仕事をこなし続けていたそうです。それは、師匠が聖騎士になるまでずっと続いたと聞きます」
まさかの大正解である。
「アライン……」
がっくりとうなだれた先に頭がなくて空ぶる。予想よりもっと下がっていた頭までそろそろと下ろしていく。どうやらトロイもがっくりとうなだれていたようだ。
「とにかく外面がいい人だったそうで、師匠の……紅鬼、の、師になってあげた素晴らしい人格者みたいに言われていたそうです。傍から見れば師匠を大事に可愛がっているように見えたと。でも、そんなことなかったんです。双龍様はご存じだったそうですが、どこかで師匠が区切りをつけるか、そうでなくとも一言何か言ってくるだろうと思っていらっしゃったそうです。でも、結局師匠は、聖騎士になって双龍様が制止をかけるまでずっとそのままだったそうです」
「……なんで?」
「……僕、一回聞いたことがあるんです。どうして、ずっと受け入れていたんですかって」
史上最年少の聖騎士だといっても、それでも何年かはかかっているはずだ。流石にいくらなんでもあんまりだ。子どもをこき使って自分の手柄にし続けたその人も相当だけど、アラインだってあんまりだ。
「……そしたら師匠、自分という代償を引き受けたのだから、せめて自分の得になるよう利用して対価を得ようとするのは当たり前だろうって、言うんですよ。……あんまりですよね」
「……うん。あんまりだね」
悔しいと、そう思うのが私達だけなのは、あんまりじゃないか。
アラインに、私達の大事なアラインに、そんなぞんざいな扱いをした人への怒りよりも先に悔しさが滲みだす。そんな扱いを許してしまう、当たり前だと思ってしまうアラインが悔しくて、悔しくて、悲しい。
悔しさと悲しさが飛び出した後には、やっぱり怒りがふつふつと煮えたぎる。なんてことをしてくれたのだ。何年も、何年も、私達の大事な人に、よくも。
アラインは、自分の価値に頓着しない。そうやって生きていくしかなかったアラインを利用したのだ。ちゃんと話せば、ちょっとでもアラインを分かろうとすれば、すぐに噂とは違うと分かったはずだ。まっさらで、真面目で、無知と真面目が合わさって脱力するくらい素っ頓狂な答えを出してしまう優しい人だと、分かったはずなのに。分かっていて、アラインなら反攻しないだろうと、告げ口しないだろうと、便利だからと。そんな風に判断したのか。そうして踏みにじったのか。噂と違うと分かって、分かったからこそ、利用できると。
私はきっと、その人に一目会った瞬間、ぶん殴ってしまう。アラインの勘違いを、そんな扱いをされるような人だという馬鹿げた勘違いを正すどころか、上塗りさせて利用し続けたその人を、絶対に許せない。
「だから、六花さん。お願いします。師匠に、教えてあげてください。師匠は、そんな扱いをされていい方じゃないって、そんな扱いをされることは許されないんだって」
腕の中でトロイの身体が回った。向き合っている。見えないけれど、視線が合っているのが分かった。トロイは今、私の目を見て話している。
「僕は弟子で、どうしたってあの方を追いかけてしまうから、横には並べないんです。そのことに後悔なんてないけれど、誰も、あの方の隣に並べないのが歯がゆくてなりません。あの方は、そうあるご自身を、想像すらしてくださらないんです。でも六花さんなら、最初から対等な存在としてこの世界に現れた六花さんなら、できるんです。お願いします、六花さん。こんなこと、弟子である僕が口に出すのはおこがましいことだと分かっています。それを承知で、お願いします」
静かな風と柔らかでくすぐったい感触が顎を撫でた。トロイが頭を下げたのだ。柔らかい髪が顎を撫でたけれど、くすぐったさに身動ぎはしなかった。そんなことに意識が向かない。
「師匠を、守ってください」
何を言い出すのだ。私は剣なんて振るえないし、腕っぷしだって強くなければ頭だってよくない。無理を押し通せる権力も地位も、後ろ盾となる家柄もない。
その私に何を馬鹿げたことを、と、思わなくちゃいけないのに。
「…………うん」
私の口から出てきたのは、否定でも、できるかなとの疑問でもなかった。
そうしたかった。ずっと、アラインが蔑ろにされている姿を見るたび、それを受け入れてしまうたび、当たり前だと淡々と肯定する声を聞くたび、ずっと、そうしたかったのだ。
怖いよ助けてとアラインに泣きべそをかくような私が何をと笑われても仕方ない。自分でも笑ってしまう。でも、そう思うのも本当だ。
守りたい。あなたを害する全てのものから、あなたを守る盾になりたい。盾が無理なら膜になりたい。あなたに投げつけられる悪意が、害意が、少しでも柔らかくなる何かになりたい。
あなたの肯定になりたい。あなたを肯定する何かに、あなたがあなたを肯定する何かになりたい。あなたがあなたを守る理由に、なりたいのだ。
たぶん、私にできることはとても少ない。腕っぷしだって賢さだって財力だってアラインが圧倒的に上だ。分かってる。私にできるのは好きでいることだけだ。
ずっと、好きでいる。それならできる。自信がある。それがアラインを守ることになるのかは分からないけれど、今のアラインにとって全く不要な物ではないはずだ。
「……うん、私、強くなる。いっぱい、すっごく強くなって。それでずっとアラインを好きでいる。大好きのまんま、一緒にいる自信ならもう、いっぱい、すっごくある」
世界の全てがあなたに優しくなればいい。あなたと同じくらい優しくなればいい。あなたに触れる全てが柔らかく、美しく、なめらかで、甘く、温かくあればいい。
そう願う全てが、あなたを守る盾になればいい。
私に泣く場所をくれた人の弱さを見つけたい。その弱さを守れる人間になりたい。私の弱さを守ってくれるアラインを私も守れるように、強くなりたい。
強くなくちゃいけなかったアラインが弱くなれる場所に、なりたいのだ。
今はこうしてアラインを待ってるしかできなくて、すぐにべそべそしてしまうけど、いつかアラインが、私がいるから大丈夫だって思ってくれるような人間になりたい。この世界に来た意味や役割なんていらない。そんなものなくたっていい。無意味な偶然でいいけど、アラインと出会えたことには、意味が欲しい。意味になりたいし、出会えてよかったって、思ってほしい。思いたいとは思わない。だって、そんなの、もうとっくに思ってる。
アラインと会えてよかった。アラインのことを知る前からずっと、アラインと会いたかったんだって馬鹿なこと思うほど。
あなたが好きなんだよ。
アライン、分かってる? 分かってないよね。
私達本当に、あなたが大好きなんだよ。