61伝 終守りと文化の違い
視界が真っ赤に染まる。赤いのに黒い。どす黒いのに鮮やかな赤を見ていたくなくて必死で瞼を閉じるのに、色は目蓋の裏にまで焼きついて逃れる術がない。閉じた瞼の中でどんどん染み込んできたらどうしようと、それすらも怖いのに、どうしたって目を開けていられない。
大丈夫、大丈夫ですと、何度も何度も必死に伝えてくれる声は、見えなくても分かるほどに泣き濡れている。なのに私は、大丈夫だよともありがとうとも伝えられない。言ってあげなくちゃいけないのに、どうしても声が出ないのだ。
見えない。どうしよう、どうしたらいいんだろう。見えない。なんにも見えない。私の目はどうしてしまったんだろう。私の目はどうなってしまったんだろう。一生このまま、なんにも見えないままだったらどうしよう。一生、ずっと、ずっと、赤黒い色だけが私の世界になってしまったら、そんなの、考えるだけで恐ろしい。恐ろしくて、おぞましくて、気持ちが悪いくらいに寒い。
胸の奥から、吐き気と嗚咽が漏れ出る。
怖い、怖いよ。お父さん、お母さん。どうしよう、怖いよ。ここに来て。ここにいて。大丈夫だよって言って。お願い、お父さん、お母さん。大丈夫だよって、怖い夢見て泣きついた時みたいに、大丈夫だよって抱きしめて。風邪を引いて寝込んだ時みたいに、大丈夫だよ、すぐに良くなるよって頭を撫でて。お願いだから、ここにいて。怖い。怖い。見えない。怖い。お父さん、お母さん。お願いだからここに来て。怖くて、なんにも見えなくて、どうしていいか分からなくて。だから。だから。
アライン、助けて。
閉じた瞼の上からぐしゃりと握りしめた顔の下で、トロイに聞こえないように呻く。怖いよ。アライン、怖い。助けて。ねえ、アライン。アライン。
自分の声だと信じられないくらい酷く情けない、吐息に似た声でずっと一緒にいた人を呼んでしまう。この世界に来てから今日まで、文字通り片時も離れず一緒にいた。今日初めて離れてしまったけれど、でも、一緒にいようよって友達になってくれた人がここにいないことが、つらい。つらくて、痛くて、悲しくて、寒くて、寂しい。
アライン。どうしよう。助けて。どうしたらいいか分かんないよ。怖い、怖いよ。
小さな子どものように……目の前で、自分だって泣いてるのに必死に私を支えようとしてくれている小さな子どもより小さな子どもみたいに、心の中で泣き喚く。分かんない。分かんないよ。どうしたらいいかも、なんでこんなことになってるのかも、全部、全部分かんないよ。助けて。お願いだから、助けて。見えない。分かんない。
こわい。こわいよぉ。
いなくなったはずの小さな私が泣きじゃくる。
おかぁさん、おとぉさん。
あらいん。
ぐしゃぐしゃになった私の頭を抱きしめていたトロイが、ぴくりと震え、ばっと振り向いた。何か遠くの音を把握した動物のような動きに、思わず顔を上げる。上げたってなんにも見えないと分かっていた。けれど、ずっとこの両目で物事を把握してきたのだ。見えなくなったからといって、そう簡単に反射が変わるはずがない。
待って。行かないで。置いてかないで。
何も考えられず、湧き出た感情が口から飛び出しそうになって慌てて両手で抑え込む。いっぱい励ましてくれたのに、いっぱい支えてくれようとしていたのに、私は彼を支えるどころか応えることすらできなかった。それなのに、縋ることだけは立派にするつもりか。そんなの駄目だ。それにもし、もしも何か危険なことがあったのなら、目が見えない私は足手纏い以外の何物でもない。逃がしてあげなければ。たぶん、目が見えていたって、私は足手纏いにしかならない。私がいるより、トロイが一人で逃げたほうがよっぽど安全だ。
分かってる。そんなこと分かってる。分かってる!
癇癪を起こしたい。ぐしゃぐしゃのまま癇癪を起こして、全部訳が分からないまま混乱を境地にまで到達させれば恐怖は紛れるだろうか。でも、そんなことしたくない。したくないんだよ。
周りがどんな状況か分からない状態で腕を振り回すわけにはいかない。そんなことしたら怪我をするし、トロイにもさせてしまう。分かってる。それに、そんな状態の私を見せればきっとトロイはびっくりする。怖がらせる。安心させることはできなくてもせめて私で怖がらせるなんてさせたくない。
自分で分かっているのに、その自分が聞き分けない。
待って。一人にしないで。置いてかないで。待って。
待たなくていい。一人で逃げて。置いていって。早く。
アライン助けて。お願い助けて。怖いよ助けて。トロイを助けて。お願いだから、早くトロイを安全な場所に連れていって。役立たずでごめん。足手纏いでごめん。泣き虫でごめん。何も出来なくてごめん。だからお願い。ごめん。だけど助けて。怖いよ助けて。トロイを助けて。せめてトロイだけでも助けて。一人にしないで。お願い、トロイを助けて。怖いよ。トロイが怖がってるから早くトロイを。見えないよ。助けて。怖いよ。トロイと一緒に帰りたい。帰りたいよ。あの世界に、家に、家族の元に、アラインの所に、帰りたいよ。
『分かった』
ぐずぐずとした泣き言に、やけにきっぱりとした返答があって、一瞬全部を忘れた。見えなかったことも、怖かったことも、全部忘れてばっと顔を上げる。でもそこに広がるのは、やっぱり赤黒い色だけだ。
「アライン……?」
思わず両手を前に出し、立ち上がろうと足に力を篭める。だけど震えていて力が入りきらず、体勢を崩して地面に倒れ込んだ。やけにふかっとした感触がする。土じゃないのに柔らかい。それでも痛みを感じた。一部硬い部分があったのだ。たぶん擦りむいた。ふかりとしているのに湿っていて、硬い部分もある。ここはどこなんだろう。私は今、何の上に立って……倒れ込んでいるんだろう。
分からなくて、なんにも見えなくて。それなのに、湿った地面をまさぐって確かめることに意識が向かない。恐怖より、疑問より、私の中で大切なものがあった。大切なことがあった。大切な人が、いるのだ。
「六花さん!」
すぐ近くで泣き濡れた声がする。やっぱり、トロイは泣いているのだ。
心の中で、もう一度確かめる。
アライン。
『何だ』
アライン。
『聞こえてる』
アライン。
『何だ』
アライン。
『六花、聞こえてる』
アライン。
『六花、泣くな』
困ったような声に、ぐしゃりと顔が歪む。
こわいよぉ。
顔も涙も取り繕えていないのに、ぐしゃぐしゃになった心が誤魔化せるはずもない。小さな子どもだってもっと上手に泣くのに、私は情けない声を上げて泣き喚く。怖いよ、怖いよ、どこにいるの。助けて。こっちに来て。ここにいて。怖いよ。寂しいよ。アライン。どうしてここにいないの。どうして一緒にいないの。見えないよ。見えない、怖い。だから、お願い。手を、繋いで。
『分かった』
ぐちゃぐちゃの言葉の羅列を、アラインは切って捨てなかった。だって、アラインだから。ずっと、ちゃんと聞いてくれたアラインだから。でも、聞いてくれると分かっていて甘えたわけじゃなかった。そんなこと何も考えられず、ただ縋った私に、アラインは自分から続ける。
『指示はトロイに出した。トロイに従って動け』
見えないよ。
『すぐに行く』
すぐっていつ。何分? 何秒後?
『だから』
アライン。
『待ってろ』
いつも通り、淡々として流れるような静かな声を聞けば、思い出す色がある。瞼の裏を覆うこんなどす黒い色じゃなくて、もっともっと透き通った苺ジャムみたいな紅瞳を。そして、その紅瞳を持った、優しい人を。
声を聞けば鮮やかに浮かび上がる。真珠みたいにとろりとした白銀に、半分だけ混ざっちゃった私の黒が視界の端に過ると、少しだけ物珍しそうに追う紅瞳。ちょっと痩せすぎで、色々尖っちゃってる細い身体を取り囲んで、お母さん達がいっぱいご馳走を構えている姿まで、見てもいないのにびっくりするくらい鮮明に思い浮かぶ。
見えなくたって見えている。見えなくたって、ここにある。覆われたって忘れない。奪われたって失わない。みんないる。ここにいる。消えてなんていない。私は何も失っていない。
だったら、大丈夫。ちゃんと強がれる。子どもの前で、ちゃんとお姉さんぶって、年上の役割を果たせる。強がりだって、貫き通せば強さと変わらないはずだ。
「……うん、待ってる」
ごしごしと涙を拭いた袖を見ても、見えるのは塗り潰された赤黒色だけだ。粘ついているのにからからになった口の中で唾液を掻き集め、ごくりと飲みこむ。鼻を啜って、ぐっと顔を上げる。
「泣かずに、待ってる」
目元と鼻の奥に力を篭めていないと、泣き虫な私の涙はすぐに溢れ出てきてしまう。でも、我慢しよう。塗り潰したり、余所に弾いて誤魔化すんじゃなくて、ちゃんと我慢する。
そして、アラインが来てくれたら、ちゃんとアラインの前で、アラインにしがみついて泣こう。私は馬鹿だ。泣く場所はここじゃない。ちゃんとくれた。アラインが、ちゃんとくれたじゃないか。アラインは計画を立てて進言しろと言ったから、その通りにしよう。ちゃんと我慢して、アラインが来てくれたら泣こう。
『…………俺が行っても泣かないという選択肢はないのか』
そんなもの知らない。見たことも聞いたこともないから、きっとどこにも存在していない幻の物体なのだろう。
小さな溜息が頭の中で聞こえた。
『しばらく集中する。何かあったら呼べ』
「うん、分かった」
もう一回ずびっと深く鼻を啜り、トロイがいると思わしき方向に向く。大丈夫。だって私、お姉さんだもん。
「トロイ、二人でアライン待ってようね!」
「は、はいっ……でも六花さん」
「ん?」
「僕はこっちです」
「え!? どっち!?」
慌てて両手を彷徨わせる。おろおろと彷徨う私の手を、冷え切った小さな手が握りしめた。
「ここです」
「みーつけた!」
「見つかっちゃいました」
自分から捕まりに来てくれた子どもの手を引き寄せて、思いっきり抱きしめる。冷え切ってこわばった小さな身体は、最初こそ固まったけれど、徐々に力が抜けていく。氷が解けるように少しずつこわばりが解けていくと、そろりと腕が動いて私のお腹に近い側の背中が握られた。脇腹より少し奥、背中よりだいぶ手前。遠慮がちな力で、緩く握られた服は、たぶんちょっとしか皺になっていない。
「大丈夫です、六花さん。すぐに師匠が来てくれます。師匠から頂いた証があれば、地界でも息ができるそうですから決して手放さないようにとの事です。それで、師匠が来てくださるまで、誰にも見つからないように隠れていましょう。大丈夫です。大丈夫ですから。僕、かくれんぼ得意なんです。だから、六花さんは何にも心配しなくて大丈夫です。僕が、必ず師匠が来るまで、僕が、ちゃんと、絶対大丈夫なように、だから、だから六花さん」
「うん、頼りにしてる。ありがとう、トロイ」
「ぼ、僕、まだなんにも」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
胸元で、小さくて細い身体がひくりと震えて、引き攣った呼吸が密着した場所から届く。子ども特有の、細くて柔らかい髪に頬をつけて深く抱きしめる。脇腹の後ろを控えめに握っていた力がぎゅうっと強くなった。
泣いちゃってごめん。びっくりさせてごめん。一人で頑張らなきゃって思わせて、本当にごめん。私も、頑張るから。一緒に、アラインを待ってよう。
自分のじゃない鼻を啜る音を聞きながら、私ももう一回ずびっと啜る。
「ねえねえトロイ」
「…………はい」
「私の目、どうなってる?」
取り返しのつかない状態だといわれるのが怖くて、聞けずにいたことをようやく口に出す。聞いたってどうしようもないかもしれないけど、聞かずにいるのも怖かった。できるだけ意識して震えないよう保った声は、それなりの効果を発したようで、恐る恐る見上げてきたらしいトロイは、答えて大丈夫だと結論を出してくれた。
「赤く、なってます」
「充血?」
「いえ、白目の部分も含めて全部一色です」
「え……怖くない?」
「こ、怖くないです! …………六花さんと師匠なら」
つまり、私とアライン以外の人がなってたら怖い物件という訳だ。
それはまあ、そうだろう。赤と言ってくれたけれど、私の視界を覆っている色から鑑みるに赤黒色だろう。それが白目の部分含めて全てを塗り潰した瞳なんて、恐怖以外の何物でもない。閉じといたほうがいいかな。
一応閉じておくけど、見えないと分かっていても閉じたままの視界はどうにも落ち着かない。身体の中に染み込んでくるかもしれないのも怖い。でも、既に眼球を染められているのだからどうしようもないと諦めるべきだろうか。
「ここ、どんな場所? 地界って、私の世界にはたぶんない場所だから、想像できないや」
絶対ないと言い切れないから、たぶんとつけとこう。
トロイは私の腕の中からもぞもぞと抜け出す。ごしごしと肌を擦る音がする。そんなに擦ると目元が腫れちゃうよと言いたいけど、私もさっき自分の擦っちゃったから人のことは言えない。
「えっと、日陰の植物がいっぱいあります」
「シダとか?」
地界は日が昇らないと聞いたから、太陽の光を必要としない植物が多いのだろうか。ようやく通り始めた鼻で空気を吸いこめば、土っぽいというよりは苔っぽい、湿った植物の匂いがした。
「はい。でも、全部おっきいです。ぜんまいみたいなのは、師匠よりおっきいです」
「そんなに!?」
「たぶん、六花さんが抱きついても、両手が後ろに届かないんじゃないかなって。足元は、岩肌に苔がいっぱい生えてます。それで、植物も苔も、全部光ってます」
「ぴかーって?」
「うーん……どっちかというと、ほわほわぁーって感じで…………六花さん、立てますか?」
「え? うん」
まだ力が入らないけれど、そんなことは言っていられないし、悟らせるわけにもいかない。足を抓ってその痛みで神経を叩き起こす。
「あっちの茸が派手に胞子を噴き出し始めました。たぶん、夜が近いから活発になってきたんだと思います。これもその内胞子を吐くかもしれません。毒があるかの判断がつかないので、離れたほうがいいと思います」
「うん、分かった」
小さな手がぎゅっと私の手を握ってくれる。出来る限り体重を掛けないように立ち上がった。立てた。大丈夫。立てた。立てたなら、歩ける。前が見えなくても、なんにも見えなくても、進むことなら、できる。
すり足で一歩進む。私の中では大きな一歩だったけれど、たぶん、半歩分も進んでいない。ちょっと身体を動かしただけでも、目の前に壁があるような気がして足だけじゃなくて身体全部が竦む。でも、歩かなきゃいけない。歩けなかったら、トロイまで進めない。トロイまで引き止める。じゃあおんぶしてもらうの? こんな小さな子に?
そんなの、できるわけない。歩けるのに歩かないでトロイにおぶさるなんて、絶対しちゃいけないことだ。
「六花さん、僕が前を歩きますから、絶対ぶつかったりしませんよ!」
「うん、ありがとう!」
大丈夫。怖くない。怖いけど、怖くないったら怖くない!
ぐっと大きく足を踏み出す。それでも手を繋いで前を歩くトロイに当たらないから、やっぱり歩幅は小さかったんだと思う。だけど、トロイはなんにも言わなかった。
息をすることすら忘れるくらい必死に歩くことに集中する。たまに湿って濃度の濃い、植物の匂いを乗せた強い風が横っ面を叩く。湿度が高いのか、緊張しているからか。うっすらと汗が滲んだ頬に髪の毛が張り付く。それを耳にかけていて、ふと思いついた。
繋いでいないほうの手で髪を手繰り寄せ、アラインがくれた髪留めを外す。
「六花さん?」
何かごそごそしていることに気づいたトロイが声をかけてくる。それに、にかっと笑って左手をかざす。
「どう? 御守り!」
髪留めを指に通して、指輪みたいにしてみたのだ。他の指だと関節に引っかかって曲げられないから、一番長い中指にはめてみた。そのままぎゅっと握りしめたら、わぁっとトロイが嬉しそうな声を上げた。
「六花さん、師匠と結婚するんですか!?」
「突拍子もないこと言い出した!」
「え? だって男性から贈られた髪飾りで指を飾るって、婚約した女性がすることですよ?」
「…………文化の違いって、面白いね」
直接握りしめたほうが元気を貰えるような気がしたけど、そっと髪につけ直した。
トロイ君、えーじゃありません!