60伝 はじめての黒炎
たった一滴。たった一滴の血が落ちた地面が真っ赤に染まる。まるで鏡のように空を反射する赤黒い液体の中で、二人、消えた。
中に消えたのかは分からない。何せ一瞬の出来事だったのだ。グランディールに分かるのは、瞬きの間に二人が消えたこと。そして、見えないと、拠り所を無くした幼子のような声を上げた少女が、自分の名を呼んだ紅鬼に躊躇いもなく手を伸ばしたことだけだった。
躊躇うどころか、そこに一縷の光があると信じて疑わず、救いを求めて伸ばす少女の顔は、今にも泣きだしそうにぐしゃりと震えていて。
グランディールは何かを言おうとした。何かを世界に放ちたかった。けれど、そのどれもが言葉に、音にすらならず、世界に放つことはできない。はくりと、呼吸の成り損ないが無様に散っただけだ。
「トロイ!」
子どもの集団から転がり出てきたライテンは、光沢のある真白い制服が浸かることに躊躇せず地面に両膝と両手をついた。
「トロイ、トロイっ……! 何てことっ、何てことをするざます!」
どろりとした液体であっという間に地面を覆い隠した赤黒い液体を、小さな手がぐちゃぐちゃと掻き回す。たった一滴で作り上げられたおぞましい海は、さっきまでの質量をどこへやったのか、今では薄布程しか存在しない。掻き回されるままに線を描き、細い指に追従して地面が見える。
しかし、ライテンがどれだけ液体を掻き分けようと、その下から現れるのは敷き詰められたタイルだけだ。グランディールは力が抜けて崩れかけた身体を、無意識に引いた足で支える。べちゃりと、粘着質な音が響くその下にはいつも通りの硬い地面があった。いまライテンが掻き回している地面と同じものだ。
それなのに、ここに確かにいた二人の存在が消えてしまった。
「おやおや、聖人の御子まで地界に送るつもりはなかったのですが。ふむ……これもまた神の御意思ですね!」
ファナティカーは失敗した子どものようにしゅんとしたが、それも一瞬の事で、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべた。すべて解決した、もう忘れたと言い出しても違和感がないほどの笑顔だ。
優美か大仰か、判断をつけかねる動作で大きく開かれたファナティカーの両手が、空気を切り裂かんばかりの音を響かせて打ち付けられる。鼓膜どころか腹の奥まで震わせる音がグランディールを通り過ぎていくと同時に、のた打ち回っていた根に変化が現れた。
根が砕けていく。
否。崩れていく。
血がついた場所からばらばらと散り始めた根に、ライテンは金切声を上げ、ロイセガンが文字通り飛んできた。ロイセガンは血の海の中から弟子を掬い取り、己のマントで包むや否や、真っ赤に染まった小さな身体を自分の衣服に擦りつける。子どもの痛みを考慮せず、皮膚ごとこそげとらんばかりだ。グランディールの腕もバトラコスが掴み、片手で血の海から放り出した。
砂よりは荒く、ぼろぼろと大粒の塊になって砕け散る根に、グランディールの顔も青褪める。
だって、消えたのだ。あの中に、二人、消えたのだ。
「後どこついた!?」
「師匠、トロイが、トロイがっ!」
「トロイはトロイの師匠に任せろ! 顔は!? ついたか!? くそっ、誰か水!」
弟子を抱えて走り出そうとしたロイセガンの肩を誰かが掴む。邪魔だと振り払おうとした青年は、その相手が誰か気づき、畏まることも忘れて叫んだ。
「シャムス様!」
「分かってる。おい、エーデル」
弟子を掴んだまま詰め寄る聖騎士二人を押さえたシャムスは、首だけで後ろを振り返った。その先では、エーデルが地面に膝をつき、仄かに光る掌で渇き始めている水たまりをなぞる。そして、僅かな沈黙を得て、ふぅと少しだけ肩を落とす。
「力が通っていないので、これはただの血液です」
「よ、かったぁ」
弟子を抱いたままへなへなと座りこんだロイセガンの頭をぐしゃぐしゃ撫で、シャムスも息を吐いた。しかし、その眼孔には欠片も柔らかさを浮かべていない。グランディールは最初、ファナティカーを睨んでいるのかと思った。何故か、そう思った。
ファナティカーは地界に送ったと言った。聖人の子を地界に送ったと。地界には瘴気がある。人間は勿論、まだ力の弱い子どもでは長くはもたない。だから怒っているのだと。だって聖人の子どもが、罪も犯していないのに、地界に送られたのだ。たとえ教会の人間であろうが許される所業ではない。神の意思であろうと、怒るくらいは。だって、聖人の子どもが命の危機に曝されているのだ。たとえ神の意思であろうと、睨み付けるくらいは、するだろうと。
「どうした、グランディール」
グランディールの師は、真っ青な顔で口元を押さえた弟子に首を傾げた。両手で口元を押さえて震える身体からは、装飾品がぶつかり合ってかちかちと音が鳴る。しかし、その音は彼の口元からも漏れ出ていた。
僕はいま、何を考えた?
がちがちとぶつかり合う歯の根を必死に抑え込んだ視界の先には、長い金髪の人間がいる。ただの人間と呼ぶにはグランディールなど比べようもないほど長く、神の膝元で生きる人間だ。
光の色とされるそれを持つ人間は、呆然と見つめるグランディールに気づき、酷く歪な笑みを浮かべた。
「あ……」
グランディールの周りをたくさんの聖人が駆け抜けていく。子ども達はまろびながら城の中に駆け込み、大人達はそれらを背にして根に向かう。紅鬼の弟子が、聖人の子が、騎士見習いが、地界に行ってしまった。長くはもたない。早く救出してやらねば死んでしまう。必死の形相で叫び、根を寸断していく。
もう一人、いたのに。どうして誰も。人間だから? 人間だからどうでもいいと? でも、それにしたって、誰も一言も。聖人の子どもより弱い人間は、トロイよりもあっという間に瘴気に蝕まれて、呼吸さえままならずに死んでしまうのに。どうして誰も、自分すらも、どうして、当たり前のように忘れて。
まるで、ここが地界のようだった。だって、息がうまく出来ない。吐きそうだ。
「……どうした? 落ち着いて息を吸え」
いつもなら、この程度の事で動揺していては聖騎士など遠い夢だぞと笑う師が、心配げに背を擦ってくれる。だが、師の大きな手に支えられても、グランディールは何一つ落ち着くことはできなかった。
顔色が戻らない弟子を支えていたロイセガンは、凄まじい速度でうねりながら駆け抜ける根の一部が向かってくることを視界の端に捉える。弟子を背に回し、無表情で剣を構えた肩をシャムスが押さえた。
「シャムス様?」
いつもならどんな些細な問いかけにも面倒がらずに答えてくれる気さくな男は、ロイセガンの不思議そうな問いに視線一つ向けなかった。その目は、今尚蠢く根に固定されている。その時、グランディールは自分の間違いに気づいた。シャムスの目は、ずっと根を見ていたのだ。
聖人最高の武を誇る彼ならば、迫りくる根に脅える必要もないのだろう。硬い肉で張った背を伸ばしたまま、まっすぐに前を見据えている。その背に違和感が浮かんだのは何故だったのか。グランディールは吐き気を堪えていたことも忘れ、目を見開いた。
シャムスの大きな拳は、開かれたままだらりと身体の横に垂れている。武器を握っていない。それどころか、帯剣すらしていない。
動きは軟体生物のようにうねるにも拘らず、まさに生木が引き裂かれる硬い音を立てて根が狙いを定めた。地を這い、空を縫って、瞬きの瞬間に眼前まで根が迫りくる。それなのに、シャムスは一歩も動かなかった。
風がシャムスの頬を揺らす。荒く太めの髪が後ろに流されるほどの風だった。だが、シャムスは瞬き一つしない。息を止めていたのは周囲の者だけで、当事者である彼と、彼ともっとも長く付き合ってきたエーデルは、驚きも怯みもしない。ただじっと一点を見つめていた。
まっすぐに見つめるシャムスの眼前で、全ての動きを止めた根を、見つめ続けている。
ややあって、動いたのはシャムスだった。ゆるりと持ち上げた手を、躊躇いなく根に沿わせる。あれだけ生き物といわれても差し支えなく動いていた根は、植物としての本分を思い出したかのように、雄大な自然の一部としてぴたりと動きを止めている。
「……お前、馬鹿だなぁ」
するりと撫でた根は、陽を吸収したのか、どこか温かく人肌を思わせる。だが、シャムスはぐっと何かを堪えた。子どもの体温は、こんなものではないのだ。子どもは体温が高い。眠くなれば尚更、抱えた大人をも眠りに誘ってしまうほど、ほのかで強烈な温もりを発する。
額をつけた根から鼓動は聞こえない。だが、気配が去っていくのが分かる。ただの木と化していく。どんどん薄れていく気配を追えないシャムスは、額を擦りつけた根に呟く。
「生きてたんなら、どうして帰らねぇんだ。どうして、三百年も一人で絶望してんだよ、馬鹿野郎」
空に、地に、その真ん中に。地界を貫いて生えた巨大な根は、今更本来あるべき姿を思い出したのか、全ての動きを止めていた。動きを止めた根を赤黒い液体が追いかける。見る見る間に崩れ落ちていくそれらを片目で見遣り、シャムスは誰にも聞こえないように呻いた。
「…………長、あんたの息子を見つけたぞ」
エーデルだけに聞こえたその言葉に、そっと視線を落とす。音として届いたのではない。同じ事実を知っているからこそ、長い時を同じ地獄を生きてきたからこそ分かった。同じ言葉、同じ嘆きは、エーデルの胸をも焼いているのだ。
ああ、どうしてなのだろう。エーデルは両手で顔を覆って世界を呪う。じりじりと痛む首筋を無視して、ぎりぎりと軋みを上げる心を妨げない。
三百年前にも渦を巻いた嘆きが、今となってもエーデル達の世界を焼き尽くす。
『エーデル、僕はね』
小さな小さな子どもの声は、怒りにも嘆きにも疲れ果て、まるで砂のようだった。
『大好きな人達が生きていることがこんな……こんなにも、何の救いにもならないことがあるだなんて知らなかったんだ』
繰り返す。どれほど生きても、どれだけ泣いても。世界は繰り返し続ける。何故なら根本が変わらないからだ。道が変わらない限り、どれだけもがいても結局は同じ場所をなぞるだけしかできない。そうして、疲れ切り背負いきれないほどの絶望を抱いて、同じ結末に辿りつく。
だが。
「待ってろ」
誰の言葉とも繋がらない声が世界に落ちる。独り言にしては大きく、この場にいない者に届けるにはあまりに小さい。
エーデルは、顔を覆う手をゆっくりと外した。
嘆いて立ち止まるのは簡単だ。自分だけが溺れ沈み、全てを閉ざして終わればいい。後は 延々と、叶わなかった夢を嘆き、閉ざされた未来を惜しみ、その原因となった全てを憎み、願いに届かなかった己の無力を罵りながら世界を呪って生きればいいのだ。
だが、エーデルはそれを選択することは勿論、選択肢として数えるわけにもいかない。
まだ知らない子ども達がいるのだ。エーデル達が逃れられなかった痛みを、嘆きを、絶望を、この子達は知らない。到達していないだけだとしても、まだ、それらはこの子ども達を捕らえてはいない。ならば、エーデルに立ち止まる選択肢は現れなかった。
足掻いた先にあるのが同じ絶望だとしても、底などない地獄が更なる絶望を招き入れたとしても。
生きてさえいてくれるなら。諦める理由は消え失せる。ここにいる子ども達が、かつて子どもだった彼らが生きてさえいるのなら、エーデルはそれが新たな地獄だろうが喜んで飛び込んでいく。
終わってなるものか。終わらせてなるものか。今度こそ、まだ届くのなら、躊躇う理由がどこにある。絶えていない希望を通り越し、まだ来ていない未来を見越して絶望するのは性に合わない上に、それで諦められるほど、夢見た願いは浅くない。
じりじりと焼ける首筋の痛みはやはり無視し、エーデルは落ちていた前髪をかきあげる。開けた視界を見据えたその顔は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「聖騎士アライン・ザーム」
穏やかな声の主に視線を向けたのは、呼び掛けられた当人だけではない。声の届かなかった面子までもが意識を向ける。皇帝不在のシャイルンで聖人の長を務めてきた者の言に注視しない者がいるはずもない。まして相手が忌み子であればなおのこと。双龍と忌み子は、感情こそ真逆であったが同じだけの注目を向けられる存在だ。
踵を揃えて向き直ったアラインの動きについていけず、宙に取り残されたマントが一拍おいて彼の背に戻った。
「よく飛び出しませんでしたね、いい子ですよ」
まるで幼子に向けるような物言いの後、穏やかな笑みをそのままに、地面を指差す。炎を閉じ込めたような光を放つ紅瞳が、長い指の先を射ぬいた。
「エーデル・アルコ・イーリスの名において、地界での単独行動の許可を与えます。構いません、行きなさい」
最後の言葉が終わるや否や、身を翻したアラインのマントを血塗れの手が掴んだ。
珍しく驚きを露にしたアラインよりも、掴んだ本人、グランディールが自分の行動に誰より驚いていた。
手が、勝手に動いた。
グランディールは脳を通さず動いた自分の手をまじまじと見つめ、はっと視線を上げた。同じようにその手を見つめていた紅瞳が、同じ時にグランディールを向く。いつも、何にも固定されずに流れていく紅瞳がグランディールを映し、ほんの少しだけ見開かれている。どろりとしたどす黒い闇のような印象のあった瞳の中に、先を急かすような光が見えたような気がした。
何かを言うつもりなんてなかった。そもそも引き留めるつもりも、忌み子と関わる理由すらどこにもない。ないはずだ。
それなのに、気が付いたら口を開いていた。
「あ、あいつを、助けてください」
驚くほどにか細く震えていた自分の声に驚いたが、グランディールが何より驚いたのは自分自身が放った言葉だった。己の師が紅鬼のマントを掴んだ手を叩き落とす。じんじんと痺れる痛みより、紅鬼に、忌み子に対して言葉を発した自分の舌が痺れているように思えた。
「あ、あいつ、を」
名前が出てこない。生意気でうるさい人間の女の名前なんてどうでもいい。けれど、グランディールはその名を聞いていた。知っていた名前が、出てこない。一緒にいなくなったトロイの名前は出てくる。聖人は高い知能を持って生まれてくる命だ。今まで関わった命全てとはいわないまでも、幾度か会話を交わしただけの相手の名前は滑らかに脳内を回るのに、ついさっき言葉を交わしたはずのたった一人の名前が。
「もう手遅れだ」
ぽつりと降った言葉に、氷の手で心臓を掴まれた。早いのか遅いのか分からない酷く響く心臓とは真逆に、脳内で鳴り響く耳障りな雑音が喚き散らす。
見えないと、そう言ったのに。親とはぐれた幼子より頼りなげに、そう言ったのに。グランディールは、手を取ってやることも、名を思い出すことすらできない。だからもう、彼しかいないのに。
グランディールはぐしゃりと顔を歪ませた。あの人間は、目の前の忌み子のためにこの世界に現れた。この忌み子の片翼が、縋ったのは、縋れるのは、この世界で片翼だけだ。片翼にしか許されない。だけどきっと、両親を呼びながら寂しいと泣いた少女が手を伸ばしたのは、許されないからではなかった。だって、言ったのだ。大丈夫だと。目の前にいる忌み子が……アライン・ザームがいるから大丈夫だと。
それなのに、そんな一言で斬り捨てるのはあんまりだ。あの誰か……あの、少女、の、信頼があまりに無残ではないか。
散りかけた思考を掻き集めたグランディールからの、まるで睨み上げるような視線に、アラインは小さく息を吐いた。
「もう、泣いてる」
「……え?」
アラインの視線はグランディールを通り越し、じっと地面を見ている。その様が、まるで途方に暮れた子どものようで、グランディールは言葉に詰まった。別段胸を打たれたわけではない。ただ、そう、目の前の忌み子が、まるで命のように見えたことに酷く動揺したのだ。
「あいつは……六花は、すぐに泣く」
だから。
そう続いて、その目が自分を向いていて、グランディールは思わず背筋を伸ばした。そうだ。会話をしているのだ。目の前の忌み子……聖騎士アライン・ザームは、グランディールをそうと認識し、同じ相手、彼の片翼である異界の少女、六花の話をグランディールとしている。そう……六花、六花だ。何度も名乗っていた。何度も、こうして忘れられるからではないだろうが、何度も何度も。六花だと、覚えてと。
「だから、すぐに行きたいんだが、もう用は済んだか」
彼の視線が下りて、既に師によって叩き落とされているグランディールの手を見た。とっくに彼を引きとめる手は放されているのに、律儀に待っていたらしいことに思い至り、グランディールは慌てて立ち上がった。
「は、はい」
「そうか」
未練も何もなく、あっさり背を向けたアラインに小さな影が駆け寄る。
「トロイも! トロイも救出してほしいざます!」
真っ赤な顔で必死に叫ぶ子どもに、アラインは首を傾げた。
「何故」
「た、助けないざますか!?」
「弟子に何かあれば、師が行くものなんだろう? 何故頼まれる?」
きょとんとしたライテンと同じくらいきょとんとして見えたアラインは、首を傾げつつもすぐに歩みを再開した。数多の視線を一身に受けながらも気にした様子はない。彼にとって珍しいものではなかったからだ。珍しいといえば話しかけられたことだったが、既に走り出していたアラインは意識の先を巨大な根の塊へと向けていた。
天をも穿つ巨大な根は動きを止めていたが、未だ地界と通ずる入口を占拠している。取り除くためには刈り取ればいい。アラインならばこの根を寸断することは可能だ。だが、いちいち刈り取っている時間が惜しい。
惜しいのだ。五分が惜しい。一秒が惜しい。どれだけ早く駆けようと足りはしない。いつもは不満などなかった速度が疎ましい。自分の足はこんなに遅かっただろうか。こんなにも身体の動きは鈍かっただろうか。
何もなかったからこそ、足りないものなど何もなかったアラインはいま、初めて欠けた。
六花が、トロイが、泣いているのだ。何もなかったアラインの手が届く場所にいた二人が、アラインの手が届かない場所で泣いている。
胸を焦がすこの感情が焦燥だと、アラインは知らない。知らないからこそ押さえる術も知らなかった。
一秒が惜しい。ならば、燃やせばいい。
走りながら両手を合わせる。打ち合わせた手の間に起こった熱を互いの間で行き来させていく。本来ならば徐々に規模を広げていく力を最初から全開にし、両腕を広げて巨大な炎の風を作り上げる。馴染ませることなく急速に広げた炎に腕の筋が軋んだが、どうでもよかった。
作り上げた炎の風に息を飲んだ音がそこら中から上がったことでさえ、もう、どうでもいい。
天をも穿つ根を舐めつくして駆け上がる『黒い』炎に、悲鳴に似た声が上がった。
黒炎は炎を煮詰めたような純度の高い火だ。通常の炎をも焼き尽くす、まさに業火。そしてそれらは、闇人だけが扱えた。かつて地上を焼き、聖人が消さない限り、三日三晩、半年、一年、その場を燃やし尽くす地獄の業火。
アラインは今までその炎を人前で扱ったことはなかった。使えることは分かっていた。だが、使う必要があるほど逼迫した事態はほとんどなかったし、ただでさえ紅瞳を持って生まれた身で地上は生きづらかった。だから通常の赤い炎を扱ってきたが、そんな物では足りない。対象物を一瞬で炭にする純度の高い炎でなければ、足りない。今すぐに道を拓け。遮るな。アラインの手元にあった二人までの道を、遮るな。
ずっと、アラインの中で声が巡る。繋がったままの二人が泣いているのだ。きんきんと叫び、わんわんと泣き喚いたことがあるとは思えぬ弱弱しい声で、呼吸のようにか細く、止まらない涙を流し続けている。
二人までの道を遮るものに対する感情の中には苛立ちも混ざっていた。しかし、そんなものを認証できる余裕はなかった。
癇癪を起こした子どものように両手で叩きつけた黒炎の塊は、根に触れるや否やファナティカーの血液などものともしない勢いで根を這いあがる。それを視線で追って確認することすらせず、黒炎が通り過ぎた場所からぼろぼろ炭化していく根が密集する地、地界との入口の前に飛び上がり剣を抜く。
邪魔だ。どいつもこいつも、道を遮る全てが邪魔だ!
黒炎を纏った剣を焦げ付かせながら、咆哮に近い声を上げて振りかぶる。黒炎はまるで豪雨を彷彿とさせる密度で、矢のように降り注いだ。濡らすどころか燃やし尽くす黒い炎の雨が触れた箇所から崩れていく。ばらばらと崩れる根の中に再びぽっかりと空いた深い深い闇の中に、アラインは躊躇せず飛び込んでいった。
「そうだ、アライン。なりふりなんざ構うな。お前の持ち得る全てを使って、なりふり構わず、奪われちゃならねぇものを守れ」
シャムスとエーデルはそれでも足りなかった。持ち得る全て以上の物まで懸けても足りなかった。それでもあきらめられないことがあると知っている。そんなことどうでもいいと思えるほど、全てを懸けても惜しくない尊い存在があった。
「行きなさい、アライン。行って、帰ってきなさい。ちゃんと三人で……互いが生きていることを喜んでください」
じりじりと首筋を焼いていた熱が、じわりと場を広げる。二人は、断続的に針を刺されるような痛みに思わず上げかけた手を止め、じっとこっちを見ているファナティカーに背を向けた。