59伝 終れそうな心
外は、いつの間にか夕焼けになっていた。
集まって一つの大樹のようになっている根が空を這っている。突き上げた土や石が空から降ってくるから、まるで空が地面のようだ。でも、雲を突き崩してまだうねりを上げる根は、大地に根を張る安心感なんてなくて、破壊の恐怖しか感じない。
わあわあと怒声とも悲鳴ともつかぬ声が響き渡っているから尚更だ。
先に行った……行かされた? シャムスさんの指示で、騎士見習い達がお城の傍に走って戻ってくる。トロイくらいの子どもは問答無用で建物の中に押し込まれていくのに、トロイは屋根すらない場所にいるアラインの傍にいた。
年下の子どもを誘導していた騎士見習いの中に見知った顔を見つける。目が合ったのでひらっと掌を振ってみたら、ぎょっとした顔をされた。他の子ども達も、私の隣にいるアラインに気づいたらぎょっとしていたけど、彼は私を見てぎょっとした気がする。
アラインを気にしてか、じりじりと円を描くように距離を縮めてきたグランに腕を掴まれ、五歩くらい引っ張られた。
「おい」
「何?」
「お前のその顔……何だ?」
「何が?」
要領を得ない言葉をぼそぼそと言うグランに、更に首を傾げる。周りの声が大きいから聞こえないのかと半歩近づくと、気まずそうに顔を近づけてきた。
「……泣き腫らした顔してる」
「え!?」
教えてもらった事実に、慌てて両手で頬を押さえる。
そういえば、酷い言葉を言わされた時に散々泣いた。鏡がないから全然気づかなかったけれど、酷いことになっているらしい。どうして誰も教えてくれなかったんだ!
「ひ、ひどい顔してる?」
「腫れては、いる」
「つまりは不細工と……」
「人がぼかしてやったのに……」
周りに気を使ってくれているらしいグランとひそひそと話していると、目が合ったアラインの足先がこっちを向いた。それに気づいたグランの表情が強張って早口になった。
「あ、紅鬼が何かしたのなら僕から師匠にお前の保護を進言してやることも可能だがどうする」
あまりに早口で聞き逃しかけたけれど、なんとか理解してびっくりした。グランの顔を見ても、焦ってはいたけれど真剣そのもので更にびっくりする。
早く答えろとそわそわして、既に身体が半歩以上逃げているけれど、ちゃんと答えを待ってくれているグランに、答えより先にありがとうが飛び出した。グランはさっきの私よりもっとびっくりした顔をした。それだけじゃ伝わらないから、慌てて続ける。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
「でも……紅鬼が、いるんだろう?」
「アラインがいてくれるから、大丈夫」
弱音を吐いて泣きべそかいた時、寂しくて寂しくて泣いた時、痛くて怖くて泣いた時。
アラインがいてくれたから、大丈夫だった。頓珍漢なことだって言うしやるけれど、いつだって生真面目に私を分かろうとしてくれたアラインがいるから、大丈夫なのだ。
もう一回ありがとうと、今度こそ笑って言えた。さっきは頭すら通さず飛び出してしまったありがとうに、今度こそ気持ちを籠められたのに、グランは力いっぱい殴られたみたいな顔になった。
トロイが弾けた種みたいな勢いで走り寄ってきて、私とグランの間に挟まる。ちょっと無理がある。トロイの背中にぐいぐいと押されて半歩よろめいた背中に、辿りついたアラインの胸が当たった。向かい合わせのグランの顔が盛大に引き攣った。飛び跳ねた一歩分離れたけど、目が合った瞬間ぐっと何かを飲みこんでそこに留まった。
「六花」
「うん?」
薄い胸に後頭部をつけて顎を上げることでアラインの顔を見上げる。紅瞳は、グランがこの場に留まったことに少し驚いていたけれど、すぐに視線を外して私に落とした。
「町に現れた時より根が硬い。騎士でも断ち切れない物がある。聖騎士で焼き払いながら地界に下りて闇人の本隊を探すことになった。お前はトロイと残れ」
「うん」
「髪飾りは絶対に外すな」
「うん」
くるりと回ってアラインに抱きつく。危ない? とか、大丈夫? とか、聞いても無駄なことは言わない。聞いたところで私にはどうすることもできない事で時間を割かせるより、大事な言葉は別にある。
「気をつけて!」
「分かった」
「帰ったらご飯食べよ!」
「分かった」
頷きはしなかったけれど、二回とも返事をしてくれたアラインはそのまま背を向けて歩き出そうとした。けれど、ぴたりと止まって振り返る。
「トロイ」
「は、はい」
「六花といろ」
「はいっ」
手短に終えた会話で用は済んだのか、薄い背中はもう振り向かずにマントを留め具に留めて、剣を抜く。剣の具合を確かめるかのような無造作な振りでこっちに伸びてこようとしていた根を斬り捨てた。
飛び上がって驚いたトロイが返事をし終わるかどうか微妙なところだったけれど、トロイは今にも泣きだしそうだ。震える瞳が私を見て、いまの会話を見ていたかを確認してくる。見た見たと頷けば、ぐずっと鼻を鳴らして目元を擦った。
「六花さん……」
「ん?」
「僕、今から接着剤で固定されたみたいに離れません」
「人間関係って適度な距離が必要だと思うけど、まあいっか」
ごしごしと目元を擦っているトロイの背中を擦りながらグランを見ると、やっぱり思いっきり張り飛ばされたみたいな顔をしていた。
どうしたのか聞いていいだろうか。私が踏み込んでいいことだろうか。
あまりに痛そうな顔をしているから、聞くことも見なかったことにすることも出来ず口籠る。どうしようとそわそわしている私に、グランも気まずそうに視線を逸らしてぴたりと止めた。視線の先を辿ると、いま一番見たくない人が大量に並んでいて思わず「うげぇ」と声が漏れる。
ファナティカーがずらりと並んでいる。比喩でも言い間違いでもなく、ファナティカーがずらりだ。城の中に逃げ込んでいった子ども達がファナティカーの群れに押し出されて所在無げに隅っこに寄っている。
先頭を歩くファナティカーだけが子ども達に頭を下げ、すみませんと爽やかな笑顔を浮かべていた。後ろをぞろぞろと続く同じ顔は、人形だってもう少し表情をつけて作られると思うほど無表情だ。私を殴ったファナティカーはファナティカーじゃなかったらしいけれど、ちゃんと人間に見えるファナティカーだったのに、今はどのファナティカーも表情がなくてただファナティカーの形をしたファナティカーがファナティカーの後ろをぞろぞろとファナティカーしていた。
もうファナティカーがなんなのか分からなくなってきたファナティカー。
同じ身長、同じ顔、同じ服装の男が何百人もぞろぞろと、一人だけが表情を浮かべて歩いている異質な光景に、ただでさえ苦手な相手がもっと苦手になる。
「……お前、年頃の女が何て声を」
「……あの人のせいでこの顔になりました」
「その惨状に?」
「惨状!?」
自分でもそうかなと思っていたけれど、人に言われるとそれはそれで傷つく。
逃げ出したくてそわそわする私の前に、肩を怒らせたトロイが立った。どうやら事情を聞いているみたいで、小さな肩と全身から怒りを滾らせている。
ファナティカーは両手を広げ、大仰な動作で身体を折り畳んで礼をした。
「微力ながらこのファナティカーも、神の名の元に尽力させて頂きたく参りました!」
帰ってくださいと思ったけれど、それは私が決めることでも決めていいことでもないので、会いたくないなら私が下がるしかない。そろりそろりと、グランを盾にしてその影に入る。グランは怪訝そうな顔をしたけれど、飛びのいたり、ファナティカーに突き出したりしないでくれた。
そろーりと下がっていると、それまで上に上に伸びていた根が、みしりと異様な音を立てて軋んだ。ぱらぱらと破片が降り注ぐ。沈みかけているのに未だ激しく存在を主張している二つの太陽の光に目を細めながら見上げた先で、もう一度、今度は軋みというより弾けるような音がした。
そして、それは間違いではなかった。
突如、縦横無尽に弾けた根に悲鳴が上がる。それまではある程度規則的に纏まって伸びていた根、一本一本に意思があるみたいだ。まるで籠を編み始める前状態みたいになったと思ったら、いきなり地上を走り始めた。
「来ましたね、背徳者! この光の聖地シャイルンで、神の名の元にわたくしファナティカーが貴方を成敗してくれましょう!」
あちこちで伸び始めた根が急速に向きを変え、ファナティカーの集団に向かう。穴の周りを囲む聖騎士の、その聖騎士を囲う五倍以上の人数の騎士の間を縫い、弾き飛ばしながらまるでファナティカーしか見えぬというように。根の先は植物とは思えないほど尖り、針を思わせる鋭利さで風のように走った。
たくさんのファナティカーは、みんな同じ剣を持っていた。真白い光を放つ剣だ。カーテンの隙間から差し込んだ光を思わせる色なのに、冷気を纏ったつららを思い出したのは握っている人が生きている人間に見えなかったからだろうか。
意思を、はた目にも明確な殺気を持って襲い掛かる根を、ファナティカーは避けない。自分で作った肉壁で防いだのだ。
吐き気がして、思わず口元を押さえる。鋼のような硬さを持った根の勢いを完全に殺し切ったのを見ると、普通の身体ではなかったのかもしれない。けれど、小刻みに痙攣する手足は明らかに土人形とは違う生きた人間の動きで。絶命しかけた姿のほうが生きた人に見えるなんてあんまりだ。
ファナティカーの姿をした何かを何十体も突き刺したまま、根がのた打ち回る。その様を、唯一表情を持ったファナティカーが、薄ら笑いを浮かべて見つめていた。
人の形をした何かが、赤を撒き散らす。雨のように、赤黒い液体を。
「おい、下がれ! あれは僕には切れない!」
「僕も無理です、六花さん!」
腕を引かれる。なのに、私は動けなかった。じわりと液体が染み込んでいく感触が、やけにはっきりと分かって体中に怖気が走る。
「……おい?」
「六花、さん?」
それは偶然だったのだろう。
だって、ちょっと得したと、浮かれた声が聞こえたのだ。
『おや、これは幸運。神の御加護ですね!』
そう、私の中で、声がした。
左目を押さえてよろめく背を誰かが支えてくれた。トロイじゃ届かない位置だから、たぶんグランだ。でも、確認できない。分からない。
「おい、どうした!?」
「血が、入った」
手を外し、声のする方を見る。
「お前、目の色、が」
けれど、そこには誰もいない。たった一滴の血が、瞬きの隙間を縫って落ちてきた。やけにゆっくりになった時間の中、小さな小さな一滴が何故かはっきり見えていて。
片目にしか入らなかったはずなのに、視界はどちらも赤黒く染まっていた。
「見え、ない」
何も、見えない。
息を飲んだのはどちらだったのか。二人ともだったのかもしれない。けれど、周りの喧騒が大きすぎて判断できなかった。
「と、とにかく安全な場所に行くぞ! 来い!」
「六花さん、歩けますか!?」
低い位置から手を引かれたから、繋いだ小さなそれはトロイのものだと思う。いつもなら幸せに笑ってしまいそうになる温かく可愛い手を繋いでくれたのに、一歩踏み出した私の身体は凍りついた。トロイも、きっとグランも同じだ。だって、二人とも動かなくなってしまった。
ぬるりと、少し粘着質な液体を踏んだ感触が足元から走り抜ける。石畳の上に広がった液体は見えないけれど、きっと赤黒い色をしているはずだ。どこに足を乗せても液体から逃れられない。たぶん、辺り一面、血の海だ。
「なん、で」
おかしい。だって、さっき私の目の中に飛んできたのは小さな小さな一滴だった。それなのにどうして、息も出来ないくらいの鉄錆びの臭いが、ここにあるのだ。
ああ、それに。
『おお、我らが偉大なる神よ。これでわたくしを愛するようになる方が死ぬのならそれまでということなのですね! わたくしが全力を懸けるに値する存在かどうかを確かめろと仰るのならば、わたくしは喜んでその使命を全う致しましょう!』
声が、聞こえる。
私の中に染み込んだ一滴から、熱に浮かれあがったようなファナティカーの声が聞こえて。吐き気と怖気がない交ぜになってぐるぐる回っているはずの視界はやっぱり赤黒く染まって何も見えなくて。自分が瞬きしているのか、息すらしているのかも分からなくなった。私はいま立っているのだろうか、それともぐるぐる回って落ちて飛んで折れて砕けているのだろうか。何も見えなくて、何も聞こえなくて、私が私であるかも分からない赤黒の視界と臭いだけに掻き回される。
「やめろ! そいつはっ……!」
聞いたこともないほど酷く焦った声がして。
大事な友達の声がした方に手を伸ばしたのに、何も見えない手は何も掴めないまま、虚しく宙を切った。
夜露に濡れた土の匂いがする。湿った土に、湿った空気。世界を揺らす冷たい夜の風。聞いたこともない動物の鳴き声に、嗅いだことのない匂い。
その中で、蹲った私の頭を抱きしめる、震える小さな身体。
「大丈夫です、六花さん。僕、僕一人でも、絶対六花さんを守って、師匠の所に返します。だって僕、師匠にそう言い付かったんです。だから絶対、絶対に大丈夫です。ここが地界だからって、大丈夫なんです。僕、ちゃんとできます。だって僕、聖騎士アライン・ザームの一番弟子なんです。だから、約束です……だから、ねえ、六花さん。お願いします……泣かないでぇ……」
自分こそ泣き濡れた声をあげる子どもを抱きしめてあげないといけない。分かってる。私のほうが年上で、お姉ちゃんで、彼の師匠の友達で、彼の友達なのだ。大丈夫だよって、一緒に頑張ろうって言わなきゃいけないし、そうしてあげたいのに、声に出した瞬間泣き叫んでしまいそうで口を噤むしかできない。
両手で顔を握り締め、蹲ったまま必死に叫びだしそうな嗚咽を飲みこむ。どうしよう。どうしよう。どうしたらいい。見えないよ。何も見えない。嫌だ、こんなの嫌だ。見えない。
怖い。
駄目だよ、駄目だよアライン。
私、握られたくらいで折れないし、背中叩かれたくらいで圧し折れるほどやわじゃない。でも。
『アラインがいてくれるから、大丈夫』
さっき、グランにそう言った。
でも。だから。
アラインがいてくれなきゃ、大丈夫じゃない。
何があっても折れずに立っていられるほど頑丈じゃない。そんな自分が情けなくて、どうしようもなかった。