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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章 始まりの絆 終わりの恋
57/81

56伝 はじめての告白






「ただいま――!」


 大きな声で帰宅の宣言をする。でも、いつもは「おかえり――!」と同じくらい大きな声と何かやってる途中だったらしく何かしら手に持った状態のお母さんが出てくるのだけど、今日は珍しくしんっと静まり返っている。

 どこかに出かけてるのかなと首を傾げながら中に入ると、床にしゃがみ込んだお母さんがいてびっくりする。


「ただいま」

「うびゃぁああああっ!」

「うぎゃぁああああっ!」

「あ、何事かと思ったよ。リッカ、おかえり」

「こっちが思ったよぉ!」


 飛び上がって驚いたお母さんに飛び上がって驚いたけれど、とりあえず荷物を置きながらもう一回ただいまと繰り返す。横にしゃがみながら手元を覗きこんだお母さんの手元が緑になっていて、事態を察する。


「手間豆だ! やったぁ!」


 今度は喜びで飛び上がった私に、お母さんはふへっと笑った。


「ルーナが明日出張より帰還致すから、おいしいものでお出迎えするよ!」

「手伝う手伝う!」

「大助かりではあるけれど、それより以前に手を洗ってきなさい」

「はーい」


 手洗いうがいを済ませて袖を捲り、いそいそと横に座り込む。

 手間豆は、その名の通り非常に手間がかかる豆だ。まず、さやが太くて硬い。種の役割を果たす豆が同じくらい固くなるまで、意地でも弾けてやるものか、虫にも鳥にもくれてはやらん! といわんばかりに、大変硬い。更に、そんなに硬いのに大変瑞々しく、物凄く手が汚れる。そして染まる。お風呂入って石鹸で擦ってもまだ残るしぶとさ。そこまで苦労して取り出した豆は、一晩水に浸けないと意地でも味付けを受け入れない頑固さを誇る。

 もうこれ食べなくていいんじゃないかと思うけれど、腹立たしいことに、これがとんでもなくおいしいのだ。ふっくらとしたほくほくの身からじゅわりと染み出るうまみは、許せないくらいなのである。



 帰ってきたお兄ちゃんと、お昼寝から起き出してきた弟妹も加わり、皆で明日のご馳走のために手間豆の下準備をした。弟妹は遊んでいるだけだったけど。


「ねえねえ、お母さん」

「何事よ、カズナ。あ、シヅキ、ユヅキ、ナツカを突っつくは許されぬよ。ナツカを泣かせた暁には、お母さんは盛大に狼狽える上に、明日のおやつはお母さんが頂くがよろしいか!」


 まだはいはいしかできない妹を突っついて愚図らせていた弟二人は、ぴたりと動きを止めて大人しくなった。お母さんはやると言ったら本当にやる。明日のおやつを食べると言ったら本当に食べる。たとえお腹がはちきれそうであろうが頑張って食べる。

 大人しく、剥き終わったさやで遊び始めた三人を見ながら、お母さんはお兄ちゃんを促した。


「中断ごめんね、カズナ」

「ううん。あのね、今日ね、みんなでもしも話したんだけど」

「もしもし話?」

「うん、それでね、もしも他の世界に行けたらって話だったんだ」

「もしもし」


 お母さんは、いつの間にかナツカが口に入れようとしていたさやを取り上げて、愚図る前にぬいぐるみを渡した。ちょっと緑色に染まってしまったぬいぐるみに気づくことなく、ナツカはご機嫌で吸い付いている。


「カズナ、行きたいの?」

「あ、みんな本気でどうのこうのじゃなくて、異世界行ったら、魔王とか、王様とか、悪の帝王とか、魔法使いとか、救世主とか、勇者とか、道端の石になりたいとか、そういうの言い合ってただけなんだけど」

「道端の石」

「あ、石になりたいって言ったのアレスだけど」

「ブルドゥスの王子様、大丈夫?」

「ルカディアはペンペン草になりたいって言ってたよ」

「グラースの王子様も大丈夫ではなかった。カズナは?」

「村人A!」

「人間なことにお母さんは非常に安堵しました」


 何か悩み事があってもなくてもいつでもおやつ食べにきていいし、なんなら泊まってと伝えるようにお母さんは言ってるけど、王子様も王女様もわりといつでも遊びに来てるし、ひょいひょい泊まっていくから、お兄ちゃんに言づけてもらわなくても大丈夫だとは思う。


「そんな感じで話してたんだけど、途中で、もし本当に異世界に行って、お母さんみたいにそっちで暮らしたくなったらどうしたらいいのかなって思ったんだけど」


 お母さんは、いつの間にか空になった器に追加の手間豆を入れて、うーんと唸った。


「私は家族を泣かした側であるから、えらそうなことは言えないのだけど」


 ちょっと悩みながら額を掻き、色が移って慌てて手拭いで擦っていたお母さんは、取れなかったらしく諦めた。放置された額にどきどきする。どうするんだろう、あれ。


「カズナがそれで寂しくないのなら、いいと思うよ。……寂しくても、痛くないのなら、いいと思う。そうなった場合、私は盛大に寂しいけれども!」

「お母さんは、いま寂しいの?」

「全然寂しくないよ! 寂しくないから、いいと思うと言えるよ。カズナも、どうしたって一緒にいたい人がいて、一人でなくて、楽しいのなら、お母さんはいいと思う。離れているほうが痛いのなら、寂しくても、選べばいい。そうなった場合、お母さんは多大に寂しいけども!」

「あのね、俺ね、お母さんがいま寂しかったらどうしようって思ってた」

「みんながいるのに、寂しい理由が皆無だよ! あ、でも、どこかに行くのなら、そう伝言してくれれば嬉しい。突如いなくなるのはびっくりだから。私も人のことは言えないのだけど!」

「俺も人のことは言えないが、もしも結婚なんて話になった場合は何が何でも相手の顔を見なければ気は済まない。カズナだけじゃなくて、全員。とりあえず俺と決闘だと相手に伝えろ。どの分野で勝負するかはそっちで決めていいが、何はともあれ決闘だ」


 手間豆を持ったまま、全員の視線が一方向を向く。

 そこには何故か、明日帰ってくるはずのお父さんがたくさんの荷物を背景に、手間豆を剥いていた。しかも早い。私が一つ剥く間に四つは剥いている。道理で器が空になるのが早いはずだ。


「ルーナ!? 何故にしてここに!?」

「急げば一日早く帰れそうだったから帰った。驚かせようかと気配殺して入ってきたら、お前達が楽しそうだったから混ざった。土産あるぞ」

「お土産おかえり! ルーナ楽しみ!」

「カズキ、多分逆だ」

「おかえり楽しみ! お土産ルーナ!」


 ぱっと嬉しそうに笑ったお母さんは、わぁーっと両手を広げてお父さんに突進し、目の前でぴたりと止まった。そして、悲しそうに緑に染まった自分の両手を見つめる。


「これで抱きつけば洗濯が大惨事……」


 その呟きに、抱きつこうとしていた私とお兄ちゃんもぴたりと止まった。両手を広げて受け入れ態勢に入っていたお父さんが寂しそうだ。でも、弟妹達が何も気にせず歓声を上げて飛び込んでいった……あ、違う! お父さんを通り過ぎてお土産に一直線だ! ナツカまではいはいでお父さんの股下を通って行った! お父さんが非常に寂しそうだ!


 慌てて両手をごしごし手拭いで拭っていたお母さんは、はっと何かに気づいてよろめいた。


「カズキ?」

「お母さん?」


 首を傾げた私達に、お母さんはとても悲しい顔をした。


「…………皆さんに、とてつもなく残念無念な伝達事項がございます」

「え?」

「明日の夕食ばかりにかまけ、今日の夕食の用意が皆無でございました」

「あ」


 その晩は、家にあった材料を適当に焼いて、お父さんのお土産を皆で堪能した。すごく楽しかったし、面白かったし、おいしかった。

 そして夜は、みんなで一つの部屋に固まって、お父さんのお土産話を聞きながら眠った。

 でも、お父さん。いくら預けていた荷物を山賊に盗まれたからって、そのあじとまで延々と追いかけて壊滅させて帰ってくるのはどうかと思うんだ。山賊もさぞかしびっくりしたと思うんだ。盗んだ荷物の中から絵本や木の馬車、ぬいぐるみや振ったら音が出る玩具が出てきたのはもっとびっくりしたと思うし、お菓子と一緒に宝石が出てきたら誰だってびっくりすると思うんです。


 そんな騒動を挟んだのに、一日早く帰れたお父さんはすごいなと思いました。と、しめて、宿題の作文が完成したのはありがたいと思ってます。先生からの赤インクでは「次の日の夕食は手間豆だったのかな? お父さんと一日早く会えてよかったですね」と書かれていて、花丸もらった。







 今ならお母さんが言っていたことが分かる。知ってただけじゃなくて、分かる。

 痛いんだ。別れが寂しいものじゃなくて痛いものだなんて知らなかった。

 この痛みを知ることが大人になるということなら、大人になんてなれなくていい。でも、知らずにいなくてよかったと思うから、私はきっと、ちょっとだけ大人になったんだろう。


「六花」


 呼ばれても顔を見られなくて、裸足の足元を見つめる。足に纏わりついているスカートは、私の弱きを代弁するかのような、霧みたいな薄い生地だった。


「……ごめん、アライン。私、酷いこと言った。ごめん、ごめんアライン、ごめんなさい」

「それはどうでもいいが……お前」

「どうでもよくない」

「この惨状に比べれば大抵のことはどうでもいいだろう」


 訳の分からないことをいわれて、つい顔を上げてしまった。

 アラインは他所に向けていた視線を私に向けて、ぎょっと後ずさる。


「何て顔してるんだ、お前」

「……それこそどうでもいいよ」


 ずびっと鼻を鳴らして、アラインがさっきまで向いていたほうを見る。見て、反対を見て、上を見て、下を見て、後ろも見た。

 かつてここには町があった。けれどひどい戦でもあったのか、自然災害の餌食となったのか、今や廃墟と化し、瓦礫と色の残骸が転がっているだけであるという、そんな惨状だった。色は豊富に溢れているのに、あちこち崩れたものと混ざり合い、ただのごちゃごちゃのガラクタになり果て、壁なのか空なのかよく分からない場所は切り裂かれて剥がれ落ちている。

 無残な空間を見回して、戻した視線の先では同じように周りを見回して戻ってきた紅瞳がいた。紅瞳は、狼狽えているような、呆れきっているような、なんとも情けない色で私を映している。


「あの程度のことでここまで、こんな、壊滅するような柔い心で、お前、今までどうやって生きてきたんだ」

「どうやってって……それに、あの程度じゃない」

「お前、こんなに柔だと、転んでも、心が砕けるんじゃないのか」


 途切れ途切れの言葉と一緒に、私の身体の横で中途半端に浮いたアラインの両手が上がったり下がったりしている。その腕がきらきらとした何かに彩られていく。見上げると、色とりどりの破片が雨のように降り注いでくる。


「……前言撤回する。お前は帰れ。駄目だ、残るな」

「なんで」

「駄目だ。こんな柔さだと、すぐに死ぬ」

「死なないよ」

「駄目だ……お前も、母のようになる」


 私の左右で浮いていたアラインの腕は、結局触れることなく彼の身体の横に帰っていった。それがなんだかものすごく気にくわなくて、両手で掴んで握りしめる。咄嗟に振り払おうとしたアラインは、自分の腕に降り注ぐ破片を見て怯んだ。私は泣き虫だけど、そんなことじゃ砕けはしない。そんな硝子細工を扱うみたいに脅えなくていいのに、アラインは私を振りほどけなくなった。


「ねえねえアライン」

「…………離せ」

「私のこと、好き?」

「離せ」

「私は好きだよ。アラインは?」


 怯まれているのをいいことに、逃げられないようぎゅっと手を握り締め、下から覗き込む。自由な手は、まるで狼狽えるように中途半端な力で私を押すのに、紅瞳はこんな時でも他所を向かず、困ったように私を見ている。もしかしたら、逸らすことを知らないのかななんて思った。アラインが見た人達は視線を合さず逸らしていったのに、この紅瞳はそんな人達もじっと見てきたのだと思ったら、何だか堪らなくなった。


「大好き、アライン。私は一緒にいたい。あのね、私ね、たくさんのことを知ってきたよ。たくさんのことを教えてもらってきたんだよ。お父さんに、お母さんに、兄弟に、おじさんおばさんに、おじいちゃんおばあちゃんに、友達に、ご近所さんに、通りすがりの人に、いっぱいいっぱい教えてもらった私の中にあるたくさんのこと、全部アラインにあげる。ちゃんと分かってなかったこともいっぱいあるけど、覚えてるから大丈夫。それ全部、アラインにあげる」

「必要ないっ、帰れ!」


 今度こそ振り切られた手を伸ばす。アラインはそれを叩き落とさず、自分が下がることで避けた。でも、そんなことじゃ、押し売りっかは引かないのである。

 引き下がる気配が皆無な私の様子に、アラインは怒鳴ろうとした言葉を飲みこんだ。


「……こんな、壊れやすいものなんて必要ない。だから、帰れ」

「直るよ。傷ついたって、壊れたって、ちゃんと治る。大事な人がいたら、ちゃんと治って、生きていける。あのね、アライン。私は確かに能天気だし馬鹿だけど、傷ついたことがないわけじゃないんだよ。うちはね、良くも悪くも目立つし、事情があって二国間を行ったり来たりして住んでたから学校も入れ替わりで、いじめられたりとか、したことも、あるんだよ」


 丸くなった紅瞳と鈍った動きが再稼働する前に思いっきり飛びつく。どれだけ動揺していたのか、いつもあれだけびくともしなかった膝が折れ、細い体が尻もちをついた。やりすぎたと焦ったけれど、アラインの下に大きなうさぎのぬいぐるみが現れて、二人分の身体を受け止めてくれた。昔、お父さんがお土産に買ってきてくれたぬいぐるみだ。こんなとんでもない大きさではなかったけれど。

 ふかふかの椅子に埋もれたアラインは、ちょっとだけ呆然として、青いリボンをつけた愛らしいうさぎをちらりと見て嘆息した。


「またお前か……」

「私のうさちゃんと、一体全体どんな因縁が」

「凄まじい執念で寝かしつけようとしてきた」

「抱きかかえて寝てた習性がこんなところで!」


 なんだか物凄く申し訳ない。申し訳ないのだけど、うさちゃんに寝かしつけられたアラインを見てみたいとも思いました。ごめんなさい。

 よく見るとうさぎもぼろぼろで。破れて垂れ下がった耳に紅瞳が鋭くなって私に帰ってきた。何を言いたいか分かっているけれど逸らさない。話しだって、逸らしてあげない。




「あのね、いじめられるとね、何でもしていい人になるの。びっくりだよね。何言ってもいいし、何してもいいって、なんでかそう思われる。理不尽なこととか、酷いこととか、訳分からないことされたり言われて、それで私が怒ったら、怒ったことを笑われるの。一所懸命言い募っても、やめてって怒っても、それを笑われて、おもしろおかしく真似される。してもいないこと噂にされて、嘘もほんとになって、私の言葉が全部何の意味もないものになっていくの。会ったこともない人が、私がこれからする悪事を知ってるの。おかしいよね」


 おかしいよねって笑っても、アラインはちっとも笑わない。それは、そうだろう。これはおかしいことだけど、おかしいことじゃなくて、やっぱりとってもおかしいことだから。


「私ね、試験では隣の席の人の用紙盗み見て、自分より足が早い人を階段から突き飛ばして、靴を隠して、友達の悪口言うんだって。そうだったら、私の隣の席の人が学年主席で私がびりなわけないのにね。なのにね、嘘がほんとになるの。いつの間にか、ほんとになってるの。いじめられたら、そういうこと言われて、されても、何したっていい人になる。変だよね。いじめる人がいじめられた人の価値を決めちゃえるの。すっごく、変だと思う。普通なら眉を顰めるような言葉とか、行動とか、その人にならできちゃえるの。普段はそんなことしない人でも、他の人にいじめられてる人にはできちゃえるんだよ。それで、そのことになんの罪悪感も持たないの。人が、人を蔑ろにする理由が、誰かにいじめられてるからって、訳分からないけど、いじめってそういう空気ができちゃうから、本当にびっくりした。全然、私の知らない国に来たみたいで、私、知らない世界に登校してるんだって思った。あの時、世界がひっくり返ったみたいだったんだよ。あの二か月間、学校だけが異世界だって思ってた」


 何を言っても意味なんてなかった。必死になればなるほど、その様を笑われた。

 じゃあもう何も言わないほうがいいのかと黙ったら、沈黙が肯定となった。だから、もう一度違うと叫べば、指さして笑われた。


「なのに、責任の在り処は曖昧なんだよ。その人達が怒られても、あの子がこう言ってた、あの子から聞いた、あの子のほうが酷いこと言ったって、そればっかりで。みんな自分より悪い人がいるとしか言わないんだよ。あの人のほうが悪い、あの人のほうが酷いってそればかりで、私が痛かったことに対して誰も責任なんて持ってくれないの。謝ったんだから許してって、謝ったのに許さないなんてひどい奴だって、怒るの」


 謝ってない人に比べたら、なんて正々堂々とした勇気のある人間なんだろうと、すっきりしたいっそ輝かんばかりの笑顔で握手を求められて感じたのは、怒りよりも呆れよりも悲しさよりも、虚しさだった。

 ああ、私が彼らから受けた傷は、この人達には何の意味もない、謝らされるための原因になった忌々しいだけのものだったのだと。謝った後はそんなことあったっけで終わる、どうでもいいことで。

 傷は、私と私の大事な人を切り裂いただけだったのだと分かって、虚しかった。


「たぶん、そういう人達に取ったら、ほんとなんてどうでもよかったんだと思う。私がどんな人間かはもちろん、ほんとにそんな酷い人間でも、たぶん、どうでもいいんだよ。面白おかしく話せたら、お酒のおつまみみたいにできたら、たぶん、それでよかったんだよ。噂なんて、そんなものだって、あの時分かった。誰も、どうでもいいの。噂をする人なんて、どうでもいいから噂だけするんだよ。だって、どうでもよくなかったら、ちゃんとほんとを知ろうとするもん。噂してるその時だけ楽しかったら、ほんとなんてどうでもよくて。それで傷つく人がいても悪いのは自分以外の誰かで、真実でないのなら傷つくほうが悪いんだって、無責任な噂を他の誰かに言った直後に聞き流せばいいじゃんって同じ口で平然と言っちゃえるくらい、どうでもいいんだよ」


 傷つくほうが悪いんだよと、堂々としていればいいんだよ、噂なんだから。

 そう言って、悪意の種をまいていく。皆が言ってるから、あの子がやってるから。嘘かほんとか知らないけどと前置いて、種に水をやっていく。やがて大輪の花を咲かせる悪意という名の嘘を「真実」にするために。


「噂の作り手に私のこと嫌いな人が混ざってたら、噂の私はひどく醜悪な形をしてるの。あ、私のこと嫌いな人はね、失恋して髪切った翌日に、私がリボンしてたから嫌いになったんだって。他にもいっぱいリボンしてる子も、髪留めしてる子も、編んでる子も、巻いてる子もいたけど、私が気に入らなかったんだって。私、その子に何したんだろうってずっと不思議だったけど、理由を聞いても不思議のまんまだった。あの子にとったら大事なことなのかもしれないけど、私、そんな理由であんな目に合ったんだって、そんな理由から始まった悪意が、あんな急速に形になっていくんだって、訳が分からなかった。いつの間にか、その子の中では、その失恋も私のせいになってて、その子の恋人を私がとったことになってて、その手の噂もぶわって広がっていった。学校も違う、住んでた地区も違う、顔も名前も知らないその子の幼馴染を、私がとったんだって。すごいね、私。天才かもしれない」


 きっと、みんな飽いていたのだ。そんな時に耳にした、自分は安全な位置で誰かのせいにできる遊戯を見つけて、乗った。ただそれだけのことが、私にとってのひどい悪夢となったのだ。


 何か言おうとしたアラインに、ふへっと笑う。


「それとは逆に、私のこと好きな人が混ざってたら、びっくりするくらい綺麗な形をしてるの。原型が私で申し訳なるくらい、立派な人になってるの。噂なんて、そんなものだよ。だから私は、ちゃんと知りたいの。ちゃんと知って、それで、自分で決めたいの。噂じゃなくて、目の前にいる人を見て決めたい。その人が何してきたかちゃんと見て、聞いて、話して、その人を自分の中でどんな人として受け入れるか、決めるの」




 アラインの腕がゆっくりと持ち上がり、少し彷徨う。何かを迷ったアラインは、ぎゅうぎゅう抱きついている私に嘆息して、私の背中にそっと手を着地させた。うさぎの耳がぴんっと立ちあがる。解れが縫い合わされ、綿はきちんと中に収まっていく。


「こんな、壊れやすいくせに、どうして壊れなかったんだ」

「別に壊れやすくはないつもりだけど……そりゃ、傷ついたよ。ぐちゃぐちゃで、ばっきばきで、どろどろになった。でも、治してくれた。皆が、大好きな人達がくれた当たり前が、毎日が、直して、治してくれた。家族だけじゃなくて、私のために泣いてくれた友達が、私のために怒ってくれた人達が、治してくれたの。だから、治るから、大丈夫。傷ついたって、壊れたって、ぼろぼろになったって、大丈夫なの。絶対大丈夫って場所に毎日帰れたから、大丈夫だった。私にとったらそれが家族と家だったけど、たぶん、他の何かでもいいんだと思う。自分にとって何か大事なものがあって、それが変わらないって分かってたら、たぶん、頑張れる」


 頑張れと言ってくれた母の言葉は、何よりのお守りだった。毎日しんどくて、でも逃げるのも悔しくて、あんなこと言ってくる人達に負けることがどうしても悔しくてならなかった私に、母は言った。頑張れと、言ってくれたのだ。


「頑張れって言葉は無責任だって言う人もいた。でも、そうなのかな。頑張れって、突き放して追い詰める言葉かな。私はね、頑張れって祈りだと思う。どうしたって私の代わりには誰もなれないけど、でも、どうか私が頑張れますようにって、お母さんは願ってくれたんだよ…………私は、アラインがあんなこと言われてるのは嫌だよ。あんな目で見られることが当然だって顔してるのも、嫌だよ」


 聞こえる言葉全部に傷ついてほしいわけじゃない。だけど、それが当たり前だと思うのは、もっと嫌だ。

 優しかった。彼はずっと、優しく美しかった。

 今だって、帰れと言ってくれたのは、アラインが優しいからだ。そう分かってしまったら、エーデルさんのベッドを奪ってめそめそしていたことも忘れてしまいそうになる。何を悩んでめそめそしていたか、どうでもよくなって。

 私の中の何かが決まってしまった。


「私、馬鹿だし、考えなしだし、運動神経ないし、知識もないし、弱虫だし、泣き虫だし、甘えただし、お金ないし、実家もないから後ろ盾もないし、ここには友達も知り合いもいないから人脈とかもないし、そもそも戸籍自体ないし、仕事もないし、家もないし、服もないし、刺繍はへたっぴだし、お裁縫も基本的なことしかできないし、料理も私よりうまい人で溢れてるし、絵の才能も工作の才能もないし、掃除も洗濯も目を瞠る何かがあるかっていわれたらそんなわけないし、歌は好きだけど仕事にできるかって言ったらとんでもない出来栄えでして」


 つらつらと事実を言い連ねた二度目の台詞を、アラインは遮らなかった。

 言いたいことはいっぱいあるのに、何度も同じようなことを言ってしまう。いっぱいあるから、伝えたいことまで辿りつけない。何度言ったって言い足りないくらい、彼に何かを伝えたかった。


「私は、たぶんいろんなこと、あんまりちゃんと理解してないし、分かってないんだと思う。だからお父さんもお母さんも、人の話はちゃんと聞きなさいって教えてくれたんだよ。誰の言葉でもちゃんと聞きなさいって。年上の人も、年下のことも、たくさんの人の話を、言葉を聞きなさいって。その上で、自分が見たもので決めなさいって」


 四方から紡がれる言葉を取捨選択できるほど賢くない。どれが正しいか、どれが間違っているのか。せめて善悪の区別くらいはつけられていたつもりだったのに、世界が変わってしまえばそれすらもあやふやだ。

 だから、私は聞く。誰の言葉でも聞く。今の自分が蔑に出来る言葉などどこにもないのだ。それが善であれ悪であれ、判別できないのなら聞くしかない。私が聞けるすべて聞いて、飲みこんで。その上で、目の前にいる人と話した結果。


「その結果、私はアラインが大好きです」


 それだけは悩まずに言える。間違ってないと胸を張って言えるのだ。


「私は、私を助けてくれた人達みたいなことできないと思う。自分がそんな凄いことできる立派で優しい人だなんて驕ってるわけじゃない。たぶん、何もできない。でも、それでもいいなら、それでも一緒にいたいってアラインが言ってくれるなら、一緒にいようよ。私ね、アラインといたかったんだよ。もう二度と会えないのが痛くて堪らないくらい、アラインといたいんだよ」

「だが、お前は」

「あのね、私がいじめられてた時、お父さん怒ったんだよ。いじめられたことじゃなくて、私が、そんな扱いを受けていい人間だと思われていることが許せないって、怒ってくれたの。あの時は、私そんな立派な人間じゃないって思ったけど、今なら分かる。私も、そう思う。アラインがあんな扱いを受けるのが許せない。私の大好きな人が軽んじられて、口汚くののしられて、何もしてないのに貶められて、傷つけることが遊戯ですらなくなってまるで日常の常識みたいになっていくのが、許せない。彼らが何の気なしに、当たり前みたいに叩いている人が、誰かにとって大好きで大事な人だって思いもしないことが、許せない」


 人の夢を哂い、人の必死を哂い、人の嘆きを哂い、人の怒りを哂い、人の愛を哂い。

 そうして自分が賢いかのような顔で、人に泥を投げつけて、口で手で叩いて、傷つく様を哂う。正義を道徳を倫理を、優しさを愛情を、動いた心全てを嘲笑う。

 彼らが哂ったその人は、誰かの大切な大切な宝物だったのに、何かを大切に思う気持ちすら踏みにじって、どうしてご飯をおいしく食べられるのかいくら考えても分からなくて、今でも分からないままだった。


「最初は、いじめられる自分が恥ずかしかった。恥ずかしくて、惨めで、情けなくて、みっともなくて、言えなかった。でも、今はもう思わない。お母さん達が教えてくれた。私は、愛されてるんだよ。お父さんとお母さんの大事な娘なの。それが分かってるから、もう、恥ずかしくない。恥ずかしいのは私じゃない。大事なものを平気で踏みにじって、人を貶めて、人を叩くことに何の疑問も感じなくなった人が恥ずかしいんだよ。悪意ある人が形作った噂で、ほんとを確かめもしないで人を哂う人がみっともないんだよ」


 私が何を言っているのか分からない。そんな顔をしてるのに、何一つ聞き逃さないとじっと私を見ている紅瞳を見上げる。焼けついてしまいそうな熱がお互いの間を行き来して、どんどんどんどん大きくなった。

 自分の気持ちを、思いを、うまく言葉にできない。けれどアラインは聞いてくれる。私のどんな言葉でも、ちゃんと、びっくりするくらい真面目に聞いてくれる。

 だから、全部知ってほしくなるのだ。私のへたな言葉がアラインの中で何かに変わる様が、どうしようもなく嬉しい。泣いてしまいそうになるほど、温かい。


「アラインは、怒っていいんだよ。慣れるのは、仕方がないのかもしれない。ずっとそうだったのなら、慣れるかもしれない。でも、当たり前にしちゃいけないんだよ。アラインは、私とトロイの大事な人なんだから、あんなことを当然だって思わないで。自分はそうされることが当然の人だって思わないで。あれは変なことなんだよ。おかしなことなんだよ。あっちゃいけないことだって、知らないままでいないで。当たり前だって思わないで。あれは、異常なことだって、知ってて」

「忌み子に対して拒否反応が出ないお前がおかしいんだ」

「おかしくないよ。大好きな人に酷い言葉が投げつけられたら、腹立たしいし、胸を掻き毟りたいくらい悔しいよ」

「俺が忌み子でなければの話だ」


 通じない? 伝わらない?

 だったら、伝わるまで言えばいいだけだ。伝わるまで、一緒にいればいいだけだ。


 めそめそ泣いて切り裂いた心が熱を持つ。酷い言葉を投げつけたのは私なのに、投げつけてしまった人の体温で勝手に力を取り戻していく。溶かし直した硝子のように罅が修復されて、花が、木が、風が、空が。鳥が、虫が、馬が、猫が、犬が。玩具が、お菓子が、本が、宿題が、色んなものが溢れだす。


「アラインがそう思わなくなる理由の一つに、私はなりたい。アラインがいらなくても、勝手にそうなりたい」


 アラインの、アラインへの肯定が欲しい。

 そう思っていた。でも、それだけじゃ足りない。あっちもこっちも、通りすがりの人も、座っている人も、見知った人も見知らぬ人も。世界中の、見渡すばかりの肯定が、欲しい。

 その上で、アライン自身にそう思ってほしい。忌み子なんてどこにもいない。忌まれなければいけないのは生まれてきた子どもじゃない。そんな言葉を当たり前に口に出せてしまう風潮だと、思うから。


 強張っていた肺を解すために、思いっきり息を吸った胸が膨らむ。いっそ鳩みたいに自身満々のふくふくになれたらいいのに、勢いで吐き出した胸はすぐにしおれていった。けれど胸の中に咲いた決意はしぼみはしない。


「……世界の理に反した俺の存在が忌まれるのは当たり前のことだ。学童のそれと一緒に考えるな」

「一緒に見える」

「それはお前が無知だからだ」

「じゃあ教えてよ。一緒にいて、馬鹿な私にいっぱい教えて。アラインを、私に教えて」


 まっすぐ見てくるのに、戸惑う紅瞳が可愛い。やっぱり、知らないのだろうか。視線は逸らすことができる。見つめ合っていれば、逸らすことはできるのに、アラインはこんなに戸惑って瞳を揺らすのに、逸らすことを思いつかないのかただじっと見つめ返す。紅瞳の中に丸く映った私の色は、まるで青い月のようだった。

 初めて会った時、最初に覚えたのは瞳の色だったと思いだす。


「この世界に来て、アラインの噂をいっぱい聞いてきたけど、アラインはその噂に合わせて自分を形作らなくていいんだよ。アラインを作るのが、アラインに酷いこと言う人達なのは、嫌だ。あんな酷い言葉じゃ嫌だ。あんな怖い視線じゃ嫌だ。あんな冷たい声音じゃ嫌だ。アラインは、あんな無情な声音が紡ぐ無責任で惨い言葉なんかで自分を形にしたら駄目だよ」


 誰の言葉も聞くなと言ってるわけじゃない。でも、あんな言葉通りの自分になる必要はないし、なってほしくもない。

 そう言ったら柔らかい吐息が降ってきて、言葉が後に続いた。


「……お前の言葉だけで生きていけたら、どうなっていたんだろうな」

「それはちょっととんでもない師匠が出来上がりそうで、トロイに申し訳がですね、立たないとですね……取り返しがつかないことになる前に、できるだけエーデルさんとかシャムスさんの言葉を参照にしてもらえたら、その……嬉しい、です」


 私の水色が少し狭まって、何だろうと少し視界を引く。引いて、分かって、泣きたくなった。狭まったのは水色だけじゃなくて、紅色もだ。


「自分で言うな」


 アラインが笑う。目を少し細めて、口元をゆるめて、笑ってる。声を上げた訳じゃないけれど柔らかく降った吐息のようなそれは、笑みだった。

 困ったような小さな笑みが、泣きたくなるほど愛おしい。息をするように笑ってくれた人が、こんなにも可愛いのに。

 瞬きすら勿体なくて、息も詰めて見上げている私の頬を、長い骨がするりと撫でた。枯れ枝のように、骨だけに見えるほど痩せた剣を握る手なのに、かさつかないのは聖人だからだろうか。それとも、その指が拭った雫のせいだろうか。


「……お前が言っていることが、少しだけ分かる気がする」

「ど、どれ?」


 思うがままに告げた言葉のどれをアラインは捉えてくれたのだろう。いや、きっとすべて捉えてはくれたのだろう。その中で、彼の中に飲みこまれた言葉はどれだったのかが分からない。


「噂はどこまでも尾ひれがつき、歩いて双龍様の元に向かっただけで三人は喰い殺したことになっているくらいは日常茶飯事だから分かるが」

「待って、それ既におかしいと思う」


 その時点で既におかしい前提がどうしても気になったのに、アラインは止まらず、それどころか綺麗な顔が降ってきた。頭突きかと身構える。けれどあれは心の中に入るための動作だからもう中にいる場合は必要なかった。反射的にぎゅっと瞑ってしまった瞳を慌てて開けると、擦り合わせるようにするりと額が重なった。猫みたいだ。


「お前が」

「私が」

「口さがない連中のせいで泣くのは、少し、腹立たしいな」

「アラインがいなくなっても泣くよ」

「……帰れなくても泣くだろう」

「泣くね」

「……どうしたら泣かないんだ」


 確かにどうすればいいんだろう。私は欲張りで、甘えたで、あっちもこっちも欲しいのに、泣き虫だからわりとすぐ泣く。アラインに慣れてもらうしかないのだろうか。これぞ究極の他力本願だ。




 どうしたらいいか分からないことはいっぱいだけど、こんな私でも分かることはある。


「とりあえず、私の中に勝手に入ってきていろいろ言ってる人を追いだしたい」

「…………俺か、ファナティカーか、どっちだ」

「この期に及んで私がアラインを追いだそうとしてる選択肢を残してることを、ちょっと殴りたいです」


 擦り合わせていた額を離して、頭を振りかぶる。

 避ける素振りを見せないアラインにふへっと笑い、顔の角度を変えてその頬にキスをする。感情全てこそげ落ちたアラインの腕がゆっくり上がり、自分の頬を押さえた。とりあえず反射的に触れられた場所に触れただけのようで、ごしごしと擦られなかったことに、実はちょっとかなり凄まじく安堵した。

 安堵に背中を押され、ぴょんっと立ちあがり、うさぎに抱かれるように座り込んでいるアラインに手を差し出す。


「なんかあの人、下にいるみたいだからつれてってください、友よ!」

「……いつのまに友になったんだ?」


 手は取ってくれたけど、どさくさに紛れて友達になろうとした私の姑息な作戦は失敗した。友達0人は、未だ継続中である。







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― 新着の感想 ―
[良い点] 何度も読み返しています。 お互いがお互いを不器用に大切に想い合う、大好きな物語です。 全編好きですが、このお話が何度も読みたくなるくらい好きです。 六花ちゃんとちゃんとお話するアライン… …
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