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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章 始まりの絆 終わりの恋
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54伝 はじめての嫌悪






 ぐちゃぐちゃになった目元を押し付けていたシーツから顔を離し、ずべずべになった鼻をかみ、鼻でできなくなっていた呼吸を全部任せていた口から息を吐く。


 闇人のお出迎えに聖騎士であるアラインは絶対出なくちゃいけないらしい。一応片翼という私も出てないとアラインの立場が悪くなるとエーデルさんが言っていたから、行かなくちゃいけない。

 行かなくちゃいけないんだけど、顔が大惨事だ。こんな顔、他の人は勿論、アラインに見せられない。今まで散々、お腹空きすぎて切羽詰まった顔も、眠る三秒前どころか就寝中も寝起きも、それこそまさに大声で泣き喚いてどぅるっどぅるっになった現在の顔、更に幼少時まで見られたから、今更といえば今更だ。

 だけど、いま、泣いたのは知られたくなかった。あの時、アラインは背中を向けて歩いていったから、気づいていなかったと思う。だから知らないままでいてほしい。



 違う。違うから。

 ずびっと鼻を啜り、両腕を押し付けて裾で涙を吸い取る。本当はごしごしと擦りたいけれど、そんなことしたら余計腫れてしまうからできない。

 違うんだよ、アライン。私が泣き虫なだけで、人はそんなすぐ泣くものじゃないし、人との付き合いはそんなに面倒なものじゃないから。いや、大変なことはいろいろあるし、自分だけが良かったら人付き合いなんてものは成り立たなくて、仲良くなっても続いていくなんてできないから、それを面倒だと感じるなら面倒なのだろうけど。

 でも、自分が望まない言葉を聞いたくらいでめそめそ泣くようなのは私が泣き虫だからで、感情が高まるとわりとすぐに泣いちゃう性質なだけで、そういうことで人と付き合うのは面倒だなって思ってやめちゃうようなことはしないでほしい。

 だから、待って。もうちょっと待って。顔冷やして、なんなら覆面でもかぶるから。

 ごめん、泣き虫でごめん。違うから、本当に違うから。世界にはもっといっぱい、いくらでも素敵な人がいて。出来た人も、賢い人も、綺麗な人も、強い人も、優しい人も、面白い人も、溢れてて。

 私みたいに、アラインが楽しければいいと思ってたつもりだったのに、やっぱり好きな人の何か意味になりたかったななんて思って泣いてしまうようなろくでもない奴との付き合いで、人なんてそんなものかと思わないでほしい。



 何にもなれなかったなら、せめて、負の何かにはなりたくないのに、拭っても押し付けても涙は途切れてくれない。すぐに滲んでくる我儘の形を、ずびっと鼻を吸い込む勢いで引っ込める。

 よく分からないままここに来て、よく分からないまま好きになって、よく分からないままいらないと言われた。好きな人の何物にもなれないのは、きっと虚しいことだ。けれど私は、虚しいなんて欠片も思えない。悲しくて、つらくて、寂しい。そう、寂しい。お母さん達が、知っている人が誰もいないことが寂しくて寂しくて堪らなかったのに、いつの間にかあっちもこっちもないと寂しくなってしまった。こうして人は我儘になって、贅沢に慣れていくのだろうか。それとも私だけだろうか。

 笑ってくれた。それがとても嬉しかった。本当に、嬉しかったのに。どうしてそれだけじゃいけなくなっていたのだろう。


 何度も深呼吸をして、胸の中を冷ます。

 泣いて彼を責めたいわけじゃない。どうしてあなたの何かにしてくれなかったのと、自分の寂しさを不満にしたいわけじゃない。彼の何物にもなれなかったのは、私が足りなかったからだ。それをアラインのせいにするのは、違う、と、思う。自分の不満で傷ついてほしいわけでも、傷つけたいわけでもない。

 私がもっと大人だったら、優しく賢く、自分の弱さなんて見せずに彼を導けるような強い人間だったら、彼の何かになれたのかもしれない。


 帰るって、言ったのだ。帰る方法が見つかったら、帰ると。帰りたいと、彼に言った。自分で言ったばかりなのに、いらないと言われてめそめそ泣くような人間が、どうして必要としてもらえる。馬鹿じゃないのか。

 そんな何かになりたいのなら、別れ際に「ありがとう、楽しかった!」とにへらと笑って伝えられるようにならなければ。あれも欲しくてこれも欲しい、帰りたいけどそれを惜しんでくれだなんて泣いてるような私が、何かになれるはずがないし、たぶん、なっちゃいけない。

 だったらせめて、人と関わるのもまあそれほど悪いものじゃなかったかもなと、そんな曖昧な記憶になれればいい。今は何の意味にもなれなくても、いつか何かしらになれたらいいな。その何かしらが、彼にとっていいものだったら、いいな。




 その為には、なんとかしなければならないことがある。

 のそりと起き上がり、壁にかかっている鏡の前までのろのろ歩く。そして、重たい頭を上げて覗きこむ。

 化け物かな?

 予想していた通り、ただでさえ別段整っていない顔が大惨事だ。目蓋の上も下も腫れぼったいし、鼻の上も下もかみ過ぎて赤いし、濡れた頬にばさばさになった髪が張り付いている。しかも、いろいろ腫れぼったいのに全体的に見ると萎れてる。今さっきそこらの墓から起き上がってきました状態。なんだこれ、怖い。怖いのに不細工。不細工で怖いだったらどうしよう。顔見てトロイに泣かれたら落ち込む。

 せっかくアラインから分けてもらった真珠色だけが綺麗だ。この髪、戻るんだろうか。この色を貰って帰ったら駄目だろうか。そうしたら、もう二度と会えなくてもアラインの色を思い出せる。いつかお婆ちゃんになって私も真っ白な頭になった時、お揃いになれる。それとも、アラインの色だけはずっときらきらしているのだろうか。そうしたら、かたっぽだけきらきらして、ずっときらきらした大事な思い出を目で見ていられるのに。


 顔に張り付いた髪を何とかしようと、ずり落ちた髪飾りを外す。白と赤の、可愛らしいというよりは几帳面な模様を見つめて握りしめる。これも、持っては帰れないのだろうか。

 見ていたってどうにもならないと分かっているけど、他にどうすることも出来ず鏡と睨めっこしていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。ここはエーデルさんの寝室なのだからノックなんてしなくていいのに、律儀な人だ。


「はい」


 鼻を啜り、隠しようもない顔を諦めて返事をする。でも、失礼しますと返ってきた声は思っていた人と違った。


「そろそろお迎えがいらっしゃる刻限かと……」


 そっと窺うように扉を開けたのはザズさんだった。後ろのほうでは同じ服を着た人達が綺麗に並んでいる。まるでエーデルさん達にするように丁寧に頭を下げてくれるから申し訳ない。私はこの世界では何でもない小娘で、何にもなれなかった六花だ。

 といっても、別に向こうの世界でもこれといった何かではなく、お父さんとお母さんの娘で、お兄ちゃんの妹で、弟妹の姉で、友達の友達で、雑貨屋の店員の六花・須山・ホーネルトだ。

 見るからに泣き腫らしましたという無残な顔をしている私に、ザズさんは綺麗なグラスを差し出してくれた。


「喉が渇いていませんか? 果実水です」

「頂きます、ありがとうございます」


 受け取って口をつける。柔らかな水は、飲み終わった後ちょっとだけ舌に残った。なんだろう、果実にしては甘味も清涼感もない。知らない果物だろうか。でも、一拍置けば別にこれといった味はしない。二口目を口に含んでみると、柑橘系の果物の味がほんのり香った。どうやら気のせいだったらしい。

 お礼を言って、綺麗なグラスを返す。

 からからなのに粘ついていた口内がすっと落ち着き、腫れぼったかった胸の内を冷たい水が流れ落ちながら冷ましていく。ああ、ありがたい。これで随分落ち着いた。顔はどうにもならないかもしれないけど、これならアラインに笑って今までありがとうって言えるかもしれない。

 ちゃんと言おう。出会えてよかったって。ずっと、私は勝手にあなたを友達だって思ってるって。大好きだよって、せめてそれだけは忘れないでって、笑って言おう。


 誰もいなくなった胸元で揺れる首飾りをぎゅっと握りしめて決意を固めた。よしっと気合いを入れて顔を上げた私の中から、何かが湧き上がる。首を傾げる必要性すら感じない。だってそれはいつだって私が感じるべきだったはずのもので。

 私の心の内を食い破り、あっという間に全身を駆け巡ったそれは。


 アラインに、あの忌み子に対する、凄まじいまでの嫌悪だった。









 正門と城までの間に巨大な空間が広がるのは、何も見栄ばかりが理由ではない。

 確かに城は国の顔。そして門は城の顔。品を消さず豪奢に飾り付けることは、名と立場ある建物には当然のことであったし、その為に広く範囲を取ることはなんらおかしなことではない。

 だが、聖人と闇人の国においては、理由はそれだけにとどまらない。凄まじい数の馬車を停留させることが可能なこの場所は、今では噴水と花で美しく彩られてはいるものの、戦時中は騎士団の駐屯地であった。

 更に現在では、別の用途もある。



 現在のその場所は、丁寧に敷き詰められていた石畳も色とりどりの花々も消え失せている。地面には巨大な黒円ができていた。大穴はどれだけ覗き込んでも底が見えない。手を少し差し入れただけで手の先が失せて見えるくらいだ。光すら吸い込んでぽかりと開いた大穴は、開いたというよりは空いたと表現するほうが正しいのかもしれない。

 聖人の城に滲みだした闇は地界だ。いまこの時期だけ、地上は地界と繋がる。地界から出てくる闇人のために門を開く。いや、開くというには語弊がある。実際は、開くのは闇人だ。聖人は、開かれる地界を封鎖しない。それによって、この時だけ闇人と地界は地上と交わるのだ。



 闇人は色濃い髪色を持つ者が多く、意匠も黒と赤を好む。それらが光すら吸い込む真黒の底から現れる光景を、聖人は闇が這い出てきたと表現する。

 ぞろりと黒が滲みだし、闇が世界に溶け込むために開いた大穴の周りを、白と青がぐるりと取り囲む。武装した騎士達の姿は、まるで戦線が開かれるかのようだが、名目上は同盟を結んだ相手の出迎えだ。

 同盟国を出迎えているはずなのに、笑顔どころか威圧感すら漂わせ、和やかな雰囲気は欠片も存在しない。人間もこの場には居合わせることは許されていない。彼らは所詮下位の命だ。上位の命が顔を合わせるこの地での存在を許されているだけましになったほうだ。

 教会ですらも、神の命令が下った場合にしか許されてはいない。

 ここは上位の命が生きる場所。世界を統治する上位の命が重なる地に、下位の命が踏み込むはあまりに聊爾が過ぎる。





「遅いざます」


 ずらりと等間隔に並ぶ聖騎士から、半歩斜め後ろにずれた場所に位置する弟子がぽつりと呟いた言葉に、師匠は弟子の身長では見えない穴をちらりと見やる。


「腹減った?」

「誰が我の腹の空き具合など気にしたざます、ロイセガン師。侮られるを何より嫌う闇人が、約束の刻限に姿を現さぬのがおかしいと申しているざます」

「うわぁい、ちょっとしたお茶目なのに弟子が極寒の中に放置してた桶に張られた氷みたいな目で俺を見てくるぅ……お前、ほんとトロイへの優しさの小指の先ほどでも俺に向けてくれていいのよ?」

「敬愛と友愛を同等に扱えるほど、我は器用ではないざます」

「お前の敬愛って冷たくね? 真冬の突風より冷たくね?」


 正装であれば必然的に増える装飾で全身を飾ろうが、それらを一切揺らさず、声音だけを器用に震わせてみせたロイセガンは、他の聖騎士達同様に背筋を伸ばし胸を張った体勢のまま息を吐いた。


「おせぇよ。他の年なら気乗りもしないだろうが、今年はエンデが月影に帰還する。先走ることはあっても、遅れるなんてありえない」

「遅れているざます」

「所詮闇人などその程度のものだと知ることができてよかったではないか、ライテン・ジャスティン殿。奴らは怠惰で傲慢で強欲である性を隠そうともしない。礼節も礼儀も持たぬ命だ」


 ロイセガンの隣に立っている聖騎士の言葉に、その半歩斜め後ろで背を正している彼の弟子は珍しく視線を逸らした。


「バトラコス・フォルトゥード殿、同盟国の者を語るにふさわしくない言葉を吐いては、聖騎士としての誇りを穢すざます」

「貴殿は聖七家の次期当主としてふさわしくない言葉を紡いでおられる。改められよ」

「貴殿こそ聖七家当主として、口に出す言葉を改められるが宜しいざます。いたずらに諍いを巻き起こす言など、我らが皇帝陛下も望まれてはおりますまい」

「己が言の後押しに使用されることこそ陛下の望みではないだろう。ジャスティン家は次期当主の教育に致命的な誤りがあると伝えておこう。これでは聖七家が一角を担う名が泣くともな」


 互いに姿勢も視線も崩さず、ひそやかでいて欠片も震えぬ声音で繰り広げられる、舌戦と呼ぶにはあまりに静かな会話を、ロイセガンが切った。


「バトラコス殿、弟子に用があるのなら師である俺を通してもらわないと困るんだけどな」

「本家の会話に、分家は不要であろう」

「これはこれは聖七家が一家、フォルトゥード当主殿。七家のお席はあちらでございますよ? こちらはしがない聖騎士の並びでございまして。あらまあ大変! 列をお間違えでしたら急ぎ移動しませんと、闇人が到着してからでは恥をかいてしまわれます。てっきり聖騎士としてお並びだとばかり。これは気が利きませんでぇ、やだわぁ、恥ずかしいわぁ。こんなのじゃお嫁にいけなぁい」


 表情すら変えずに声音だけでしなを作ったロイセガンの周辺で、しゃり……と装飾品が揺れる音が小さく広がっていく。顔面は前方に固定したまま横目で確認すれば、周りの口元が引き結ばれている。年嵩が増していけばいくほど憤怒が、比較的若い年齢の者は上がろうとする口角を必死に押さえていた。世代間の差は聖人にも顕著だ。けれど、歳を重ねていけばあれだけお堅いことだと思っていた大人達から培った感性が染みつき、子どもは大人の真似をする。

 ロイセガンは、やれやれ、面倒なことだと心の中で肩を竦めた。そして、小さな弟子へとちらりと視線を落とす。その髪飾りについている師弟の証に術を籠めて、周囲へは放たず弟子のみに話しかける。


『真っ向からバトラコスの喧嘩受ける奴があるか、馬鹿』

『トロイの師が侮辱されたままでは、いずれトロイが不利益を被るざます』

『お前、俺の胃に穴開けるつもり? 俺の胃はそろそろ瀕死だって分かってる?』

『双龍様の御用を賜っているということでも、この場に聖騎士アライン・ザームがいないことで少々ざわついている所に、闇人の到着の遅れ。凶と出なければいいざますが』

『あれ? 聞こえてる? お前、敬愛するお師匠様の言葉聞こえてる?』

『……また揺れたざます』

『おーい』


 しんっと静まり返り、何があろうと表面上は平静を保っていた聖人達がざわつく。

 地が揺れるなどあってはならないことだ。まして、聖人の国で、その中心である城が揺れるなど、許されてはならない。闇人が地界から出てくるからか。否、闇人にも聖人にも、地を揺らすほどの力はない。世界に直接関われるほどの力と権限があったのなら、とっくに世界は滅びていた。二つの種族が関われるのは命までだ。


 揺れてはならないはずの世界が揺れている。いま闇人を迎える為に待機していなければ、誰もが不安を露わに走り去ったかもしれない。

 聖人としての矜持、何より闇人に無様な姿を見せることを何より許せず踏みとどまる大人達を見上げ、ライテンは眉を寄せた。



『……我は、呼吸をするように誰かを悪しざまに罵り、手でも口でも他者を叩くことに恥を感じぬ大人にはなりたくない上に、そのような同胞が溢れ返る国は嫌ざます』

『至極真っ当なこと言ってるのに、お前ほんと話聞かねぇから俺悲しい』


 ライテンは聖騎士の隙間から見える真黒の地から視線を外さず、意識だけを背後の城に向ける。後で面倒なことを言われたくなければ、出来るだけ早く師をこの場に並ばせるべきだと、この場にいないトロイに心の中で呟く。だが、今すぐこの場に現れても遅れてきた批難は免れることはできないだろう。更に、誰より早くこの場にいようが、蔑まれるのだ。だったらいっそ現れないほうがましなのかもしれないとちらりと頭を過る。何をしようがしまいが、全てを貶められるトロイの師は、全てに嫌気が差してこの城からいなくなるかもしれない。それは嫌だなと、ライテンは思う。そうなったらトロイはきっとついていくだろう。初めてできた友達を失うのも嫌だし、それが彼らの責ではない事ならもっといやだ。


 それに、ライテンはアライン・ザームという男が嫌いではない。

 仕事に手を抜くことなく、誰より多く誰より早く終わらせる。楽をしようとちゃちな終わらせ方をすることもなければ、誰かに押し付けることもなく、誰かを貶めようと手を回すこともしない。

 そこまで考えて、はたと気づく。

 そもそも、何故彼はこの場に現れないのだ。いつもなら、口うるさく言われることを嫌ってか、元来の性分か、最低でも半数が集まる前には必ず姿を現していたはずなのに。


 また、ぐらりと世界が揺れる。眩暈にも似た小さな揺れを、誰もが全力で両足を踏ん張って堪えた。本当に問題があれば双龍から退避命令が出るはずだが、退避命令どころか二人は姿を現さない。ならば聖人はこの場を離れるわけにはいかない。揺れを介さず闇人が地上に姿を現した時、臆したかのように聖人が遠巻きになっているわけには。

 何故、いけないのだろう、と。頭の中を過る疑問は、何故疑問を持ったのだろうと、何故疑問を持ってはこなかったのだろうと、何故疑問だったのだろうと。

 何が、疑問だったのだろうと。

 ぐるりと脳が裏返るような眩暈を起こしたライテンは、慌てて姿勢を正し、意識を城に向けた。

 友が早くここに来て、できるだけ彼の敬愛する師が口汚く罵られることなく、友が傷つくようなことがなければいいなと。ライテンは心配した。さっきからずっとそれだけ、それだけを心配している。友が傷つかなければいいなと、だから友の師がここに現れなければいいなと、そうしてずっと現れなければいいなと。

 忌み子が世界から消えればいいなと呼吸するように考えて、酷く違和感のある思考に全く違和感がなくて、きょとんと首を傾げた。








 双龍の為だけにある塔の廊下を一人で歩く。皇帝への教敬と同質ではなくとも誰もが夢見るほどに焦がれるこの塔を、アラインはよく訪れた。別に自分が望んでではない。双龍に呼び出されるからだ。そのことに対して、感動や感激を覚えたことは特になかった。けれど。


『はじめまして、アライン。ご機嫌いかがですか?』

『お前細っこいなぁ。そんなちびだったらとって食うぞ、こら』


 初めて、自分を見て嫌悪に顔を歪めない大人が物珍しいなと思ったあの日のことは、何故か鮮明に覚えている。




 アラインは無言で前を見た。廊下の先には、あの頃から全く変わらない二人が立っている。

 あの時もそうだった。紅鬼と呼ばれるきっかけとなった事件の後に呼び出された時も、目的地である部屋に辿りつく前に二人と会った。


「こんにちは、アライン。ご機嫌いかがですか?」

「あいかわらず細っこいなぁ。そんな痩せてたら出汁にするぞ、こら」


 あの日のようだと何となく思えば、目の前の二人もそう思ったのか、よく似た言葉を発した。そして、あの日のようにエーデルがシャムスの頭を引っ叩く。だが、あの日よりは手加減されているのか、アラインの横を吹き飛んでいくことはなかったシャムスは、ずいっと前に乗り出して紅瞳を覗きこんだ。


「ひでぇ面してるって自覚してるか?」

「……トロイがこちらにいると、伺いました」

「泣き疲れて俺の部屋で寝てるぜ」


 ごつい親指が背後を示し、エーデルの眉間に皺が寄った。


「まさかと思いますが飲ませていませんよね」

「おぅ! お前が下から怒鳴ったからやめたぜ!」

「怒鳴らなければ飲ませる気だったのですね。首捩じ切ってやりましょうかこの野郎」

「おう、まだ死ぬ気はねぇぜ! それにしたって、アライン、そこはトロイじゃなくて六花のこと聞かねぇとなぁ。まだちらほら集まり始めたくらいだろうが、そろそろ聖騎士は集まっときたいよなぁ? 並ぶ前に行っときたいよなぁー?」


 含み笑いがそのまま篭ったような瞳に、アラインは珍しく視線を逸らした。その様子に、シャムスの笑いは口元にも移行する。ただ、いつものような豪快な笑みではなく、苦笑に近い。


「お前、置いてかれたがきみてぇな顔になってるぜ。決めるのは六花だが、帰ってほしくないなら、言っとくのも手だぞ」

「あいつは、俺達とは違います。あいつは馬鹿だから、その選択が自分にとってどれだけ不利益を出すのかが分からないまま、勢いで選んでしまうかもしれません。今はよくとも、いずれ力尽きる。その未来を想像できないだけです」

「俺はお前の予想こそ当てにならんと思うがな。だってお前、トロイを弟子に取った時もそう言ってただろ」

「六花とトロイは違います。トロイはここにしか居場所がなかった。六花は……帰るべきです。六花を育てた、温かな場所に」


 春の日差しように、夏の鮮やかな空のように、秋の実りのように、冬の静けさのように。世界の彩のように六花の名を呼ぶ人々がいる世界に、帰るべきだ。この世界には何もない。アラインには、六花を彩るどころか、鮮やかさを剥ぎ取るような繋がりしか渡せない。

 六花に、俺はいらない。

 そう言い切ったアラインに、シャムスは自分の額をぴしゃりと叩き、あーと呻き声を上げた。


「お前……言葉足りねぇにもほどがあるだろうが。お前に俺はいらないってんならそう言ってやれよ……どこ略してんだよ……」

「それ以外の何が」

「お前が六花いらねぇとしか聞こえねぇだろうが……」


 アラインは、彼にしては珍しくきょとんと瞬きする。


「共にいて得るものがあるのは俺だけなので、離れて失うのも俺だけですが」


 シャムスとエーデルは互いに視線を合わせ、がくりと肩を落とした。この子ども、どうしてくれようかと頭を抱える。


「六花に得るものがないと……アライン、貴方まさか六花のことを、好きだと公言して憚らない相手と四六時中一緒にいるのに、相手からの影響すべて排除するような子だと思っていたのですか?」

「あれだけのものが満ちた心の中に、何故不要物を入れる必要が?」

「六花の要不要を貴方が決めてどうするんですか……」


 駄目だこりゃと天を仰いだシャムスの目が見開かれる。ばっと勢いよく後ろを振り返った。次いで、ほぼ同じ瞬間にエーデルとアラインが視線を向けた先で扉が開く。なんらおかしなことはなく、丁寧に手入れされた扉は軋み一つなく滑らかに開き切った。






 まず見えたのは黒白の頭で、毛先が扉の影から滑り出たことから髪を解いているのが分かった。

 廊下に出た六花は、道を確かめるように反対方向を覗いてから、返す頭でこちらに気づき、ぱっと笑った。誰がどう見ても泣き腫らした顔なのに、そこには何の憂いもない。


「シャムスさん、エーデルさん!」


 嬉しそうに駆け寄り、二人の前でぴたりと止まる。


「よかった! お二人に聞きたいことがあるんです!」

「……何でしょうか?」

「あの、ファナティカー様はどちらにいらっしゃいますか?」

「何故でしょう」

「家に帰してくださると仰ったので、今すぐ帰りたくって!」


 嬉しくて堪らないとぴょんぴょん飛び跳ねる六花の後ろから、ザズ達が廊下に出てきた。そして、深々と頭を下げる。そのまま動きを止め、下がったままの頭がずらりと廊下に並ぶ奇妙な光景に、双龍は眉を顰めはしなかった。この場ではアラインだけが違和感を持て余す。六花と、視線が合わない。


「六花」


 たった一言。それだけでいつも当たり前のように振り向き、長い黒髪の先まで光を弾けさせて笑った顔が、ぐしゃりと歪む。嫌悪を堪えるかのように口元が歪み、ぐっと眉間に皺が寄る。


「シャムスさん、エーデルさん、私帰りたいんです。だって、よりにもよってそれの片翼だなんて嫌過ぎるじゃないですか。気持ち悪い。吐き気がする。私、何かしましたか? どうしてこんな気色が悪いことさせられるんですか。私、なんでこんな目に合わされるんですか。こんなひどい仕打ちを受けなきゃいけないような悪事を働いた覚えはないですよ!」

「六花」


 アラインが無意識に伸ばした手を飛びのいて避けた六花は、何かを投げつけてきた。彼女の髪を束ねていた、アラインが渡した髪飾り。白い髪飾りはアラインの胸元で跳ねて地面に落ちる。ころころと転がり、戻ってきたそれを嫌そうに見た六花は、靴底で踏みつけて砕いた。通常の細工で作られた物ではありえない、まるで糸のように細かく砕け散った髪飾りは、踏みにじるうちに消えてなくなった。


「触らないで、忌み子の癖に。やめて、近寄らないで。私まで忌み子扱いされる。嫌だ、忌み子の片翼になっちゃうなんて、そんなの恥辱じゃ済まされない。私まで罪人になっちゃう。お父さんとお母さんに申し訳が立たないじゃない。今まで大事に育ててもらったのに、恩をあだで返すなんて言葉じゃ足らない。……そうだよ、私だけの問題じゃないんだよ。私の大好きな家族にまで恥をかかせて、罪を背負わせるんだよ。なんで、なんで私が、私の大好きな家族までそんな目にあわされなくちゃいけないの。なんでアラインのお母さんはアラインを殺してくれなかったんだろう。自分だけで死んじゃう前に、ちゃんと自分がしでかした過ちの後始末をしていってくれたら、私がこんな目にあわされることはなかったのに」


 少しでも距離を取ろうとしているのか、六花は後ずさっていく。

 目を見開いてそれを見ていたアラインは、無言で一歩詰めた。その無意識の一歩まで、六花は全身で嫌悪する。


「嫌だ、近寄らないで、忌み子の癖に気持ち悪い! 忌み子の癖に人間ぶらないでよ! 忌まわしい生き物なんだからそれに相応しい見た目で、それに見合った死を……そうだよ、死んでよ。そうしたら私、忌み子なんかの片翼じゃなくなる。死んでよ、早く死んでよ。今すぐ死んでよ。早く、早く、世界から消えてなくなれ!」


 耳を劈く悲鳴のような声で叫ぶ六花との距離を、アラインはもう一歩詰めた。金切声の制止が轟く。近寄るな、死ね、そう叫ぶ。

 信じられないと、驚愕を顔に張り付けたままのアラインは更に歩を進める。伸ばしたまま下げられない手が届かないようにと、六花は更に後ずさった。


「六花」

「お母さん達がくれた大切な名前を、忌み子なんかが呼ばないで! 穢れる!」

「六花」

「この世に存在しちゃいけない分際で何を許されたつもりで生きてるの。聖騎士は命の頂点聖人の中でも選ばれた騎士の中の騎士。有事ある際には皇帝陛下の御身を御守りする至高の名誉を許された誉ある職であるというのにそこに忌み子などという最大にして最悪の過ちを連ねるなど世界の恥辱である。なればこそ死ぬべきだ。生まれてきたことを皇帝陛下に、王帝陛下に、世界に神に謝罪し、世界中の忌み子全てを塵屑に返した後、その喉掻き切って死ぬべきだというのに一体何を勘違いして今なお世界に存在しているというのか」

「六花」

「死ね」

「六花」

「死ね」

「六花」

「死ね!」


 渾身の力でアラインを嫌悪する片翼からの言葉に、アラインは下げないまま伸ばし続けた腕を、だらりと身体の横に落とした。呆然と六花を見つめ、何度も瞬きする。

 そしてもう一度六花の名を呼んだ後、酷く静かな声で。


「分かった」


 そう、言った。







「分かった」


 アラインがそう言った。


「……ごめん。俺が、悪い」


 酷く弱り切った顔で、そう言う。

 だからと眉根を下げて、六花、と、私を呼ぶ。



「そんなに泣かなくていいんだ」



 自分の涙で溺れそうな私に、そう言った。







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